人間は、肩書、地位や名誉、お金があるないで、人を判断します。見た目もそうです。キチンとした身なりの方と、汚れた身なりをしている方のどちらを、信用するかといえば
、私は、見た目で判断してしまいがちです。しかし、見た目で騙されてしまうのが私です。また、私は、声でも騙されます、この人は優しい声だなぁ、きっと優しい方なんだろうなぁ。逆に、この人は怖い声だなぁ。きっと悪い人なんだろうなぁと思うのです。私も自分自身を少しでも、良い人間に見せようと必死で笑顔を作り、見た目をキチンとし、キチンとした服装を着て、何とか他人をごまかします。高価な袈裟、衣を着ていると見た目は、立派な僧侶に見えるものです。私は昔、僧侶も見た目が大事!きちんとした高価な衣を着なきゃだめよ!とある住職からアドバイスをいただきましたが、私はその時はそんなの嘘だ!と思ったのですが、本当に現実はそうでした。確かに、ご法事に、高価な衣を着ていくと、みんなが褒めるのです、なんて立派な美しい衣ですねと、私自身を褒めるのではなく、衣をよく褒められました。立派な衣を着ていると、位の高い立派な僧侶に見えるようです。しかし、人間は誤魔化せても、仏様だけはごまかせません。何を考えているのか、何を企んでいるのか、全てを見通しです。仏教とは、自らの姿を知ることであると、言われます。自分では、自らを全部、分かったつもりで生きてますが、私たちは自分のことをほとんど、わかっていないのではないでしょうか、何よりも、この世に何のために生まれてきたのでしょうか?生まれる前は、どのような状態だったのでしょうか?そして、死んだらどこへ行くのでしょうか?自分のことなのに何もわかりません。そして、自分よりも、よく私をご存知の方が仏様です。仏様の前では、いくら、善人に振る舞っても、全て見抜かれています。仏様の前で、手を合わせている姿は、見た目は、とても美しいものですが、心は煩悩にまみれ、自分中心で物事を考え、自分の幸せしか願っていないのです。阿弥陀如来は全部お見通しです。人間同士であれば、相手の本心がわかったら、すぐに喧嘩になってしまいます。または、夫婦であればすぐに別れてしまいます。お互い相手の本心がわからないからこそ、何とか、うまくやっていけてるだけの話です。阿弥陀如来様は、私の全てを見抜いて、だからこそ、救わずにはおかないと、はたらいてくださいます。私の本心を全て見抜いても、見捨てないと働いてくださる。仏様は、本当にありがたいものでございます。だからこそ、安心してお任せし、安心して命終わっていける道が開かれるのです。私の命は、明日を保証されていません。いつでも臨終です。でも、救いは先に届いています。それが、南無阿弥陀仏の阿弥陀如来弥陀の呼び声です。合掌