北京の旧通州城を訪問してみました。
通州は北京市内から東に十数キロの場所にあり、かつては京杭大運河の北の起点として栄えた古い城郭都市で、旧満洲や天津方面に至る交通の要衝です。
明の時代に建てられた城壁が域内を取り囲んでいましたが、今は残っていません。
この旧通州城は、1937年7月にかの通州事件が起きた場所です。
通州事件のあらましについては多くのサイトで詳しく説明されていますので、ここでは省略します。
通州事件の痕跡が何か残っているでしょうか。歩いて探してみました。

これは北門があった場所から南方向です。
30階を越えるような高層ビルが続々と建築中です。
この辺りは市内から地下鉄1号八通線と6号線が通っていて市内へのアクセスがよく、ベッドタウンとして発展を続けています。
北京市内では、こういう建築中の大型ビルはもはやほとんど見かけません。


京杭大運河の東側の川岸から旧城内を望みます。
日本のベッドタウンには見られない近代的な高層ビル群の壮観です。
いずれも新しそうなビルです。
北京市内で20階以上の見晴らしのよい場所にいくと、東側の彼方に高層ビルが集まっている場所が見えるのですが、これだったようです。
ネット上の情報によると、この高層ビルが立ち並ぶ一帯は「日本人処刑場」とされている場所に当たります。

この古写真の場所でしょうか。
1942年刊行の文献によると、この写真とともに、中国側の政府の警察、官憲等が「深夜邦人の襲撃をなし男女の非戦闘員を城壁外に拉致し惨殺惨殺をほしいままにしたところである」と説明されています。

この京杭大運河沿いに建つ白寺の塔(燃灯佛舍利塔)は、南北朝時代に建立されてから幾度の改修を経てその姿を示してきた通州のシンボル的な仏塔です。

通州事件の様子を伝える古写真にも写っています。



国鉄の通州駅です。
街の規模感からすると駅舎がずいぶん小さく、閑散としています。
ダイヤを調べたところ、ここと北京市内との往復は1日に11本しかありませんでした。ここは通過駅であって、住民は便利な地下鉄やバス、自家用車などを利用するのでしょう。

駅から真正面、北側に伸びる車駅路です。
日本人がたくさん住んでいた頃は駅の利用者は今より多かったはずです。
この通りは駅前商店街のような感じで賑わっていたのでしょうか。

一本路地裏に入ると、このような昔ながらの道幅の狭いレンガ造りの胡同のような住宅エリアが残っています。
おそらく通州事件時の城内はこのような街並みだったのではないかと思います。

通州駅の近くに兵舎がそのまま残っているという情報があったので、立ち寄ってみました。
日本が支配した時代は日本軍の兵舎だったはずです。


しかし、旧兵舎群は周囲を壁で囲まれており、1箇所しかない入口が閉鎖されていたので、中に入ることができませんでした。
壁の外から手を伸ばして撮影してみました。平屋建ての住宅が連なっている様子でした。


ここは日本軍守備隊があったとされる場所です。
今は中国兵器工業集団北京北方赤旗機電有限公司という会社が使っていました。

ここも周囲を高い壁で囲まれています。

ところどころ、その壁越しにただならぬ雰囲気の老建築の一部が見えました。広大な敷地ですが、かなりの数の当時の施設が残っていそうな雰囲気です。





願わくば一度入場してみたいものですが、難しそうです。
結局、通州事件の名残りを直接的にとどめる痕跡はほとんど見つかりませんでした。
殺されたのは自国民ではなく日本人や朝鮮人ですから、保護もされていません。
しかし、自分の足で歩いてみると、旧通州城の広さや関連施設の位置関係、北京や旧満洲との距離関係などは体感できました。
北京で暮らす日本人として、帰国後も記憶にとどめておこうと思います。
通州は北京市内から東に十数キロの場所にあり、かつては京杭大運河の北の起点として栄えた古い城郭都市で、旧満洲や天津方面に至る交通の要衝です。
明の時代に建てられた城壁が域内を取り囲んでいましたが、今は残っていません。
この旧通州城は、1937年7月にかの通州事件が起きた場所です。
通州事件のあらましについては多くのサイトで詳しく説明されていますので、ここでは省略します。
通州事件の痕跡が何か残っているでしょうか。歩いて探してみました。

これは北門があった場所から南方向です。
30階を越えるような高層ビルが続々と建築中です。
この辺りは市内から地下鉄1号八通線と6号線が通っていて市内へのアクセスがよく、ベッドタウンとして発展を続けています。
北京市内では、こういう建築中の大型ビルはもはやほとんど見かけません。


京杭大運河の東側の川岸から旧城内を望みます。
日本のベッドタウンには見られない近代的な高層ビル群の壮観です。
いずれも新しそうなビルです。
北京市内で20階以上の見晴らしのよい場所にいくと、東側の彼方に高層ビルが集まっている場所が見えるのですが、これだったようです。
ネット上の情報によると、この高層ビルが立ち並ぶ一帯は「日本人処刑場」とされている場所に当たります。

この古写真の場所でしょうか。
1942年刊行の文献によると、この写真とともに、中国側の政府の警察、官憲等が「深夜邦人の襲撃をなし男女の非戦闘員を城壁外に拉致し惨殺惨殺をほしいままにしたところである」と説明されています。

この京杭大運河沿いに建つ白寺の塔(燃灯佛舍利塔)は、南北朝時代に建立されてから幾度の改修を経てその姿を示してきた通州のシンボル的な仏塔です。

通州事件の様子を伝える古写真にも写っています。



国鉄の通州駅です。
街の規模感からすると駅舎がずいぶん小さく、閑散としています。
ダイヤを調べたところ、ここと北京市内との往復は1日に11本しかありませんでした。ここは通過駅であって、住民は便利な地下鉄やバス、自家用車などを利用するのでしょう。

駅から真正面、北側に伸びる車駅路です。
日本人がたくさん住んでいた頃は駅の利用者は今より多かったはずです。
この通りは駅前商店街のような感じで賑わっていたのでしょうか。

一本路地裏に入ると、このような昔ながらの道幅の狭いレンガ造りの胡同のような住宅エリアが残っています。
おそらく通州事件時の城内はこのような街並みだったのではないかと思います。

通州駅の近くに兵舎がそのまま残っているという情報があったので、立ち寄ってみました。
日本が支配した時代は日本軍の兵舎だったはずです。


しかし、旧兵舎群は周囲を壁で囲まれており、1箇所しかない入口が閉鎖されていたので、中に入ることができませんでした。
壁の外から手を伸ばして撮影してみました。平屋建ての住宅が連なっている様子でした。


ここは日本軍守備隊があったとされる場所です。
今は中国兵器工業集団北京北方赤旗機電有限公司という会社が使っていました。

ここも周囲を高い壁で囲まれています。

ところどころ、その壁越しにただならぬ雰囲気の老建築の一部が見えました。広大な敷地ですが、かなりの数の当時の施設が残っていそうな雰囲気です。





願わくば一度入場してみたいものですが、難しそうです。
結局、通州事件の名残りを直接的にとどめる痕跡はほとんど見つかりませんでした。
殺されたのは自国民ではなく日本人や朝鮮人ですから、保護もされていません。
しかし、自分の足で歩いてみると、旧通州城の広さや関連施設の位置関係、北京や旧満洲との距離関係などは体感できました。
北京で暮らす日本人として、帰国後も記憶にとどめておこうと思います。
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