(死のアート より抜粋)
The Art of Dying Talks on Hasidism P.21~22『生のあり方』
(略) …すべてが変わった。…何もかも。だがそれでも、どこか奥深く、ずっと変わらずに続いているものがあるーーー目撃していること だ。
目には見えないが、一本の糸がある。あらゆるものが変わり続けていても、この見えない糸は変わらない。
それは 生死を超えている。生と死は、生死を超えたものの両翼だ。
その超えたものは、生と死を荷車の両輪とし、互いに補い合わせて使い続ける。
それは 生を介し、死を介して生きる。
生と死は その過程、呼気と吸気のようなものだ。
あなたの中にある 何ものかが生死を超えている。
それすなわち 汝なりーーー超えたるもの。
だが、私たちは形に同化しすぎている。それが自我を生む。それが【私】と呼んでいるものだ。
もちろん【私】は何度も死ななくてはならない。
だから自我は つねに恐れ、わななき、震える。つねに心配し、守ろう、安全を確保しようとする。
スーフィーの神秘家が大金持ちの家の戸を叩いた。彼は乞食で、ただ 食べ物がほしいだけだった。
金持ちの男は乞食に向かってこう言った「ぜんぜん知らない顔だな!」
神秘家は言った「ですが…私は自分を知っています。もし その反対だったらどんなに悲しいでしょう。」
「皆が私を知っているいるのに、私が自分を何者か 知らないとしたら。そう、あなたの言うとおり、ここでは誰も私を知りません。でも 私は自分を知っています」
二つのうちどちらかしかないのだが、あなたは悲しい状況の中にいる。
皆があなたを、あなたが誰なのかを知っているかもしれない。
だが あなた自身は、自分の 超越性、本性、実在を完全に忘れている。
これこそ、生において 唯一悲しいことだ。いくらでも言い逃れはできる。だが本当に悲しいのは、あなたが 自分を知らないということだ。
自分が 誰なのか、どこから来たのか、どこへ行くのか、それを知らずして 幸せになれるはずがあろうか。
この、自分を知らない という根源的な無知のため、千と一つの問題が持ちあがる。
OSHO,
(パート2に続く)
The Art of Dying Talks on Hasidism P.21~22『生のあり方』
(略) …すべてが変わった。…何もかも。だがそれでも、どこか奥深く、ずっと変わらずに続いているものがあるーーー目撃していること だ。
目には見えないが、一本の糸がある。あらゆるものが変わり続けていても、この見えない糸は変わらない。
それは 生死を超えている。生と死は、生死を超えたものの両翼だ。
その超えたものは、生と死を荷車の両輪とし、互いに補い合わせて使い続ける。
それは 生を介し、死を介して生きる。
生と死は その過程、呼気と吸気のようなものだ。
あなたの中にある 何ものかが生死を超えている。
それすなわち 汝なりーーー超えたるもの。
だが、私たちは形に同化しすぎている。それが自我を生む。それが【私】と呼んでいるものだ。
もちろん【私】は何度も死ななくてはならない。
だから自我は つねに恐れ、わななき、震える。つねに心配し、守ろう、安全を確保しようとする。
スーフィーの神秘家が大金持ちの家の戸を叩いた。彼は乞食で、ただ 食べ物がほしいだけだった。
金持ちの男は乞食に向かってこう言った「ぜんぜん知らない顔だな!」
神秘家は言った「ですが…私は自分を知っています。もし その反対だったらどんなに悲しいでしょう。」
「皆が私を知っているいるのに、私が自分を何者か 知らないとしたら。そう、あなたの言うとおり、ここでは誰も私を知りません。でも 私は自分を知っています」
二つのうちどちらかしかないのだが、あなたは悲しい状況の中にいる。
皆があなたを、あなたが誰なのかを知っているかもしれない。
だが あなた自身は、自分の 超越性、本性、実在を完全に忘れている。
これこそ、生において 唯一悲しいことだ。いくらでも言い逃れはできる。だが本当に悲しいのは、あなたが 自分を知らないということだ。
自分が 誰なのか、どこから来たのか、どこへ行くのか、それを知らずして 幸せになれるはずがあろうか。
この、自分を知らない という根源的な無知のため、千と一つの問題が持ちあがる。
OSHO,
(パート2に続く)