天津の旧イギリス租界である五大道エリアを散策していると、偽満洲国領事館旧址というプレートを掲げる建築物に遭遇しました。


このレンガと木造を組み合わせた3階建ての豪華な建物です。
満洲国が天津に領事館を置いていたとは知りませんでした。


この建物が満洲国領事館として利用されたのは、1943年から満洲国崩壊までの2年間だったそうです。
建物自体は1920年代に建てられたようです。
その後1926年に中華民国政府総理と大統領を務めた顔回慶の住居になったと。顔回慶は民国政府の要職を退いた後、ここで1931年まで暮らしました。満洲事変の後に南京国民政府に指名されて駐米大使となり、ワシントンDCに転居しました。
その後、建物は大連永源船舶公司の李学孟に譲渡されました。
そして1943年、李学孟はこの建物を満州国に貸与し、満洲国領事館としての業務が始まりました。賃貸料金は3000元/月だったとか。
さらに戦後、満洲国が崩壊した後は、この建物はソ連に貸し出され、ソ連領事館となりました。
左右対称のデザインで、2階部分と3階部分にそれぞれバルコニーがあります。
3階部分には掲揚台がありますが、ここには満洲国の国旗が掲揚されていたのでしょうか。


このレンガと木造を組み合わせた3階建ての豪華な建物です。
満洲国が天津に領事館を置いていたとは知りませんでした。


この建物が満洲国領事館として利用されたのは、1943年から満洲国崩壊までの2年間だったそうです。
建物自体は1920年代に建てられたようです。
その後1926年に中華民国政府総理と大統領を務めた顔回慶の住居になったと。顔回慶は民国政府の要職を退いた後、ここで1931年まで暮らしました。満洲事変の後に南京国民政府に指名されて駐米大使となり、ワシントンDCに転居しました。
その後、建物は大連永源船舶公司の李学孟に譲渡されました。
そして1943年、李学孟はこの建物を満州国に貸与し、満洲国領事館としての業務が始まりました。賃貸料金は3000元/月だったとか。
さらに戦後、満洲国が崩壊した後は、この建物はソ連に貸し出され、ソ連領事館となりました。
左右対称のデザインで、2階部分と3階部分にそれぞれバルコニーがあります。
3階部分には掲揚台がありますが、ここには満洲国の国旗が掲揚されていたのでしょうか。

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