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一年ちょっとの上海生活を終えて日本に帰ってきたjun☆の近況を世界中の友人や親戚にお伝えするブログです!

福島

2011-04-26 17:25:37 | Weblog
先日友人から電話で「長男のランドセル、要らないなら福島に持ってくから寄付して!」
と言われました。

今年中学生になった長男は間で上海日本人学校に通っていたせいもあって
ランドセルは比較的綺麗に使われていました。

思いがけない申し出に、長男のランドセルがお役に立つなら嬉しい!と
喜んで提供させてもらいました。

いわきと言えば
社宅時代の友人の一人でいわきに住んでいる友達がいます。
長男長女が同い年。

似たような性格でいつもべったりしていたわけでもないけど
なんか気の合う友達でした。
二人とも行動派で朝布団を干して夜暗くなるまで
長男たちを公園等で遊ばせて
外を飛び回っていました。
暗くなった社宅に帰ってきてお互いの家に冷たくなった布団を見つけて
「おぉー!○○ちゃんも頑張ってるな~」なんて思ったものです。

またクリスマスとかイベントごとに一緒に食事したり
社宅を離れた後も互いの家に泊まりあったり

本当に大切なママ友の一人です。

今ママ友の陰険なドラマをやってますが
子育てを通して出来た友人は私にとっては
本当にかけがえの無い存在です。

厳選されて数は減るけど年月をかけても残っている友達は
本当に蘭ちゃんスーちゃんじゃないけど
そういう感じです。

さてその福島の彼女。
しっかりものでひょうきんで
魅力的なママさんでした!


最初に電話した時は
震災明け3日くらいで
まだ気が張っていたのか
気丈にしていました。

震災後一ヶ月たったとき
いわきに大きな余震がありました。
そのときは
「一ヶ月間なんとか頑張ってきたけど
もう頑張れない。。。」と彼女らしくない弱音を始めて聞きました。
「今ここにお水のペットボトルが3本しかないの。今買いに
行こうと思って車に乗ってたら大きな余震が来て・・
もう買い物にもいけない。家の中も本震の時より酷くて
ぐちゃぐちゃなの。。。」

私に出来ること。。
とりあえず家に備蓄していたお水を持ってコンビニに行きました。
店員さんに「いわきに送りたい」と言うと
「ちょっと待ってください。届くか調べます。」とのこと。
なんとか送ることは出来ました。

早く元気な彼女に戻って欲しい。
私には遠くから心配することしか出来ません。

何とか頑張っています!

2011-04-26 16:32:45 | Weblog
4月から時間講師になり、数学を教えています。
10数年ぶりに教壇に立ち、生徒に教えるのが正直本当に怖かった・・

気が小さいくせに考えなしで、なんとなく次々に事を進める私。
記憶力が悪いからかな、根は楽天的なのか、はたまた責任感が無いのか・・

なんとなく出来そうと思って一歩踏み出しては、頭をが~~んとぶつける
この性格は40近くなっても改善されていないようです。

一ヶ月たってやっと通勤がなれました。
朝のラッシュ辛かった。

地震で電車が止まりそうになることもあったし。。。

授業も色々問題あって、へこむこともしばしば・・

時々起こる嬉しい出来事や、同期に先生方の励ましで
なんとか不登校にならずに今日までやってきました。

大学の時の親友で教師の経験がある子にも
大分愚痴って癒されたし

小学校時代の親友にも辛い辛いと聞いてもらったり・・

長男の幼稚園時代のママ友も長い愚痴を聞いてくれたり・・

岡山の恩師も度々の電話攻撃も嫌がらず、受けてくれたり・・


こういう風に書くと私は本当に沢山の人に助けられて生きているんだな~んて
しみじみ思います。

とにかくおなかに溜めない、溜められない性分で、
多くの人に迷惑かけながら、何とか日々を過ごしています。

神様も全面的に味方してくれているようで

子供が6時間の日にあわせて仕事がバッチリ入っていたり
子供が塾弁の日は仕事が休みだったり

私でも頑張れるようにかなりハードルを低くしてくれているようです。

それでもやっぱり
慣れるまで本当にしんどいです。

私はとにかく気が小さいのです。

毎回教壇に上がるたび心臓が飛び出そうです。

でも仕事を受けた以上生徒がいる以上
先生を辞めるわけには行かないし、

逆に長い年月を経てこうやってまた教師をさせてもらっていることも
感謝しています。

私の生徒に感謝と申し訳ない気持ちでいっぱいです。

なんとか自分なりに分かりやすい授業にしていきたい。

今はその気持ちでいっぱいです。

とにかくやっと前向きに考えられるようになりました。

一日一日頑張っていきます!!


地震

2011-03-30 17:46:13 | Weblog
ながらく更新しないでいたので、もしかしたら心配していただいてたら
ごめんなさい。
あの日から何とか元気にやってます。

物凄い揺れで絶対東京が直下型の地震だとおもったのに
震源地は遠い東北でした。

ですから、いったいどんな大きな地震だったか!と思っていたら
TVからあの恐ろしい津波の映像が流れて来ました。

正直に申しまして
私は東京で地震にあって
交通機関が麻痺して
上野からあるいて帰って
その後もひっきりなしに続く地震、
原発の事故の影響・・・

東京にいても
充分に怖かったです。

主人がボソッと
テレビを見ながら

「被災地被災地って言ってるけど
俺たちも被災してるんだけど
皆自覚無いよな・・」と言ってました。

どっかで、「骨折(東北)とつき指(東京)を一緒にするな!」と言う
コメントを見たけれど
でも
でも
私にとっては充分に怖い体験でした。
そしてそれが原発についてはこれから数年間続くみたいですね・・

本当に悪夢のようです。


とても辛い体験だったけど
生き方とか生活態度とか
根本的に見直すいい機会になりました。


遠方から心配してメールをくれた友達。
本当に嬉しかった。

逆にご近所さんからあまりメールが来なかったので
今までの自分の生き方を反省しています。

今回も私が留守のときに地震が起こったので
子供たちに会えるまで凄く凄く心配したんだけど

電車も止まって2時間歩きながら
親や親戚が近くにいないのは本当に不安だ・・
と考えていました。

せめて、いつも親しく親戚にように付き合っている
友達がいるなら
もう少し楽観的に考えられるかもしれない・・

私は基本めんどくさがりです。
きっと子供がいなければもっと人付き合いが億劫な性格だと思う。

我侭なそんな自分の生き方を反省して
もっと地域や周りの人のために動けるような人間でなければ
だめだなとひたすら自己反省・・

でもそんな中、いつも悪口ばかり言ってる
旦那からひっきりなしに連絡が入り、
岡山の母からも何度も電話を貰って

自分を大事に思ってくれている人がいるんだ!
と改めて実感出来たりしました。
本当に大切な人は誰か、
どういう生き方をすれば良いのか
そんなことを改めて考えさせられたのでした。

本当に情けない私です。

今も避難所暮らしの方や原発から近くで不安の中過ごされている方が
沢山いらっしゃるのに・・

一日も早く原発事故が収束し、
被災地が復興されることを願わずにはいられません。




2分の1成人式の続き

2011-02-18 19:57:07 | Weblog
3歳
私は怒ってばかりだったかも
トイレトレーニングでもイライラしてしまって
本当にかわいそうなことをしたと後悔。
正直あんまり覚えてないです
三人お風呂に入れるのは本当に大変だったなぁ。

4歳
入園。幼稚園ではいつも一番怖い先生に当たっていたのに
全然平気だったのは、母ちゃんが怖かったから?!
この頃から髪の毛も生えそろって本当にかわゆくなってきました。
お兄ちゃんと一緒に相変わらず元気に遊び回っていましたね~~
母は幼稚園の送り迎えと次男の育児に疲れはて、
この頃育児ノイローゼぽかったなぁ。
私にとっては社宅のお付き合いも上手く行かなくなってとても辛い時期でした。

5歳
お父さんが上海へお仕事で行っちゃって単身赴任。それと同時に
社宅が廃止されるためマンション購入。
激動の年でした。
長女は新しい幼稚園でも持ち前の明るさですぐにお友達を作ってくれて
母も一気にお友達が増えて助かりました。
新しいマンションでの生活は本当に楽しくて
パパがいない分家事は本当に手抜きでお友達と夕飯を食べたり
色々遊びまわって充実してました

6歳
年長さん、とっても頑張ってました。
通ってた幼稚園はかなり勉強熱心で漢字や論語などなどいっぱいやらされてましたね。
私はただ一番近いと言う理由で選んだんだけどね。
カルタ大会で活躍したことも懐かしい思い出です。
この頃は良くホームパーティも開いてました。
私も若かったなぁ。

7歳
一年生。入学してすぐにパパが上海に来て欲しいといい始めました。
折角新しい学校に入ったと言うのに~~。
少し慣れるまでいてから引っ越すことに。
一年生の3学期から上海の日本人学校に転校しました。

8歳
上海生活。子供たちは本当にエンジョイしていました。
マンションには大浴場もプールもあり、友達と毎日のように
大浴場に行ってました。
長女はこの利点を生かして上海にいた1年ちょっとで
すっかりスイミングの腕は上がりました。
日本人学校では始業式のとき1500人の全校生徒の前で
発表するという大役も果たせました。

9歳
短い海外生活を終え、日本に帰ってきました。
持ち前の性格であっという間に日本の学校にもなれ
男子も女子も関係なく仲良しグループで
色々なイベントを考えて本当にエンジョイしていました。
担任の先生から「思いやりもあるし、適度に人のお世話も出来るし
どういう風に育てたんですか?」と言うありがたいお言葉を受けました。
私には彼女に辛い思いをさせたという気持ちしかなかったので
言葉に詰まってしまいました。
いつの間にか本当にいい子に育ってくれていました。

10歳
英検5級受験しました。見事合格!頑張りました。
彼女のどうしてもと言う願いから塾通いを始めました。
お兄ちゃんみたいに塾に通いたかったようです。
成績はいまいちだけどやる気はあります。
私はやっとお兄ちゃんの受験がすんだと言うのに相変わらず塾弁を作るのに忙しいです

そうそう幼稚園の時はヨウレンキンにめっぽう弱くて
たぶん6回くらいはヨウレンキンになりました。
それ以外は元気で軟弱なうちのこの中では唯一学校をあまり休まない子です。
(それでも、年イチくらいは休みますが)

あっという間の10年間。
とっても優しいかわいい娘です。
大事な大事なあなた。
生まれてきてくれてありがとう

2分の1成人式

2011-02-18 17:14:36 | Weblog
最近は10才に学校で2分の1成人式と言うものをやるみたいです。

長男が十歳の時は上海にいて
日本人学校ではその年は2分の1成人式はやらないことになっていたので

今年長女で初めて経験しました。


長女の学年は何の行事をやらせてもいつもまとまっており、
きちんとできるのでみていて安心するのですが
今回も可愛い寸劇を交え
誕生から未来の夢までを学年合同で演じてくれました。

皆で合奏したアフリカンシンフォニーの完成度は高くて
胸にぐっと来るものがあり危うく泣いてしまうところでした。

最後にみんなで合唱。
これにはノックアウト。
悔しいけど鼻をすすりながら聞きました。

なんかね本当にまじめに練習したんだなって伝わってくるから。

良かったです。


さて
まゆぼーちゃんのマネをして
ちょっと長女の10年間を思い出してみようと思います。

この日記にも出番が少なくちょっと影が薄い彼女。

真ん中ゆえ、ほっとかれがちなので
いい機会なのでちゃんと彼女のことも考えましょう!


0歳
3552g
でっかい女の子でした。
生まれてしばらくの間、片目が開かなくて
とても心配していました。
看護婦さんに相談したら
「大丈夫。きっと目が大きくなるよ。」と言われ
本当に大きなお目目の女の子になりました。

1歳まで
2歳違いのお兄ちゃんの色々いたずらされてました。
ちょっと目を離した隙に彼女のおなかの上に兄が垂直に立っていたり
彼女の口からハンガーがつるされていたり
今考えると良く無事に大きくなってくれたと思います。

11ヶ月で歩き
1歳前後でしゃべり始めた時には
マンマンマンマン・・・・と
凄い速さで連呼して「どっかおかしくなったんじゃないか?」と私たちを驚かせ。
お兄ちゃんを抱っこするとサルのように
はをむき出して起こる姿にまた両親で顔を見合わせて驚かされ・・・

本当にユニークな赤ちゃんでした~~。
私がとても怒って泣きじゃくりながら寝た時は
ウックウックが止まらず
心配になってひまわり(東京都の小児科の電話案内)に電話をかけたりしたこともあったなぁ。

書くと思い出すもんですね。

2歳のお兄ちゃんは毎日外遊び
赤ちゃんの長女はまだ首も据わらぬうちから
おんぶでした。
毎回私の背中にミルクを吐くのが常。

不思議なことに子供の吐いた物も
ウンチもちっとも汚いと思わなかったなぁ。

彼女が2歳前後のときは
お兄ちゃんの友達と毎日毎日暗くなるまで遊んでました。
まるで男の子のように元気に手を振って歩き回っていた姿を懐かしく思い出します。
ブランコが大好きで飽きずに何時間ものってたなぁ~~

この頃しっかり動き回ったせいか
長女は本当にとても運動神経がよくなりました。

そして2歳の時弟が生まれたんだよね~~


本当にかわいそうだったな。
私はおにいちゃんの入園と小さな弟の誕生に振り回されて
ほとんど長女にかまわなくなりました。

小さなおねえちゃんは一生懸命にお手伝いをして
お母さんを助けてくれたのに

私はイライラして彼女に辛く当たってばかりだった。
なんだか思い出しても泣けてくる~~。

実は彼女と私は兄弟関係が同じなのです。
私も兄と弟がいて、弟が生まれたときのことは今でも覚えています。

すごくさみしかった。


気持ちが分かるだけになんか本当にこの頃の彼女のことを思い出すのはつらいです。
てかこれから数年はずっとそうかも。。

思ったより長くなりそうなので
続く・・・

決定

2011-02-15 09:53:24 | Weblog
長男は都立中学に進学することに決めました。

それと同時に私の心も変な呪縛から解き放たれて穏やかになりました。

私の子育ての理論は
人に左右されてころころ変わるのだけど
基本は

「その子をそのまま伸ばすお手伝いをする」と言うことです。

子供は私の子であって私の子ではない。
たまたま神様からお預かりして家に生まれて来てくれた、
それぞれに個性を持った
一人の大事な存在です。


時にそれを忘れて
自分の望みを押し付けちゃうけど

本当はそう思ってます。

雛菊の種からは雛菊しか咲かないのに、
バラを咲かせようと思っても
無理だもんね。

どんなに高級な肥料を与えてもやっぱり雛菊しか咲かない。

分かっていても
気がつかないうちに無理を押し付けちゃうのが
親ってもんです。

観葉植物や、メダカの飼育をして一番思うのは
手をかけすぎると
ダメにする
と言うこと。

足りないくらいが調度いい。
水をやりすぎたり
えさをやりすぎると
取り返しのつかないことになってしまう。

根が腐っては
もうどうしようもないのです。


分かっているのに
大事な存在だからこそ
気になって
いじくってしまう。

親は
そのこの子のことを理解してあげる
それが一番大事な仕事。

出来れば手を出さず
ただ見守る。

それで良いとは分かっているのですが。


本当は
子供たち一人ひとり
本当にやりたいと思うことに
チャレンジして欲しい。


大人の目からみて
馬鹿だと思うことでも
なんでもやらせてあげたいって

本当は思っています。

とにかく受験受験ってなってるときは
なんだか魔法にかかっているみたいだった。

私は私。
息子は息子。

違う人格。

そんな当たり前のこと
忘れてました。


さあ、これからまた新たな親業の始まりですね☆

有終の美

2011-02-09 09:39:04 | Weblog
今日は都立中高一貫校の合格発表でした。
昨日次男がサッカーで突き指をしたので朝一で病院へ。
9時の発表は見れなかったけど、
あまり期待しないで今パソコンで見たら
ありました~~~!

競争率8.6倍でした。
凄いです!!


よかった~~~。


さて、ここからが問題です。

私立のスパルタ学校に行くか
公立中高一貫に行くか~~~?!

悩めるだけ幸せですね

長い長い厳しい冬の後

雪の東京に

家に春がやってきました~~~






果報は寝て待て

2011-02-06 06:29:08 | Weblog
絶望的な記事の後
長らくお待たせいたしました。

2月2日のあの日、第一志望に落ちた息子は疲れと絶望感からふて寝しておりました。
2日の試験はその日に合格発表があるため
私は一日に2回も合格発表を見に行かねばなりませんでした。
第一志望も2日の学校も偏差値はあまり違わないので
2日の学校もきっと・・・なんて思いながら重い足取りで何とか学校にたどり着きました。

いよいよ掲示板が掲げられます。
そのとき息子の番号が、
ば~~ん

と目に入ってきました。
一瞬の出来事でした。

正直自分でも信じられないくらい大きな声で
「ある!!」

と飛び上がって叫んでいました。

こんなに嬉しいことがあるんだ~~。
としみじみ実感した瞬間でした。


すぐに息子に電話するとまだぐっすり眠っていた彼は
「どっちに合格したの?!」と寝ぼけて答えてました。

まだ第一志望に未練があって繰り上げ合格を心待ちにしていたのです。
それを聞いて少し心が痛みましたが
とりあえず最悪の状況からは逃れられました。

一応やってきた受験勉強が報われた瞬間でした。


その後も3日4日と受験をこなし、
その間も入学手続き等でバタバタと過ごしておりました。


まだ結果が出ていない学校もあるのでもう少し落ち着きませんが
試験も無事元気に受けることが出来たし、
なんだかホッとしております。


心配してこのブログを訪れてくれていた皆様、ホントにありがとうございました。

なんとか桜咲きました。

結果

2011-02-02 09:42:37 | Weblog
なかった…
何度みてもなかった…
これが現実です。
不思議と冷静。
さぁ、どう息子に伝えようか…

まだまだ苦しい戦いは続きそうです…

長く苦しい

2011-02-01 09:44:36 | Weblog
試験の待ち時間です。
あの子の苦手な算数。どうか落ち着いて凡ミスを無くして、次の得意な社会に繋いでほしい。
私はじっと黙ってみてられないので、実況中継して気持ちを落ち着かせています。
長く感じる待ち時間。この子が生まれた時から思い出して、まずはここまで大きくなって、こうやって受験出来たことに感謝です。

小さく生まれたこの子が初めて抱っこした時にした、ちいさなあくびかわいかったな。

まずは今ここで心配させて貰えることに感謝します。