田中秀臣の「ノーガード経済論戦」

田中秀臣の「ノーガード経済論戦」

会社の社会責任の基礎を求めてー岩井克人氏の新刊を読んで?

2005-07-12 | Weblog
 以前、『エコノミストミシュラン』という本の中で岩井克人氏の『会社はこれからどうなるのか』(平凡社)を批判的に論評したことがある。簡単にいうと、岩井氏がこれからの経済社会のあり方として規定している「ポスト産業資本主義」というものの意味がわからなかったこと、岩井氏と類似の発言をしている論者への参照が皆無に近いので、研究者としては「不誠実」な対応であるという趣旨のものであった。今回の岩井氏の新作『会社はだれのものか』も前作と同じ内容がほぼ繰り返されているが、より論点が明確にはなっている。前作と批判すべき点は同じであるが、今回はより積極的に(必ずしも肯定的という意味ではないが)検討すべき点をみてみたい。

 岩井氏は、いわゆる日本型企業論(終身雇用・年功序列・企業内組合)もアメリカ型企業論(株主主権論)も、会社Corporationがもっている「二階建て構造」の部分しかみていないとする。
 
「会社は、二階建ての構造を持っています。まず、二階部分では、株主が会社をモノとして所有している。具体的には株式を所有しているわけです。そして一階部分では、その株主に所有されている会社が、こんどはヒトとして会社資産を所有している。すなわち会社とは二重の所有関係の組み合わせによって成立している組織なのです」(同書、21-22頁)
 アメリカ企業論=株主主権論は、この二階部分しか注目しておらず、また日本的経営論は、資産(これには組織特殊的人的資産も属しているし、機械・設備・在庫などの物的資産も属している)への所有という一階部分だけへの注目になり、いずれも満足なものではない。

 特に株主主権論は、今日のグローバル標準として喧伝されており、またこれは経済学的にはミルトン・フリードマンらのように会社を株主利益の追求=経済的な利益の追求を目的とするものに限定してしまうという誤りをもたらす、と岩井は批判する。フリードマン流の考え方では、会社は利益を生み出すための単なる道具でしかなくなる。それでは会社と経営者、または会社と社員との「信任関係」を生み出すことができない。これがアメリカのエンロン事件、日本の雪印、JR西日本などの最近の不祥事の温床になった、と岩井氏は指摘している。「信任関係」を構築できている会社は、社会的な責任を担う必要条件をみたしているともいいかえることができる。

 岩井氏の会社論を私なりに理解すると、それは会社が、二つのトレードオフの関係になる目的?経済利益の最大化と社会的責任?を適切にコントロールしながら進化できる道を見出す経済社会環境を構築することが必要である、ということであろう。特に最近のフリードマン流=アメリカ型企業論の蔓延に、岩井氏はきびしい態度で臨んでいる。この姿勢には基本的に私も賛成である。岩井は現状の日本的経営は、産業資本主義(製造業中心の経済システム?)には適応できても、ポスト産業資本主義(サービス産業中心の経済システム?)には適応できない、と断言しているので、「信任関係」の構築は、新たな会社像CSR(会社の社会的責任)に期待することになる。ただ日本的経営とCSRとの関係がわたしにはあまりよくわからなかった。前者にある会社に帰属するヒト同士の「信任関係」の厚い鎖(これは悲惨な面も生産性を上昇させたり職場環境を改善する面もある)を、いかにして会社の外の社会への「信任関係」に進化させていくのかがよくわからなかった。

 原理論的には、会社の進化が経済利益以外の目的をもみたすように行われている(行われるべきだ)という議論には、私も異論はない。ここにも本ブログでのドーア書評に書いたように、「効率性という車輪にわずかに砂をかける」という共通の問題意識をみることはたやすい。

 なお著者の新論点であるこれからの時代が貨幣の力が低下する(=そのまま経済学的に解釈するとインフレになるということか?)という議論をよくは理解できなかった。年功序列報酬制や長期雇用が安定的な低インフレと調和的な関係にあるというならば理解できる。この点については拙著『日本型サラリーマンは復活する』(NHKブックス)で以前書いたことがあるので参照いただければ幸いである。