Senkaku Library 尖閣ライブラリー

尖閣諸島は日本の領土である動かぬ証拠

尖閣領有を閣議決定、沖縄県に編入

2012-11-18 | 魚釣島の歴史
<古賀辰四郎による開拓>

「尖閣諸島は日本固有の領土である」(茂木弘道・著)
(転載:史実を世界に発信する会HPより)
http://hassin.org/01/literature/takeshimasenkakuislands/1389

明治17(1884)年、福岡出身の古賀辰四郎は、尖閣諸島を巡航し、黄尾嶼(こうびしゅ)に上陸した。以後、石垣島を根拠地として、尖閣諸島でアホウドリ羽毛の採取や魚介類の採取に従事した。

明治18(1885)年、古賀辰四郎は、黄尾嶼の開拓許可を沖縄県令に願い出る。

明治18(1885)年1月、内務省は沖縄県に対し、「沖縄県と清国福州の間に散在する無人島」、すなわち尖閣諸島の調査を命じた。

沖縄県令 西村捨三は前記大城永保の調査に基づく報告を、県役人大沢兵吾より受け、同年9月22日、内務卿あてに「沖縄に属することにしても支障ないと考えるが、なお実地調査を行いたい」旨、上申した。同時に、大沢兵吾にさらなる実地調査を命じた。

同年10月、大沢は警部補他3名を伴い、出雲丸に乗り込み、実地調査を行った。
11月4日に詳細な報告書を提出した(出雲丸船長も報告書を提出している)。
これに基づき、西村県令は11月5日、再度、沖縄県への組み入れのための国標設置を、内務卿宛てに上申した。


明治17(1884)年,来自福岡的古賀辰四郎巡航此列嶼,在黄尾嶼上陸,之后,他以石垣島为根据地,在这些島上采取信天翁的羽毛和鱼貝類,18(1885)年,他向冲绳县令申請开发黄尾嶼的許可。

明治18(1885)年1月,内务省対沖縄県发出調査「沖縄県和清国福州之間散在的无人島」的命令,沖縄県令西村舍三将从石泽兵吾手中接到大城久保的調査報告后, 同年9月22日, 西村向内務卿表示, 将島嶼应归属于冲绳是没有問題的, 但还有需要遂行実地調査, 同时命令石泽兵吾到島嶼作実地調査。同年10月, 石泽在三位警部補的陪同之下, 坐着出云号船遂行実地調査, 在11月4日提出了詳細的報告, 出云号船長也提出了報告, 以这些資料为基础, 西村在11月5日再度向内務卿上申島嶼并入沖縄県建立国標的許可。

In 1884, Koga Tatsushiro from Fukuoka, Japan sailed around the Senkaku Islands and
landed on the island of Koubishu (known as Huangwei Yu Island by China), now known
as Kuba Island by Japan.

Shortly after his initial encounter, Koga began harvesting the albatross feathers, fish, and shells of the Senkaku Islands using Ishigaki Island as his base.

And, in 1885, Koga sent a letter to the governor of Okinawa requesting permission to
develop the island of Koubishu.

In January 1885, the Ministry of Home Affairs of Meiji Government ordered Okinawa
prefecture to conduct surveys on“the uninhabited islands scattered between Okinawa,
Japan and Fuzhou, Fujian, China,”that is, the Senkaku Islands.

After examining Osawa‟s reports made to Okinawa prefecture that were based on shiro‟s
aforementioned survey findings, Sutezo Nishimura, the then-governor of Okinawa, sent a letter on September 22 of that year to the minister of Home Affairs, stating that though the incorporation of the Senkaku Islands into the territory of Okinawa would not cause problems, he wished to conduct more field surveys.

Meanwhile, Nishimura ordered Osawa to conduct further field surveys.
In October of 1885, Osawa boarded the Izumomaru with an assistant police inspector and three other officials to oversee further field surveys.

On November 4, Osawa submitted detailed reports to Nishimura. In addition, the aptain of the Izumomaru also submitted his own report. Based on the reports, governor ishimura sent a second letter, dated November 5, to the minister of Home Affairs proposing the erection of national territorial markers on the islands to indicate their incorporation by Okinawa prefecture.



この時は、外務卿、井上馨の判断により、清国政府の猜疑を招く恐れがあるので、実地調査と報告のみにとどめ、国標建設は見送っている。
しかしそれは、清国の支配が尖閣諸島に及んでいたためではなく、清国を刺激するのを恐れた判断であった。



該縣令乃派遣石澤兵吾等五名官員搭乘大阪商船會社的出雲丸(輪),赴釣魚台實地勘查後提出「釣魚島外二山鳥嶼巡視取調 概略」報告書,及出雲丸船長林鶴松的「魚釣、久場、久米赤山鳥回航報告書」。

經數次調查確認釣魚台上面毫無界碑,官廳或居民等清朝統治的跡象認定為無主之地。
保釣人士引用1885年日本駁回沖繩縣在釣魚台設立國標的公文,宣稱是日本竊取中國領土的鐵證。其實這份資料是日本學者在尖閣諸島問題所提出,也不是什麼秘密,日本在1890年和1893年也駁回沖繩縣申請。

1894年以前日本對釣魚台始終在調查階段,直到1895年1月14日的日本內閣會議才決定「內務大臣請議,位於沖繩縣下八重山 群島西北,稱久場島、魚釣島等無人島,認應為沖繩縣所轄,在許可該縣知事之申請,建設標杭」正式將釣魚台劃入琉球所轄之日本領土之內。


1894年まで、日本は魚釣島の調査を続けてきた。
明治23(1890)年1月13日、尖閣付近の漁業が盛んに行われるようになってきたので、沖縄県知事から、水産取り締まりの必要もあり、八重山島役所の所轄に定めたいので、国標建設を行いたいと、内務大臣宛の上申書が提出された。

明治27(1894)年12月27日、内務大臣・外務大臣が協議の上、国標建設の件を閣議に提出することになり、尖閣諸島の日本領有を決定した。

明治28(1895)年1月14日の閣議で正式決定される。日清戦争終結の2カ月前のことであった。




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