年だからこそ鍛える!「フィットネスの勧め」

年だからこそ鍛えて、自分の健康はいくつになっても自分で努力して維持していきたいものです。

日記「60分行えれば、80分いけるかも」

2012-03-31 08:47:04 | 日記

日記「60分行えれば、80分いけるかも」

 最近、有酸素運動がけっこう辛くなってきた。それでも、基本的には「1日80分」は何とか継続している。前にも書いているかもしれないが、同じマシンを使って80分有酸素運動をすることはない。必ず2種類のマシンを用いる。理由は…。おそらく気分転換だと思う。時には3種類用いることもある。

 昨日も、最初にステアクライマーを30分行い、次にトレッドミルに移った。50分の予定である。しかし、最初の20分で早くも辛くなってきた。「今日は50分は無理かもしれないな~。とりあえず30分行えば合計60分になるので…」と何とか30分を目標に続けた。

 目標の30分を過ぎると少し気持ちが楽になり、「後5分」を繰り返して何とか予定通りの80分を達成した次第である。何となく「60分行えれば、80分はいけるかも」というような感じが出来上がりつつあるような気がする。下半身などに「痛み」などを覚える場合は無理はできないが、そう言う場合はマインの種類を変えると続けられる場合もある。

 どのマシンも、決して「より早く」という気持ちはないのだが、一番の目標は「脂肪燃焼」にあるので、心拍数120を一つの目安としている。だから、こまめに心拍数はマシンに設置された計測器で測るようにする。ただ、マシンによっては「あきらかにこんな数字はないだろう!」という場合や、全く数字が表示されない場合もある。正しく表示するものは、それぞれのマシンごとにだいたい頭の中に入っているので、それを使うようにはしているが…。  


旅に出よう(国内・自転車旅行)「大阪まで」

2012-03-30 10:54:55 | 旅行

 旅に出よう(国内・自転車旅行)「大阪まで」

 浜松の次は名古屋に宿泊している。ここでもユースホステルを利用した。写真はないが、名古屋城、テレビ塔、そして東山動物園あたりを観光したような気がする。(それにしても1枚くらい写真があっても良さそうな気がしないでもないが…)

 名古屋の後は、ひたすら紀伊半島を海岸線に沿って走っている。大阪までどこかで数泊していると思うが、その記録がない。

 さて、ユースホステルに宿泊する場合、いつも食事をつけるので夕食と朝食の心配をする必要はない。問題は昼食である。まあ、現地の食道を利用することも多少はあったが、スーパーなどで弁当やおにぎりを買ったり、インスタントラーメンを作ることの方が多かった。

 理由は、もちろん費用面であるが、食事の費用ではない。ビールなのである。まず、最初に断っておきたいのだが、お酒(そのほとんどがビール、正確に言うと現在では「発泡酒」)は大好きだが、さすがに休みの日でも昼間から飲むという習慣はほとんどない。まあ、陽が沈まないうちから飲むのは、冠婚葬祭があれば別だが、正月くらいのものである。

 ただ、この自転車旅行の時は昼食と共に飲むビールの味は最高であった。汗をかいた後のビール、これほど美味しいものはない。当時は、記憶違いではないと思うが、まだ「発泡酒」なるものが世に出回っていなかったと思う。販売されていれば、経済的な面からそちらを飲んでいたはずだ。

 それで、私の場合、必ず「食べながら」でなければならない。だから、自転車を漕いでいて「うわ~、ノド渇いた!」と自販機などでビールだけを飲むということはなかった。必ず昼食が付いていたのである。

 逆に、昼食時にはビールが脇にないとその宴?が半減した。よって、食堂などを利用すると、へたをすると食事の金額とビールの金額が変わらないということもあったわけである。それでは少し大変なので、できうる限りビールは酒屋や自販機などで購入し、昼食を別に用意した次第である。

 旅行中は多少は簡単なものが作れるようにと、キャンピング用のガスバーナーと煮炊きできるようにコッヘルを携帯していた。まあ、「簡単なものが作れる」といっても結局はインスタントラーメンなのである。これであれば1種類のコッヘルで済むし、わざわざ食器に移して食べる必要もない。

 この出来たてのラーメンと冷えたビールの組み合わせが最高なのである。さすがに麺だけでは味気がないので、ときにはキャベツなどの野菜は買っていた。

 ラーメンが出来上がると、ガスバーナーの火を止めコッヘルを下に下ろすが、取っ手が非常に熱い場合があるので注意しなければならない。ときにはハンカチを取っ手に巻いてやる。コッヘルを下におろすとランチタイムの開始となる。フーフーやりながら熱々の麺とキャベツを箸でつかんで口の中に運び、ズルズルズルと吸い上げ、何回か噛んだ後に飲み込むが、そこでビールの出番である。ゴクゴクと喉を鳴らしながら麺が胃に落ちていくのを加速させてやるのである。「うっひゃ~、うめ~!」と思わず心の中で叫び、幸福感を感じずにはいられなかった。

 通常は大瓶1本だが、「いや~、今日は汗をかいたな!」というときは大瓶2本となる。食事の後、しばらく「食った!食った!」と休んでいると、心地よい睡魔が襲ってきて30分ほど昼寝をするのだが、起きたときには「さあ、もう一走りするか!」と新たなるエネルギーに満ち溢れていた。

 さて、大阪では、高校卒業時と大学時代に行ったバイクのツーリングでお世話になった叔母の家にまたまたお世話になってしまった。私よりも10歳以上は年上なのだが、いとこがいて、大阪万博の跡地の公園や通天閣などを案内してもらい、非常に気を使わせてしまった。ありがとうございました。


日記「ちょっと嫌な予感がする」

2012-03-29 10:33:32 | 日記

 日記「ちょっと嫌な予感がする」

 最初に痛みを覚えたのは何歳くらいのことだろうか?おそらく20代後半あたりまもしれない。朝起きると背中(真ん中あたりから首にかけて)が痛む。「あれっ、なんでだろう?何か特別なことでもしたかな…」と原因が良く分からなかった。前日は身体を動かしているが、内容は特別なものでもなく「確かに首のトレーニングはしたが、いつもやっているものだし…」と首をかしげざるを得なかった。

 1日安静にして様子を見たが、痛みはますます強くなっていったので、近くの整骨院に診てもらった次第である。先生曰く「筋肉がパンパンに張っているぞ!」とのこと。1週間ほど通って、電気を掛けてもらったりマッサージをしてもらうと自然と痛みもなくなっていった。

 それから3、4年ほどして、再び同じような痛みに襲われた。2回目に同じような痛みが出たときに「きっと治療してもらわなくても治るのでは」と思い、前回みたいに整骨院には通わなかったが、予想通り1週間ほどで痛みは治まったのである。

 しかし、それ以来、3、4年ごとに同じような痛みに襲われるようになった。部位的には常に背中で、腰に近い部分であったり、あるいは背中全体であったり、または首に近い部分に出ることもあった。そして、必ずと言っていいほど、どちらか背骨の片側なのである。「両側が同じように痛む」というのは記憶にない。

  発症、治癒のパターンは常に一緒であった。つまり、原因が全く分からないことと1週間もすると痛みは自然になくなっていった。自然には治ったものの「痛み」はかなり激しいものであった。「寝違えた」ときの感覚に似ていた。おかしなもので、安静にしているよりは適度に身体を動かしている方が楽であった。安静にしていると筋肉が硬直していって痛みが増していったのである。

 ゆえに何が辛いかと言うと、就寝中に寝返りを打つ時と、床から起き上がる時が最も痛みが激しかった。寝ているということは身体を動かしていないということなので、痛む部分の筋肉が硬直しきってしまったのだろう。

 特に、床から置き上がるときは痛みはピークに達した。何回か深呼吸をして「よし、置き上がるぞ!置き上がるぞ!」と自分に気合を入れ、「よっしゃ!」と言いながら置き上がるのだが、それでも「痛て~!」と悲鳴を上げてしまうほどである。

 それでもここ数年は「そう言えば最近あの痛みは起きていないな~」と思うほど、発症する間隔は広くなっていった。「いつものが来たかな?」と思うことがあっても、2日目にはかなり楽になり、痛みが増していくようなことはなくなっていった。

 さて、今日、起きてみると背中の上部の左の首がかなり痛む。ちょっと嫌な予感がしないでもないが、ここ最近のように「不発」に終わってくれればよいのだが…。


旅に出よう(国内・自転車旅行)「ひたすら海岸線を南下」

2012-03-28 10:32:12 | 旅行

 旅に出よう(国内・自転車旅行)「ひたすら海岸線を南下」

■ 不思議な体験をした ■

 おそらく伊豆半島を走っていた時のことだと思う。海岸線には道路を通すためにトンネルも結構あるが、長さ的にはそれほどでもないように思われる。よって、内陸部だと思うのだが、長さ的にはトンネルの入り口にさしかかった時に出口が奥の方にポツンと見えたので400~500mはあっただろうか。(もしかしたら天城トンネルという可能性も無きにしも非ずであるが、そうすると伊豆半島を海岸線に走ったということは全くの私の勘違いになる恐れがある。河津七滝ループ今日から北上した可能性も大きい)山間のトンネルで、自動車の通行など全くなくトンネルを走っているのは私ひとりであった。

 中に入ってしばらくすると、子供たちの遊び声が聞こえてきた。最初は「トンネルの出口付近で何人かの子供たちが遊んでいるのだな」くらいにした考えていなかった。声はだんだんと大きくなっていったが、しばらくすると聞こえなくなってしまった。それほど気にすることもなく走り続けた。トンネル何には照明などはなかったように記憶している。唯一、明りと言えば出口から入ってくる光だけであった。走る分にはそれで十分であたので、ライトをつけることもなかった。走っているうちに前方の出口もだんだんと大きくなり、出口を出て「やっと抜けたか!」と解放感に浸ったのだが、「あれっ、そう言えばあの子供たちはどこへいったのだろう?」とふと思わずにはいられなかった。

 道の右側は谷になり、左側は山の斜面が続いていたので、隠れるところは一つもなかったし、車に乗り込んで走り去った様子もなかったのである。

 

■ ひたすら南下 ■

 伊豆半島を一周してからはひたすら海岸線に沿うようにして南下していった。静岡県の掛川では大学時代の友人の家にお世話になった。また、浜名湖では浜名湖ユースホステルに宿泊した。

 恐らく、当初からこのユースホステルに宿泊するつもりでいたと思う。今でもよく覚えているのだが、この日は小雨混じりの天気で気温もかなり低かった。身体も冷やしてしまい、「早く暖を取りたい!」という気持ちでユースホステルに到着し受付を済ませた。

 それで何が一番印象に残っているかと言うと、ここのユースホステルには暖炉があった。それも、壁の中に埋め込まれたものではなく、円形の独立したものであった。2階の自分の部屋に行き荷物を整理して1階に戻ると、暖炉には火が起こされていて、冷えた身体を温めたのが忘れられない。

 そして、そのすぐ脇には大きなテレビがあり、ビデオだったのかレーザーディスクあたりであったのかは定かではないのだが、BGMにするとちょうどよいくらいの心地よい音楽とシルクロードあたりの映像が流れていて、身体を温めながらその映像を鑑賞することはとても心が落ち着いたことをよく覚えている。

 「ユースホステルの正確な位置はどこだっただろう?」とネットで調べてみたが、どうやら2008年に施設の老朽化などが原因で閉鎖され、建物も壊されて現在は更地になっているようだ。非常に残念ではある。

 


日記「拾得物(その2)」

2012-03-27 09:54:33 | 日記

日記「拾得物(その2)」

 

「何だろう?」と漕ぐのをやめ自転車から下りて確認してみると、なんと数枚の硬貨が落ちているのである。500円玉、100円玉、50円玉、そして10円玉とざっと1,000円近くは落ちているようであった。

 「こんなところに」と思ってふと横のちょっと小高い丘を形成しているゲロピーに目をやると、なんと頂上近くに1,000円札が1枚乗っているのである。そしてよくよく見ると、そのふもと付近にも2枚ほど落ちている。

 「酔っ払ってタクシーに乗ってここで降り、気分が悪くなって吐いてしまい、タクシー代を支払った際のお釣りを落とした」ということは名探偵でない私でも容易に想像ができた。頂上のお札は真ん中あたりがゲロピーウイルスの感染を受けているようであった。そしてふもとにある2枚はその端が感染していたが、十分に治癒できる程度のもので、ゾンビ化するようなものではなかった。

 私は、まず頂上のものに手を伸ばそうとして、ちょっとちゅうちょした。一抹の不安があったからである。それは「私がお札に触れるのと同時に、周りがパッと明るくなり、一人の男性がキョロキョロしている私のもとにプラカードを持って近づいてくるのである。そしてそのプラカードにはなんと「どっきりカメラ」と書いてある」ということを想像してしまったからだ。

 「そのような可能性がこんなところであるであろうか?」「絶対ナイとは言い切れない!」と心の中で葛藤が起きた。それでも誘惑には勝てず「そうなったらそうなっただ!」と頂上の1枚を取ったが、辺りは静寂を保っていた。

 私はホッと胸をなでおろし、残りのものを拾ってその場を立ち去った次第である。お札に関しては、念のために抗ウイルス剤を注入してから使用した。いずれにしても、共に別の形のものになって私の胃の中に消えていった。

 さて、こんなことここで誓っても仕方がないのだが、お財布や、まあ可能性は非常に少ないと思うが、紙袋に入った札束などを拾った場合は必ず警察に届ける。しかし、上記の例もあるように、1,000札を拾ったからと言って届けることはないだろう。

 じゃあ、「5,000円だったらどうだろうか?」「1万円では?」などと、どうでもいいことを考える自分がいるわけである。