HBD in Liaodong Peninsula

中国と日本のぶらぶら街歩き日記です。2024年5月からは東京から発信します

溥儀の妹(愛新覚羅韞穎)旧居

2024-03-13 | 北京を歩く
什刹海エリアの前井胡同を歩いていたら、こんな案内板を見かけました。



この胡同には溥儀の妹だった金韞穎(1913-1996)が暮らした家があるそうです。

1959年に溥儀が特赦を受けて釈放されたされた後、一時的に暮らしたとも書かれています。

通りの15号だそうです。ふむふむ、それは一度見ておかなければなりません。さっそく15号を探してみました。



ここです。





案内板から南側に50メートルほどの場所でした。

金韞穎のもともとの名前は愛新覚羅韞穎でした。父は醇親王載灃、母は正妃だったグワルギャ氏幼蘭で、溥儀と同じです。溥儀にとっては3番目の妹でした。

韞穎は1913年生まれですので、溥儀より7歳年下です。異母きょうだいの存在が珍しくなかった時代に同じ母だったということもあって、溥儀は特に可愛がったそうです。

1924年、溥儀を紫禁城から追放され、日本の支援を受けて天津に移ると、韞穎も同行しました。韞穎は毎日日本語を学び、溥儀ら兄弟たちと暮らしました。

19歳のとき溥儀のすすめで婉容の弟だった郭布羅潤麒と婚約しました。

1931年、満洲国が樹立して溥儀が長春に移ると、韞穎はまたも同行します。
そこで潤麒と結婚すると、その直後、溥傑と潤麒は日本に軍事留学することになります。韞穎は同行し、日本で2年間を暮らします。
韞穎は日本の皇族に囲まれるようになり、昭和天皇の義理の妹に中国語を教えたりしたそうです。

この義理の妹とは誰でしょうか。
秩父宮の勢津子さまか高松宮の喜久子さまか三笠宮の百合子さまのいずれかになりますが、年齢的に考えて勢津子さまか喜久子さまでしょうか。

韞穎にとって日本での暮らしは窮屈だったらしく、溥儀にたびたび手紙を書いたそうです。

1933年、韞穎は長春に戻ります。潤麒も帰国し、以降長春で暮らします。
1945年に日本が降伏すると、韞穎は溥儀らとともに通化に逃れますが、溥儀はソ連軍に囚われます。

1949年に北京が解放されると潤麒は北京に戻ることを許され、3人の子供と義母と暮らしはじめます。
1951年に父親の醇親王が逝去するとわずかな遺産を受け取り、古い部屋を借りて生活を始めました。

1956年には撫順戦犯刑務所に収監されていた溥儀への面会が実現します。

そして1959年、溥儀が釈放されると、溥儀は一時的にこの家に身を寄せることになった、というわけです。



ここでどの程度の時間を暮したのかは正確ではありませんが、決して長い時間ではなく、その後東単に移動したようです。

そうであったとしても、溥儀にとってこの場所は撫順戦犯刑務所で長い辛酸の時代を過ごして最初に得た安住の地であったのではないでしょうか。



北京はこの発展を極めた現代になってもなお、当時の胡同を面影を残している場所がたくさんあります。

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 紫竹院公園 - 皇帝が頤和... | トップ | 漢口 米国人記者アグネス・... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿