松樹山第四砲台は、松樹山の南側斜面に残る日露戦跡です。
帝政ロシア軍が整備した旅順要塞のうち、東北正面側の一番西側に当たります。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/42/71/dda0491726f35d9346cafd8795ef4b35.jpg)
(要塞の跡です。埋まってしまっています)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/4d/dd/efd732725b8712af5e2a5d6d7b3a0bb5.jpg)
(塹壕の跡でしょうか)
1904年11月26日、乃木希典率いる帝国陸軍第三軍は、中村覚少将を指揮官とする白襷隊を組織して夜襲を計画します。第三回旅順総攻撃です。
この作戦の目標となったのが、この松樹山第四砲台です。
しかし、この奇襲攻撃は失敗に終わります。
約2,600名もの戦死者を出し、第三軍は大損害を受けてしまいます。
味方を識別するために掛けていた白襷が敵軍の探照灯照射によって反射し、これが目立ってしまったためとされています。
この作戦失敗により、第三回総攻撃の当初の主要目標攻撃は頓挫することになりました。
乃木希典は二〇三高地に攻撃目標を切り替えることを決意します。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/34/78/f205be5f11a65e887ed1d7c265ebe964.jpg)
(大正5年に満州戦績保存会が設立した記念碑が残っています)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/3a/01/c391c719ed7293328f15fbd3e62c1e2a.jpg)
(正面から)
松樹山要塞跡のさらに先で、山道の奥まった場所にあるため、ほとんど人が入ってくることはないようです。
今の静かで穏やかな風景からは、当時の壮絶な激戦は想像もつきません。
クルマでも行くことができますので、訪れてみる価値はあると思います。
帝政ロシア軍が整備した旅順要塞のうち、東北正面側の一番西側に当たります。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/42/71/dda0491726f35d9346cafd8795ef4b35.jpg)
(要塞の跡です。埋まってしまっています)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/4d/dd/efd732725b8712af5e2a5d6d7b3a0bb5.jpg)
(塹壕の跡でしょうか)
1904年11月26日、乃木希典率いる帝国陸軍第三軍は、中村覚少将を指揮官とする白襷隊を組織して夜襲を計画します。第三回旅順総攻撃です。
この作戦の目標となったのが、この松樹山第四砲台です。
しかし、この奇襲攻撃は失敗に終わります。
約2,600名もの戦死者を出し、第三軍は大損害を受けてしまいます。
味方を識別するために掛けていた白襷が敵軍の探照灯照射によって反射し、これが目立ってしまったためとされています。
この作戦失敗により、第三回総攻撃の当初の主要目標攻撃は頓挫することになりました。
乃木希典は二〇三高地に攻撃目標を切り替えることを決意します。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/34/78/f205be5f11a65e887ed1d7c265ebe964.jpg)
(大正5年に満州戦績保存会が設立した記念碑が残っています)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/3a/01/c391c719ed7293328f15fbd3e62c1e2a.jpg)
(正面から)
松樹山要塞跡のさらに先で、山道の奥まった場所にあるため、ほとんど人が入ってくることはないようです。
今の静かで穏やかな風景からは、当時の壮絶な激戦は想像もつきません。
クルマでも行くことができますので、訪れてみる価値はあると思います。