天愛元年

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新元号『天愛』元年にスタート

太平記

2022-07-02 13:11:45 | 日記

 ロシアのウクライナ侵略戦争が膠着状態に入り、メディアも現場報道抜きの伝聞や当局誘導ばかりでは手詰まりとなり、目覚ましいニュースが無くなったので、戦記物語を読むことにした。北条執権鎌倉幕府の滅亡から足利室町幕府の樹立までの戦乱を描いた『太平記』は声に出して読んでも名調子が味わえる逸品である。中に聖徳太子の将来を見通した未来記も出てくるように、やはり名作は700年や千年後の世の中も見通していて、いつまで経っても古びない。
 北条9代高時の鎌倉幕府は、後醍醐天皇挙兵に対し、京阪奈の拠点征伐の兵を全国から差し向け、まず天皇を捕らえ隠岐に流し、その皇子大塔宮護良親王を吉野に破り、いよいよ楠正成が立て籠もる金剛山・千早城(太平記では千剣破城と表記)を攻めた。
 正成軍勢千人に対し兵数200万騎で取り囲んだとあるから、白兵戦を避けミサイルをめくら撃ちするロシアもびっくりである。その例えが面白い。「見物相撲の場の如く打ち囲みて、尺地(僅かな空間)をも余さず充満した」という。14世紀初頭にも、相撲見物がぎっしり埋まるくらい大人気だったことが分かる。映画とかテレビが無かったから、両国以上に盛況だったのだろう。
 北条方は一気に捻り潰すつもりで安易に攻め立てたけれど、千早城のある険阻な山の断崖絶壁を多勢が寄り固まってよじ登っていくと、大岩を落とされたり、奇策、謀計により散々な目に遭った。長﨑四郎左衛門という軍奉行が戦死者名簿を作るため、書記12人を使って数え上げたら、徹夜作業で3日3晩掛かったというから被害甚大であった。損耗が激し過ぎたため、六波羅幕府方は正攻法を捨て、「食攻め」という包囲持久戦に切り換えた。ところが鎧兜を締めたものの、戦いが無いわけで、全く締まらず戦意が萎えてきた。
 有給休暇状態となった戦士は暇を持て余し、少しハイクラスの将校連中は、連歌でもして遊ぼうかということになり、1万句を詠み合うことになった。手始めの発句に、
 さきかけて 勝つ色みせよ 山桜
と詠んだのに対し、別の武人が脇の句として、
 嵐や花の かたきなるらん
と付けた。先駆けして勝ちたい心情とか、山桜に嵐とか、歌としては風流であったけれど、実際の戦いぶりが花に嵐が吹いたようなボロボロの結果だったため、締まらない話となった。
 兵隊たちとなると、将棋や双六で暇を潰した一方、大将クラスになると江口や神崎の傾城というから、要するに従軍慰安婦を呼び寄せて遊んだ。それでも鬱が晴れなかったのか、双六中に名越宗教と名越兵庫助という名のある武士の伯父と甥が、インチキするなと口論した挙句、刀で刺し合って共に死ぬという事件が起きた。ロシア軍陣中でも、そんな命令に従えないと上官に銃を向けたという事件が報道されたけれど、いつの世にもあることと、『太平記』の不朽ぶりに感銘している。