天愛元年

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新元号『天愛』元年にスタート

唐衣

2020-05-23 16:02:43 | 日記

 暇つぶしの図書館とかイートインの100円コーヒーに行かなくなったので、時間を持て余して、また町の菖蒲園を覗きに行った。カキツバタが数本、花開いていた。このところ、ちょこちょこチェックしていたけれど、散策路の畑や人の庭に咲いているのに遅いなと思って調べたら、水辺でなく畑などにあるのは菖蒲、あやめで、公園の沼地に水を引き込んで見せるのは杜若だった。花季が杜若の方が遅いので、そいう順序だそうである。伊勢物語の東下りの途中、三河の国八橋という、沢辺に橋が八つ掛かった所で在原業平が鑑賞したのも、「いと面白く咲きたる」カキツバタだったので、話の辻褄が合う。或る人が、「『かきつばた』という5文字を句の上に据えて、新型コロナウイルス肺炎感染拡大の心を詠め」と言うので、
(か)唐ころな
(き)きつくなりにし
(つ)爪痕に
(ば)激しく怒る
(た)大統領あり
 それでもまだ暇なので、途中で辞書を引くのが面倒になって放うったらかしていた『赤毛のアン』の英語版を再チャレンジした。さっそく、から衣並みに意外性があって、面白い個所に出くわした。アン ( Anne ) というのは主人公の女の子の名前なのに、「 Annes 」と、複数形でも使えることを知った。日本なら柳生一族とか山口一家という言い方があるけれど、同一人物の複数形をどう表現して良いか分からない。aikoの「二人」という曲はあっても、愛子2人とは畏れおおくて言わない。 ところが、アンが養母マリラにお喋りする下りに;
There's such a lot of different Annes in me. I sometimes think that is why I'm such a troublesome person. If I was just the one Anne it would be ever so much more comfortable, but then it wouldn't be half so interesting.
 この部分は、松本侑子訳では、「私の中には、何人ものアンがいるのね。だから私という人間は、こんなに厄介なんだわ。でも、もし一人のアンしかいなかったら、ずっと気は楽だけど、半分も面白くないでしょうね」
 こんなセリフが口をついて出るアンの空想力も創造力も魅力的だし、作者モンゴメリの発想に吸い込まれてしまう。
 それに対し、取材対象の点数、評価に怯え、萎縮した日本の報道に幻滅せざるを得ない。見たり、読んだりする気が起きないので、ますますステイ・ホームが詰まらなくなり、暇を持て余す。テレビの製作のプロセスを全然知らないのでええ加減な話であるけれど、局で一気通貫しているのでなく、外部製作会社の持ち込み作品をつなぎ合わせている感じがする。タイトルを見ても何を見せてくれるのか分からないので、見なくなった。それでも局スタッフだけで製作するよりも活気があってマシなのだろう。新聞もこれに倣ってはどうか。ただ麻雀をしておこぼれネタを取材対象の了解を得ながら記事にしているから、官報と変わりなく面白くも何ともない。そんな役立たず記者を全部解雇して、フリー記者から力作を買い取る方が生き生きとした紙面になるのではないかと思う。各新聞社はそれぞれに年間、月間、週間、日々の編集方針を示すだけで良い。もっとも、編集方針を立てても新聞社自体が、読者減少、広告減少に喘いで、つい政府、官公庁の買い上げ、財政支援に依存しているため、大本が瓦版体質、大本営発表型追従記事精神に染まっているとしたら、改革の手の施しようがない。



本歌:伊勢物語第9段

から衣
きつつなれにし
つましあれば
はるばるきぬる
たびをしぞ思ふ

(古今和歌集巻第九
 羇旅歌の部

 在原業平朝臣)

(Ann → Anne = Ann with e でした)



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