HBD in Liaodong Peninsula

ぶらぶら街歩き日記です。北京編4年目です。

浙江興行銀行漢口支店旧址

2024-03-28 | 武漢を歩く
漢口の中山路と江漢路が交わる一帯は租界時代の歴史的建造物が集まるエリアですが、この左側の赤い瓦葺が目を引く優美なバロック風の建物はなんだったのででしょうか。



ここは浙江工業銀行漢口支店があった場所です。



行政が文物指定したことを示すパネルもありますが、調べたところ、実はこの建物は再建したものだそうです。

浙江工業銀行は1907年に設立されました。漢口支店は翌08年に設立しました。南四行とよばれる中国で最も初期の商業銀行のひとつです。

この地に銀行ビルが建設されたのは1925年です。



日本が武漢を占領すると、1940年5月、日本軍の計画支援で浙江興業銀行漢口支店は中江実業銀行となります。太平洋戦争が始まると銀行は閉鎖を余儀なくされました。

そして近代になった1995年に火災が発生し、ビルは取り壊しになりました。その後このビルを再建したというわけです。



古写真と比較すると、たしかに忠実に当時の姿に再建されていることがわかります。
かつての景観を守ろうとするこの意気込みには惜しみなく拍手を送らなければなりません。

ところで、浙江興業銀行漢口支店は清代の末から民国時代にかけて武漢で流通した「漢鈔」とよばれた紙幣を最初に発行した銀行です。

銀行は漢口に支店を設立してからすぐに漢鈔を発行しました。外国銀行の漢口支店もこれに続き、漢鈔を発行するようになりました。

1935年に国民政府が紙幣改革を行い、紙幣を統一すると、漢鈔の流通は次第に減っていきました。
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北京香港ジョッキークラブ会所

2024-03-22 | たべる
北京の金宝路に香港ジョッキークラブ会所とよばれる会員制のクラブハウスがあります。

この前を通るたびに、競馬ファンとしてはいつか一度入ってみたいものだと思っていたところ、幸運にもメンバーだった知人が招いてくれました。

香港競馬の主催機関である香港ジョッキークラブが運営する施設ですが、馬券を発売しているわけではなく、競馬を啓蒙している様子もなく、きわめて競馬色は薄い、セレブ向けのラグジュアリーな空間でした。









香港ジョッキークラブはなぜ馬券を発売していないメインランドにこんな施設を作ったのでしょうか。あれこれと考えを巡らせてみると、この国ならではのいろいろな事情があるのだろうな、と思わせます。

施設内には3つのレストランがありました。このほか、ボールルームや会議場、宿泊施設もあるようでした。

広東料理のコースです。とても上品な味わいです。









中庭では夏場になるとBBQも楽しむことができるのだとか。



図らずも、しばしの時間、セレブ気分を味わうことができました。





香港競馬の展示エリアです。



2020年12月の香港カップを勝った日本馬のノームコア(萩原厩舎)が紹介されていました。

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北溝沿胡同 梁啓超旧居

2024-03-19 | 北京を歩く
北新橋里エリアの北溝沿胡同にかつて梁啓超(1873-1929)が暮した家が残っているというので、出掛けてみました。

梁啓超は戊戌の変法(1898年)を主導した人物で、維新に失敗した後、日本に亡命しました。

ここは亡命生活を終えて1912年に帰国したときに暮した場所だそうです。

ネットで調べたところ、所在地は北溝沿胡同23号で、壁に「梁啓超旧居」という文物指定を示すパネルが嵌め込まれているようです。

そのパネルをよりどころにして探します。



北溝沿胡同は南北に300メートルほどあるようです。パネルがあるならすぐに見つかるでしょう。



ところが、一往復しても見当たりません。
僕の探し方が悪いのでしょうか。

おかしいな、と思ってスマホを取り出して地図アプリで23号を調べてみると、ここでした。



なんと、パネルが取り換えられていました。



僕が調べた情報が古かったようです。

たぶん、僕のように物見にきた観光客が住民が暮らす四合院の中に入ってきて迷惑になるから、という理由からだと思います。



さて、ともあれここが梁啓超が暮した場所です。





日本から帰国した梁は袁世凱から法部次官に任用され、新しい人生をスタートさせます。翌1913年には司法総長に任命されます。その後、14年に袁世凱と袂を分かつと天津に移ったとされます。

したがって、ここで暮したのはこの12年から14年にかけての2年間ほどだったのでしょうか。

解放後、ここは鉄道部の幼稚園となり、その後宿舎に改造され、鉄道部の職員家族が暮らしたようです。
梁啓超が暮したころは広い中庭があった四合院だったようですが、今は細かく仕切られており、70から80世帯の鉄道部関連の人たちが暮らしているそうです。

通りの向かい側(東側)には梁啓超書斎と記されたパネルがありました。





ということは、23号だけでなく向かい側も自宅にしていたのでしょうか。

そうだとすると相当広い敷地だったということになります。
まあ、当時梁は中華民国の閣僚だったわけですから、こういう待遇だったとしても不思議はありません。

梁啓超が天津で暮らした場所は、2024年2月24日の日記でご紹介しました。

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漢口 米国人記者アグネス・スメドレー / ルッツ主教旧居

2024-03-16 | 武漢を歩く
漢口の鄱陽街の旧租界エリアでアグネス・スメドレーの旧居だったという洋館を見かけました。





シンプルなレンガ造りの2階建てです。

アグネス・スメドレー(1892-1950)は共産党に共感して中国で取材活動を行った米国人ジャーナリストでした。

中国での暮らしの拠点は上海でしたが、1938年に日中戦争を取材するため、ここで10か月間を暮したことがあったようです。
当時、ここは漢口聖公会の米国人宣教師だったルッツ主教の邸宅でした。

スメドレーはミズーリ州の農家出身で、幼少時代は貧しさゆえ教育を受ける機会に恵まれなかったものの、長じてから師範学校で特待生として修学し、学内で学生新聞の編集といった課外活動を行いました。

やがてインド人の共産主義者との出会いをきっかけに運命が動き始め、ドイツを経て上海に拠点を移すことになります。上海ではソ連のスパイだったゾルゲと関り、尾崎秀実を紹介したとされます(この話は諸説あるようです)。

そして1930年代から40年代はじめに中国国内の共産主義者に密着し、国共内戦や日中戦争の取材を行いました。

スメドレーは武漢での滞在中、在武漢米国総領事や英国大使に対し、赤十字社の救急隊を編成して八路軍を医療支援するよう粘り強く説得し、その道筋をつけたとされます。

没したのはロンドンですが、墓は北京の八宝山墓地にあります。それだけ近代中国に愛され、大事にされた人物ということでしょう。



湖北省の文物保護単位になっていました。

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溥儀の妹(愛新覚羅韞穎)旧居

2024-03-13 | 北京を歩く
什刹海エリアの前井胡同を歩いていたら、こんな案内板を見かけました。



この胡同には溥儀の妹だった金韞穎(1913-1996)が暮らした家があるそうです。

1959年に溥儀が特赦を受けて釈放されたされた後、一時的に暮らしたとも書かれています。

通りの15号だそうです。ふむふむ、それは一度見ておかなければなりません。さっそく15号を探してみました。



ここです。





案内板から南側に50メートルほどの場所でした。

金韞穎のもともとの名前は愛新覚羅韞穎でした。父は醇親王載灃、母は正妃だったグワルギャ氏幼蘭で、溥儀と同じです。溥儀にとっては3番目の妹でした。

韞穎は1913年生まれですので、溥儀より7歳年下です。異母きょうだいの存在が珍しくなかった時代に同じ母だったということもあって、溥儀は特に可愛がったそうです。

1924年、溥儀を紫禁城から追放され、日本の支援を受けて天津に移ると、韞穎も同行しました。韞穎は毎日日本語を学び、溥儀ら兄弟たちと暮らしました。

19歳のとき溥儀のすすめで婉容の弟だった郭布羅潤麒と婚約しました。

1931年、満洲国が樹立して溥儀が長春に移ると、韞穎はまたも同行します。
そこで潤麒と結婚すると、その直後、溥傑と潤麒は日本に軍事留学することになります。韞穎は同行し、日本で2年間を暮らします。
韞穎は日本の皇族に囲まれるようになり、昭和天皇の義理の妹に中国語を教えたりしたそうです。

この義理の妹とは誰でしょうか。
秩父宮の勢津子さまか高松宮の喜久子さまか三笠宮の百合子さまのいずれかになりますが、年齢的に考えて勢津子さまか喜久子さまでしょうか。

韞穎にとって日本での暮らしは窮屈だったらしく、溥儀にたびたび手紙を書いたそうです。

1933年、韞穎は長春に戻ります。潤麒も帰国し、以降長春で暮らします。
1945年に日本が降伏すると、韞穎は溥儀らとともに通化に逃れますが、溥儀はソ連軍に囚われます。

1949年に北京が解放されると潤麒は北京に戻ることを許され、3人の子供と義母と暮らしはじめます。
1951年に父親の醇親王が逝去するとわずかな遺産を受け取り、古い部屋を借りて生活を始めました。

1956年には撫順戦犯刑務所に収監されていた溥儀への面会が実現します。

そして1959年、溥儀が釈放されると、溥儀は一時的にこの家に身を寄せることになった、というわけです。



ここでどの程度の時間を暮したのかは正確ではありませんが、決して長い時間ではなく、その後東単に移動したようです。

そうであったとしても、溥儀にとってこの場所は撫順戦犯刑務所で長い辛酸の時代を過ごして最初に得た安住の地であったのではないでしょうか。



北京はこの発展を極めた現代になってもなお、当時の胡同を面影を残している場所がたくさんあります。

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紫竹院公園 - 皇帝が頤和園との往来時に休憩した場所

2024-03-10 | 北京を歩く
海淀区の紫竹院公園に行ってみました。

ここは紫禁城から北海、什刹海、積水譚から南長河を経て頤和園の昆明湖に至る水路のほぼ中間ぐらいに位置する公園です。

歴代の皇帝たちは離宮である頤和園に行く際に水路が使われましたが、ここが行宮となって休憩を取ったといわれます。

広大な公園の約3分の1は湖です。





南長河と双紫渠が園内を貫いています。明代以降ここに紫竹院という寺院があったのが名前の由来だそうですが、その名のとおり園内のいろんなところに竹が植生しています。





50種類以上の竹があるそうですが、これは最近のことでしょうか。
竹は本来温暖で湿潤な気候を好みますので、寒冷で乾燥した北京には向かないはずです。よく育つものだと思います。



頤和園に至る水路は元代の有名な水利土木の技術者だった郭守敬が引き込んだとされます。



今でも北京動物園から紫竹院を通過して頤和園へ向かう水路沿いを歩くと、往時を偲ぶことができます。



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天津旧日本租界 段祺瑞旧居

2024-03-07 | 天津を歩く
天津の旧日本租界の鞍山路に、固い扉で閉ざされた曰くありげな大型の邸宅がありました。

ここは日本租界時代は宮島街とよばれていました。溥儀が暮らした張園のすぐ近くです。

外壁に貼られた文物保護のパネルによると、民国時代に国務総理を務めたかの段祺瑞(1865-1936)が暮した邸宅だったようです。北洋三傑です。



今は開放されておらず、何に使われているのかわかりませんが、厚い鉄の扉の下側に少しだけ空いていた隙間にスマホを差し込んで撮影してみました。



手入れが行き届いた立派な洋館です。左側にレノボの看板があります。

1920年の竣工という記録があります。

もともとは段祺瑞の義理の弟が資金を出して建設したようです。
当時は「段公館」とよばれ、当時の天津日本租界で最も豪華な私邸だったそうです。

1階と2階にそれぞれルーフテラスが張り巡らされていて、シンガポールにありそうなコロニアル風の外観です。

唐山地震で一度損傷したものの、補修したようです。

段祺瑞(1865-1936)は李鴻章と同じ安徽省出身です。早くから袁世凱とともに北洋軍で活動し、袁世凱が死去した後は安徽軍閥の実権を握ります。対ドイツ宣戦をやったりします。しかし、1920年に安直戦争に敗れると下野し、天津日本租界に逃げ込みました。

その後一時的に復権しますが、1926年に馮玉祥に追放されると、再び天津に戻ってきます。
そのときに暮したのがこの邸宅だったようです。

記録によると段は1933年まで天津で暮らしました。

満洲事変が起きると、段は日本の諜報部門からの接触を避けるため、国民党からの誘いを受けて上海に移りました。
段が上海で暮した邸宅は今の在上海日本総領事公邸として現存しています。

段は1936年に病でこの世を去りました。

つまり、天津のこの場所で暮らしたのは実権を失い引退した60代の頃の数年間だったようです。
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紫禁城 隆宗門 - 李自成が放った恨みの一矢は今も残っているか

2024-03-04 | 北京を歩く
紫禁城の隆宗門にはおもしろい逸話があります。

小説「蒼穹の昴」は、夜の路地裏で安徳海が春児に向かって「言い伝え」だと断った上でこんなエピソードを打ち明けるシーンがありました。

1644年、農民を動員して明国を滅ぼし紫禁城を乗っ取った李自成は、天子のみしるしである龍玉を探します。しかし、城内を探しても探しても見つかりません。

そうこうしているうちに清の満洲八旗軍は長城を越えて北京になだれ込んできます。
龍玉を探しあぐねた李自成は追い込まれ、城に火を放ちます。

そして、自らに天命がないことを悟ると、恨みをこめて馬上から隆宗門に矢を射込みます。その矢は扁額に命中し、梁にまで達しました。まさに一矢を報いたというわけです。

この伝説は「地球の歩き方」北京編でも少し紹介されています。

その恨みの矢が現代となった今でも扁額に刺さったまま残っていると。

本当でしょうか。実際に観察してみました。

隆宗門は外朝と内邸を隔てる重要な境界です。乾清門前広場の西側にあります。



これです。

最初に門が造られたのは永楽帝時代の1420年で、その後何度か再建されているようです。

これが扁額です。東側を向いています。





目を凝らすと、左側に鋭利な矢か釘らしきものが刺さっていることがわかります。



言い伝えが事実なら、380年前に放たれた恨みの一本ということになります。なんとも興味深い話です。

しかし、ネットで調べてみるとこの矢には諸説あるようです。

とある文献は李自成説を否定しています。

いわく、これは1813年に嘉慶帝が巡行に出かけて北京を不在にした間に発生した天理教の農民反乱軍と清国軍の激しい戦闘の痕跡なのだとか。のちにこの出来事を知った嘉慶帝が、下部に対して常に危機感を煽るために矢尻を残すよう命じたのだそうです。

さらに違う説もありました。

義和団の乱を鎮圧した8か国連合軍が北京でゲームをしていたときに矢を残していったという説です。

他にもあります。清朝が滅亡した後、紫禁城に取り残された溥儀が練習としてこの扁額を的にして矢を放ったという説もあるようです。その頃の溥儀はやけになっていたでしょうし、もはや内廷の制御も効かなかったでしょうから、これもあり得そうな話です。

いやはや、どれが事実だったとしてもおもしろい話です。この外観からすると矢は人為的に撃たれたものである可能性は高いように思います。

なんとも興味を掻き立てられます。

こういう伝説は深く追求せずに、分からないままにしておいた方がよいと思います。

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旧漢口明治尋常高等小学校校長邸

2024-03-01 | 武漢を歩く
漢口の旧日本租界付近にある「武漢天地」とよばれる近年リノベーション開発をしたと思しき商業エリアを歩いていると、漢口明治尋常高等小学校校長の邸宅だったというレンガ造りの3階建ての洋館を見かけました。







今は戸建てのレストランとして使われているようです。外観からはリノベーションをしたような形跡がありますが、基本的には往時の姿ではないでしょうか。

漢口明治尋常高等小学校は日本が租界地に置いた教育機関です。

ここから西側約200メートルの場所にありました。今の武漢第二中学の場所です。

文献によると、漢口に初めて日本人向けの小学校が設立されたのが1907年です。
設立者は日本人居留民団で、文部省から在外指定学校の指定を受けました。翌1908年に明治小学校となり、辛亥革命による一時閉鎖を経て1913年に明治尋常小学校になりました。
幼稚園も併設されており、幼稚園を含むと8学年があったようです。

児童数は1918年の124人から5年後の1923年には246人に倍増したそうです。
小学校の教員は1940年には17人の教師が所属したのだとか。小学校は1941年に漢口日本国民学校と名前を変え、そして終戦とともに閉鎖されました。37年の歴史でした。





校長の宿舎は1930年代の設立と紹介されています。こんな立派な新築一軒家で暮した校長は鼻が高かったことだと思います。

当時の官報を調べてみると、この校長の異動情報が掲載されています。きっと文部省から派遣されたのだと思います。



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