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素材抜粋-アメリカがおかしくなっている エンロンとワ―ルドコム破綻の衝撃 大島晴行+矢島敦視著

2011年01月23日 | 読書
素材抜粋
2004/08/24


アメリカがおかしくなっている
エンロンとワ―ルドコム破綻の衝撃

大島晴行+矢島敦視著
NHK出版 2002年




 MBAを取得した人たちはアソシェイトプログラムというエリート専門のコースをとる。その際、繰り返し教わるのがこのcorrelationについてだったというのだ。デリバティブの取引はさまざまなリスクを減らしながら、いかにエンロンが設ける仕組みを考え出せるかが勝負のポイントである。その仕組みを考えるときに、ひとつの商品やひとつの相手とだけの取引を考えていては駄目で、さまざまな商品同士のcorrelation(相関関係)はどうなっているのか、時間ごとの相関関係がどうなっているのか、そこに関わる相手先同士の相関関係がどうなっているのか……。そうしたさまざまな要素の相関関係を考えていけば、必ずエンロンが収益を生み出す仕組みを考えられるというのだ。


 そのときエンロンのエリートたちが作り出した新しいキーワードがあった。「アセット・ライト(asset light)」、つまり「資産を持たない」経営こそが最先端の新しい経営だというものだ。もともと電力が規制産業だった時期には、巨大な設備をもつことがそのまま企業の規模を表していた。しかし、規制緩和が進んだ電力市場でデリバティブの取引をするのに巨大な設備は必要ない。逆に、エリートたちが考え出すデリバティブの取引自体がエンロンを成長させるとして、マーケットが企業の収益性を見るときのひとつの尺度であるROA(総資産利益率=利益を総資産で除したもの)がよくなるということを売り文句にしたビジネスモデルだった。


 ビジネススクールは、人はなぜ学ぶのかといった七面倒くさい問題はさておいて、いきなりケーススタディを通じて技能を向上させることに特化している。皆、ここできちんと技能を向上させて早く会社に戻らなければならないんからだ。皆、忙しいのだ。しかしそうである限り、そこで学んだ人たちは、目前の問題を解決するためには、どうしたって手段を選ばずに目的を達成しようとする。手段を選ばなければ企業倫理の王道から道を外すことも起きてくるだろう。言い換えれば、企業の不正行為は、こうしたビジネススクールでの教育のあり方の当然の帰結として、いわば起こるべくして起きた側面もあるのだ。企業倫理の問題は、ビジネススクールが一生懸命教えてきたこと、すなわち企業の利益を極大化するというテーマと、本質的に相容れない。ビジネススクールは、「さておいて」いた問題を教育の対象にしない限り、企業倫理問題を教えることは本質的にできないだろう。そこを素通りして、「今度コーポレート・ガバナンスもやりますから」と、あっけらかんとすぐさま対応するところがアメリカらしいが、それは通らない。


 ストックオプションを全社員に与えることによって、エンロン株が値上がりし続けることが、全社員共通の利益となった。みんなが運命共同体の一員となったのである。不正に異議を唱えることはエンロン株の値下がりに直結するため、仮に不正経理が行われていたことに気づいても、それを指摘することがはばかれるという構図が出来上がった。


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【投稿者コメント】
MBAのまやかしが明らかになったということだろう。

素材抜粋-市場対国家  世界を作り変える歴史的攻防 ダニエル・ヤーギン:ジョゼフ・スタニスロー著

2011年01月22日 | 読書
素材抜粋
平成16年5月1日
OPM 研究会



市場対国家
世界を作り変える歴史的攻防

ダニエル・ヤーギン:ジョゼフ・スタニスロー著
山岡 洋一訳
日本経済新聞社 1998年






日本の読者へ

 『市場対国家』は、「考え方」の変化が極めて大きな力をもちうると論じている。


 そのような世界では、日本の旧来の体制は、これまでどれほど効率的ではあったとしても、うまくは機能しないだろう。政府が経済を指導する体制では、世界市場の現実には対応できない。意思決定を分散しなければならない。


はじめに――フロンティアにて

 ハーバード大学のケインズ流「新経済学」は1960年代、ケネディ政権とジョンソン政権で圧倒的な力を持っていたが、90年代に世界的に影響力を誇っているのは、シカゴ大学の自由市場派である。


 アメリカではリベラル派 リベラリズムとは、政府が経済に介入して積極的な役割を果たすべきであり、経済での政府の関与と責任を拡大するべきだとする立場を意味する。ところが、アメリカ以外の各国では、「自由主義
リベラリズム」はほぼ正反対の立場を意味している。


 世界を支配しているのは、考え方以外にないといえるほどである。
                                  ケインズ   


 「自由主義」は国の役割を減らし、個人の自由、経済面の自由を最大限に認め、市場を最大限に活用し、意思決定の分散を図るよう主張している。ジョン・ロック、アダム・スミス、ジョン・スチュアート・ミルらの思想家の流れをくむ考え方である。


第1章 栄光の30年間――ヨーロッパの混合経済

 第二次世界大戦が終わったとき、ヨーロッパでも世界の大部分の地域でも、今日では創造が難しいほど、資本主義は信頼を失っていた。


 第二次大戦の直後、労働党は官制高地を制圧するために、当時、国内のエネルギーの90パ-セントをまかない、多数の中小企業に分かれていた石炭産業を国有化した。


第2章 巨大さという問題――アメリカの規制型資本主義

 有名な著書のタイトル、(ルイス・ブランダイスの)『他人のカネ――銀行はそれをいかに使うか』がすべてを物語っている。


 ブランダイスの著書『他人のカネ』にしたがって、ロ-ズベルト大統領は、「他人のカネを扱うものは、他人のためにつくす受託者であるべき」だという原則を打ち立てた。


第3章 神がかりの修道士――イギリスの市場革命

 マーガレット・サッチャーとキース・ジョセフが追求していてたのは、合意に基づく政治ではなく、信念に基づく政治である。


 本人によれば、集産主義の「流れを逆転させる」キャンペインである。混合経済を支えている合意のすべてに兆戦しはじめたのだ。ケインズ流の需要管理によって完全雇用を目指すのではなく、通貨供給量を安定させてインフレを抑制することに焦点をあてるべきだという点が、主張の中心であった。


 考え方を変えた点で決定的だったのは、完全雇用というケインズ主義の目標を基本的な誤りだとして拒否したことである。


 ゆりかごから墓場までの「甘やかし」を特徴とする「乳母国家」を捨て、リスクと報酬という「自由企業」の文化の厳しさを取り入れることを望んでいた。政治とは「哲学を行動に移したものだ」というエドマンド・バークの言葉を好んで引用した。


 何年にもわたって、サッチャリズムはほとんどあらゆるところで、疫病神のように思われていた。しかし1990年代には、サッチャーの影響で、世界各国の新しい経済政策が確立されるようになっていった。


 「いまでは、法のもとでの自由と企業活動の方が、産業と国民に対する政府の大がかりな介入より良いことが理解されている。新しい労働党は、社会主義がなんであり、どのように失敗したかを理解しており、まず富を創造しなければ再配分もできないことを理解している。社会主義は、富の創造の前に、再配分からはじめる」
                                サッチャー


 「そう、出発点は考え方、信念だった」。しばらく間をおいて、(サッチャーは)こう続けた。「そう、信念を出発点にしなければならない。すべては信念からはじまるのだ」


第4章 信認の危機――世界的な批判


 モデルと呼ぶこともできるし、偶像と呼ぶこともできる。20世紀を魅了した魔法だともいえる。20世紀の歴史のかなりの部分は、マルクス主義によって形作られ、マルクス主義に魅了された人たちとそれを拒否した人たちの間の戦いによって、そして、選択の余地もなくこの戦いに巻き込まれた人たちによって形作られてきたからである。


 わたしが学生に強調したのは、見えざる手が隠れた手よりはるかに強力なことだ。命令や管理や計画がなくても、ものごとは見事に組織化されて進んでいく。これが経済学者の間で共通した見方になっている。ハイエクが残した教訓だ。


第5章 奇跡を越えて――アジアの勃興


 55年体制によって、日本はおそるべき競争力をつけてきたし、当初には考えられもしなかったほど生活水準が高まった。しかし、国が市場を「指導」した時代、通産省が「管制高地」そのものであった時代はあきらかに、はるか以前に終わっている。将来はどうなるのだろうか。国と市場の戦いが、今後何年かにわたって、日本の社会にとって中心的な課題になるだろう。この戦いは、政治の場で繰り広げられるだけにとどまらず、国民の心をめぐっても繰り広げられることになるだろう。


第8章 許認可支配の後に――インドの覚醒


 インド政府は、ソ連型の中央計画経済にならって重工業に資源を集中させようとした。決定的に誤っていたのは、投資の生産性や製品の質や価値ではなく、投資そのものを重視した点である。


 この結果できあがった経済体制には、自滅をもたらす三つの特徴があった。第一の特徴は、「許認可による支配」であり、生産、投資、貿易のすべての段階を複雑で非合理的、ほとんど不可解といえるほどの管理と認可で支配する制度である。・・・・・・・。
 第二の特徴は、企業の国有を強力に志向した点である。・・・・・・・。
 自滅をもたらす第三の特徴は、貿易を拒否したことである。


 インディラ・ガンディーは、父、ネルーがしいた経済政策路線をほとんど変えようとしなかった。


 何十年もの間、インドは、最初は日本で起こり、その後、虎と呼ばれるようになったアジアの諸国で起こった「経済の奇跡」を無視してきた。


 チダムバラムは言う。「サッチャ-政権の動きには仰天し、目を開かされた。」


第9章 ルールにのっとったゲーム――中南米の新しい潮流


 30年近く後の1980年代半ばになって、ゴニは別のシナリオを書くことになる。いわゆる「ショック療法」のシナリオである。ただし映画のためではない。国家主導型経済から市場経済への大規模で急激な(ほとんど一夜といえるほどの)移行計画のシナリオである。ショック療法は、いまでは世界各国で実施されてきたが、その発祥の地は中南米であり、ゴニは原作者と呼ぶにふさわしい。しかも、きわめて短期間のうちに書いている。締め切りを課したのは映画会社ではない。迫り来る危機だった。


 1990年代後半、こうしたモデルは崩壊しつつある。代わりとなるシステムが確立したとはいえ、基本的な方向は明白になっている。市場を自由化し、政府の役割を縮小して見直す。民営化によって生産から撤退し、政府支出を削減してインフレを抑制し、関税を引き下げ、政府はこれまでの活動を手放す。この過程で、かっては軍事独裁が当たり前だと思われていたこの地域の大部分の国で、民主化がめざましく進展している。


 中南米諸国に広まっていた国家統制主義政策は、「ディペンデンシア」、すなわち従属理論から多大な影響を受けている。従属理論は輸入障壁の構築、閉鎖経済、市場の軽視など、国による支配を根拠づける理論である。1940年代末から80年代まで、この従属理論が中南米の常識となっていた。


 ショック療法を実施する決意を固めたカバロ経済相は、さまざまな領域で、ただちに行動を開始した。第一に、貿易障壁を取り払い、改革を導入し、競争と輸出を促進した。第二に、アルゼンチン通貨をアメリカ・ドルに連動させた。通貨兌換法によって、中央銀行がアウストラルを固定レートでアメリカ・ドルに交換することを義務付けている。これによって、通常の国家主権の一部が明確に放棄された。


 カルドゾ大統領の行動は、中南米諸国の新自由主義の旗手のようにみえるが、大統領の発言には、そうした面はみられない。その主張は、いまだに社会民主主義者のもので、貧困の撲滅と平等の実現を政策目標としている。しかし現在、モデルとして掲げているのは、「規制された自由市場」と西欧型の混合経済である。従属理論は、世界経済の変化や技術進歩、競争の中で廃れていった。政府は、自信過剰になり、非効率になり、介入しすぎて、経済の問題を解決するのではなく、原因そのものになっていた。


 10年以上も前にショック療法を生み出したボリビアでは、最近、市場経済への移行に対する国民の支持を強めるために、最新の手法を開発した。1993年から97年までボリビアの大統領をつとめたゴンサロ・サンチェス・ロサダと改革チームは、各国の民営化の方式を検討し、違う方式をとることを決めた。エネルギーや通信などの主要な国有企業を売却するのはおなじだが、その方式が独特だ。アンデス山中の先住民が地主と小作人の間で作物を分配する際に使っている方法に注目し、民営化にその手法を取り入れたのだ。国有企業を売却する際、政府が入札方式で、戦略的パートナー(典型的には、その分野で経験豊富な外国企業のコンソーシアム)を選ぶ。パートナーは、50%の株式を所有し、経営権を握る。
 ボリビアが開発した手法では、残りの50%の株式を年金基金に譲渡し、その経営も民営化する。年金基金は、毎年度末に、民営化された企業からの収益を使って、65歳以上のボリビア国民すべてに配当を支払う。配当は、一人当たり250ドルという少額から始まったが、これは一人当たり国民所得の10%以上に相当する額だ。


 大統領は、この計画を民営化とは呼んでいない。民営化という言葉はあいまいで、政治面で否定的な意味合いが強いと考えたからだ。代わりに、サッチャ-首相や世界各国で民営化を推進した人びとが避けてきた言葉、「資本化」を採用した。この言葉は、市場の自由化と福祉の著しい向上が両立することをあらわそうとしている。年金基金を活用するのは、ふたつの基本目標を達成するためだ。第一は、経済成長の成果を幅広い国民に分配することだ。国民が企業の株を保有し、その業績から直接、利益を得るのである。第二は正統性の問題だ。この方式では、企業のかなりの部分が「国民」の手に残る。


 市場が立て直されれば、政府の再発見が課題になるだろう。経済を管理し、国民を苦しめる政府ではなく、公正な規制者として適切な役割を果たし、国民の二ーズに応える能力のある政府だ。このシナリオは、まだ完成していない。



第10章 市場行きの切符――共産主義後の旅路


 1991年11月、ガイダルは副首相兼経済財政相に就任した。就任の以前にも、きわめて重要な任務を果たしている。91年10月、エリツィン大統領が大規模で急速な経済改革を進める基本的な意思を表明した演説を起草したのだ。「小さな段階を踏んでいく時期は終わった。改革を一気に進める突破口が必要になっている」。そして、8月のクーデター未遂事件をこう総括した。「われわれは政治の自由を守った。つぎは経済に自由を与えなければならない。官僚制度の圧力を取り払い、事業活動と企業活動の自由に対するすべての障壁を取り除き、国民が労働の成果を受け取れるようにしなければならない」


 ガイダル、チュバイスらにとって、民営化には中心的な目標がひとつあった。チュバイスはこれを「幅広い民間所有者層」を作り出すことだと表現している。言い換えれば、改革路線と共産主義体制の終焉を「逆戻りできないものにする」ことである。要するに、資産を所有する人たちを大量に作り出し、これらの人たちが市場経済に利害関係を持つようにして、経営管理者、官僚、旧共産党幹部、怒れる民族主義者、将兵、懐古派らの対抗勢力になるようにすることが目標であった。この目標が民営化の過程全体の原動力になり、反対や障害を乗り越える粘り強さを改革派に与える力になった。


 ロシアは民営化にあたって、欧米型の慎重な方法をとることはできない。一件づつ慎重に評価し、事業再編を進めた後に民営化するような時間はない。慎重に進めていけば、22世紀になってもまだ民営化が終わっておらず、官僚の支配が続き、経済は停滞から抜け出せていないだろう。それまでの間、共産主義への逆戻りをこころみる余地がいくらでもあることになろう。


 連帯(ポーランド)は経済顧問として、中南米での活躍で国際的に高い評価を得ているハーバード大学のジェフリー・サックス教授を迎えていた。・・・・・・・。数時間にわたる白熱した議論のすえ、教授は単純明快にこう勧めた。やるしかない、権力を握るべきだと、連帯の指導者は大きなため息をついた。「今日の議論には、心から落胆している。教授の言われることは正しいと思うからだ」


 連帯の指導部はサックス教授と同僚のデービッド・リプトン教授に、経済を一気に変革する総合的な計画の概要を書くよう依頼した。「概要は、『この計画で、ポーランドは市場経済に飛躍する』という言葉からはじめてほしい。改革は急速に進めたい。それが唯一の道だからだ」。アメリカに帰って、リプトン教授とふたりで計画を書き上げようとサックス教授は答えた。いや、そんな時間はない、明日の朝までに必要なのだと、連帯の指導部はいう。ふたりはその夜、徹夜で概要を書きあげ、翌日、グダニスクに行って連帯の幹部に会い、説明した。


 1989年8月、タデウシュ・マゾビエツキが非共産勢力からのはじめての首相に選任された。首相はどのような経済政策をとるべきかはわかっていなかったが、急速に動くことを望んでいた。サックスとリプトンのふたりの教授が示したような計画を実行できる人材を求めていた。そして、「ポーランドのルードビッヒ・エアハルト」を探したと、首相は語る。
 マゾビエツキ首相は、ポーランドのエアハルトになる人物として、経済学者のレシェク・バルツェロビッチを選び出した。


 バルツェロビッチはこのときのために、20年にわたって準備を続けてきた。ニューヨーク市のセントジョーンズ大学で2年間、経済学を学んだ後、韓国と台湾の高度経済成長をもたらした要因を研究した。一時期、西ドイツに行って1948年のエアハルトの経済改革を研究している。・・・・・・・。中南米各国の安定化政策についても根気強く研究し、どのような政策が成功し、どのような政策が失敗したかを検討してきている。


 1978年からはワルシャワで、「バルツェロビッチ・グループ」と呼ばれるようになる研究グループを主宰し、社会主義の「問題」、ポーランド経済の改革の方法を長期にわたって研究してきた。財産権、経済における国の適切な役割、インフレーション、社会主義のほんとうの意味での特徴として浮かび上がってきた「不足」の問題など、基本的な問題に焦点を合わせてきた。


こうした研究の積み重ねで、バルツェロビッチは「斬新的な改革」はかならず失敗すると確信するようになる。広範囲な改革を急速に実施しなければ、経済の方向を変えられる「臨界量」には達しない。経済学者にはめずらしく、バルツェロビッチは社会心理学にも関心を持っていた。とくに、認知的不協和の理論に強く引かれている。経済改革にあたって認知的不協和が重要な要因になると説明している。「改革が段階的に実施される場合より、経済環境を抜本的に変化させるような改革が実施され、後戻りがきかないとみられた場合の方が、人びとが態度と行動を変える可能性が高くなる」


 第12章 遅れて起こった革命――アメリカの新たな均衡


 全米レベルで、政府が福祉に果たすべき役割がとくに重要な問題になるのは、高齢者福祉に対する責任の分野だと思える。今後、6~10年以内に、おそらく2005年ころには、社会保障基金は、破綻につながりかねない重大な危機に直面すると予想されている。この対策として、社会保障信託基金の一部を株式に投資すべきだという主張や、民営化し個人が管理する年金基金に振り返るべきだという主張が出され、議論されている。しかし、問題ははるかに深刻かもしれない。問題は財政の動向だけでなく、人口動態にかかわる根本的なトレンドにあるからだ。全人口に占める高齢者の比率が急速に上昇していくので、現行の賦課方式のもとでは、少ない労働人口で、多くの高齢者を支えなければならない。


第13章 信認の均衡――改革後の世界


 世界の各地域にはそれぞれ独自の課題があるとはいえ、国から市場への移行に関して共通の疑問がある。この移行は永続するものなのか、それとも一時的なものにとどまり、国と市場の境界を見直し、再調整する動きが起こって、政府の役割と責任がふたたび拡大するのだろうか。これはまさに、本書の締めくくりにふさわしい問題である。しかし、こうはいえる。人びとが信じるものと世界を解釈する方法、つまり人びとが受け入れる考え方と拒否する考え方が、今後、この問いへの答えがどうなるかを決める大きな要因になるだろう。


 市場の重視は、一部の人たちにとって信仰に近いものになっている。しかし、こういう人たちは少数派であり、現実を見つめて、いくつもの選択肢を比較検討した結果として、市場を重視する人の方がはるかに多い。シンガポ-ルの現代化の父というるリー・クアンユー上級相が、この点をうまくまとめている。市場を重視するようになったのはなぜかとの質問に、「共産主義は崩壊した。混合経済は失敗した。ほかになにがあるのか」と単純明快に答えているのだ。結果が重要である。市場重視の新しい合意は、それが生み出す結果によって判断されるだろう。


 以下にあげる五つの点が、市場に関する人びとの見方と判断を左右する要因になると思われる。

 成果を挙げているか
 公正さが保たれるか
 国のアイディンティティを維持できるか
 環境を保護できるか
 人口動態の問題を克服できるか


 しかし、民営化を支える要因には、別の強力なトレンドがある。世界的に、資本市場で根本からの変化が起こっており、所有権が分散してきているので、民営化がもっとも受け入れられやすくなるだろう。年金制度が変化しており、政府が勤労者から社会保障税を集めて高齢者に分配する賦課方式から、貯蓄を年金基金に積み立てていく積み立て方式に移行している。このため、民営化された企業は大部分、巨額の富を持つ一族や大物実業家によってではなく、老後に備えて蓄積された貯蓄によって所有されることになろう。年金基金が株式市場を通じて、あるいは直接に、民営化された企業に投資するようになる。したがって、民営化の正当性を支える根拠が、四半世紀前にはなかった点にまで拡大している。


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【投稿者コメント】
膨大な問題があり、そこそこには把握できないが、関心があるのはボリビアが開発した手法とバルツェロビッチの認知的不協和の理論とブランダイスの著書『他人のカネ』です。

素材抜粋-日本の社会保障 広井 良典著

2011年01月21日 | 読書
素材抜粋
2004/02/16



日本の社会保障

広井 良典著

岩波新書 2003年 第9冊







こうした視点で見ると、再び現在の日本における社会保障についての議論は、あまりにも表
層的であることを痛感せざるを得ない。現在政府の審議会などでさまざまな議論は行われてい
るが、医療保険は医療保険、年金は年金、という具合に、医療、福祉、年金等といった社会保
障の個別分野がバラバラに論じられ、全体としてどのような社会保障の姿を選びとるのか、と
いう議論やビジョンがほぼ不在の状況となっている。





いずれにしても、いま何よりも必要なのは、社会保障の全体を視野に入れた上で、医療、年
金、福祉といった各分野における真に望ましい「公私の役割分担」の姿を明らかにし、それら
を踏まえて、これから選びとるべき社会保障の全体像に関わる基本的な選択肢を設定し、議論
を深め、選びとっていくという作業に他ならない。





このような問題意識に立った上で、本書では、特に次の三つの点に留意しながら議論を展開
していきたい。

第一は、「原理に遡った考察」ということである。社会保障の問題は、考えていくと、自ず
と「公平、平等とは何をもって言えるか」、「個人の生活の保障において、国家が果たすべき役
割はどこまでか」といった哲学的とも言えるテーマに行き着かざるをえない。





幸か不幸か、経済成長による「パイの拡大」が当然の状況であった戦後の日本においては、
パイの拡大自体が多くを解決してくれたため、こうした問題を考えなくともそれなりに対応で
きた。





しかし経済が構造的な低成長期に入り、また高齢化が急速に進む中で、富の「再分配」のあ
り方、つまり「所与のパイをどう分けるか」が前面に問われるこれからの時代においては、こ
うした原理原則に立ち返った議論をしなければ、事態は収拾のつかない紛糾に陥るか、さもな
くばひたすら問題を先送りして将来世代に赤字やツケを回す、といったことになりかねない
(その兆しは既に現れている、とも言える)。だからこそ、対症療法的でない、原理に遡った
考察が何よりも必要なのである。





第二は、「社会保障と経済とのダイナミックな関係」への着目である。

第三は、「グローバルな視点」である。





一般に社会保障は、個人が保険料を出し合って集団でリスクに備える、という「リスクの分
散」を基本原理とする「社会保険」と、税を財源とした「所得の再分配」を基本とする「福祉
(公的扶助)」とにさしあたり分けることができる。





社会保障は、産業化による「共同体の解体」そして大量の都市労働者の発生という新しい状
況の中で、それまで(農村)共同体が果たしていた相互扶助的機能を、人為的なかたちで国家
が代替するものとして登場した、と言ってもよいだろう。





こうした草創期の社会保険(ドイツのそれ)は、産業化ないし開発に向けての、文字通り国
家の「産業政策」としての役割を担っていた、と言うことができ、多分に「パターナリスティ
ック(国家保護主義的)な」性格を帯びていたと見ることもできよう。





モデル








失業保険や年金保険を柱とする社会保障政策が、他でもなく「ニューディール政策」の一環
として、つまり、年金を通じて高齢者の、失業保険を通じて失業者の、購買力を付与するとい
う「有効需要創出政策」ないし購買力付与政策として行われたことは、紛れもなくこうした社
会保障のケインズ政策的機能を示している。





こうした点を考慮すると、日本の経験は、ある意味で、「後発国家における社会保障制度設
計のあり方」という点で、欧米先進諸国の経験にはない独特の意味を有するものとなっている。





ここではわが国の社会保障システムの生成や展開を、制度そのものを切り離して分析・評価
するのではなく、その背後にある経済社会システムとの相互依存的かつダイナミックな関係に
着目し、一体のものとして考察する、ということに留意したい。





その意味では、ここでの分析は、近代経済学の分野で活発になりつつある「比較制度分析」
あるいは「経済システムの進化」といった視点と問題意識を共有するものとなっている。





すなわち、当時の文書においてこうした年金制度創設の趣旨として挙げられているのは、
「労働者の短期移動防止と長期勤労奨励→労働力の保全増強と生産力の拡充」、「国民貯蓄=
資本蓄積への寄与」、「軍需インフレの解消」という点であり、まさに年金制度創設は戦時政策
の一環として機能していたのである。





国全体のゴールが戦争遂行から「経済成長」へと変わっただけで、いずれにしてもその強力
な手段の一つとして「国民皆保険」というシステムが位置づけられていたことには変りがない、
とも言える。





ここで日本は、一階に基礎年金、二階に厚生年金(所得比例部分)という形で、まさに普遍
主義モデル(均一給付の基礎年金)とドイツ型社会保険モデル(職域中心の報酬比例年金)と
をドッキングさせたことになる。しかも、両者は財源的にも融合しており、さらに、基礎年金
部分はその財源が「三分の一は税、三分の二は保険料」となっている。






ある意味で、「ドイツ型モデルから普遍主義モデルへ」の移行の途上にあるのがわが国の年
金制度と言えるだろう。





およそ社会保障システムというものは、インフォーマルな扶助関係(特に家族)が産業化の進
展により希薄化・解体していくのを、フォーマル(公的)な制度によって代替ないし補完してい
くことに基本的な機能を持つものと言える。





こうした意味で、現在の日本が社会保障制度改革において直面している問題は、欧米諸国の
場合のそれ以上に困難な面を持っている。そうであるがゆえに、場当たり的な対症療法や問題
の先送りに終始するのではなく、次章以下で考えていくように、原理原則に遡った、明確な理
念を伴った改革が求められているのである。





成熟化社会における社会保障制度は
第一に、「市場」をベースとしつつ、それを補完/修正する制度として、第二に「個人」を
基本的な単位としつつ、個人と個人の自覚的なネットワーキングを支援する制度として構築さ
れるべきであろう。これは今後の社会保障の設計にあたってのもっとも基本的な理念となるも
のである。





基礎年金はそうした“損得論”とは無縁な、純然たる所得再分配の制度として位置づけられ
るべきであるし、かつ、この部分については現在以上のしっかりとした保障がなされるべきで
ある(特に今後急速な増加が予想されるひとり暮らしの女性高齢者等について)。
一方、「年金の所得比例部分」については、基本的に「リスクの分散」としての性格(この
場合、長生きのリスク)をもつものであるから、まず「税」ではなく「保険」での対応とすべ
きである。





つまり、「高所得の者が(高い保険料を払った見返りとして)高い年金を得る」という、「貯
蓄」的な機能に主眼を置いた所得比例型の年金制度(厚生年金の二階建て部分)を、強制加入
の制度として国家が行う根拠は小さいのではないだろうか。





いま求められているのは、医療、年金、福祉にわたる社会保障の全体を視野に収めた上で、
各々の分野における公私の役割分担のあり方を明らかにしながら、社会保障全体の最終的な将
来像についての「基本的な選択肢」を示し、議論を深めていく作業に他ならない。





しかしこうした点、特に具体的な社会保障改革の方向にかかわる部分は、最終的には様々な
議論を通じて国民一人ひとりが選びとり、また政治過程を通じて合意形成や意思決定が行われ
ていくべきものであり、「絶対にこれが正しい」というものがある、という性格の問題ではな
い。



それは何よりも、社会保障全体の姿として、最終的に「公」的に保障されるのはどこまでで、
どこからは「私」ないし自助努力の領域に委ねられていくことになるのかについての、基本的
な将来像が示されていない(あるいは、そうした「選択」を問う議論自体が行われていない)
ことにあると筆者には思われる。





むしろ「原理・原則」に立ち返った、政府の果たすべき役割についての基本的な議論が必要
となっている。こうした認識を踏まえ、社会保障全体についての、最終的に目指すべき将来像
についての「選択肢」を明らかにし議論を深め意思決定をしていく作業が何よりも求められて
いる。





閉塞感の根本的な原因は何か? 個々に挙げればキリがないが、もっとも本質的には、日本
が今後迎えていく高齢化社会ないし成熟社会についての積極的な展望あるいはビジョンが見
えない、ということに尽きると思われる。



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【投稿者コメント】
厚生年金の報酬比例部分について国家が行う必然性はもはやなくなっている、時代は先を行っていると考える。




素材抜粋-定常型社会 新しい「豊かさ」の構想 広井 良典著  岩波新書 2001年

2011年01月20日 | 読書
素材抜粋
2004/02/11


定常型社会
新しい「豊かさ」の構想
広井 良典著 
岩波新書 2001年




 閉塞感が現在の日本社会をあらゆる局面において覆っている、ということはあらためて言うまでもないことだろう。そうした閉塞感の背景のひとつには、たとえば高齢化の中で年金制度が破綻するとか、医療費や介護の負担で経済が失速する等といった、社会保障制度の将来に対する不安というものがある。しかしより根底的には、戦後の、あるいは明治期以来の日本が一貫して追求してきた「(経済)成長」ないし「物質的な富の拡大」という目標がもはや目標として機能しなくなった今という時代において、それに代わる新たな目標や価値を日本社会がなお見出しえないでいる、というところに閉塞感の基本的な理由があるように思われる。


 では、私たちがこれから迎えようとしている社会あるいは時代は、いったいどのようなイメージのものとして描きうるのだろうか。ここで筆者が問題提起の意味を含めてまず提案したいのは、「定常型社会」という基本コンセプトである。


 「定常型社会」とは、さしあたり単純に述べるならば、「(経済)成長」ということを絶対的な目標としなくとも十分な豊かさが実現されていく社会ということであり、「ゼロ成長」社会といってもよい。これからの日本社会の本質は、まずもってこの「定常型社会」ということに集約されると筆者は考えている。


 もっと言うならば、「富の成長」に関わるのが、“経済”であり、「富の分配」に関わるのが“政治”だとすれば、端的に言えば戦後の日本には“政治”は事実上不要だったのである。「政治」が前面に出る唯一の舞台は安保や外交をめぐる論点に関してであり、内政つまり日本社会そのもののありように関するものではなかった。
 同時に、そうした時代にあっては、各人の富の拡大という“実利的な”現実が解決策となるから、たとえば「平等とは何か」「公平な社会とは何をもっていえるか」といった“原理・原則”そのものについての議論は、せいぜいアカデミズム内部での思弁的な議論にとどまるだけで、現実の政策や制度とリンクするようなことはなかったし、そうする必然性もなかったのである。


 しかしながら、いま求められているのは、「社会保障」をめぐる問題群と「環境」をめぐる問題群とを、経済システムとの関係において統合してとらえうるような新しい認識の枠組みであり、またそれらを踏まえた、これからの社会についての原理的な理念と具体的な政策の提示である。そうした理念と政策の全体が、「持続可能な福祉国家/福祉社会」としての定常型社会の構想にそのまま重なることとなる。


 ちなみに、現在では考えにくい点であるが、当時の文脈では、福祉国家という発想はあくまで「市場経済」ないし自由主義をベースにしつつ、それを政府が補完・修正するシステムという意味で、社会主義ないし共産主義に対抗する理念という意味合いをももっていた。


 つまり、「ケインズ政策」ということが、ヨーロッパの文脈ではそのまま社会保障や福祉国家の問題であったのに対し、日本の場合は「ケインズ政策すなわち“公共事業”」という図式が暗黙のうちに了解され続けてきた、と言えるのである。


 (a)「大きな政府」VS.「小さな政府」       ―福祉/社会保障政策の文脈
 (b)「成長(拡大)志向」VS.「環境(定常」志向) ―環境政策の文脈


 ヨーロッパの文脈では
  「大きな政府」派(社民系政党)―「環境」派(と結びつきやすい)
  「小さな政府」派(保守系政党)―「成長」派(と結びつきやすい)


 戦後ヨーロッパの場合、少なくとも70年代前後に至るまでは、「ケインズ主義的福祉国家」
という言葉がよく示すように福祉国家的な積極財政政策は「経済成長と所得分配の平等」の両方を同時に達成するものとして想定され、かつ実際にもそうした成果が実現されていたからである。つまりこの文脈では、福祉国家的な「大きな政府」プログラムは、それ自体同時に”成長主義的”である、という構図が妥当することになる。


 「その理由は、福祉国家が歴史の進歩に反するからではなく、福祉国家が経済成長の戦略と分かちがたく結びついているからである。」
                      ピアソン『曲がり角にきた福祉国家』


 繰り返すように、この議論の構図は日本的な文脈では理解しにくい要素が大きい。なぜなら、戦後日本の経済成長は、「はじめに」でもふれたように少なくとも社会保障の充実等による総需要の拡大といったことを通じてなされたのではなく― つまり「(福祉国家的な)再分配政策を通じた成長」という構造ではなく―、端的にパイの拡大=経済成長ということが主導するかたちですすんでいったものであり、(ヨーロッパの場合とことなり)そこでは「福祉」や「環境」ということは完全な脇役、あるいは端的に「経済」とは異質の要素として考えられたからである。


 一言で言えば、後発国家としての日本は、戦後ヨーロッパ(70年代ころまでの)が経験したような”福祉国家の黄金時代”―すなわち「戦後合意」と呼ばれる「経済成長と福祉の相乗的な関係」についての了解の時代―を経験していない。つまり「福祉(社会保障)」や「環境」は基本的に「経済」に対立するものあるいは”「経済成長」にとってのお荷物”として理解されたのが戦後の日本であった。


 おそらくいま求められているのは、制度の一部分のみを取り出し、いわばパーツの様々な組み合わせを考えることで事態の打開を図るといった方向ではなく、むしろこれからの社会保障についての新たな基本理念を明らかにし、一貫したパースペクティブの中で社会保障制度の将来像を構想していく作業である。


 日本の社会保障の第一の特徴は、その「規模」に関するものであり、端的に言えば、その社会保障給付費が多くの先進諸国に比べてなお相当に「低い」水準にある点である。
 日本の社会保障の第二の特徴は、その「内容」に関するものであり、それは社会保障全体に占める「年金」の比重が先進諸国の中でもっとも大きいこと、また逆に「失業」関連給付と「子ども」関連給付の比重が際立って低いことである。
 日本の社会保障の第三の特徴は、その「財源」に関するものであり、社会保険の枠組みの中に相当額の税が部分的に投入され(基礎年金の三分の一、国民健康保険の二分の一など)、”税と保険の渾然一体性”ともいうべき特徴をもった社会保障制度となっていることである。この結果、日本の社会保障はきわめて複雑で制度の趣旨がわかりにくいものとなっており、それが制度の空洞化をまねく一因ともなっている。


 ところが現在では、「カイシャ」については雇用の流動化や就業形態の多様化の中で、「核家族」については女性の社会進出や個人単位化の中で、急激に「コミュニティ」としての実質を失いつつある、この結果、日本の低い保険給付費を支えた条件であった「インフォーマルな社会保障」が大きく希薄化しているのが現在進みつつある事態であり、いま求められているのは、こうした新しい状況に対応した「安全網(セーフティネット)の張替え」に他ならない。


 日本に即して見た場合、こうした雇用の流動化と社会保障というテーマに関して具体的に課題となるのはさしあたり次のような点である。
 第一に、保険料徴収が極めて困難になっていくことである。
 第二に、「突き抜け方式」は維持できない。
 第三に、職域(サラリーマン)と地域(自営業)という二本立て構造は維持できない。


 今後の社会保障を考えるにあたっての、雇用の流動化と並ぶいまひとつの新たな論点として、わが国の社会保障における「子供に対する給付の低さ」という点がある。


 そして、「高齢者と子供については「税」を中心とし、現役世代については「(社会)保険」を中心とした社会保障の体系を考える」ことが妥当ではないかと考えられる。


こうして伝統型の「被保険者-被扶養者」という構造は、第一に高齢化、第二に子育ての社会化の必要性の増大、第三に女性の社会進出という変化の中で、変更を余儀なくされる。


したがって、社会保障というシステムは、様々な個人がその「潜在的な自由」を実現できることを保障する制度に他ならないし、またそうあるべきなのではなかろうか。


「個人の「自己実現」を可能とする制度としての社会保障」

社会保障制度のあり方は、とりわけ経済のグローバライゼーションの中で、これまでのように一国完結型の問題ではなくなっているのであり、今後こうした傾向はますます強まっていくことになるだろう。


おそらくこうした方向でこれからの社会保障のあり方を考えていくことが、経済学者ミュルダールがその先駆的な著作『福祉国家を超えて』(1960年)の中で、「福祉国家」の先に到達すべき姿として描いた「福祉社会」というビジョンとも重なり合ってくると思えるのである。


つまり、二十一世紀後半に向けて世界は高齢化が高度に進み、人口や資源消費も均衡化するような、ある定常点に向かいつつあるし、またそうならなければ持続可能ではないのである。


 このように見ていくと、私たちのいま生きている社会は、個人が活動の主体となる「市場/経済」の領域が、いわば三重の「離陸」を行った結果として機能している社会ということになる。
 すなわち第一に共同体的制約からの離陸、第二に(土地という)自然的制約からの離陸、第三に(物質・エネルギーという)自然的制約からの離陸。そして、こうした幾重もの“制約”からの離陸を遂げるということが、とりみなおさず市場経済の、したがってまた人間の「欲望」の、「拡大・成長」のプロセスに他ならなかったわけである。


 では何が問題なのか。言い換えれば、もっとも基底的な次元において、私たちのいま生きている経済社会システムのどこに本質的な限界や矛盾があり、それはどのようにして克服しうるのか。
 原理的には次の三つであろうと思われる。
 第一は、いわば「外的な限界」とも呼べる問題である。・・・・・・・。
 第二は、いわば「内的な限界」とも呼べる問題である。・・・・・・・。
 第三は、「分配」をめぐる問題である。


 社会保障をめぐる対立軸は、・・・・・・・基本的には「大きな政府(高福祉・高負担)か小さな政府(低福祉・低負担)か」という対立だが、より正確には次のような三つの価値の間の“三元的”な対立である。すなわち、社会保障のあり方は、つまるところ、
 「自助」――個人、自己責任ないし市場(A)
 「共助」――(伝統的な)共同体、相互扶助(B)
 「公助」――、公共性          (C)
という三つの原理のうちどれに優先順位を与えるか、という点に帰着する。


 が、閉塞状況を抜け出す途が、「成長」のあくなき追及ではなく、「定常型社会へのソフトランディング」にあることだけは間違いない。
 そしてその先に、あるいはそのプロセスのひとつひとつの歩みの中に、私たちの新しい「豊かさ」のかたちは確実に存在しているのである。



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【投稿者コメント】
自助の時代をどう切り開き、定着していくかということであろう。

素材抜粋-I.プリゴジン/I.スタンジェ-ル『混沌からの秩序』 伏見康治・伏見譲・松枝秀明訳

2011年01月19日 | 読書
素材抜粋
2002/06/30


混沌からの秩序



I.プリゴジン/I.スタンジェ-ル『混沌からの秩序』

伏見康治・伏見譲・松枝秀明訳

みすず書房 1999 第14刷







現代の西欧文明において、最高度に磨き上げられた技術の一つは分割である。問題をでき
る限り小さな成分に分ける技術である。われわれは分割するのが得意だ。実に巧いので、各
断片を集めてもとに戻すことを忘れてしまうことがよくある。

(まえがき 科学と変化 アルビン・トフラ-)





イリヤ・プリゴジンは、非平衡系の熱力学に関する業績によって、1977年にノ-ベル[化
学]賞を受賞した人であるが、物事を分解するだけでは満足できない人である。彼は生涯の大
半を、「断片を集めてもとに戻して」みることに費やした。彼の場合、断片とは、生物学と
物理学、偶然と必然、自然科学と人文化学である。

(まえがき 科学と変化 アルビン・トフラ-)





……・プリゴジンとスタンジェ-ルは、機械の時代の伝統的科学は、安定・秩序・均質・
平衡を強調する傾向にあったと論じている。従来の科学は、ほとんどの場合、閉じた系と線
形関係とを対象にした。線形関係のもとでは、小さな入力は小さな結果しか生まない。

(まえがき 科学と変化 アルビン・トフラ-)





さらにこのことは、実在のほとんどは、規則的で、安定で、平衡しているのではなく、変
化・無秩序・などで、沸き返り、泡立っていることを示している。

(まえがき 科学と変化 アルビン・トフラ-)





プリゴジンの言葉を使えば、あらゆる系はたえず「ゆらいでいる」部分系を含んでいる。
単一のゆらぎ、または、その組み合わさったものが、正のフィ-ドバックの結果、非常に強
くなって、既存の組織を粉砕してしまうことがある。この革命的瞬間――著者はこれを「特
異な瞬間」あるいは「分岐点」と呼ぶ――においてどの方向の変化が起こるかをあらかじめ
決定することは、本来的に不可能である。系が分解して「」に向かうのか、あるいは、著者
が「散逸構造」と呼ぶ、より分化した、より高い、「秩序」のレベルないし組織化のレベル
へ跳躍するのか、決められない。

(まえがき 科学と変化 アルビン・トフラ-)





無秩序との中から、「自己組織化」の過程を通じて、秩序と組織が「自発的に」生じてく
ることが、実際に可能だと、彼は力説する。

(まえがき 科学と変化 アルビン・トフラ-)




事実、本書の主題の一つは、熱力学の第二法則の解釈の衝撃的な見直しである。

(まえがき 科学と変化 アルビン・トフラ-)





『混沌からの秩序』のように多くの思想がぎっしりと詰まった本は、だれも――その著者
でさえも――その意味するところすべてを理解することはできない。

(まえがき 科学と変化 アルビン・トフラ-)





『混沌からの秩序』はすばらしい。注文の多い、目のくらむような本である――すべての
読者に対して挑戦的で、注意深い読者にとっては、非常に得るところがあるはずである。こ
れは研究し、賞味し、再読すべき本である――しかもなお、再び問うてみるべき本である。

(まえがき 科学と変化 アルビン・トフラ-)





いくつかの基本過程には、例えば生物進化とか人間の文化の進化のような基本過程には、
明らかに、決定論的過程に加えて、確率論的要素が含まれているに違いない。





古典的描像では、自然の基本過程は決定論的で可逆であると考えられていた。乱雑性や不
可逆性をもつような過程は例外にすぎないと考えられていた。今日では不可逆過程やゆらぎ
の役割をいたるところに見ることができる。





伝統的に自然科学は全称命題を扱い、人文科学は特殊命題を扱ってきた。自然科学と人文
科学とが収束しつつあることを強調して、本書のフランス語版の表題は『新しい同盟』(ガ
リマ-ル社刊、パリ、1979年)とつけた。





物理学の概念構築の作業は完成からほど遠い状態にある。しかし筆者は自分たちが感じと
った現時点の状況を提示することに決めた。筆者は大きな知的興奮を味わっている。存在か
ら生成へ至る道が垣間見え始めているからである。





このことから、物質はもはや機械論的世界観で述べられたような受動的な物体ではなく、
物質には自発的な活性が伴っている、と考える新しい物質観が生じてきた。





現在われわれは、平衡から遠く離れた状態では、新しいタイプの構造が自発的に生じうる
ことを知っている。平衡から遠くはなれた条件下で、無秩序あるいは熱的から秩序への移転
が起こることがある。物質の新しい動的状態が出現することがある。それはある与えられた
系とその環境との相互作用を反映した状態である。筆者はこの新しい状態を、散逸構造

と呼んだ。





分岐の近傍で、系が大きくゆらぐことは注目に値する。






経済も人口も政治も、その歴史が先例のない速さで動いている今日新しい問題や新しい興
味が出てきて新しい対話を始めること、新しいを探し出すことが必要となっている。





旧約は破られた。人間はついに、そこから自分が偶然に発生してきた宇宙という無縁で無限
の空間の中に、ただ一人で生きているということに気づいた。

ジャック・モノ-





神よ、我々を遠ざけ給え

単一のビジョンとニュ-トンの眠りから!

ウィリアム・ブレイク





マルチン・ハイデッガ-は科学的営為の真の核心を批判した。科学的営為は自然を支配し
たいという永遠の目的に基本的に関連していると彼は考えた。したがって、科学的合理主義
は古代ギリシャ以来内在していたあるものの最終的な実現であるとハイデッガ-は説く。す
なわち、合理的な議論や営為において必ず働き出すところの支配しようとする意志、あるい
は、すべての実用的で伝達可能な知識の中に潜む暴力がそれである。





ギリシャ人によって考案された数学体系は、ヨ-ロッパの歴史上最初の抽象的思考の体系
となった。すなわち理性を働かせる人類すべてにとって、伝達可能でかつ再現性のある結果
を生む思考である。ギリシャ人は、信念、期待、感情などによっては左右されないような、
確実性のある演繹的知識を最初に形成した。





ギリシャ思想と近代科学との最も重要な共通点は、厳密な議論と証明を重視することであ
り、宗教的ないしは神話的な探求法とは対照的である。



……・。共鳴という言葉――二つの教義の相互増幅のことである――を用いることによっ
て、神学の教義と「科学の神話」のどちらが先に来て、他を啓発したのかを問わない表現に
なるよう意図したわけである。





研究の原動力である想像力の眼前に常に鮮明に姿を現すのは、秘密が存在する、解明され
うる秘密があるはずだという、本能的な信念にほかならない。どのようにして、この信念が、
ヨ-ロッパ精神の中に、このように鮮明にたたき込まれたのだろうか。

……・。それは、神エホバの人格的エネルギ-とギリシャ哲人の合理精神とをあわせもつ
と考えられたところの神の合理性を、中世の人々が主張したことから来ているはずである。

……・。私が言わんとするのは、幾世期もの間異議なく続いた信仰がヨ-ロッパ精神に及ぼ
した影響である。ここで言う信仰とは単なる信仰箇条ではなく、思考の本能的傾向のことで
ある。

アルフレッド・ノ-ス・ホワイトヘッド





エルンスト・マッハは、……・科学知識の役割とは経験を可能な限り経済的な順序に配列
することだと定義している。






多くの分野であれほどの成功を収めた中国科学が運動法則の定量的定式化をしなかったこ
とを想起すべきである。





われわれは昔学校で習った古典力学の法則に慣れているあまり、古典力学が基礎に踏まえ
ている仮定の大胆さには気づかないことが多い。





生きた科学は、科学が記述する理想化された可逆的な世界とは本来別物である。





あるランクを超えた存在はすべて特異点をもち、ランクが高いほど特異点も多い。

マックスウェル





経験のための先天的条件は、同時にまた、経験の対象が存在するための条件でもある。

カント





古代人にとって、自然は知恵の源泉であった。中世の自然は神を語った。近代に至って、
カントが科学と知恵、科学と真理は完全に分離しているはずだと考えたほど、自然は静かに
なった。われわれは過去二世紀の間、この二分法とともに生きてきた。今や、これが終わる
ときがきた。科学に関する限り、この二分法に終止符を打つ機運が熟した。





「複雑性の科学」の誕生した日付を、著者はイゼ-ル県知事ジャン=ジョセフ・フ-リエ
男爵が固体中の熱伝導の数学的記述によってフランス化学アカデミ-の賞を得た1811年
とすることを提案したい。





われわれはルクレチウス(古代ギリシャの原子論者)のクリナメン(永遠で普遍的な原子
の下降は、ときどき、不特定の時間と場所で非常にわずかなふれによる擾乱を受ける――こ
のふれを「クリナメン」と言った)からあまり遠くにはいない!





平衡から遠く離れた条件下ではさまざまな型の自己組織化過程が出現する。





ゆらぎを通しての秩序





散逸構造の最もおもしろい側面の一つはそのコヒ-レンス(協調性)にある。







途方もないものが存在できるという例をよく見るものだから、あまりに異常だから実現し
得ない、というような着想は自然界にないといってよいだろう。

19世紀の偉大な博物学者ルイ・アガシ






秩序の源泉としての非平衡





われわれは線形の因果律で考える訓練を積んでいるが、今や新しい「思考の道具」を必要
としている。





われわれは座標または運動量を測定することができるが、両方を同時に測定することはで
きない。はっきり決まった値をとることができる変数を明確に表現するような理論的言語の
一つだけで、系の物理的内容をすべて表すことはできない。それらはすべて同一の実在を扱
っているが、一つの単独の記述に還元することは不可能である。同じ実在に対する視点が還
元できない多様性をもっているということは、実在全体を見通せる神の視点がありえないこ
とを示している。





この新しい存在物を用いて、第二法則を秩序から無秩序への時間発展として理解すること
ができるようになった。





熱力学的時間発展を記述するふために用いる構成単位の平衡における振舞いはカオス的で
ある。これとは対照的に、平衡に近い条件下では、相関とコヒ-レンスが出現する。





主要な結論の一つに到達した。すべてのレベルにおいて、巨視的物理学のレベルであろう
と、ゆらぎのレベルや微視的レベルであろうと、非平衡が秩序の源である。非平衡が「混沌
から秩序」を生み出す。





時は建設である。

バレリ-





荒れ狂う自然の中のつむじ風





法則と賭けとの両方、時間と永遠性との両方を含むようなもっと微妙な形の実在が存在す
ることだろう。





希望と考えるのは、小さなゆらぎでさえも成長して、全体構造を変えうるからである。そ
れゆえ、個々の活動は無意味なこととして運命づけられてはいない。



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【投稿者コメント】
混沌から秩序が沸き立つのだ。


素材抜粋-リチャ-ド・A・ヴェルナ-著『円の支配者』吉田利子訳 2

2011年01月18日 | 読書
戦後日本の経済発展は主として金融統制のおかげであり、それは戦時経済体制を最も効
率よく動かしたものだった。金融部門は「高度成長という第二の『総力戦』において、
'陰'の参謀本部」だったのである。



産業界の多くの指導者にとって、これは屈辱的な事態であった。信用配分は法的根拠のな
い「非公式」のものだったが、彼らは一万田とその部下たちの顔色をうかがうしかなかっ
た。委員会もなければ議論もなく、苦情申し立ての権利もなかった。すべては日銀総裁の
一存で決まり、彼は融資拒否をためらわなかった。



時代とともに変化する優先部門の決定には通産省が力を貸した。最初は繊維産業、つぎ
に造船業と鉄鋼業、その後は自動車産業とエレクトロニクス産業が優先的に購買力の配分
を受けた。窓口指導はコントロ-ル・センタ-で、経済に通貨という弾薬を供給した。そ
の結果、日本は1960年代、10%以上の実質成長率を達成し、識者はこの「奇跡」を
めぐって論議するようになった。



一万田は、大蔵省に金利をコントロ-ルさせればおとなしくなるかもしれないと踏んだ。
しぶしぶながら、彼は大蔵省に金利の裁量権をゆだねた。大蔵省はとびついた。大蔵省が
日銀に信用の量あるいは配分に関する政策について尋ねると、一万田もその部下も専門用
語を並べ立てて、しろうとには分からないプロセスだと印象付けようとした。



1965年十一月、最初の国債が市場に出回った。これで、大蔵省と日本銀行の勢力バ
ランスは、日本銀行に有利に変化した。・・・・・・・。



政府は景気刺激のための財政政策を国債発行による借金で実施しなければならなくなり、
経済への負担が増すことになった。紙幣を印刷するのはただだが、国債を発行すれば数世
代にわたって、金利が金利を生むという福利のくびきにつながれることになる。

したがって、新財政法はほころびの始まりだった。



法律上はともかく、少なくとも実際には金融政策を自分たちの手に握って、独立して運
用するため、日銀は世間に金融政策の主役は金利のコントロ-ルだと思わせる以外のこと
もした。日本銀行の刊行物は、一見、金融政策の決定要因かと思わせる枠組みを説明、周
知する舞台でもあった。マネタリズムである。1975年に日本銀行が発表した記事は、
適切な水準のマネ-サプライの重要性を強調した。



彼ら(日銀)の小さな秘密は、彼らの政策はマネタリズムと何の関係もないということ
だった。窓口指導を通じて信用創造を正確にコントロ-ルする副産物として、M2+CDのよ
うな預金量の目標値も達成されたのである。



中央銀行の独立を侵食する種々の政治的圧力に対する自衛策として、セントラル・バン
カ-がマネタリズムを掲げることには何の不思議もない。日銀幹部がマネタリズムに真剣
な関心を寄せているのは、この理論が正しいと信じているからではなく、通貨コントロ-
ルの独立を冒そうとする外部の圧力をかわすのに役立つかもしれないからである。要する
に、日銀のマネタリズムは政治的策略だ。



急激な高齢化が進んでいるというのに、賦課方式の年金システムの基金は経済を刺激し
ようという空しい試みに浪費されていた。



1977年、質の高さで定評があった「中央公論」8月号の記事(「大蔵省・日銀王朝の
分析」)のなかで、日本の経済システムの真の性格をはっきりと指摘した最初の、そして唯
一の著名人が野口と榊原だった。彼らは「戦時総力戦経済体制」であると言い切った。



名目国内総生産の伸びは、国内総生産に含まれる取引に使われる信用創造とだけ関連し
ていると考えるべきだ。



財政支出で需要を押し上げることはできない。購買力が、例えば大規模な公共事業を受
注する建設業に移転するだけだ。ほとんどのエコノミストは単純に経済対策費足し合わせ、
その分、国内総生産が増加すると信じていた。ここでも合成の誤謬が生じる。重要なのは
財政支出が何によってまかなわれるか、ということだ。1990年代に圧倒的だったよう
に、純粋な財政政策の場合、大蔵省が国債を発行して資金を調達する。したがって、民間
部門を刺激するための財政政策資金は、まず民間部門から吸い上げられる。国債を買う投
資家は、その前に他の投資先から資金を引き上げなければならない。財政政策は新たな購
買力を創造しない。単に既に存在する購買力を再配分するだけだ。つまり、純粋な財政政
策だけでは経済成長を高めることはできない。財政政策は経済成長に対して中立なのであ
る。



信用創造は経済のパイの大きさを決める。財政政策は与えられたパイを民間部門と政府
部門でどう分けるかを決定する。信用創造の額が変わらなければ、財政支出の増加はその
分だけ民間部門の購買力を減らす。したがって、国民所得のなかの民間の取り分は減少す
る。



経済の生産能力が100パ-セント稼動していれば、余分な紙幣の印刷はインフレにつ
ながる。だからこそ、デフレのもとで生産資源が有り余っているときには、紙幣を印刷す
れば需要が増大して、デフレから脱却できる。インフレになるのは、経済が拡大してあら
ゆる生産要素が全部使われているとき、失業率が最低限まで下がり、すべての工場がフル
稼働し、投資が盛んで、それ以上は供給を増やせないときだ。そこで景気が充分に上昇す
れば、中央銀行は印刷機の回転を遅くしなければならないだろう。



お金は銀行自身によっても、中央銀行によっても、簡単に創造できる。したがって、最
も単純な解決策は、日銀が通貨を印刷して銀行に与えることだ。



事実、最も単純で最も効果的な方法は、国債の発行を完全に中止することだ。かわりに、
政府は必要な資金を銀行から借り入れる。債券市場と違って、銀行の信用創造なら新しい
購買力が生まれる。中央銀行が国債を買い入れて財政支出の資金を提供するのを拒否して
いるときには、この方法がとくに有効だ。



価格ではなく量が結果を決める。同じことは為替レ-トにもあてはまるはずだ。金利格差
ではなく、信用創造量の格差が決定要因でなければならない。



日銀の純信用創造量は政策変数で、日銀が意のままに変えられるのだから、1995年4
月19日に1ドル79円75銭という記録的な円高をもたらした直接の責任者は日銀であ
ることは明白だ。



いっぽう、信用創造量が増加すれば必要なかった低金利政策で、富は預金者から銀行へ
と移転した。こうして移転された購買力の総額は百兆円を超えたとみられる。イギリスの
年間国内総生産より大きな数字だ。



バブルの原因は(日銀の)窓口指導の貸出枠だ。



「金融当局の政策には大いに疑問があった・・・・・・・彼らが窓口指導においてもう少しきつ
めの政策を取っていたら、こんなバブルという状況は回避できただろう・・・・・・・日銀が引き
締めようと思えば、充分にできたはずなのに」(日銀担2)



われわれは、日本のバブル経済を生み出し、戦後最長の不況と1930年代以来という
記録的な失業増加をもたらした責任者をつきとめた。それは日銀内部の少数グル-プで、
彼らは日銀スタッフによるチェックもコントロ-ルも及ばないところで行動していた。円
のプリンスたちである。日本をコントロ-ルしてきたのは彼らだった。彼らの名は三重野
康、福井俊彦、そしてバブル生成の初期には彼らの師である前川春雄も加わっていた。だ
が、もうひとつの謎は依然として残る。彼らは高い教育を受け、経験を積んだ人々である。
それなのに、なぜ、そのような行動をとったのか?



三重野は、金融政策の目標は迅速な景気回復ではなく、長期的な目標だと語っている。
「(構造調整を完成させるには)金融政策を運営するにあたっても、このような中長期的な
課題を十分に念頭に置いておくことが重要であることを重ねて申し上げたい次第である。
この点、もう少し具体的に申し上げれば、私どもがこの調整過程のなかで、政策運営の最
大のよりどころとしてきた判断基準は、単に目前の景気を良くするという短期的な物差し
ではなく、やや長い物差しでみて、日本経済をインフレなき、バブルなき、長続きする成
長過程に、いかにしてつないでいくかということであった」



日銀のバトンをプリンス前川に渡した佐々木は、経済同友会代表幹事に就任し、
1983年1月に「世界国家への自覚と行動」と題する日本経済の改革と自由化のための5ケ年計
画を作成した。



個の計画は、日本は世界に向けて早急に市場を開放すべきであると呼びかけ、日本経済
は「目先の国益援護型から、世界共通の利益増進型へ転換しなければならない」と述べて
いる。



日銀総裁として前川は、大蔵省が外国との競争から金融部門を保護していることを、「い
わゆる護送船団方式行政のようにすべての金融機関を手厚く世話するというわけにはいか
ない」と批判した。



歴史家なら、こうした困難を以外とは思うまい。一国が基本的な変革を遂げうる環境は
たった一つしかない。それが歴史の法則だ。じじつ、経済的、社会的、政治的システムの
大きな変革を遂げた国は世界にひとつもない。危機に見舞われた場合をのぞけば、である。
どんなシステムにも既得権益があり、国家全体を揺るがし、エスタブリッシュメントの権
力を侵食するほどの危機が起こった場合にだけ、変革が可能なのだ。そのときこそ、セン
トラル・バンカ-の出番である。



1990年代の長期不況と危機の結果、日本銀行のプリンスたちは、大蔵省との闘いに
決定的な勝利をおさめた。・・・・・・・。古い経済のシンボルとも言うべき大蔵省は、失われた
10年の責任、財政危機の悪化、バブル生成の罪を追及された。大蔵省は無能だ。それど
ころか腐敗しているという非難が渦巻いた。



言い換えれば、戦時経済は利害関係者グル-プのすべてを満足させておくために高度成長
を必要としていた。



日本の年金システムは賦課方式を採用しているから、現役労働者の肩にのしかかる負担
がとてつもなく大きくなる。いまでは2人の現役労働者が1人強の年金受給者を支えなけ
ればならない。年金受給者の数が急増するために、年金額を大幅に引き下げ掛金を大幅に
引き上げても、まだ資金が不足するだろう。ひとつの解決策は、公的年金制度を確定拠出
によるエクィティ投資基金を基盤とする民間年金システムに移行させることだ。だが高齢
化社会を養うには、日本の経済成長率を上げるしかない。多くの富が生み出されれば、老
人に分かち合う分も増える。



原注 第15章 3)
指導者に、年金問題は人口動態の問題だと言わせておくべきではない。そうではなくて、
資金の横領の問題なのだ。



また、戦時システムは個人の自由をあまり認めなかった。集団的目標の迅速な実現の邪
魔になるからだ。開かれた議論や自由な表現も、仕事の面でも公的生活の面でも戦時経済
体制の活力にはならなかった。そのために多くの領域で創造性が押しつぶされてきた。



戦時経済体制は、日本が自由市場方式の資本主義につきものの欠点と膨大な人的コスト、
つまり所得と富の不平等と高失業率、高い犯罪発生率などさまざまな社会的不公正を回避
するのに役立ってきた。システムを維持しつつ、時代に合わせて調整すれば、これらの利
点を存続させることができる。



簡単に言えば、名目成長率が潜在成長率より低ければ、インフレどころかデフレ圧力が
存在する。・・・・・・・。そこでインフレ抑制の見地から、セントラル・バンカ-は潜在成長率
に大きな関心を寄せるし、潜在成長率を引き上げる方策を支持するのが一般的である。



1998年3月31日、日本銀行は劇的な政策転換を実施した。とつぜんすべての印刷
機のスイッチが入り、この四半世紀で最高のスピ-ドで通貨を創造しはじめたのである。



日銀の信用創造量を測るためには、銀行への貸出、金融市場政策、長期債権市場操作、
外為市場介入、すべての不胎化など、その取引のすべてを足し合わせていけばいい。



1997年5月21日、半世紀で初めての日銀法改正案が衆議院を通過した。6月には
参議院でも可決された。施行は98年4月1日から。・・・・・・・。

半世紀にわたる大蔵省や政治家との密かな戦いののち、プリンスたちは目的を遂げた。
戦後の時代を通じて内密に享受してきた強大な権力は、完璧に合法的、公的なものとなっ
た。彼らは舞台裏の黒幕から、日本の堂々たる支配者になった。
この歴史的な法改正後まもなく、政治家たちは自分たちが何をしてしまったのかをやっ
と認識した。




民主主義に意義があるものなら、中央銀行の権力を抑制しなければならない。日本でも、
他のアジア諸国やヨロッパ、アメリカでも、法律を改正して、中央銀行は政策について議
会に責任を持たなければならないことにする。その政策とは量的金融政策である。この責
任には物価安定だけではなく、景気循環を回避し、完全雇用を達成するという明確な政策
目的も含める。そのためには、名目国内総生産の目標値を潜在成長率のあたりに設定すれ
ばいい。日本なら、名目国内総生産の成長率を4パ-セントとすると日銀に指示する。この
目標がたとえば0.3パ-セント程度の誤差の範囲内で達成されればよし、そうでなければ
中央銀行の幹部のうち上から3三分の一を即座に罷免する。



金融政策は民主的に選出された機関の手に戻さなければならない。これには、現在多く
の中央銀行が独占している情報を奪い返すことも含まれる。銀行と信用に関するデ-タの
収集と公表の権限は、独立した監査機関にゆだね、その機関も定期的に一新すべきである。



・・・・・・・、関係者の責任を問うべきだろう。バブル破裂後、何十人もの銀行家や官僚が逮
捕されたのに、不況とバブルの真の責任者、したがって銀行の不良債権問題の責任者が一
度も責任を問われなかったのはおかしなことだ。



プリンスたちが国を支配しているかぎり、確実なことは何もないし、自由もない。経済
も人々の人生も、プリンスたちの信用というゲ-ムの繰り人形にすぎないからだ。



彼らの論理からすれば、究極の目標は、通貨圏をつないで世界通貨同盟を創り出すこと
だろう。単一の中央銀行が運営する世界の単一通貨。それが実現すれば、マネ-のプリン
スたちの権力は頂点に達する。・・・・・・・。危機はときには、驚くほどの効果を生むものだか
ら・・・・・・・。


------------------------------------------------
【投稿者コメント】
現下、諸悪の根源という認識を日本銀行に対して保持することが始まりになるのかもしれない。


素材抜粋-リチャ-ド・A・ヴェルナ-著『円の支配者』吉田利子訳 1

2011年01月17日 | 読書
素材抜粋 2001/12/17





誰が日本経済を崩壊させたのか



リチャ-ド・A・ヴェルナ-著『円の支配者』吉田利子訳

草思社 2001年







近代日本の歴史の中で、経済・社会・政治システムに根本的な変化が起こったことが二
度だけある。十九世紀末の明治時代、そして六十年前の戦争と敗戦の時だ。どちらの場
合も、危機が変化の引き金になった。外国による植民地化という脅威が明治時代の改革
を推し進め、大恐慌と太平洋戦争、その結果としての敗戦が第二の大規模な変革を引き
起こした。



日本を変えたのは、日本研究ではなおざりにされることが多かった出来事である。その
出来事は戦前と戦後のあいだに起こった。つまり戦争そのものだ。日本の経済体制は、
第二次世界大戦中につくられた。要するに産出高の最大化をめざす戦時経済なのである。



日本の政府介入は、計画経済国家と違ってミクロの経済運営というかたちではおこなわれ
てこなかった。戦時下日本の官僚は、高度成長に最適なインセンティブのある構造を目的
として制度的構図をつくりあげ、明らかな介入をおこなった。



ヨロッパでは、経済システムが大きく遅れていたために貨幣経済の発展が阻まれていた。
中国の皇帝は九世紀にすでに紙幣を発行し、帝国全体の支配のために利用していたが、ヨ
-ロッパの統治者はなおも貴金属だけが通貨になりうると考えていた。・・・・・・・。彼
ら(ヨ-ロッパの最初の銀行家・金細工師)の営み対する誤解のせいで、何世代ものエコノミ
スト、政治家、有識者は勘違いしつづけ、銀行が「お金を創造する」という事実がどれほ
ど大きな意味を持つかを理解できなかった。この事実に対する認識の欠如のせいで、日本
経済をあやつる秘密の操縦桿は長いあいだ知られずにきた。いっぽう、戦時下の官僚たち
は銀行の役割を理解し、お金こそ経済の血液であることを認識していた。



戦時下の官僚による信用統制は、事実上何の変化もなく戦後まで生き延びた。戦後のそ
れは、法的根拠のない日本銀行の密かな「窓口指導」(1960年代までは「窓口規制」と


呼ばれた)というかたちをとった。「指導」とは中央銀行が厳しく強制する信用の直接的配分
であり、日本の戦後経済成功の核心はここにあった。さらに、韓国や台湾の成功もこれで
説明できる。日本が戦時中に導入したシステムを、戦後の指導者が引き続き活用したので
ある。



1950年代から60年代、強大な大蔵省と法的には大蔵省に従属する日本銀行の覇権
争いが始まり、窓口指導によるコントロ-ルが戦いの道具になった。大蔵省は最初の政治
闘争に勝利し、(1939年のヒトラ-・ドイツのライヒスバンク法をもとにした日本銀行
法の改正を阻止したが、窓口指導はあいかわらず日本銀行が握っていた。日銀は金利政策
決定権を大蔵省に渡して誤った安心感を抱かせ、量的政策の重要性に煙幕を張った。金融
政策に何の役割も認めず、ひどい場合には通貨は存在しないと想定する伝統的な新古典派
む経済学にのっとった一連の日本銀行研究は、信用統制による量的政策が効果的ではない
ことを「証明」してみせた。そこで日本銀行は信用政策は廃止したと声明した。強力なコ
ントロ-ルの記憶は年とともに薄れ、1970年代になると、君臨するのは大蔵省でも支
配しているのは日本銀行であることに気づく識者はほとんどいなくなっていた。



銀行が充分なお金を創造しないから物価が下落し、需要が落ち込み、失業が増加するの
だから、要するに経済に必要なのはマネ-である。これほど簡単なことはない。日本銀行
が印刷機のスイッチを入れればよかったのだ。



それでは1990年代、日本銀行はどれだけのお金を印刷していたのか? ほとんどゼ
ロである。大蔵省が必死になって景気を回復させようとしているころ、日本銀行は少しも
あせっていないようだった。日銀は大蔵省に命じられるままに金利を引き下げたが、同時
に通貨の流通量を減少させていた。金利が幾らであれ企業(中小企業)の大半がお金を借
りられないのなら、ゼロ金利は何の役にも立たない。そして大蔵省が財政支出を増やして
も、中央銀行は新しいお金でそれをまかなってやらなかった。



戦後日本には26人の首相がいたが、実際的な支配者は5人しかいない。「円のプリン
ス」たちである。学者もメディアも一般大衆も知らないところで、彼らは政府への報告も
なしに日本の運命をコントロ-ルしてきた。



民主主義を回復するためには、プリンスを僭称する秘密集団に暮らしを支配されている
ことに一般市民が気づかなければならない。彼ら秘密集団が自分たちの目的のために好不
況の波をあやつっていることを、一般市民が知るべきである。中央銀行の行き過ぎた権力
に国民が気づけば、日本もその他の国々の議会もふたたび法を改正し、通貨の創造と配分
をおこなう者に説明責任を負わせるだろう。そのときはじめて、マモン(富の邪神)のプ
リンスたちから独裁権力を剥奪することができる。



クラッシュがいつ起こるかは、信用創造のデ-タを綿密に観察しつづけることによって
のみ予測できるだろう。



現在の「サラリ-マン」は会社を「うち」と考え、株主の所有物だとは思っていないか
ら、株主への説明なしに自分たちの考えどおりに経営して当然だと感じている。



日本では軍部と、大量失業時代に入省して地方の飢餓を目の当たりにした経験を持つ「革
新官僚」が先頭に立って、自由市場経済からの離脱が進んだ。彼らは高橋亀吉等、当時の
指導的な経済評論家の論文を読んでいた。高橋は、株主という太ったネコの利潤追求を許
して失業をはびこらせるものだと自由市場システムを批判した。資本家株主は配当引き上
げだけを目的に企業を絞り上げることが多い。資金が流出すれば企業には再投資する資本
がなくなる。そのため経営者は長期的利益と企業存続を目的とした行動が取れなくなる。
いっぽう大株主は乱暴な投機に走り、株価を吊り上げて売却してキャピタル・ゲインを得
たりするから、株式市場はインチキ賭博場も同然になってしまう。日本で利潤追求行動の
悪名が高くなったのはこのころだった。



革新官僚は、アダム・スミスの言う「見えざる手」を待ってはいられなかった。目に見
える自分たちの手で日本経済を強化しなければならないと感じたのである。

彼らの考えは、ヨ-ロッパやソ連から入ってきた反資本主義、共産主義、それに全体主
義に強く影響されていた。しかし、彼らはソ連流の計画経済のようなミクロの経済運営で
はなく、インセンティブの構造を改めることに介入の重点を置いた。



1945年に日本が降伏するころには、戦後経済構造に不可欠な要素のすべてが確立さ
れており、日本は20年代の自由市場資本主義から、統制された戦後の「日本型」資本主
義へと移行していた。

・・・・・・・。

1937年から45年までという短期間にとつぜん戦時経済システムができあがったこ
とは、エコノミストや歴史家を驚嘆させるはずだ。第一に、このシステムは驚くほど一貫
していて論理的に整合性があり、きわめて効率的だった。このシステムは単独では機能し
なかっただろう。全体がまとまって実行されたからこそ、諸外国の自由市場システムを徹
底的に打ち負かし、戦時中の急成長だけでなく、戦後日本の「奇跡の経済成長」まで実現
することができたのだ。



戦時中の立案者は、どうやってこの一貫した効率的なシステムを短期間に考案したのか。


彼らがこのシステムを樹立し、運営したときには、1931年以来軍部の直接支配下にあ
った満州でその原型を実験した貴重な体験があった。満州での体験を持つ官僚が帰国して
母国で同じことを実践したのだ。さらに満州の立案者たちも、一からつくりあげる必要は
なかった。彼らはアイデアの大半をヨ-ロッパの思想家やエコノミストから借りてきた。



近代日本は、昭和という時代全体を見通したときのほうが、ずっとよく理解できる。戦
後日本の経済的、社会的、そして政治的システムの真の原点をつきとめようと思うなら、
昭和天皇が即位した1920年代から始めるべきなのだ。



官僚の見える手が、目的を持って、銀行融資を戦時経済の中心に据えたのである。彼ら
は銀行融資のほうがいろいろな点で好ましいと考え、株式市場や債券市場からの資金調達
を押さえ込んだ。そして、戦時経済体制のなかで資源の配分をおこなう主要な手段として
銀行融資を利用した。



だからこそ、中央銀行の幹部はよく「通貨供給」をコントロ-ルすることはできないと
言う。しかし、銀行が創造する購買力の量をコントロ-ルする方法はある。貸出高の伸び
の目標値を銀行に示すだけでよい。



日本では、戦時の官僚がライヒスバンクの方式を研究し、銀行システムに対する中央銀
行の信用統制には非常に大きな可能性が存在することに気づいた。彼らはベルリンの日本
大使館やライヒスバンクに直接、人員を派遣した。その一人は次章で登場する一万田尚登
である。



戦時の統制経済の始まりを画した最初の法律は、外国への資金の移動を防止することを
目的とし、同時に輸入を規制するものだった(1939年の資本逃避防止法)。1937年、
中国とのあいだで戦火が開かれると同時に権力を握った革新官僚は、臨時資金調整法を制
定して、通貨の配分の統制に動いた。この法律で、銀行とその投融資決定は、中央銀行と
大蔵省の厳しい統制下に置かれることになった。株式市場を通じた資金調達は雀の涙ほど
になり、資源の配分は銀行システムを頼りにおこなわれた。1942年、戦時の指導者は
ヒトラ-の1939年新ライヒスバンク法を翻訳して(ヒトラ-は1933年にシャハト
を再任命し、四年後にまた追い出して、中央銀行への支配を強めた)新しい日本銀行法を
成立させ、中央銀行を直接、政府と大蔵省の支配下に入れた。資本の流れと外貨を規制す
る法律とあわせて、金融支配のシステムが完成した。




素材抜粋-石井 正幸『誰も書かなかった日本銀行-エリ-ト集団の目をおおいたくなる実態』

2011年01月14日 | 読書
素材抜粋
2002/02/11



誰も書かなかった日本銀行



石井 正幸『誰も書かなかった日本銀行-エリ-ト集団の目をおおいたくなる実態』

あっぷる出版社 1996年




聖域でありすぎるから日銀マンは無菌培養になってしまう。同様に民間銀行に対する支配を強めすぎてしまう。あるいは、批判を受け付けなくなってしまう。独断に陥ってしまう。
なぜ聖域になるかというと情報公開が進んでいないからだ。日銀の実態を誰も知らないから、批判のしようもない。



私は、住専問題に関しては、日銀にも大蔵省を上回る大きな責任があると思っている。



日銀の最大の責任はサボタ-ジュの責任である。役割放棄の責任といってもいい。怠慢
の責任である。



すなわち、先の大和銀行事件でも、住専への突出した融資についても、日銀はそのすべ
てを把握していた。間違いなく知っていた。にもかかわらず、なんら手を打たなかった。
それが問題を拡大させ、とりかえしのつかないところまで追い込んだのである。



問題を先送りしたといって大蔵省が批判の矢面に立っているが、実際には大蔵省には金
の流れはわかっていない。



金の流れがわかっているのは日銀だけなのである。



日銀は日本の金の流れはすべて把握しているのだ。例外は暴力金融だけであるが、それ
とてもある程度の実態把握はしている。



この日銀貸出が大蔵省の許認可権に匹敵する日銀の武器となっている。



この準備率(準備預金制度の)も日銀の判断に委ねられており、これも公定歩合の上げ
下げと同様に、有力な金融政策の手段となっている。


そうした銀行コントロ-ルの最前線が、営業局総務課資金第一係というセクション。



実は私が2年間の松山支店勤めから本店に戻ってきて、2年間営業局の証券課でトレ-
ニングしたのち就いた部署がそれだ。



ここは国内の金融機関の指導を一括してみるところで、第一係は国内の都銀、長信銀を
担当、第二係は地銀、第二地銀、信金などを見るほか、全国の数字をまちめる業務を行っていから、ここは結構忙しかった。そして第三係は国内で営業している外国銀行、農林中央金庫、商工中金など、その他の金融機関を担当していた。



その資金第一係の担う最重要業務の「窓口指導」というのが、私の仕事であった。



どういう仕事かというと3ヶ月ごとに銀行が提出する業務計画の中の、四半期別貸付計
画を厳しくチェックし、日銀貸出限度額の調整を行うのがひとつ。



そしてそれとつき合わせて、毎日の銀行の資金繰りをチェックして、指導監督するとい
うのが主な業務だった。



まさに、日本の金融政策の実行部隊であり、日銀の中でも、花形セクションだったので
ある。



そこで『ざぶん』と『どぼん』の出番だ。



T銀行の頭取は本当に真っ青な顔をしている。実は、このときの局長は、前の日銀総裁
の三重野さんだった。
「局長さん、なんとか貸出を」
「そうですねぇ。T銀行さん。そういえば、ウチが送った副会長は元気ですか」
天下りOBをこの銀行が冷遇していることを知っての上で、言うわけだ。
副頭取はOBをきちんと扱うことをその場で約束させられる。それ以外になんの方法が
あろう。



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【投稿者コメント】
官僚組織はどこもこんなものだろう。権益を常に待機しているのが人間のやることだろう。


素材抜粋-山崎元の オトナのマネ-運用塾 自己責任で真剣に楽しむ人のための96項

2011年01月13日 | 読書
素材抜粋                            
2004/1/12

山崎元の
オトナのマネ-運用塾
自己責任で真剣に楽しむ人のための96項
山崎 元著 
ダイヤモンド社 2002年



 特にこれからは、国や企業が人生の面倒を全面的に見てくれるという世の中ではない、いわば「人生自己責任時代」ですから、資産の運用に個々人が正面から取り組む必要があるということです。

 この問題に限らず、確定拠出年金では、これまでの確定給付年金の経験にもっと学ぶべきだと思います。

 筆者は、年金をまったく受け取ることができなくなるような完全な年金破綻は起こりにくいと思うのですが、給料の額が削減されるか、あるいはインフレによって実質的な価値が減っているか、当面の年金受給者が得ているようなレベルの年金を将来の世代がもらい続けることはむずかしいのではないかというくらいの状況を予想しています。「年金は、少しづつ、遠く、小さくなっていく」という感じの将来像です。このような少し頼りない年金像を思い描くとすると、それでは、どうすればいいのでしょうか。


 専門家にも聞いた結果、まず、当面国民年金の掛け金を払いたくないとしても、免除の申請をしておくと、加入期間に加えてもらえるので、公的年金の支給条件である加入期間二十五年を満たすうえで役に立ち、また将来時点で過去の掛け金を払うことがある程度できるので、少なくとも損になることはない、というアドバイスをすることができました。将来就職して、厚生年金に加入しても加入期間が足りなかった、という不都合を避けることができるので、免除申請の知識は重要です。


 どのような年金制度が利用可能で、損得はどうか、については、個人の勤務先、将来の制度変更、将来の所得と税率などで複雑に変化しますが、確定給付の年金にせよ、確定拠出年金にせよ、「自分でなんとかする」ための手段として、自分のマネープラン全体の一部分として(ここが大切です)判断し、利用するという態度が現実的だと思います。


 加えて、企業年金の運用が企業の価値に大きな影響を与えていることも見落とせません。大企業であれば企業年金の運用資産額が一〇〇〇億円を超えるケースは珍しくありませんが、国内、海外の株式が合計で資産の六割前後となる現在の一般的な資産配分であれば、おおまかに言って、一般的な企業年金で年金資産の一年後に予想される平均値からのブレは一割程度あります。年金資産が一〇〇〇億円の企業では、年間に上下それぞれ一〇〇億円くらいが年金運用によって変動するということです。これは、しばしば一つの事業部門がもたらす収益変動を上回る大きさでしょう。つまり、企業年金制度を持っている会社は、気がついてみると、運用会社を兼業しているようなものなのです。
 したがって、こうした企業の社長に、彼が経営する会社の年金について質問して、たとえば年金がもたらす年間の損益変動のリスクがどのくらいあるのかを具体的に答えることができなければ、この社長は経営者失格だと言っていいでしょう。


 程度の問題はあるにせよ、本来、運用会社や年金基金など、他人のお金を運用する仕事に従事する人は、個人では株式投資をしないほうがいいでしょう。


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【投稿者コメント】
流動的な状況は2004年以来変わっておりませんので、そこで重要になってくるのがご自分の現実的な判断になります。つまり、「自分年金」を如何に逞しく作るかだと思われます。

素材抜粋-日本的経営の論点 名著から探る成功原則

2011年01月12日 | 読書
素材抜粋
                                      
2003/12/22


日本的経営の論点
名著から探る成功原則
飯田 文彦著 
PHP選書 1998年




 ”日本的経営”と呼ばれる独特の経営方式は、さまざまの深刻な問題に直面して対応を迫られてはいるが、いくつかの修正を施しつつ、基本的には従来の路線に沿って問題の解決がはかられてゆくものと私は考えている。日本的経営の限界は現行制度の限界であって、日本人に適合した制度の限界ではないからである。
岩田龍子『現代日本の経営風土』1978年


 年功制や終身雇用制の時代は急速に終わりつつある。日本の企業は新しい経営システムの構築に向かって模索を始めているが、それが一定の成果を収めるまでにはかなりの期間を要するだろう。
                  中谷 巌『転換する日本企業』1987年


 そもそも日本人の基本的な考え方は、「変える」ということよりも「変わる」という考え方である。だから環境変化に”適応する”ことには非常に敏捷だが、環境を変えることはもちろん、自社を自分の意思で”変革する”という発想が希薄だ。
                              織畑 基一


 アベグレンの、「多様な部署の仕事を経験してきていればつぶしがきくから食を奪われる心配はない」という言葉は、ローテーション異動(部門や職務間の配置転換)の有効性を象徴的に表現している。


 こうした日本企業の職務の曖昧さについて、外国人に説明する場合には、最初から日本企業には職務は存在しないといってしまったほうが分かりやすいかもしれない。その一言でおそらく彼らは驚き、そして呆れはててしまうであろう。
                田中博秀『日本的経営の労務管理』1988年


 日本企業における職務分担・・・・・・・サッカー
 欧米企業におけるそれ  ・・・・・・・野球


 また、田中博秀は、終身雇用の「短期的な非効率性」を認めながらも、一方で、その不利益を上回るほどの「長期的な効率性」を得ることができると主張する。


 それゆえ、戦前には、終身雇用制は存在したが、終身雇用問題はほとんど表面化していなかった。後者が大きくクローズアップされるようになったのは、戦後、それもとくに最近、技術革新や貿易自由化に応じた新しい経営づくりが必要になったからである。そこでは、終身雇用は新しい経営のにない手である新しい労働者を雇用するさいの阻害要因として、指摘されている。要するに、終身雇用についても、歴史的には経営の要請から出発した終身雇用制と、経営の阻害要因としての終身雇用問題とを、はっきりと区別しておく必要があろう。
                間 宏『日本的経営の系譜』1963年


 「日本的経営」の制度的支柱の一つである終身雇用制とは、従業員が定年に達するまで一つの企業に長期勤続する慣行をさしている。企業は、従業員に長期勤続を奨励するために、勤続給の導入、退職金制度の確立、福利厚生施設の充実を行った。すなわち従業員はながく勤続すればするほど賃金が上昇し、定年まで勤め上げれば有利な退職金が支給され、福利施設による便益を受けることによって他企業に移動する気持ちがなくなり、企業に定着する志向を強めたのである。いってみれば、三つの制度は、終身雇用制を維持するための条件としての役割を果たしたといってよい。
              船橋 尚道『日本的雇用と賃金』1983年


 日本のサラリーマンには、会社に忠誠を尽くすも尽くさないも、選ぶ余地がない。なぜなら、会社をやめられないからだ。(中略)
現状では、日本のサラリーマンには、みずからを会社にしっかりと一体化させて生きるより道がない。ほかの国でなら家庭や親友のためにだけ捧げられる心の中身まで、会社に差し出さざるをえないのだ。
K・V・ウォルフレン『人間を幸福にしない日本というシステム』1994年


 すなわち、日本的経営システムは明治以降の日本の近代化過程の中で、日本的なものから欧米的なものへ移行してきた結果ではなく、様々な模索を通じて進化論的に形成されてきたと理解することが適当である。
             吉田 和男『日本的経営システム』1996年


 日米の企業組織の違いは、「個」のイニシアティブを引き出すことによって極大のパフォーマンスを達成するアメリカと、「全体」のまとまりを重視し整然と目標に邁進する日本型に分けられる。工業製品主導の社会では、現場の生産性で一日の長があった日本型に軍配があがったが、スピーディーで創造性が求められる情報重視の社会でも日本型が優位にあるとはとうてい言えない。そこに実は、日本型組織の限界がある。
             G・フィールズ『超「日本的経営」』1996年


 日本的経営の強みは、社員と経営の連帯感であり、それを容易に崩すべきではない。日本ではそれにとって代わる基盤はあまりに浅い。その意味では、日本的経営の根本にある終身雇用の完全放棄はかなりの危険をはらむ。終身雇用をある程度維持することを志す経営が、日本では主流であるべきだと私は思っている。
             G・フィールズ『超「日本的経営」』1996年


 これまでの議論で、私は、西欧型のインディビデュアリズム(個人主義)ではなく、日本社会に適合する独自の日本式個人主義の可能性を示唆してきた。
その独自の個人主義を表現する言葉を提案するとすれば、「個」を尊重しながら「全体」との調和を志すという意味で、「個調主義」という言葉が適当かもしれない。
繰り返すが、いままでの社会の基本的価値観を全否定したシステムを一昼夜で確立しようとすれば、混乱が生じ、その企業は痛手をこうむる。
             G・フィールズ『超「日本的経営」』1996年


 このように、フィールズは、「年功制は廃止するが、核となる正社員については終身雇用を維持して連帯感を強め、その他に契約社員として有能な専門家を多数活用する」という未来像を示している。


 深刻なのは、日本の国内でこの日本的経営に対する評価が急速に低下していることである。しばらく前に起こったバブルは、愚直さ失ったために出てきたものである。(中略)日本的経営を支えていた愚直の精神は不要になったのだろうか。
             加護野 忠男『日本的経営の復権』1997年


 最大の原因は、日本企業の人事のシステムがうまく機能しなくなったことに求められるのではないか、と私は見ている。愚直な人ではなく、「かしこい」人が評価されるシステムになってしまったということである。(中略)
 それどころか、逆に、「実績主義の報酬制度」や「管理職年俸制」といった「かしこさ」をより評価するシステムが導入されつつある。どこかで歯車が狂い始めたのである。
             加護野 忠男『日本的経営の復権』1997年


 このような観点から、本書を通じて明らかになった成功原則・・・・・・・それは、どのようなシステムを設計するにしても、そこに「企業と社員との一体感の追求」と「生真面目に努力する社員の尊重」という設計目的が込められていることが必要であり、「その国や地域社会の文化(与件となるような価値観)の弱みは抑え、強みに磨きをかけて活用できるようなシステム」を心がけておけば、それが最善のシステムだということなのである。


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【投稿者コメント】
様々に分岐した就業形態の今現在、マドリング・スルーな活動こそ次のステップへの重要な歩みであって、官僚好みの理想論は何の力も発揮できないであろう。

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素材抜粋- 2004年公的年金改革 避けられない「報酬比例部分の個人口座化」

2011年01月11日 | 読書
新年に当たり、頭のリフレッシュ体操をして、新たな発見、セレンディピュティの仕掛け、突然のブレイク・スルー、のめりこむマドリング・スルー等を行いましょう。そこで、考え方のレッスンのひとつとして、本の抜書き、考え方の素材を抜粋して投稿します。


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素材抜粋                                    2003/01/25


2004年公的年金改革
避けられない「報酬比例部分の個人口座化」

野村総合研究所著
野村総合研究所 2002年





 今後の年金改革についての全体像は以下のようなものとなろう。
<公的年金改革>
(1) 2004年の公的年金改革のポイントはまず給付の削減である。
(2) これに加えて自己積立口の導入も必要である。

<企業年金改革>
(1) 確定拠出年金においては、①特別法人税の撤廃、②企業拠出枠の拡大、③途中現金化条項の整備、④個人拠出用件の厳格化、である。
(2) 確定給付型年金では、①PBGCを日本に導入する必要はなく、②年金財政の健全説チェック指標として、清算基準を導入する、ことで十分である。
(3) ノンレバレッジドESOPの導入を目指すべきである。金庫株とノンレバレッジドESOP
の組合せにより、「従業員の株主化」「新たなる株主の創造」は十分可能である。

<年金税制改革>
(略)


 第一に、日本において法律的に年金受給権は定まっているのだろうか。PBGCが保証するのは、ABOマイナス年金資産の部分である。ABOの計算の根拠は、年金は賃金の後払いであり、一回定まった金額は決して修正することができないということにある。日本の労働法では、退職金は賃金の後払いと規定しているだろうか。・・・・・・・。つまり、日本の退職金は完全に賃金の後払いとは規定されていない。


問題の所在は、日本において法律上、年金受給権が定まっていないことである。現状での企業倒産が生じたときの年金資産の配分は、まずOB優先、財産に残りがあった場合は現役従業員の合意によって配分となる。これはおかしい。


 しかし、現在の企業年金制度は「ゆるいしばり」の中で運営されている。また、退職給与引当金だけの企業がきわめて多いことも事実である。これら企業が倒産した場合の従業員の退職債権の保全は、きわめて困難な状況にある。したがって、中小企業ではいかに社外に退職給付のための財産を確保するか、すなわち企業年金を導入するかが課題なのである。


 先進国における公的年金改革のポイントは、まさに高齢化が進行するなかで、自国のシステムの耐久力を上昇させるために、確定拠出年金を組み込んでいく流れである。このことは自己責任による老後の準備のウェ-トを引き上げていくことを意味しており、個々人に生き様の変更迫るものである。構造改革とは、あるがままの現実を直視し、このままではやっていけないと悟り、生き様を修正していくことではなかろうか。


 私的年金においても状況は同じだった。1990年代、日本企業は巨額の年金積立不足を計上した。バブル崩壊後の減速経済が続くなかで、企業収益は大きく低下しており、従業員に対する退職給付制度をすべて確定給付型年金制度で運営することは、あまりにリスクが高いものであることが認識されたのである。


 日本企業の収益力を素直に直視し、労働市場の流動化の現実を直視するならば、企業年金の分野において確定給付だけでなく確定拠出型年金制度を準備して、ポ-タビリティがあるが自己責任での運用という年金の選択肢を加えておいたほうが、この国にとって民間部門の活性化につながる公算が大きかった。


 公的年金の一部民営化は必要である。ここで定義する民営化とは厚生年金の報酬比例部分を個人型確定拠出年金に切り替えるものである。基礎年金は現行と同じく世代間扶養(「親への仕送りの社会化」)で運営する。移行期間(現役世代のすべての人が新制度に切り替わるまでの期間)として40年を想定する。

 少子高齢化の進行している日本で、公的年金のすべてを世代間扶養の原則で運営することは事実上不可能であり、人口動態の変動から中立である積立口座を公的年金の一部に導入する必要がある。個人口座は公的年金における世代間不平等を是正する手段である。


 前述のように、現行の厚生年金制度は様々な制度上の問題が存在しているだけでなく、制度改革のプロセスも不透明な点が多いため、年金制度への誤解や心理的な年金不信と年金不安を招いている。
 「修正」賦課方式との説明や巨額の積立金が存在しているため、しばしば次のような誤解を招いている。すなわち、毎月われわれの給与の17.35%(正しくは事業主と本人の折半負担であるから8.675%)を保険料として支払うと、国のどこかのポケット入れられ、将来このお金が必ず返ってくるのだとの認識である。これは間違いである。厚生年金制度は、あくまでも世代間扶養の制度であり、支払った保険料は現在OBの年金給付に充て、自分自身の年金額は将来の現役世代に負担してもらう仕組みとなっている。


 これまでの民営化論は言葉が先行し、内容についての検討が遅れているが、ここでは、個人口座を準備した上で、自らの所得の一定比率を所得控除で拠出し、自己責任で老後の準備をすることを、報酬比例部分の民営化と考える。つまり、世代間扶養で運営される公的年金制度の一部に個人型確定拠出年金が加わるようなもので、現実的には、国民年金基金連合会に自営業者が年82万円の所得控除で拠出できる個人型確定拠出年金をすべてのサラリ-マンにまで拡大するというイメ-ジである。


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【投稿者コメント】
平成23年の現在、いまだ「報酬比例部分の民営化」は達成されていませんが、おいおい政府は財政的にそこへ追い込まれるのではないでしょうか。

『情緒の力業』プロモーション

2010年12月29日 | 読書

『情緒の力業』プロモーション

1.唯一・最高の書評


2.『情緒の力業』

高野 義博著

1995/12/15発行

近代文藝社

定価1800円

 

3.『情緒の力業』 はしがき

『地下生活者の手記』を読んで衝撃を受けたのは東京へ来たての高校生活が始まって間もなくの頃だ。それまでは、まったく本の世界を知らなかったのだし、「二二が四」以外の世界の存在など思いもよらなかったのだから、それはまったく文字通り以上の衝撃だったのだ。

というのも、中学生の頃は田舎での野球に夢中だったし、上京後の高校生活は夜学の電気科と昼間の仕事の模型屋と、そして土曜から日曜にかけての東京近郊の尾根歩きの単独行の世界だけだったのだから。

そういう生活の中から、ドストエフスキー・ショックにより「私とは何か?」と問い始めたのだ。淀橋浄水場の隣接地にあった夜間の「電気」高校を卒業したとき、電信柱に張り付く仕事しかなく世の常の道から外れぶらぶらしていた頃だから、十九歳の時だ。毎朝、日雇い仕事を新聞で見付けるのが日課になっていたその当時、因果の淵源は別にあるにしても、この問いはこの時発せられるべくして発せられたということだろう。(以下略)


4.表紙


5.著者自薦

これから世の中に打って出ようとしている多感な中学生、高校生にうってつけのの本です。

逞しく立ち向かう姿勢を培うことでしょう!


6.Amazon販売状況

在庫切れ

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7.著者取り置き本

在庫有り


8.Fax注文

下記の用紙を印刷し、Faxで送信してください。国内送料著者負担でお送りいたします。

Fax注文書



以上


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