ある日の気づき

経済学とは何か、何であるべきか

節へのリンク
1. 経済学の起源と「新自由主義」の問題
2. 経済学の用語と主張の内容についての問題
3. 経済学は「科学」のふりをするのをやめ、「工学」になるべきだ
関連記事更新履歴 ←いずれも別記事へのリンク

下記サイトでの経済学説の説明は、Wikipedia 等と比較して、非常に分かりやすい。
https://vicryptopix.com/
今回の記事で経済学説の説明では、上記サイトを主に参照している。今回の記事では参照して
いないが、「経済学説」を概観する上では、下記ページも便利だと思う。
https://cruel.org/econthought/
2022-08-09 追記: 経済学関連用語全般については、下記2サイトが分かりやすい。
https://so-t.biz/ (高橋 聡 Official Blog) : MMT (現代貨幣理論) 、新自由主義への批判的視点
https://kitaguni-economics.com (どさんこ北国の経済教室) :  主流派経済学+行動経済学

1. 経済学の起源と「新自由主義」の問題^

マイケル・ハドソン曰く:
( https://manhaslanded.blogspot.com/2023/04/httpsmichael-hudson.html )
「今日の経済理論、それはジャンクな経済学です。インフレの根源は労働者が賃金を
増やしたがっていることであり、インフレの解決策は、実際、あらゆる経済問題の
解決策は、労働者の賃金を下げることである、と想像しています。
これはシカゴ大学から生まれたジャンク経済学で、ミルトン・フリードマンの
マネタリスト的発想であり、19世紀末のオーストリア経済学にさかのぼることが
できます。」
# 私見では「あらゆる経済問題の解決策は、労働者の賃金を下げること」という発想の起源は
# もっと古く、リカードの自由貿易理論に求められる。

いわゆる「経済学」は特定の政策のプロパガンダとして始まったという点で他の「社会科学」と
大きく異なる(↓というか、主流(=新古典派)経済学は、今も文字通りにプロパガンダ)。
# No.81 マイケル・ハドソンの視点「耕助のブログ」でのマイケル・ハドソンへの言及
# 「...エコノミストの大半が広報機関に雇われ、新しい「富の教会」を形成 ...」
なお、プロパガンダにおいて(実際は、特定の国家や特定の社会集団への利益が大きく、
他の国家や社会集団には損失をもたらす)提唱する政策が、「全ての国や社会集団の利益
になる」という言説が多用される事が、他のプロパガンダとの比較における特徴と言える。
例えば、アダム・スミス悪名高い「トリクルダウン理論」の極めて早い時期の唱導者である。
さらに、アダム・スミスとリカードが、当時のイギリスに有利な政策である「自由貿易」を唱導
したことは、よく知られている。その欺瞞性を暴いたのが、フリードリッヒ・リストだった。
https://vicryptopix.com/adamsmith/
https://vicryptopix.com/david-ricardo/
https://vicryptopix.com/friedrichlist/
リストの論点「産業の発展段階が異なる国家間の自由貿易は、より高度な発展段階の国にとって
のみ有利になりやすい」は、現在に至っても重要な指摘であり続けている。
経済学史では、「「強者」をさらに有利にする政策」が唱えられた後で、それに異議を唱える
説が出現するというパターンが多いが、「「強者」をさらに有利にする政策を唱導する説」は
*常に*影響力を保ち続ける。典型例が「レッセ・フェール」という資本家/富裕層への利益が
大きく際立つ政策。アダム・スミスらの古典的自由主義とフリードマンらの新自由主義を比較
すると、むしろ後者の方が、露骨さ/悪辣さを増している( リンク先質問5への回答参照)。

https://vicryptopix.com/friedman/
「...
「フリードマンは、人々が徹底的に自由であるために、政府は2つの原則を守るべきだと
言っています。
「*第1原則 国防*
    他国から攻撃された時に、政府はその攻撃から国民を守ること。
    つまり、外国から攻められることは、国民の自由の迫害なので、政府は守ら
    なくてはならないと説きました。
*第2原則 小さな政府*
    政府がやらなくてはいけない政策や制度がある場合は、より小さな組織で行い
    なさい、という原則です。国よりは県、県よりは市といったように、政策
    を下へ下へと流し行いなさいという考えです。
    その理由は、国単位で何か政策をすると国民はそれに従いたくなくても、国
    を出るわけにはいきませんから、従わざるを得ません。しかし、市の単位で
    政策を行えば、別の市に移動すれば良いだけです。」
    国民の自由を徹底的に守るためにこのようなことを説きました。
この原則どこかで見覚えがあります。そうアダムスミスの考え方にかなり近いのです。
アダムスミスは国の役割は「国防」「司法行政」「公共施設の整備」のみで十分で、
あとはマーケットに任せれば問題ないという考え方でした。市場に委ねて、国の介入を
最低限行えば、「見えざる手」によって最適化されるのだという考えです。」
# 高哲男「アダム・スミス」の記述によれば、「公共施設の整備」は、公教育制度などの
# 当時としては先進的な社会政策も含まれる広範なもの。さらに、銀行の破綻が招く社会
# への危険を回避するため、*銀行業務は厳格に規制すべき*との見解を示したそうだ。
# 新自由主義政策は*事実上の博打*である「デリバティブ」の扱いを含め何でも認めて
# 深刻な金融不安を招いたあげく、税金を使って金融機関を救済したわけだが。
# また、「マーケットに任せる」際のスミスの意図は「封建的制度による特権的な 独占が
# もたらすレントの発生を抑制する」ことであり、この点でも、新自由主義者がレントを
# 「自由に」貪ることを許すこととは対照的。
# そもそも、新自由主義者は「価値の創造に伴う利潤」と「価値を社会から奪うだけの
# レント」を区別しない。 一方、両者の区別こそ、マイケル・ハドソンが重視する論点。

上記ページの著者は共通点を強調しているが、相違点にも目を向けるべき事は言うまでもない。
マイケル・ハドソンは、彼自身、「新」のつかない古典派経済学、そしてマルクスに共通する知見
である、「大き過ぎるレント(不当な所得)が社会/経済問題 の根本原因という認識」を強調
する立場から、「新自由主義/主流派経済学はレント擁護思想だから、「新古典派」ではなく
反古典派」と命名した方がよかった、本当は反自由主義と呼ばれるべき ...反社会的な哲学
だと批判。
↑フリードマンの「新自由主義」政策からは「公共施設の整備」が外されている事に注意。i.e.
公共性を持つ=多くの人に共通する利益になる政策目標であって、解釈次第では現代における
様々な公共政策につながりうる要素が新自由主義の政策指針からは排除された。
# 実際、↑こういう手合いの言う「自由」↓とやらの意味は、南米/チリの現代史から明らか。
# https://www.chosyu-journal.jp/kokusai/22375
# https://ameblo.jp/kinakoworks/entry-12452496533.html
なお、「小さな政府」が「自由」のために必要な原則だというのは、見え透いた欺瞞であり、真の
目的は「富裕層への租税最小化」であることは「新自由主義的な政策」の採用事例から明らか。
「第一原則」とやらで国防費だけが何ら制約をされていないためか、「新自由主義的な政策」の
採用事例では、常に軍事費だけは増加する事実が観察される(レーガノミクス、サッチャリズム
アベノミクス)。
# チリの ピノチェト政権は新自由主義での(=フリードマン's+ハイエク's「自由」の含意を示した。
# 2023-01-22: つまり、それは強者による収奪の自由でしかないということ。
マイケル・ハドソン「文明の命運」p.274 から引用。
「フリードリヒ・ハイエクは、政府の「干渉」は農奴制への道であると宣言した。これは、
マーガレット・サッチャーやアメリカの自由主義的な自由市場主義者や規制緩和主義者を
夢中にさせたオーウェル的なレトリックであり、新冷戦の誇張の多くを裏付けている。
公的な「干渉」を伴う「市場」は、経済の「自由」を「侵害」していると非難される。この
「自由」とは、富裕層が債務者、顧客、消費者から自らの経済的・個人的自由を奪う自由を
意味する。古典ローマ以来2000年にわたる歴史的経験は、富裕層のためのこのような自由や
自由市場」が寡頭政治につながり、寡頭政治が文字通り農奴制への道であることを示す。」
フリードマンは、「新自由主義」の唱導者の中でも、もっとも分かりやすくデタラメな政策を
臆面もなく述べた人物と言える。再び下記ページから引用しよう。
https://vicryptopix.com/friedman/
「...
フリードマンが唱えた政府が行うべきでないこと
「*フリードマンが政府が行うべきでないと提唱した14の項目があります。この項目を
見ると、いかに極端な自由を求めた考え方だということがわかります。*
政府がやらなくていいこと
1. 農産物の買取保証価格制度
2. 輸入関税または輸出制限
3. 農産物の作付面積制限や原油の生産割当てなどの産出規制
4. 家賃統制
5. 法定の最低賃金や価格上限
6. 細部にわたる産業規制
7. 連邦通信委員会によるラジオとテレビの規制
8. 現行の社会保障制度、とくに老齢・退職年金制度
9. 事業・職業免許制度
10. いわゆる公営住宅および住宅建設を奨励するための補助金制度
11. 平時の徴兵制
12. 国立公園
13. 営利目的での郵便事業の法的禁止
14. 公有公営の有料道路
事業・免許制度すら廃止すべきだと言っています。例えば日本では、医師免許をもった人
のみ医療行為ができますが、フリードマンはそのような制度すらやめて市場に任せれば
いいと言っています。
つまり、*医師免許など持っていなくても、医療行為が下手な人には人が集まらずに倒産
してしまいます。逆に医者として神の手を持つような人は人気が集まります。*そうやって
市場に任せてしまえば免許などいらないとフリードマンは考えました。」
# ↑「市場による最適化とやらが有限時間内に完了する保証はない」事実を無視!(*後述*)。
# その結果、J.S.ミルが提唱した「自由」の制約条件=「他者に「危害」を加えない」も無視。
さすがに、上述の愚かな主張を全て真に受けた「新自由主義」政策採用例は存在しない。なぜ、
ここまでデタラメな政策を大真面目に主張する輩が、「経済学会」では「重鎮」扱いされるのか
不思議なので、理由や反論を考えたのが、本稿の執筆契機である。ちなみに、新自由主義者や
リバタリアンが見逃している基本的事実は、彼らの重視する「自由」は、極めて慎重に構成
され、しかも精力的かつ誠実に執行される*法秩序*なしには維持できないということだ。
つまり、「国家権力」の社会への介入は、どのみち必要で、「どのような目的で介入する
のか」の選択に際しては「最大多数の最大幸福」くらいしか妥当な指針はないが、それは、
彼ら新自由主義者やリバタリアンの利益や好みには反するように思われる。
もう一つ、仏教的視点からは、法秩序を、「自分の身体と所有物への拘り」という「常見」に
基づく無明の闇の強化のために構築しようという提案は「業が深い」としか言いようがない。
最後にリチャード・ウルフ「『市場原理主義』は社会進歩の障害」という記事から引用。
「市場原理主義は、特定の社会制度に、原理主義宗教が預言者や神々に帰結するのと
全く同じレベルの完全性と「最適性」を帰結」
「市場は多くの社会的分配手段の中の一つに過ぎない。需要に比して希少なものは何でも、
同じ問題を引き起こす: 誰がそれを手に入れ、誰がそれを手に入れなければならないのか」
「真に民主的な社会では、どの欠乏が市場によって分配されるべきか、どの欠乏が代替的な
分配システムによって分配されるべきかを国民に決定させるだろう」
「「買い手が希少な商品の価格を吊り上げると、他の企業家がその高い価格を狙って供給を
増やし、希少性をなくす」... この単純な議論は、希少な品物の高い価格で利益を得る企業家
には、新しい供給者の参入を ... 遅らせ、あるいは完全に阻止するあらゆるインセンティブと
手段があることを理解していない。... ビジネスの歴史を見ても、そうすることで成功する
ことが多い」←ブログ筆者注: 例えば、マイクロソフトが行った参入阻止策略数々は有名。
# 「たとえばマイクロソフトは、新たな形態の参入障壁や、既存の競合企業を追い払うずる賢い
# 方法を生み出す能力に長けていた。」(「スティグリッツ Progressive Capitalism」p.106)
# ↑上記マイクロソフトの「能力」の一端を示す「ハロウィーン文書」として知られる同社の
# 内部文書が流出し、ネットで公開されて物議を醸した。(↑山形浩生による和訳)
# マイクロソフトによる参入阻止の最盛期は、近年ワクチン方面で悪名高いゲイツのCEO時代。
# ∴参考リンク先が今は無い場合があるが、 WebArchive で探せば結構「魚拓」が残っている。
「市場は、お金のあるところに迎合する。金持ちが市場原理主義に補助金を出すのも不思議
ではない。不思議なのは、なぜ社会の残りの人々がそれを信じたり、容認したりするのか、
ということである」←ブログ筆者注: 認知バイアスのため、プロパガンダに騙されるから。

2. 経済学の用語と主張の内容についての問題^

まず、経済学では、用語の使い方に問題が多い(「名を正す」必要がある)。
- 経済学では、奇妙な用語法による「見かけ」により、命題の意味が捻じ曲げられる例がある。
 + 例えば、「アローの不可能性定理」に現れる「独裁者」なる用語は、実際には「たまたま
   複数の決定事項に関する優先順位の*多数決の結果*が、全て自分の思惑通りになった人」
   でしかない。(後で再論)。
- 経済学では、現実には成立していない事が明らかな命題や検証を経ていない命題を「法則」と
 呼ぶ習慣がある。最も有名な例は、ケインズが誤りを指摘した「セイの法則」。
https://vicryptopix.com/macro/
「*セイの法則とは、簡単にいうと「作ったものは全て売れる」... つまり需要は供給自らが
作り出すという考え方です。
セイの法則
供給されたもの全てが需要されるという ... 古典経済学で採用される一般的な需要の考え方。
この考え方は、アダム・スミス、リカードをはじめとする古典経済学が提唱した考え方です。
しかし、直感的にはかなり無理のある論理だとわかります。作り出したからといって、売れ
ないものは売れないですし、山のように商品が余っていますね。」

一般に、経済学の命題は事象の発生タイミングや継続時間を述べていない。*特に「長期的」に
しか成立しないとされる命題は、「有限時間内に成立する」事が疑わしい場合が多い。*
- そこそこ妥当に思えるモデルを使っている場合も、現実に前提条件が成立しているか確かめ
 ようがない場合が多く、さらに、ある時刻に前提条件が成立したとしても、条件が継続する
 時間が、結論部分が成立するのに十分である保証はない。
- 「レッセフェール」は「政府が介入しなければ、長期的には、経済は「最適」な状態で均衡
 するというモデル」に基づいて主張される。この点をケインズが「長期的には、われわれは
 全て死亡している」と皮肉ったことは有名。上述した通り、「長期的に成立」している事が
 100億年以内に起こる保証すらない。
 -「セイの法則」も、同様な例。提唱者は「値下げしていけば「いつかは売れる」はず」との
  説明をしているが、「タダでも引き取り手がない」状況にならない保証はない。「ある時間
  以内に売れなければ無価値どころか「負債」になりかねない」ものは、例えば、生鮮食品、
  流行や技術の変化で時代遅れになるものなど、多々ある。

経済学では、因果関係が示されたわけではないのに、因果関係があると認定してしまっている
言説が多い。
- 前記「アローの不可能性定理」での「独裁者」の定義は、「現実の「独裁者」は、その人の意思が
 組織、社会、国家としての決定の原因になる人」であることを無視している。
- フリードマンの「実証研究」とやらも因果関係を示せてなどいないが「スタグフレーション
 予言した」として、妙に珍重されている。「いつ」と言わずに同じ主張を長年続けていたら、
 ある時に起きたというだけで、発生条件やメカニズムを示したわけではないことに注意すべき。
# つまり、インフレ率と失業者率の間に負の相関関係が事実として成立していた期間中にも、
# *この相関関係が成立し得ない経済モデル*に基づいた論文を書き続けていただけ。
 + 「マルクス主義批判」では、*経済学全般に当てはまる内容や、むしろ批判する側の問題*に
   見える例が多い事と対照的な甘すぎる評価で、新自由主義は学問的には過大評価されている。

# 下記エントリにはマルクス主義者からの反批判に一切言及がない。「記述の中立性」は??
https://ja.wikipedia.org/wiki/マルクス主義批判
# 2024-01-22: ↑以前の版との字面の違いは大きいが基本的問題は共通。
# マルクスが「私はマルクス主義者ではない」と述べた有名な事実を踏まえ、少なくとも
# 「マルクスへの批判」、「マルクス主義への批判」、「社会主義国批判 」は区別すべき。
# さもなければ、いわゆる「構図の誤謬」に陥っているとの反批判を免れない。
# なお、「「マルクス主義」批判」の大半が「ストローマン論法」を使用する事と合せて、
# 「「陰謀論」批判」と共通のレトリック(=詭弁)への依存が目立つ。考えて見れば、
# 「陰謀論」の多くは、「マルクス主義」と「体制に不都合な議論」である点が共通。
# 正直言って、いろいろ「マルクス主義」が同じものを指すか自体が怪しい言説が無秩序に列挙
# されているという印象で滑稽なものも多い。特に噴飯ものの例を挙げておこう。
ヴェーバー: 歴史考証のデタラメぶりで知られる新自由主義プロパガンダの草分け。
ハイエク: 経済学者としての無能ぶりスラッファに暴かれた。また「科学主義 i.e.
(社会科学が自然科学の方法を模倣すること)」への批判は、何重にも間違っている。
(1) *真の意味での自然科学の方法*は、むしろ*当然、模倣すべき*。
(2) 問題は、社会科学者の多くは*真の意味での自然科学の方法*に無知であること。
(3) マルクス(+エンゲルス)の(自然)科学への誤解度は、比較的軽度
∵彼等が「科学」のモデルとしたのは、当時の生物学、特にダーウィンの進化論。
∴現実との照合方法や精度は、社会科学者の一般的イメージから大きく離れない。
(4) 主流派経済学者やハイエク自身の*(自然)科学への誤解の度合い*は、重症
この連中は、科学の根本が*理論を現実と絶えまなく照合する態度*だと知らない。
物理学での検証の厳密性への無知から、「数式の使用=自然科学の方法」だと誤解
しているのが主流派経済学者。また、ハイエクは「現実と絶えまなく照合する」事の
意義を明示的に否定した事になる。実際、「貨幣には価値貯蔵機能がある」という
明白な事実を無視した議論を論文で展開していることをスラッファに批判された。:-)
ズビグネフ・ブレジンスキー:「ナチ2.0」こと西側「嘘の帝国」思想の元祖に言われても
# ↑筆者によるブレジンスキー批判は←リンク先の別記事に移動。
カール・ポパー:「時期を明確にしていない」のは経済学理論全般の特徴。勉強不足では?
# ↑ とうの昔に科学哲学業界でオワコン認定された説の提唱者に過ぎない人物(後述)。
矢内原忠雄:確かに「マルクス主義の害悪」は「キリスト教の害悪」には遠く及ばない。
# ↑「『アメリカ・インディアン悲史』を読みました」という表題のブログ記事から引用。
# 「開拓民は感謝した」「インディアン達の不幸は、その感謝した先がインディアン
# ではなく、開拓民が信ずる神様だったということだろう。」
# 「食糧問題も解決に向かい、人口も増えて行ったとき、白人にとって「土地を所有する」
# 概念のないインディアン達は、良き隣人ではなく、植民地の発展をさまたげる野蛮人と
# なっていった。」
# ↑こういう恣意的な「隣人」選択を許容する限り、キリスト教は人類全体にとっては有害。
# 「宗教的予言としての批判」の項目全般については、下記記事も参照。
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/63518
2019.03.19
# 哲学・思想
資本主義は一種の宗教←これがマルクス『資本論』の最重要考察です
資本家とは「合理的な守銭奴」のこと

経済学では、現実との接点や対応すらあやふやな概念に基づく、極度に単純化されたモデルに
ついて議論した後、その結論を現実の政策に適用すべきという主張が*堂々と*されている。
- モデルに使用された仮定や前提条件の妥当性への言及すらなく、結論だけ*無条件に*主張
 する事が通例。
 + この問題は、経済学における現在の主流派=「新古典派」の起源である「限界革命」の
  時点で、歴史学派の経済学者であるグスタフ・シュモラーとルヨ・ブレンターノが、既に
  厳しく指摘しているのだが、主流派経済学者の連中は、馬耳東風だった。
 + 一方これに対し、一応は歴史学派の経済学者に分類されているマックス・ヴェーバーは、
  「新古典派(=後の新自由主義)の非科学的プロパガンダの援護射撃を意図した言説」を
  常とした。「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」は、その典型例。なお、
  前掲別記事での問題点の指摘↑は、ルヨ・ブレンターノによる批判と(期せずして^^;)
  重なってしまった部分が複数ある。
 + ちなみに、カール・ポパーも、「新古典派の非科学的プロパガンダの援護射撃」仲間。
  有名な「反証可能性」概念も、主流派経済学に対しては適用しようとしなかった事から、
  「ためにする議論」だった事は明らか。現在の「科学哲学」での「反証可能性」概念は、
  「科学」の定義に適用する上での問題点が多々指摘されたオワコン(嗤)」。
   別記事で科学の定義を論じた箇所では、「科学哲学」の書籍で見かける一般的な指摘の
   ほか、筆者が考察した問題点も述べている。
- 「マクロ経済学のミクロ的基礎づけ」なるスローガンが経済学会では奇妙なほど重視されて
 いるようだが、ミクロ経済学には実証的裏付けがされている気配すらない一方、マクロ経済学
 では計量経済学による定量的裏付けの努力がされているので、話が「あべこべ」であろう。
 + 行動経済学、実験経済学などが「新しい分野」だという時点で、原理的な事項 (概念、仮定、
  手法の妥当性)について検証しようという試みがミクロ経済学には存在しないことが明らか。
+ それ自体の実証的検証がされていない理論で、多少は実証されている理論を「基礎付ける」
  意味はない。むしろ、マクロ経済学との整合性でミクロ経済学説をふるいにかけるべきでは?
  例えば、「序数的効用」のみに基づく現在の「ミクロ経済学」理論は、マクロ経済学と整合性が
  取れるのか極めて疑わしい。
 + 熱力学と統計力学との関係が理想としてイメージされているのかも?しかし、熱力学が定量的
  に検証されていなければ、統計力学の理論の正当性を確かめるすべはなかったし、統計力学の
  基礎として使われた力学法則が、それ自体、十分な定量的検証を経たものだからこそ熱力学を

  統計力学で基礎付けることが可能だった。なお、非平衡熱力学については、まだ「統計力学に
  よる基礎付け」は出来ていない。現時点での「マクロ経済学のミクロ的基礎付け」は、無謀な
 「絵空事」で、そもそも熱力学と統計力学の関係についての事実誤認が起源だと考えられる。

経済学(のモデル)で使用される用語には「力」、「速度」、「均衡」など物理学の影響を感じさせる
ものが多いが、経済学の方法論は物理学の方法論とは基本的な考え方が「真逆」に近い。
- 物理学では基本原理や法則は、定量的検証の対象。経済学では、*どの程度の近似であるか*
 という観点での検証を試みることもせず、単なる仮定を「法則」と呼ぶ。

 + そもそも、実験材料や観測対象になりうる具体的な事物との対応を想定しない概念的枠組みに
  基づくモデルが使用されるのが、経済学の理論での通例。

 + にも関わらず、数学と比較して非常に粗雑な推論がされているため、理論が矛盾を含む恐れが
  ある。「矛盾を含む体系では任意の命題が証明できる」ことは、論理学でよく知られた事実。
  物理学では、さまざまな条件で実験や観測による命題の検証を行うことで、現時点では論理的に
  閉じた体系になっていない範囲での適用に際し「前提に矛盾がある推論」で結論を出してしまう
  事態が回避されている。

# 主流派経済学の特性は、以下のような現実からの解離を*意図的に*招くもの。
オール・オア・ナッシングの外交政策 マイケル・ハドソン 2/5
「何が本当にインフレを引き起こしたのか」
「アメリカによるロシアの石油や食料の輸出に対する制裁」
「ロシアは世界の石油貿易の40%、ガス貿易のさらに大きな割合を占めており、農作物貿易
穀物貿易)の大部分もロシアが輸出」
「石油やガス、食料が市場からなくなると、エネルギー価格が上がり、食料価格が上がり
... これが一つの大きな原因」
「もう一つの大きな要因は、アメリカやヨーロッパの経済がより独占的になっていること」
「生産コストよりもはるかに高い価格を設定して「超利益」を上げている。そして実際、
アメリカの独占企業は超高収益」
「FIREセクター ...- 金融、保険、不動産」
「持ち家の減少、不在地主の増加、独占的な権力、... ロシア、中国、イラン、そして
その同盟国に対するアメリカの制裁 ... そして今や軍事戦争が、賃金の上昇をはるかに
上回るスピードで、物価を押し上げている」
「銀行と1%の人々は、何がインフレを引き起こしているのか、実際の経済統計はどうなって
いるのか、経済史や経済思想はどうなっているのか、といったことを人々が知らないように
すれば、代替案がないと信じてくれることを発見した」
「主要メディアで目にするのは、「すべての問題は、労働者が稼ぎすぎているせいだ」という
プロパガンダ文句ばかり」
「金利や家賃は経済間接費としてGDPから差し引くべき料金なのに、GDP成長の一部として
カウント」

3. 経済学は「科学」のふりをするのをやめ、「工学」になるべきだ^

主流の経済学では「主流経済学派で使われるものと異なる前提や概念」に基づく理論は「無視」
あるいは「頭から否定」する傾向が見られる。「(事実ではなく)ある特定の概念構成の枠組み
でのモデルの性質こそ研究対象」という意識が、異質な概念構成に基づく理論を拒否する態度に
つながっている可能性がある。経済学では自然科学と同等な水準で「原理」や「法則」について
「定量的」検証が得られている理論は皆無なのだから、「理論を現実の政策に適用する」という
より、「「ブラックボックス」の要素を内包する対象の制御方法ないし制御の仕組みを作る」と
考えるべき。「制度設計」においても工学的発想が必要と思われる。というより、制御工学での
考え方そのものを範とするべきではなかろうか。効用の序数性への拘りとかも「バカバカしい」
と評せざるを得ない。最終目的が「よりよい経済政策の実現」なら、何であれ「制御システムの
実現に都合が良い属性」を持つ数量パラメターを任意に使えばよい。

よく言われることだが、「経済」は「経世済民」という言葉の略だったいう事実に注意したい。
economy の語源が「家政」といった意味合いのギリシャ語だったという事とも響き合うが、
より一層、味わい深い事のように思われる。

今の経済学は、あまりにも「社会そのもの」という対象から離れすぎたモデルについての学問
なっているきらいがある。それが政策立案に役立てる上での障害になっていると考えられる。
せめて「経営学」と同程度のレベルで、具体的対象の性質や構成要素にも目を向けるべきだろう。

例えば、「経済政策提案」であるという口実によって、経済モデルの変数でない*社会的現実*
への影響を無視することは許されない。工学での「モノ」や「仕組み」の設計と同様、あらゆる

観点での影響を評価し、社会が「安全に推移する」、つまり社会の中にいる人々が安心して暮ら
せるように最大限の注意を払った政策の立案を目的にすべきだ。下記バートランド・ラッセル
警句を参考に、経済学は他の「社会科学」の中では、まず「社会学」との接点を探究すべきだ。
https://meigen-ijin.com/bertrandrussell/2/
経済学は人々がどのような選択をするか明らかにするが、社会学は人々に選択の余地がない
ことを明らかにする。

表題のネタばらし:「数とは何か、何であるべきかリヒャルト・デーデキント)」^

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