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「人様のお金」OPM(A4・224頁)  連載 12

2013年03月12日 | 厚生年金基金

 要するに、日本型資本主義のインフラの下での<人様のお金>は、一定のストックの積み上げを果たし福祉国家の達成という官僚の野望を曲がりなりにも実現しましたのは事実ですが、「積立不足の凍結」という結果に終ったと断罪して、おおよそ間違いのないところでありましょう。逆に言えば、<人様のお金>を担保するには日本型資本主義の統制的なインフラとは別個の市場型インフラが必要ということでしょう。そのインフラ足りえるのではないですかと考えられるのが、このたびの国際会計基準が引き連れてきた上記の時価会計、連結決算、キャッシュフロー計算書、退職給債務等々のインフラです。 更に、先にも触れましたように官僚の産業社会育成と福祉国家達成のための統制経済故に官の民への介入が正統化され、それが結果的に日本における法理不全・法律無視、<契約概念>の機能不全という事態を招いてしまいました。
そこで、この場面を打開するために要請されるのが、<人様のお金>の無言のプレッシャーがもたらす「決まる」という事態を促進するために憲法記念日の日経記事のように憲法25条等を見直し憲法上に官僚介入の排除を担保することを明記することも不可避と考えられます。ここで重要なことは、契約概念に付けくわえられるべきは英国のエクィティの伝統により培われましたトラスティまたはフィデュシャリーから派生しました<信認概念>のインフラです。<人様のお金>を担保するインフラとして契約概念に欠けるところを補うには最適の理念でありましょう。その一つが愈々日本でも展開の始まりました<受託者責任>という考え方と言えるでしょう。

第一は、官をうしろに退けるため、経済的な自由をきちんと保障するよう制度化
することだ。それにはまず二十五条の生存権について考える必要がある。この条文
を根拠に「社会国家」「福祉国家」を実現するためには、経済活動の規制をはじめ、
官による民への介入は許されるという考え方が官主導を許してきたからだ。……。
規制行政についても、自由な競争秩序を守るための規制は許されるが、競争制限
的な規制は原則として認められないことを憲法に明示することが考えられる。
……。
官を後方に回すもうひとつの方法は政治を使うものだ。チェック機関としての国
会の機能強化がそれである。

芹川洋一:21世紀へ憲法改革を
日本経済新聞 2000/5/3 朝刊


<人様のお金>を担保するこの<信認概念>を根本理念として、日本の経済・社会を取り囲む様々なインフラストラクチュアが見直され、点検を受け、再構築されることになりましょう。最終的には、<人様のお金>はこれら国際会計基準、効率市場、受託者責任等々のインフラによって守られるようになるでしょう。
 ということは、<人様のお金>が上記のようなインフラを持つことによって、従来のような統制経済、官僚の民間介入、<自分たちの金>、PKO、株式持ち合い、銀行の株式保有、生保の大蔵迎合、証券の反市場行動等々を見逃さなくなっていくでしょう。それらのアンシャンレジームが旧態依然のままであれば、<人様のお金>は、それらから一斉に退避することになります。
 さらに、退避などという受動的対応から、積極的に投資拒否に至るのはほんの一歩です。<人様のお金>の選別が始まるのです。そのことが厚生年金基金の資産運用機関選択・戦略アセット・ミックス等ですでに動き出しているのです。
つまり、<人様のお金>のパワーは、ヘッジ・ファンドがイングランド銀行を叩きのめしたような力を獲得しつつあるということ、日本に『見えざる革命』を強要する現実を生みだしているということ、日本型資本主義の統制経済に引導をわたしたということ、と同時に、将来に向けて<人様のお金>が日本のインフラストナクチュアを創り出していく最も重要な概念となってきたということでしょう。




ロッキィーズ物語

・知人の輪

―高野コーチ! こんばんは。
―……? 誰でした。
―ロッキィーズのNですよ。
―ああ、君なのか。
―ご酩酊ですか?
―君こそ、遅いねぇ。仕事かい?
―ええ……
―何処へ行ってるの。
―N新聞ですよ。
―そおっ、どういう方面なの?
―金融。
―ワオッー。私は年金の仕事で、金融は分野だよ。
―そうですか!
―君は確かロッキィーズでは、悪いけど、ヘナヘナピッチャーだったよね。
―ええ。その後、中学・高校とAに行き、W大を卒業したばかりです。今、研修
中なんです。
深夜の駅前で声を掛けられ、私はこの街とのつながりを確かなものに感じていた。
少年たち、お母さん方、コーチ達、よそのチームの関係者と、数え上げると2、
300人の野球関係の友知人がこの街にはいるのだと、ホロ酔いのままに感動させ
られていた。



円の国際化が何を意味するのかは人によって違うようだが、外国でお札が通用す
るようになるのは、東京市場の国際化などという生易しい話ではない。憲法9条の
改正から始めなければならないことになる。冷戦の終結により、そういうことが明
確になってしまった。経済大国とは「裸の王様」のことであった。

西村吉正『金融行政の敗因』



アメリカ人は、一人ひとりが、英語でいう principle(プリンシプル)をもって
いる。主張、主義、あるいは生活信条、いろいろ訳すことはできるが、とにかく芯
がある。グニャッとしていてつかみどころがなく、大勢に身をまかすという人はほ
とんどいない。
individualistic あるいは individualism 。そんな彼らの習癖を、個人主義的
あるいは個人主義思想と難しく考えるよりも、生れながらにして「自分は自分」と
いう考え方があると考えたほうがいい。

寺澤芳男『ウォール・ストリートの風』




   第7章 ビジョン「年金基金」

  (1)戦後日本の哲学もどき
イ.年金獲得
新宿淀橋の夜間電気高校で「電磁事象」の授業を受けていました昭和35年頃、筆者が読んでいたフランスの小説に「年金」という活字が流砂の中の砂金のように再々現れました。田舎出の貧乏夜間高校生には<年金で暮す>というフレーズはたまらない魅力でしたし、それこそ、現代の桃源境と考えたものです。ならばそれを実現するためにはどうしたらよいのか、幼い高校生は共産主義による社会構造変革を夢見るようにもなったし、先ず喰うために金を稼がなければ話にならないとも考えたものです。多くの人と同様に唯物主義から唯心論に軌跡が大きく触れながらの青春時代でした。そんななかで、強力なインパクトを受けましたのが、フランスの天才少年詩人A.ランボオの<年金獲得>を目論んだアフリカでの密輸業と、その壮絶な憤死でした。

さて、戦後日本の経済復興は官民協働のよろしきを得て多大な犠牲の上にとはいえ、経済的に豊かな社会、産業と福祉が一体になりました国家を建設し得たと言えるでしょう。「経済活動の規制や富と所得の再分配による「結果平等」の政策を官僚が主導した結果、所得水準を底上げし、一億総中流意識をもたらしたのは事実です。それは戦後日本の成功でした。」(芹川洋一:21世紀へ憲法改革を 日本経済新聞2000/5/3朝刊 )
こうして積み上がったストックによって<年金獲得>を一個人や軍人等の特殊な領域の人間だけではなく国家レベルで大多数の国民が享受する事態となりました。福祉国家の実現であります。夢であるにしか過ぎなかった桃源境の達成です。日本の経済復興の本来の謂れは産業振興や債権国化等によるものではなく、一般国民レベルの<年金獲得>の達成によってこそ言われるべきものでしょう。これをわずか戦後の50年余で達成した日本は、一般に言われるように<日本の奇跡>を限定詞付きではありますが成就したことになりましょう。


規制緩和、金融開放が遅れた国は、進んでいる国から問題の処理を迫られる。こ
こに妥協の産物として生み出されたものが、いくつかの国にみられるオフショア・
マーケットである。その精神は、国内金融、すなわち金融政策の対象となる市場と、
国際金融との分断である。
以上のことをまとめてみよう。
金融は本質的にグローバルなものである。それをナショナルなものに閉じ込める
要因が緩んでくるにしたがって、金融はその本来の姿を表し“国際化”する。

浜田康行/沢田隆『邦銀ロンドン支店』


ロ.個の抑圧・抹殺
ところが、米ソ冷戦構造体制が崩壊し、経済のグローバル化が進展、情報がワールドワイドになるにつれて、日本の特殊な資本主義の実態が実はソ連以上に成功しましたピュアな共産主義であることが明らかになったのです。それは、官僚が政治を手なずけ民間を抱き込みプロデュースしてきました産業振興と福祉国家建設という国家目的達成のための官僚統制・中央集権的国家統治の手法、「一国完結の社民主義型の行政国家」(芹川洋一)が、内部に保持する反市場主義・ファッショ故に立ち行かなくなりました事実を露見したということです。
日本型資本主義の実態が実はピュアな共産主義、つまり統制統治のファッショでしたという現実が、官僚の国家目的達成という<虚構の正義>を蔓延させ、法の支配・三権分立さえも形骸化し非法治国家にしてきたのです。唯一の正義は官僚の<虚構の正義>であり、どこに本来の正義があるのかといぶかしげる事態が50年余も続いたのです。
産業振興と福祉国家建設という国家目的達成のために官僚が示しましたメニューだけが正義ですというとんでもない虚構がまかりとおってしまい、明治以来戦前戦後通じて搬入された外来文化の民主主義はその論理を換骨奪胎され、その上旧来の伝統的な価値観も倫理観も宗教も踏みにじられたのです。或いは百歩譲って、官制メニューの産業振興と福祉国家建設以外のものは緊急避難的に排除されたと言えるかもしれません。


政局の安定と行政能率の向上とを図るといい、現代福祉国家の形成に寄与すると
いい、それなりにりっぱな目的がかかげられているため、つい賛成したくなるかも
しれないが、そこでは国民主権の実はうしなわれ、自由・人権の制限・剥奪がすす
み、ファシズム体制そのものに転化する可能性がきわめて大きいことにも留意され
ねばならぬだろう。がんらい、「強い国会、弱い政府」というのが民主政治の理想
型だといわれている。それを「弱い国会、強い政府」の型にもっていくことが、果
たして適当かどうか、慎重を要するところである。

黒田了一「内閣と行政」1965
憲法問題研究会編『憲法読本』下


国民は総じて官制メニューという絶大な潮流に巻き込まれ飲み込まれ、産業振興と福祉国家建設というフレーズの統制計画経済統治のファッショを許容してきたと言えるのでしょう。その際、官僚サイドの民心把握・誘導・形成の戦略として使われましたのが、ソ連や中国にもない、世界に稀な大蔵省主導の経済企画庁や通産省等の国家機関により再々発表された各種の<経済計画>であります。民間の方では、この<経済計画>が発表されるたびに、都度、資本配備・設備投資のシフト替えを行う柔軟さ(?)を発揮してきたのです。というのも、このような国家目的に添った投融資であれば、つまり、官僚が仕組みましたインセンティブに乗っていれば、リスクも低く、収益も確実でした。

 こうして官僚は、あえて<経済計画>に反するリスクをとりましょうという国民の意欲を奪い、起業の芽を潰してきたのです。全てを官僚操作の範囲の釈迦の手の内に納めようという戦略です。それが、産業振興と福祉国家建設によって提供されました”官制”の<国民の幸福>であったのです。
要するに、<統制構造>が仕組まれている“官制”の<国民の幸福>の内実は、唯物主義の拝物拝金主義の祠をかろうじて維持している程度の中身がからっぽの<空洞の祠>であったのです。そこには正義もなく、倫理も廃れ、ドメスティックなものの生きる場面は排除され、個は意識されることも無く、全面的に抑圧・抹殺されていたのです。


かくて、被占領下のわが法体系は、全般的に占領軍権力の支配下に置かれたとい
うだけではなく、さらにそれが個々の国内法令にふかく浸透して、「憲法を頂点と
する憲法体系と、ポツダム政令を中心とする一連の管理法体系との並列状態」をも
たらしたといわれるが、事実はむしろ、「管理法体系の従属下における憲法体系」
にほかならなかったのである。

黒田了一「内閣と行政」1965
憲法問題研究会編『憲法読本』下


この日本経済・社会をくまなく支配している<統制構造>は、帝国憲法に始まり、大正デモクラシーを粉砕し、軍部独裁を容認し、太平洋戦争の泥沼の末にポツダム宣言受諾に至ったのです。その後、占領下、冷戦構造等という特殊事情のもとに、法理は政令・省令等の統制管理に支配されるという歪を生みだしてしまったのです。この法理無視が、日本の国政全般、あらゆる制度、社会のフレーム・ワークを包み込み、憲法にも、三権分立にも地方自治にも、民主主義にも、財政、税制、社会保障、法秩序、金融、為替、教育、医療、……等々に、官僚の恣意、つまり理念追求型思考スタイルによる<統制>を浸透させてしまったのです。一方、民間サイドの分野でも、企業活動の含み益経営や株式持ち合いや恣意的な変更を度々繰り返す会計制度等に象徴されるような統制手法が社会を隈無く支配していることが明らかになってきたと言って間違いないでしょう。
 要するに、この統制手法の基本的なテクニックは<知らしめず、依らしむべし>ということでありましょう。情報秘匿こそ戦略であり、情報開示は愚の骨頂。有無を言わせませんファシズム、ツアーイズムこそあれ、経過説明の世界とは全く逆の世界なのです。そこには、常に、エリートと仮称される者たちの経験不足を理念で取り抑えようとします<恣意の傲慢さ>が付き纏います。早急な理念でっち上げの意図がドメスティックなものの削ぎ落としを強行することになります。彼等は、物事を浮遊したままに捨て置くということが出来がたい人格なのです。捨象の謂れを抹殺し、旅急ぐ面々であるということです。


考えてみればMOFが市場型行政に賛成しないのは、当然といえば当然であった。
……、生産者中心の日本の経済構造の中で、証券行政は消費者や投資家の立場に
立ったものというよりも、証券会社や株式の持ち合いを行っている企業のためのも
のという側面の方が強かった。そうした中で、利用者の側に立った市場型行政は、
それと逆行することをも意味したからだ。……。そのような状況に、結局MOF
は、証券市場に対して摘発型組織の導入を受け入れることになったのである。

石澤靖治『ザ・MOF』―大蔵省権力とデモクラシー



ロッキィーズ物語

・優勝試合

平成6年度の市の夏季大会はロッキィーズの晴れ舞台だった。それ迄の試行錯誤
  が一気に結集、華開くことになった。
初戦、御所見ジュニアーズを6対2で下し、2回戦石川リーブスを25対0と大
破し、問題の3回戦は春の大会で10対0と大敗しているシードの辻堂イースタン
ジュニアーズに6対4と競り勝ち、長い間の壁の突破を果たした。次いで、4回戦
準決勝は試合巧者の浜見少年野球部を5対4と退け、決勝戦に進出。
そしてついに、強打で勝ち上がってきていた用田少年野球部を、9対2と逆に打
撃で打ち砕き、身の毛がよだつような戦慄というか、総身がゾクゾクしている間に
優勝してしまった。



ハ.哲学などしたこともない!
官僚統制構造と法人資本主義の<虚構の正義>に制覇された日本型資本主義は、傲慢にも<虚構の正義>の文脈にあらずば正義ではないですと、神も仏も恐れないファッショ体質を隠し持っていたのです。誰かが、どこかで代替作業をしてくれているという、依頼心、依存心を生み出すように国家目的と会社主義が仕掛けられていたのであり、更にそれが昂じて国民や社員の論理的思考そのものの略奪が行われ、代替の哲学もどきを供与され自分で考えるということをさせないファッショが成立していたのです。
そこには、例えば、サラリーマンの税金意識をないがしろにして官僚の恣意をほしいままにする「源泉徴収方式」というような仕掛けが無数に仕組まれているのです。それが官僚にとって効率的な情報操作を達成するために国民を無知のままに据え置く「知らしめず、依らしむべし」の手法というわけです。官僚の御膳立てによる抑圧が、国民自らが思考するということを奪うと共に、リスクを取りました行動を抑制し、保守主義・保護主義を助長し閉鎖社会を形成してきたのです。このことは、官僚だけのことではなく、「民僚」にも同様な方式が蔓延っており、総会議事、人事評価、会計操作等に占めるダークな裁量部分を自分たちの特権でもあるかのように振る舞う者が多いのが現実です。


日本の金融・資本市場をそのような不自由でアンフェアでローカルなものにして
しまった大きな要因の1つに、大蔵省による正統性なき会計基準への規制が長きに
わたって続けられてきたことが上げられる。そもそも会計制度は、複式簿記システ
ムという統一化された体系を持っているにも関わらず、日本の会計基準は戦後世界
の流れから取り残され、制度間の比較可能性のいささか低いものになってしまつた
のである。

山本昌弘「国際会計基準が日本企業の会計行動に及ぼす影響の研究」


 要するに、日本には官民による国民自身の<思考の召し上げ>という壮大な情報操作が仕掛けられていたということです。そうですから、当然、大多数の国民や会社員等は本格的に体系的に自ら考えたことも無く、ましてや「哲学など、したこともない!」というのが本当のところでした。


一方、「由らしむべし知らしむべからず」という表現があるように、為政者、あ
るいは権力者は、自らの意思決定の過程をできる限りブラック・ボックス化して、一
般には知られないようにしようとする。それは決定のプロセスに対しての批判を避
けるためである。そしてプロセスの透明性が確保されない場合、国民不在の政策決
定が行われ、民主主義の精神に反する政治になることが往々にして起こる。

石澤靖治『ザ・MOF』―大蔵省権力とデモクラシー


ニ.ミル、スミスとマルクス、ケインズ
先日、TVの番組で、イギリスの森で生きる人たち、<森番>の様子を見ることが出来ました。<森番>逹は何百年も続く先祖伝来の森の中で、動物を飼い、耕作をし、政府から委託を受け森を維持管理して生活していました。森での揉め事は仲間内から選出された者によってその都度裁定されていました。その裁定の累積の結果が、イギリスの裁判所のコモンローとは別のいま一つ、15世紀以来19世紀半ばまで続きました「エクィティ」の伝統になっているとのことでした。
この「エクィティ」の<裁定の累積>は、現実を理念でとり押さえようとする恣意的な考え方と違い、多数の人間が介在して膨大な時間をかけた多様な判例の積み重ねです。図式的に区分すれば、前者がドイツ・フランスを中心にしましたヨーロッパ大陸法の伝統であり、後者がイギリス・アメリカ・オーストラリア・カナダなどの英米法です。これら法文化の背景には、当然、その土地に生活しました人々の暮しがあることは否定し得ませんが、人々の資質、環境、状況等の各場面で始めに理念有りきか現実有りきかによって大陸法となり英米法となったのでしょう。当然、「エクィティ」の伝統形成に寄与した著作家たちの始めに現実有りきの考え方をするJ.S.ミル、A.スミス、J.ロック等々のイギリス経験論思想家達の伝統に、私悪即ち公益のマンディビル、隷従の方法論のハイエク、マネタリストのフリードマン等々が続くが、一方、始めに理念有りきの体系の人としてマルクス、ワルラス、ケインズ等の系列があります。
日本では、戦後日本の哲学もどき(統制思考)で50年余を生きてきて“官制”の<国民の幸福>を与えられましたが、三権分立も議会制民主主義も空洞化され、宗教も倫理も廃れ、個人の意識は抑圧・抹殺されたまま<哲学などしたこともありません!>という状態です。法制も財政も行政も、金融システム、教育システム等々も荒れ放題というところ。


このようないわば恐怖政治(治安維持法下の大正末期政治)のもとでは、「見ざ
る、聞かざる、言わざる」の三猿にならって、ただ黙々と上から命令され号令をか
けられままに動いて生きるほかはない。つまり、国民はすべて人間性を否定されて、
牛馬にひとしく奴隷扱いをされていたといってもよい。そして多少でも勇気をもっ
て正しいことや批判的なことを発言してみても、その発言は完全に封殺されて世間
には伝わらないうえに、自分はひっぱられてひどい目にあうだけのことだから、黙
して語らない識者も少なくなかったのである。

末川博「自由」1965 憲法問題研究会編『憲法読本』上


上述してきましたように、理念で立ち向かう統制的思考スタイルをとるか、現実との格闘の中に切磋琢磨の試行錯誤を通じて新しいものを見出していくのか。何れにしろ、自分で独自に論理展開を図り、個々に哲学していかなければならないのでしょう。事例として、次ぺージの絵図(?)みたいなドメスティックなものはどうでしょう。



それは日本のエコノミストたちがいうように経済システムが単にアングロ・サク
ソン型だからではなく、彼らが基本的に不透明さや「カオス」を積極的に喜ぶ民族
だからにほかならない。不透明さのなかにゾクゾクとした興奮を覚えるというのが、
アングロ・サクソンの民族性というものなのである。それは何よりも「直視するこ
と」の大切さを第一義とする習性の強みともいえる。

現在、サッチャー改革やレーガン改革が再評価され、その先駆性や果断さばかり
が強調されているが、もっと注目すべきなのはアングロ・サクソンの、泥濘のなか
 を注意深く切り抜けていったときの、心理と状況観察の二分法とそこから生まれる
 戦略と戦術面の「柔軟さ」を尊ぶ姿勢であろう。先が読めない場合にも悲観的にな
 らず、うまくいきそうなときにも楽観的にならず、プロセス自体に情熱をそそぐ態
 度が、この「霧の時代」を生きるための不可欠の活力を与えてくれるからである。

中西輝正『なぜ国家は衰亡するのか』


ちなみに、イギリスには、「マドリング・スルー」という言葉がある由、「これは直訳すれば“泥のなかを通り抜ける”ということですが、遠くの見通しはつかないなかでも、積極的に当面の困難に立ち向かいそれを切り抜けて、大きな成果につなげるという意味に用いられます。」(中西輝正「なぜ国家は衰亡するのか」)とのことです。

 
わが国の受託者責任に関する法律の規定や法理論の不備は目につきすぎる。それ
ではわが国で契約意識が根づいているかと言えば、「法三章」(法や契約は簡素な
のが理想)という言葉があるように、責任関係を明確にするため契約書にしっかり
書き込むこともない。このため、信託法理(信認法理)も定着せず契約も曖昧な結
果、責任関係の「空白状態」が生じかねない。基金の資産は加入者の将来の給付財
源であり「他人の金」である。それならば、それを預かり運用する者の責任関係が
曖昧であってよいはずがない。また、法律の規定の整備を待つには時間がかかりす
ぎ判例・学説の蓄積も不十分である。だとすれば、基本的には契約によって責任関
係が曖昧な部分を減らす努力をすべきではないか。

厚生年金基金連合会運用調査部長島崎謙治
「年金基金の資産運用のチャレンジ」
2000/6/2 単独連合厚生年金基金協議会オープンセミナー



 ここにきてわれわれ日本人は、先人や歴史に学ぶとともに、憲法を始めとして、ギリシャ哲学やローマ法、英国経験論等を含めてA.スミスやマルクス等を読み直す時期になってきたということでしょう。当然、イデオロギーとか理念的ドグマとか頑な決定論、更に統制思考等には現下の現実に立ち向かう力の無いことを認識しつつ、抽象の果実を得る際に捨象されましたドメスティックなものの復権を図り、そこから全てが始まるということになるでありましょう。


上述してきましたように、理念で立ち向かう統制的思考スタイルをとるか、現実との格闘の中に切磋琢磨の試行錯誤を通じて新しいものを見出していくのか。何れにしろ、自分で独自に論理展開を図り、個々に哲学していかなければならないのでしょう。事例として、次ぺージの絵図(?)みたいなドメスティックなものはどうでしょう。


それは日本のエコノミストたちがいうように経済システムが単にアングロ・サク
ソン型だからではなく、彼らが基本的に不透明さや「カオス」を積極的に喜ぶ民族
だからにほかならない。不透明さのなかにゾクゾクとした興奮を覚えるというのが、
アングロ・サクソンの民族性というものなのである。それは何よりも「直視するこ
と」の大切さを第一義とする習性の強みともいえる。

現在、サッチャー改革やレーガン改革が再評価され、その先駆性や果断さばかり
が強調されているが、もっと注目すべきなのはアングロ・サクソンの、泥濘のなか
 を注意深く切り抜けていったときの、心理と状況観察の二分法とそこから生まれる
 戦略と戦術面の「柔軟さ」を尊ぶ姿勢であろう。先が読めない場合にも悲観的にな
 らず、うまくいきそうなときにも楽観的にならず、プロセス自体に情熱をそそぐ態
 度が、この「霧の時代」を生きるための不可欠の活力を与えてくれるからである。

中西輝正『なぜ国家は衰亡するのか』



ちなみに、イギリスには、「マドリング・スルー」という言葉がある由、「これは直訳すれば“泥のなかを通り抜ける”ということですが、遠くの見通しはつかないなかでも、積極的に当面の困難に立ち向かいそれを切り抜けて、大きな成果につなげるという意味に用いられます。」(中西輝正「なぜ国家は衰亡するのか」)とのことです。

 
わが国の受託者責任に関する法律の規定や法理論の不備は目につきすぎる。それ
ではわが国で契約意識が根づいているかと言えば、「法三章」(法や契約は簡素な
のが理想)という言葉があるように、責任関係を明確にするため契約書にしっかり
書き込むこともない。このため、信託法理(信認法理)も定着せず契約も曖昧な結
果、責任関係の「空白状態」が生じかねない。基金の資産は加入者の将来の給付財
源であり「他人の金」である。それならば、それを預かり運用する者の責任関係が
曖昧であってよいはずがない。また、法律の規定の整備を待つには時間がかかりす
ぎ判例・学説の蓄積も不十分である。だとすれば、基本的には契約によって責任関
係が曖昧な部分を減らす努力をすべきではないか。

厚生年金基金連合会運用調査部長島崎謙治
「年金基金の資産運用のチャレンジ」
2000/6/2 単独連合厚生年金基金協議会オープンセミナー


 ここにきてわれわれ日本人は、先人や歴史に学ぶとともに、憲法を始めとして、ギリシャ哲学やローマ法、英国経験論等を含めてA.スミスやマルクス等を読み直す時期になってきたということでしょう。当然、イデオロギーとか理念的ドグマとか頑な決定論、更に統制思考等には現下の現実に立ち向かう力の無いことを認識しつつ、抽象の果実を得る際に捨象されましたドメスティックなものの復権を図り、そこから全てが始まるということになるでありましょう。



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1 コメント

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はじめまして、初コメントです! (めぐみ)
2013-03-12 19:18:18
はじめまして!めぐみっていいます、他人のブログにいきなりコメントするの始めてで緊張していまっすヽ(*^^*)ノ。ちょくちょく見にきてるのでまたコメントしにきますね(*゜ー゜*)ポッ
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