心を込めて

心の庵「偶垂ら庵」
ありのままを吐き出して 私の物語を紡ぎ直す

洗濯機

2022-05-08 21:16:14 | モヤモヤする事

久しぶりに福島の家に帰宅したら、子世帯にあった未使用新品の洗濯機が犬専用として使用されていた。かなり前に夫には使用許可の連絡があり、諾と返事をしたようだった。洗濯機は東日本大震災時に借り上げ住宅で使用す為赤十字から頂戴したものだった、しかし狭いアパートには設置できず、そのまま子世帯に設置してあったのだ。いつか福島に帰れたら使用しようと考えていたので、勝手に使用されてはっきり言って不愉快だった。恥もなく犬用に使用してよいかと聞いてきた舅と、それを諾と言った夫。持ち主の一人である私に何の伺いも立てなかったことに腹が立った。

以前の私ならモヤモヤするだけでごまかした怒りであるが、私はもう自分を踏みにじる行為を許したくない、もう私の大切な感情を譲りたくないのだ。「自分の本当の気持ちに気付いている」これは嬉しい変化であり、自分を見つめ直す努力を継続した結果だと感動した、本当に嬉しかった。

しかし、いつかは同居に戻る予定にしている、まさかこんな対応をとっているとは思いもしなかった。腹立たしいポイントは舅もではあるが、一番は私の「夫」が「妻である私」を尊重していないという点に尽きる、震災以前の軋轢を思い出す、同居において散々に心を踏みにじられてきた、その点について夫とは話し合い意思疎通がとれていると考えていたが、それは間違いだったようだ。

二世帯同居において「夫」は「息子」になっていたと思う、父母が同居しているのだから息子になってしまうのは当たり前なのだ。しかし妻である私にとっては「夫」な訳で、妻よりも頻繁に横やりを入れてくる夫の原家族が優先される生活は苦痛だった。息子にならば当たり前の要求でも、子世帯への要求となると意味が変わる、違う家庭なのだから。同居は土地柄や世代的なもの、母子や家庭の在り方、各個人の性質や認知や関係性の病理、嫁・同居への認識の違いが「軋轢の根源」で、同居できる自信があったとしても実際始めたら思いの他うまくいかないものだ。まして私の舅姑は結婚後どちらの親とも同居したことが無いので、嫁への認識が戦争当時のものだった。同居経験もないのに自分たちは理解のある姑舅だと自認していた。

いずれ訪れる同居に備えて夫に認識を持ってもらいたかったので、今後の夫婦生活の為にも自分の認識を伝えることにした。夫は「知るかそんな感情」「洗濯機ごときで」「買って返せばいいのか」と怒り心頭であった。合理的でありたい彼には、使用する予定のない洗濯機を有効利用してもらったという認識で、親の役に立てて嬉しいのだ。それなのに感情でごちゃごちゃ言って混ぜ返す私に怒りが湧く。彼自身は嫌な感情を合理と理性とで無理やり抑えているので(彼の病理はそこにある)だから彼は苦しいのだ。彼自身が自分の感情を認められないという「弱さ」だ。いずれにしても夫婦の齟齬に対する表現が怒りやきめんこではお話にならない、合理と理性からかけ離れている。夫の怒りが和らいだタイミングで少し話した、もしかするとなるべく同居を遠ざけたほうがいいのかもしれないと夫との話で共通認識を得た。

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