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天愛元年

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新元号『天愛』元年にスタート

義経寺

2023-06-10 17:06:23 | 日記

 距離は人間関係を気楽にさせる。目の前に居ると生々しくて、相手の機嫌に合わせなくてはならないけれど、遠く離れれば離れるほど、つい嫌な面や粘着性が薄らぎ、懐かしさに包まれやすくなる。

 稀代のヒーロー源義経は、高館義経堂(岩手県平泉町)を訪れると、終焉の地として生々しすぎて、瞑目しながら悲運に思いを馳せるしかない。思い詰めると心が苦しくなるばかりだけれど、いやいや織田信長と一緒で、誰も遺骸を見たわけでないのだから、自害した振りをしてこっそり落ち延びたことにすれば、追っ手でなければ心が休まる。

 義経北行伝説を端折ると、平泉町衣川の戦いから脱出し、遠野市、宮古市、久慈市(以上岩手県)、八戸市、青森市、外ヶ浜町(以上青森県)、北海道へと雄飛する。岩手県内だと潜行という感じだけれど、八戸市の長者山新羅神社まで来ると、息苦しさが軽くなる。言い伝えによると、義経が居るのがバレないよう柴で囲って木を植えこんだ程度だから、ほぼ無防備に近いくらい警戒を緩めている。

 北海道に渡る前の、津軽半島突端の竜飛岬辺りになると、義経ご本人は波よ鎮まれと祈祷三昧で必死だったけれど、後世に偲んで作った義経寺は海に迫る崖の上に在って寧ろ開けっ広げである。お参りする方も瞑目なんてせずに、チンギス・ハーンに生まれ変わる夢を見たりするのにぴったりの地勢である。県道281号線(あじさいロード)を利用すると、アクセス道は急斜面を降りていくことになり、まるで鵯越の逆落としのような風情になっているのが面白い。

龍飛崎
腰越えぬ状に
波鎮め
義経渡る
後世の夢乗せ

 


一~九戸市町村

2023-06-06 06:08:01 | 日記

 岩手から青森の主に旧奥州街道沿いに一〜九戸市町村が並ぶ。青森県八戸市は地理の教科書で小学生時代から気になる地名だった。初めて来てみて、蕪島神社のウミネコの賑やかさやイカの水揚げ全国一など、期待通り印象深い土地だった。
 もう1つ市制を敷く岩手県二戸市は戦国時代まで陸奥国で勢力のあった武家九戸氏の本拠九戸城跡があって、発掘研究、整備が進められている。
 二戸に来る途中、一戸町の図書館に寄って各戸市町村の成り立ちについて聞いたら、関連図書を2冊一時貸出してもらった。15分流し読みし、ざる理解した。この町の朴舘(ほおのきだて)家屋敷跡は豪壮で、炊飯釜が風呂釜のように大きかった。
 三戸町では徳川将軍吉宗に献上されたペルシャ馬を死後祀った馬暦神社を拝んだ。
 五戸町では牧場から湧き出たという、まきば温泉に浸かった。
 六戸町では道の駅「ろくのへ」に隣接する苫米地家屋敷跡がかつての栄華が偲ばれる立派さだった。
 七戸町では花松神社に詣でた。かつて馬頭観音が祀られ、馬産の盛んな南部地域の信仰を集めた馬の神様ということで、長男が午年の為、絵馬を奉納した。
 九戸村では太閤豊臣秀吉と戦って敗れた九戸政実ゆかりの九戸神社と正実神社に参った。
 市町村名に四戸が無い。四戸と呼ばれる土地はかつてあったが、領国争いの結果、周りに簒奪され、残らなかったという。しかし、痕跡は消えず、鎌倉時代創建の櫛引八幡宮(八戸市)は南朝の天皇家から受け継いだ赤糸縅など国宝の鎧を2体保有する由緒ある神社だが、かつては四戸八幡宮とも称されたという。
 陸奥の話ではあるが、これでビンゴである。
 この間、泊まったホテルのWifiのパスワードが1から昇順に9までという雑なのがあった。金融機関のようにややこしさを人に押し付けないところが好ましい。

 

一から九
四を入れざれば
パスワード
解き難からむ
陸奥の戸の数


不老ふ死温泉

2023-06-06 06:01:34 | 日記

 来世寺にお参りしたけれど不確かだったため、今生が勝負と深浦町の不老ふ死温泉に来た。
 海辺の露天から視界240度のパノラマの海を眺めながらの湯はこの世の極楽だった。
 湯の色はタイ王室が崇めそうな黄土色で浄土に誘われそうだった。
 6月4日は満月だった。藤原道長は「望月の欠けたるもなし」と詠んだけれど、これ程の天然傑作にはお目に掛かれなかっただろう。

黄金崎
老いず死なずの
湯に入れば
あちらは浄土
こちら極楽




来世寺

2023-06-04 08:36:41 | 日記

 青森県鰺ヶ沢町の来世寺(真宗大谷派)にお参りした。もうそろそろ考え時と思ったけれど、何のインスピレーションも湧かなかった。今生の整理、総括がまだ終わっていないのだから、当たり前である。何の為に生まれ、何をしてきたか、その場限りに終始し、取り留めがない。
 一番大事な母親が脳溢血で長患いした時、見舞って渾身の声を掛けたけれど反応がなかった。同居の初孫が声を掛けるとピクッとした。敗けたと思った。あと3日で処分の猫を授かって18年暮らした。米国にドライブ旅行に出掛けている最後の最後に、突然訃報が届いた。唯一無二の保護者が腕の中で看取ってやれなかった。手触りのあるものが、もう何も残っていないことだけは確かである。
 自分の人生と言っても、奉仕する相手、頼られる者が無ければ、甲斐がない。来世に何に生まれ変わるか、何を残すかの二者択一であるけれど、どちらも想念に過ぎない。七生報国を誓った楠木正成ほど確固とした信念、未来像を持てないでいる。浄土は見付からないだろうけれど、くたばるまで世過ぎの旅を続ける。無常も無上もない。生き物として今を生き抜くだけである。

   命の火
   灯れば消ゆる
   時までは
   遮二無二燃えて
   灰と尽きなむ






昭和7年創業

2023-05-14 14:49:48 | 日記

 気仙沼に来ると、すぐ目に付く朱色の欄干を施した回廊は浮見堂と言われ、気仙沼湾の喉仏のような小山を取り巻いている。小山の上には漁の守り神の猪狩神社と天照大神を祭る五十鈴神社が鎮座し、散策コースとなっている。
 対岸大島まで潮風を浴びながらのクルージングは360度の景色が楽しく、大島の亀山に登った景観も素晴らしい。
 夜になると年代的に森進一の港町ブルースが口を衝いて出るため、検索ヒットした人気店に行くと、大賑わいで無理そうだった。港町の寿司店に入る度胸がないため、他を探して焼き鳥店を見付けた。こっちも混んでいたけれどカウンター席が空いていたので、盛り合わせと豚バラ照り焼きで一杯飲んでいると、創業昭和7年の貼り紙が目に飛び込んだ。1932年、そんな訳ないだろうと、念のため大将に、2代目ですかと聞いたら、自然体でそうですと答えた。まじかと思った。戦後焼け跡のガード下が発祥かと信じていた。
 あとで焼き鳥の歴史を調べると、平安時代や江戸時代が起源というのがあるほか、石器時代というのもあった。それは農耕前から獣や魚のほかに、鳥も狩猟して食べていただろう。あほらしくなって追究を止めたけれど、現在のような業態を取ってからは、老舗の内でも古参の部類に入るのではないかと想像する。と言うのも、その辺の焦げて炭だらけの焼き鳥と違って、レバーにも味に品があった。伝統の技に違いない。


気仙沼
ももとせ近く
守り継ぐ
秘伝のたれの
焼き鳥美味し