北京で最も古い寺のひとつとされる法源寺を訪ねてみました。
牛街の東側です。
寺がつくられ始めたのは645年だそうですから、唐の第二代皇帝李世民が高句麗侵攻をしていた時代です。日本では大化の改新の年です。
中国語の文献によると、この寺の成り立ちにはこの高句麗遠征と関係があるようです。
遼の時代(916-1125年)の北京の中心地は、ちょうどこの辺りだったと伝わります。今は故宮を中心ににて南北の中軸線があって、東西に街が広がりますが、当時は違いました。
唐の時代からこの辺りが中心だったのでしょうか。
南側の山門をくぐると、樹高のある老木と広大な広場が出迎えます。右に鐘楼、左に鼓楼があります。
以降、北に向かって順に天王殿、大雄宝殿、観音殿、毘盧殿、大悲殿、蔵経楼とお堂が続きます。
法源寺の敷地内には中国仏学院と中国仏教図書文物館があり、多くの若い僧侶が行き交う姿がありました。
構内のいたるところに古そうな石碑が立っています。
北京でこの手の石碑を見かけると、たいていは乾隆帝のものですが、どうやらここのそれはそれ以前のものが多いようです。
風化で文字が読み取れなくなっているものもありますが、元や明代のものがあります。歴代皇帝から受けた信仰の篤さが伝わってくるようです。
このシロマツも古そうです。樹齢数百年はありそうです。
何気なく置いてあるこの大きな石鉢も古そうです。
風雪に耐え、動乱に耐え、よくぞここまで残ってきたものです。
牛街の東側です。
寺がつくられ始めたのは645年だそうですから、唐の第二代皇帝李世民が高句麗侵攻をしていた時代です。日本では大化の改新の年です。
中国語の文献によると、この寺の成り立ちにはこの高句麗遠征と関係があるようです。
遼の時代(916-1125年)の北京の中心地は、ちょうどこの辺りだったと伝わります。今は故宮を中心ににて南北の中軸線があって、東西に街が広がりますが、当時は違いました。
唐の時代からこの辺りが中心だったのでしょうか。
南側の山門をくぐると、樹高のある老木と広大な広場が出迎えます。右に鐘楼、左に鼓楼があります。
以降、北に向かって順に天王殿、大雄宝殿、観音殿、毘盧殿、大悲殿、蔵経楼とお堂が続きます。
法源寺の敷地内には中国仏学院と中国仏教図書文物館があり、多くの若い僧侶が行き交う姿がありました。
構内のいたるところに古そうな石碑が立っています。
北京でこの手の石碑を見かけると、たいていは乾隆帝のものですが、どうやらここのそれはそれ以前のものが多いようです。
風化で文字が読み取れなくなっているものもありますが、元や明代のものがあります。歴代皇帝から受けた信仰の篤さが伝わってくるようです。
このシロマツも古そうです。樹齢数百年はありそうです。
何気なく置いてあるこの大きな石鉢も古そうです。
風雪に耐え、動乱に耐え、よくぞここまで残ってきたものです。
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