古賀家在釣魚台一直住到太平洋戰爭爆發才撤離,甚至現在島上仍保有古賀家開墾遺跡,這比保釣人士的〝台灣漁民傳統漁場〞更有〝使用〞意義。
1952年魚釣島鰹節工廠遺跡
鰹節工廠遺址
魚釣島唯一一座人工碼頭
南小島開墾遺跡
黃尾嶼古賀家的人工坡道
【目前釣魚台屬於日本的真正原因】
其實跟歷史上誰先發現或誰先佔都無關,太平洋戰爭末期釣魚台屬於琉球戰區,由第32軍負責防守。1945年4月1日美軍登陸沖繩島成立美國琉球軍政府,同年日本宣布無條件投降後旋即被以美軍為首的盟軍監管。根據一般命令第一號,琉球日軍應向美國太平洋艦隊總司令投降,自然美軍也就將釣魚台視為琉球的一部分予以接管。
歴史上、誰が最初に発見したか、あるいは誰が先に支配していたかということとは関係なく、太平洋戦争の末期、魚釣島は琉球戦区に組み入れられていた。牛島中将率いる大日本帝国陸軍の第32軍が、尖閣諸島の防衛を担当していた。
1945年4月1日、米軍は沖縄に上陸し、米国施政権下で、琉球国政府が成立する。
1945年4月12日久場島海域被日軍菊水特攻作戰攻擊的美軍佈雷艦林賽號
琉球日軍降書
同年、日本の無条件投降後、連合国軍の管轄下に入る。沖縄の日本軍は米軍に投降し、米軍は魚釣島を琉球の一部とみなして、接収したのである。
1946年1月29日的盟軍最高總司令部訓令第667號,明定將北緯30度以南之南西諸島,由日本領土分離。1950年8月4日美國琉球軍政府以布令第二十二號頒佈的「群島政府組織法」中,釣魚台隸屬八重山群島政府管轄。
1946年1月29日、連合国軍最高総司令部訓令第667号により、北緯30度より南の南西諸島が日本領土から分離された。
1950年8月4日、米国琉球軍政府は「群島政府組織法」の中で、釣魚島を八重山群島政府の管轄とした。
所以保釣人士提出戰後有台灣人在島上開工廠和國軍短暫停留;還有台灣漁民傳統漁場作為對釣魚台歸屬證據是很可笑的,因為當時釣魚台已經屬於美國的托管的島嶼。
魚釣島は我が領土と主張する台湾人たちは、(戦後、尖閣諸島はすぐにアメリカに接収されたので、)島に上がれたのはほんの短い期間に過ぎなかった。それなのに、「魚釣島に台湾漁民の伝統的な漁場がある」というのだから、大笑いだ。当時、魚釣島はアメリカの統治下にあったのだから、台湾の漁場であった期間は、ほとんどなかったはずだ。
而且台灣工人非法入境拆除沉船,被琉球境管官員驅離南小島後,按照該琉球官員的指導,向琉球政府申請入境許可才登陸開工的。保釣人士拿此作為對領土提出異議的根據可說自打嘴巴,等於承認釣魚台屬於琉球。
※以下、Wikipedia「尖閣諸島問題」より一部抜粋
1960年代に入っても尖閣諸島に大量の台湾人漁民が入域し、島に生息する海鳥とその卵を乱獲したほか、付近海域で密漁する事態は続発していた。1968年に行われた調査では台湾漁民による資源の収奪による激減ぶりが明らかになった。調査団は台湾人に食べられた大量の海鳥の屍骸や漁船だけでなく、南小島において台湾人60人が難破船を占拠しているのも確認している。
南小島の占拠者であるが、退去勧告を発し再度の入域を希望する場合には許可証を得るように指導した。彼らは解体作業を片付けるために翌年にかけて入域したが、この時は琉球列島高等弁務官の入域許可を得た合法的な行為であり、この措置に対し台湾の中華民国政府からの異議はなかった。
(転載おわり)
1968年10月6日の台湾「聯合報」は、「琉球は、我々が尖閣諸島で漁船作業をすることを禁止した」と報道している。
これはおそらく、1968年に不法に尖閣諸島に上陸した台湾漁60名が難破船を占拠しているのを琉球政府が発見、退去勧告を発したことを指すと思われる。この時、琉球政府は台湾漁民に対し、「再度の入域を希望する場合には許可証を得るように」と指導した。
このことを、「聯合報」は「琉球政府が、我が国の漁民が尖閣群島の魚釣島、南小島で漁をすることを禁じれば、これは深刻な問題だ」と報じている。「尖閣」「魚釣島」という日本名で呼んでいることや、尖閣諸島が琉球政府の管轄下にあることを認識した記事となっている。
10月6日的台灣“聯合報”在“琉球尖閣群島﹐禁我漁船作業”的一篇報導中說﹐“如果琉球政府禁止我國漁民進入尖閣群島的魚釣島、南小島,對於本省在北方海域作業的漁船,將造成嚴重妨礙。”
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