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素材抜粋-ケン・スタイナ-著 「衰退の一途を辿る種族」 佐々木一成訳

2011年02月06日 | 読書
素材抜粋
2001/08/31



確定給付年金は生き残れるか?


ケン・スタイナ-(米国の数理人・会計士)著「衰退の一途を辿る種族」佐々木一成訳

米国「PLANSPONSOR」誌 07/2001


衰退の一途を辿る種族

伝統的な年金制度は存続し得るか? そのためには今すぐ政策担
当者は行動をおこさなければならない。





伝統的な確定給付型年金制度は、アメリカの労働者にかってないほどの退職保障
をもたらしています。しかし、米国内で同制度を採用する企業数はこの15年間ずっと減
り続けてきており、その減り方のスピ-ドも着実に上がってきています。ですがこの危機
的状況は、政策担当者が、今日のように足元しか見ないような政策が長期的に一体どんな
成果をもたらすのかをよく考え、そして軌道修正を自ら進んでそこへ加えておけば決して
避け得なかったとは思えません。



米国労働省の最新統計(フォ-ム5500というファイル)によると、およそ米
国の労働人口の45%が、少なくとも最低一つの退職保障プラン(適格要件を満たしてい
る)に加入していることになります。加入状況は、労働省がこの統計デ-タを収集し始め
た1976年以来、驚くほど一定水準を保ち続けています。その中で変わってきたことと
言えば、労働者の退職所得保障のメインプランとして確定給付型と確定拠出型のどちらを
中心にするかという選択でしょう。1977年時点では、最低一つ以上のプランの受給要
件を満たしている労働者の84%が確定給付型年金制度を自身のメインの制度として選択
しており、残りの16%が確定拠出型年金制度を選択していました。しかし1997年に
は(労働省の統計では最も直近のデ-タ)、この比率は大幅に変化しており、確定給付型制
度を選択している労働者は46%であるのに対して、確定拠出型制度の選択者は54%に
なっています。この統計から、確定給付型制度の衰退は明らかであり、この動きが目に見
えて逆転することは考えにくい状況です。



下図(グラフ省略)は、1977年から1997年までのプランごとの増減を示
しています。当該期間中、確定給付型年金採用企業数は1/2以下になっており、一方確
定拠出型年金採用企業数はほぼ2倍になっています。1985年から1997年にかけて
の12年間で、確定給付型制度採用企業数は約65%も減少しているのです。



1985年には、フォ-チュン誌のトップ100にランクする企業の90%以上
で、各企業のメインの年金制度として確定給付型制度が採用されていました。このプラン
では、一般的に従業員の勤続年数とその最終給与の平均額(通常は退職直前の3年から5
年の期間の平均値)に基づき給付額が決まるため、通常の確定拠出型制度よりも明らかに
高齢者に対する年間給付額が手厚くなっていました。昨年(2000年)には、メインの
年金制度として確定給付型制度を採用する企業はフォ-チュン誌・トップ100企業のう
ち52%に過ぎないことが判りました。



伝統的な確定給付型年金制度が衰退した理由はたくさん指摘されてきましたが、
要約すると次のようになるでしょう。

①管理コストの増大
②従業員の理解不足とそれによる低い評価
③制度を取り巻く厄介な規制の数々
④約束した給付水準の維持
⑤確定給付型制度年金制度は、その母体企業の事業目的とは相容れないという認
識(一種の金融子会社で、年金基金の収益が本体の収益を直撃するから)



給付にまつわる環境(規制や金融市場に対する姿勢、職場の雰囲気など)を熟慮
した結果、年金基金の多くは「制度廃止&制度新設」という選択肢、つまり確定給付型年
金制度を廃止して、そこへ確定拠出型年金制度を導入するといった行動を取るようになっ
てきています。若しくは、最近の傾向として「(制度)改造」というアプロ-チを取る年金
基金もあり、基金制度を確定拠出型年金制度がもたらす給付設計に近づけようとするもの
です。大まかに言えば、どちらの選択肢も労働者にとって年を取れば取るほど従前より手
取額が減ることになります。



奇妙なことですが、政策担当者は「(制度)改造」が老年労働者に与える影響だけ
に関心があるように見えてなりません。今のところ、政策担当者は「解約&乗換え」とい
う選択肢がもたらす被害については殆ど関知していません。例えば、2000年9月に刊
行された政府会計事務所による2つの報告書では、キャッシュ・バランス・プランの制度
改造については若干の懸念があるとしているものの、老年労働者にとって従来の確定給付
型年金制度が廃止され確定拠出型年金制度に取って代わられた時、さらに失うものが大き
いのではないかと言った議論は見られません。同報告書では、年基金に対して、①年金(制
度)改造時、従業員がどのような影響を被るか更に詳細な開示資料を作成し、②IRS(米
国内国歳入庁)が決定したキャッシュ・バランス・プランに関する暫定措置の文書を、共
に従業員に交付することを勧告しています。しかし、確定給付型年金制度が廃止され確定
拠出型年金制度を採用した企業の従業員が受給権保護を慎重に進めていく実際の手段につ
いては触れられていません。同様に、キャッシュ・バランス・プランへの転換時に発生す
る利益について更なる開示を求める法案が現在審議中ですが、その法案中にも上記①、②
のような情報開示を制度終了以前の年金基金に対して求める条項もありません。ここから
も明らかな通り、従来の確定給付型年金制度の制度変更は制限するが制度廃止については
看過するといった政策は、従業員に年金制度改造を前提とした「制度廃止&制度新設」を
選択することを本質的に強要している訳で、それゆえ確定給付型年金制度が減る結果にな
る訳です。



確定給付型年金制度が優れている理由

政策担当者たちは何故、確定給付型年金制度を推奨しないのでしょうか。確定給
付型年金制度の利点は次のように明らかです。

①確定給付型年金制度は、終身年金形式で年金給付を行うことを義務付けた唯一
の退職所得保障制度ですから、制度加入員が退職所得を失うことがありません。

②確定給付型年金制度は配偶者を保護します。結婚していれば、配偶者の遺族は
終身年金以外の形式で給付金がもらえる唯一の退職所得保障制度です。

③確定給付型年金制度は年金基金の運用パフォ-マンスの如何に係わらず、給付
額が保証されている唯一の退職所得保障制度です。

④確定給付型年金制度は企業にとっても税制面で有利です。




我が国(米国)の政権内には、(税制)適格要件を持つ退職所得保障制度(年金基
金)は、その税制上の優遇措置と引換えに一定の社会的目的のために奉仕すべきだという
議論があります。先程の報告書(2000年9月に刊行された政府会計事務所による2つ
の報告書)にもあったように、「税制上の優遇措置と引換えに、従業員は年金給付の公平な
分配と確保を目指した法律上の制限の枠内で自身の年金プランを設計することが求められ
ている。」というものです。しかし、デ-タ入手が可能な直近10年を対象とした労働省統
計によると、確定給付型年金制度に関連した税金支出額が負の値である傾向(もちろん、
確定拠出型年金制度上での税金コストよりずっと安い金額)が見られるのです。労働省統
計では、1988年から1997年にかけての確定給付型年金制度への拠出金の総額は
3380億ドルであったのに対して、同制度からの給付金総額は7840億ドル達していま
す。しかし、同じ期間で確定拠出型年金制度への拠出金総額が9950億ドルであったの
に対して、同制度からの給付金総額は8330億ドルに過ぎませんでした。母体企業にと
って、拠出分は利益から控除ができ、給付の段階で受給者に対して課税するのですから、
確定給付型年金制度は実のところ税収の増加に大きく貢献していると言えます。



最後に、我々(数理人・会計士・法律家等)が今まで行ってきた社会保険庁との
間での奮闘、言い換えれば事前積立方式、積立率、民間部門における政府による政策投資
の可能性などに関する論争を見ると、米国の指導者たちは確定給付型年金制度の普及を鼓
舞するような道を模索するだろうと思えたりします。個人の社会保障口座と確定拠出型年
金制度では、確定給付型年金制度と同レベルの給付水準や安全性を約束することはできな
いのです。



行動ステップ

確定給付型年金制度の普及を鼓舞する方法はたくさんあります。過去20年間に
発効された規制のうち幾つかを取り除き、以下の3点を骨子とする施策を実行することで
す。

①PBGC(年金給付保証公社)の保証金額水準を下げる。
②母体企業に対して、年金資産の積立余剰分の引出しを認める。この際、確定給
付型年金制度の終了を義務付けず、また過度な財務上の罰則の適用をしない。
③従業員・母体企業双方に対して、確定給付型年金制度のメリットを説く。



若し、これらの施策で、確定給付型年金制度の普及がまだ不十分であれば、議会
が中心となって確定給付型年金制度がより有利になるような税務対策を実施することは可
能だと思います。例えば、確定給付型年金制度を採用している母体企業に対して税額控除
を認めるといったもので、具体的には、確定給付型年金制度の受給者に対する、ある一定
の金額まで(それ程高額でない金額まで)の給付額を、その年の税額控除の対象とすると
いう内容です。




確定給付型年金制度は衰退の危機にさらされた種族と言えます。このままでは、
退職という行為は、何百万というアメリカ人労働者にとってより危険なビジネス(選択)
になるでしょう。老年労働者の確定受給権を守る努力をする中で、政策担当者は実際のと
ころ母体企業を確定給付型年金制度から遠ざけ、確定拠出型年金制度へと誘導しているの
です。従前の確定給付型年金制度からキャッシュ・バランス・プランや同様のハイブリッ
ド型年金制度への転換には非常に面倒な制限があり、それゆえ、確定給付型年金制度を廃
止して、新たに確定拠出型年金制度を設立するといった安易な道を選択する母体企業が増
えているのです。そうなると今度は確定拠出型年金制度が、政策担当者が規制したいと思
っている年金制度の転換政策の意味合いを持ってくることになり、以前より安全性の点で
も給付水準の保証についても不安を抱えることになる訳で、この点は間違いなく政策担当
者も予想していないと思われます。


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【投稿者コメント】
日本では二者択一ではなく選択肢を増やしたことは評価できる。

素材抜粋-原 洋之助著 グローバリズムの終焉  アジア危機と再生を読み解く三つの時間軸

2011年02月05日 | 読書
素材抜粋                                                  
2003/11/05


グローバリズムの終焉
アジア危機と再生を読み解く三つの時間軸
原 洋之助著 
NTT出版 1999年




 1970年代はじめ以来アジア経済を観察してきた私には、決してそうは思えない。むしろ、多数のきびしい条件保設定して一般均衡の存在可能性を探る数理モデルを操作しているうちに、新古典派エコノミストは、自らの抽象モデルが現実そのものであると信じ込むようになってしまったのではないかとすら思うのだ。


 しかし、どんな社会の経済構造にも、変更が非常に困難な深層があるのだ。市場経済を深く学問せず、また歴史の研究など時間の無駄であると言い切る新古典派のエコノミストに、こういう立体的構造認識を期待することはそもそもはじめからできない相談なのだろう。


 新古典派経済学は、歴史論としてみると、効率的な市場経済のための条件整備だけに着目して、多様な地域の経済史を輪切りにして時代区分してみせる単線的な進歩史観の枠内にある。


 すなわち、歴史の一番表層にある出来事という時間軸で通貨・金融危機の展開を、ついで出来事を深くつつみこんでいる循環の時間軸で世界経済の長期波動を、そしてその底にある長期持続の時間軸で東アジア経済システムの個性を、それぞれ解明してみようというのが本書での私の試みである。


 新古典派の経済理論の下では、制度や規制は、人びとの最適化行動や市場の均衡化への動きを妨げる制約としてしか認識されていない。国ごとの事情や生活習慣などはまったく考慮せずに、規制緩和さえすれば、どこでも「神の見えざる手」という力が働いて、経済が活性化するという考えが公理のごとくまかり通っている(塩沢)。それは、人間はよりよい社会を設計し実現できるという人間能力・理性への過信を前提としたユートピア的設計主義でしかない。


 市場経済とは、私的欲望の追求という平凡な要素の上に作り上げられた、こわれやすい構造物にすぎない。各個人は、他者の存在を前提とし、その行動を想定して自分の行動を決める。私たちは、こういう戦略的意思決定にもとづいて経済活動を展開せざるをえない。そうなると、各個人が決定する変数の間に非線形で複雑な関係が発生してしまい。諸個人の活動が結果として作り出す経済のパフォーマンスは、不安定なふるまいを示す。市場経済とは、まさに複雑系でしかありえない(塩沢)。


 ワルラスのモデルは「市場社会主義のモデル」としては有効であるにしても、現実の「市場経済のモデル」としては全然有効なものではない。


 IMF型グローバリズムからの訣別


 経済学の問題としても、自由貿易の効率的命題はさておき、「資本移動の自由化が、世界的レベルでの資金利用の効率性を増大させる」という命題が、ひとつの神話にすぎないことは、もはや誰の目にも明らかであろう。それはまさに「ウォール・ストリート-財務省複合体」が自己の利益のために流布させている神話にすぎない(パグワティ)。投機資金は、まさに為替レートの変動そのものから利益を得ようとする。為替レートの変動こそが、利益の源泉なのである。ある国民国家の貨幣そのものを、投機の対象とする、これ以上ない拝金主義こそが資本自由化神話の本質なのだ。


 「観念や知識や芸術や情誼や旅行といったものは、その本姓からして国際的であるべきである。しかし、財に関しては、それが妥当であり便宜にかなう限り国内生産を旨とすべきである。なかんずく金融は原則として国内的であるべきである」(Keynes)。
1933「国民的自給自足経済」


 グローバリゼーションが過剰化している現代、ケインズのこの大胆な主張を素直に受け入れるべきだ。東アジア経済の回復にとっては、短期資金の移動の規制をもうけること、つまり通貨管理という劇薬(クルーグマン)を投じることが必須の課題である。グローバル資本主義は、その本姓からして荒々しいものだ。知恵をだしてそれを飼い慣らす方策を考えねばならないのだ。


 多数の個人が自己利益を追求して活動する制度としての市場経済は、単に成文法による規律だけではなく、社会構成員が内面に持っている相互信頼による支えがなくては、不効率で不公平な、マフィア経済になってしまうことが多い。新古典派のユートピア的設計主義のヴィジョンは、ロシアでマフィア経済しか生み出せず、見事に失敗してしまっていることは誰の目にも明らかであろう。


 いまこそ、世界中の国・地域を経済効率性という基準だけで「つなぐ論理」に局部的に焦点をあてた世界的なルールづくりではなく、各地域には個性的な社会形成の原理があることを認める「わける論理」を正当な価値前提とした上で、諸国家間を「つなぐ論理」を確立させていくことが必要なのだ。


 日本は、世界の秩序構成の問題は他国におまかせという態度を次世紀にも続けるべきでない。自らのアイデンティティ確立のためにも、そして世界と東アジア地域との共存のためにも、私たちはアメリカ流グローバリズムに対して論戦を挑まなければならないのだ。


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【投稿者コメント】
自らのアイデンティティ確立という至難の業の探求。

素材抜粋-青木昌彦+奥野正寛+岡崎哲二編著 市場の役割 国家の役割

2011年02月04日 | 読書
素材抜粋                                            
2003/03/02


市場の役割 国家の役割

青木昌彦+奥野正寛+岡崎哲二編著
東洋経済新報社 1999年




第1章 官僚制多元主義国家と産業組織の共振化
                                青木 昌彦

 すなわち、高生産性の製造業が、その領域を超えた包括的な官僚制多元主義の運営コストを負担したわけである。そのもとで、世界経済の中でも、もっとも先端的な所得分配の平等性と職の保証が実現された。しかし、現在日本が直面しつつある問題は、包括的な官僚制多元主義の運営を通じてそうしたパフォ-マンスを維持するには、無理が生じつつあるということではないだろうか。


 つまり、ヒエラルキ-型の組織のように、企業家の先見的な知恵でシステムをデザインするのではなく、また日本型組織におけるようにモジュ-ル同士が互いに干渉しあいながら全体としてシ-ムレスなシステムを構成しようと一致して努力するのでもなく、独立的な企業化の実験を事後的に、試行錯誤的に結合することによって、新しいシステムを進化的に創造していくことができる。


 こうしたことは、従来の官僚制多元主義の枠組みのもとで産業ごとに仕切って行われる裁量的な行政の有効性を減少させると思われる。
 反面、過渡期におけるカプセル化や新結合の仲介機関の実験の障害となっている、既存の税制や法制の仕組みを体系的に再検討し、日本の産業組織の競争力を再強化するための整合的なル-ルの体系を定式化することが、経済官庁の重要な任務としてクロ-ズアップされていくことになる。



第3章 情報化と新しい経済システムの可能性
                          奥野(藤原) 正寛

 むしろ日本企業は、権利や義務という形で合意が履行されているというよりは、企業の利益や成長が高まれば、株主は配当やキャピタルゲインが増え、従業員は報酬も昇進の可能性も増えるなど、関係者すべてが利益を受けるために、「企業の成長を目標とする」というメンバ-間の合意が成立しそれがインプリメントされると考えるほうがわかりやすい。


第4章 市場と政府の補完的関係-市場機能拡張的政策の必要性
                       一柳 良雄・細谷 祐二

 市場と政府の望ましい関係をデザインするのは制度設計にほかならない。しかし、比較制度分析によれば、制度は体系として歴史的経路依存性をもって進化するものであり、制度的補完性を無視して政策的に自由に変更することはけっして好ましいことではないし、また可能でもない。比較制度分析は制度の変更を行う政策の「実行可能性」を示す一つの尺度を提供してくれるものと考える。また、制度補完性に発する慣性(inertia)の存在から、改革は斬新的に進めることが適当と考えられ、数多くの制度について改革の優先順位を設ける必要が生じる。その意味で、比較制度分析は改革のプロセスについて多くの示唆を与えてくれるものと考えられる。


 この章の結論(スティグリッツ)では、「経済への公的介入のコストと便益のバランスを注意深く検討することによって、市場と政府を必ずしも代替物であるとみる必要はなく、むしろ非常に効果的な補完物としてみるべきであることをわれわれはすでに観察してきた。
・・・・・・・(中略)公共政策は、市場がよりうまく働く助けとなりうる」と指摘している。


 金融抑制とは、市場機能に依拠しつつ政府の介入によって金融機関にレントを発生させることで金融機関に情報収集とモニタリングを行うインセンティブを与えるという政策である。これは資金の借り手と貸し手の間の情報の非対称性から生じるコーディネーションの失敗を回避する仕組みを政府が支援している、市場機能拡張的政策の例と考えられる。


 「比較制度分析」では、制度は歴史的経路依存性を有しており、経済社会を取り巻く環境という初期条件の違いにより複数均衡が成立する可能性があるという形で、こうした国ごとの制度の多様性を説明する。


 慣性があるため、環境変化に応じた制度の進化は徐々にもたらされることが多い。また、それが強い制度的補完性によっている場合、制度のある部分だけを取り出してそれを政策的に一気に変革しようとしてもうまくいかない可能性が高い。特に慣性が大きい場合にはなおさらである。しかし、制度は不変ではありえず、要石に相当する制度が変化すると補完的関係にある制度の変化も加速される可能性がある。


 以上の議論から、市場機能拡張的な政策を新しい政策体系として日本に導入するにあたっては、新たな視点として「多様な選択肢の確保」という目標を掲げることが不可欠である。なぜなら、さまざまな可能な選択肢が存在し、他者が行ったことのない選択を進んで行う革新性と意欲を持った個人が多数存在することが、イノベ-ションを生み出しやすくするために最も重要であり、現在の日本に相対的に最も不足しているからである。いいかえれば、企業、個人といった経済主体が試行錯誤、あるいは実験を繰り返すなかからイノベ-ションが生み出されていくというのが市場が提供するダイナミックな資源配分機能であって、そのために経済主体の自由度をより大きくする、すなわち選択肢を多様なものにしておくことが不可欠であるという考え方である。


参考:http://通商産業研究所


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【投稿者コメント】
歴史的経路依存性によって形成されるには選択肢は多いほうがよい!
つまり、マドリング・スル-な活動が次を切り開く。
旧体制官僚のような観念論は何も生み出さない。

素材抜粋-北村龍行 『「借金棒引き」の経済学』

2011年02月03日 | 読書
素材抜粋                               2001/11/10



現代の徳政令

北村龍行『「借金棒引き」の経済学』 
 集英社新書 2000年
 


 そこで本書では、日本社会の生命力の源流を中世に求めつつ、現在の日本経済に顕著な徳政状況を現在と中世をつなぐ糸として、これからの日本経済の生命力について考えてみたい。

 そうした低金利の循環を可能にしたのは、1947年(昭和22年)12月に施行された、わずか12条の法律「臨時金利調整法」(臨金法)だった。 ・・・・・・。
 しかし、98年4月に新日銀法が施行されるまで、日銀政策委員会が睡眠状態にあったことは周知の事実である。実質的に金利決定の権利を行使したのは大蔵省だった。

 これはもう、棒引きした借金を元手にまた棒引きを図るという、「やらずぶったくり」とでもいうべき荒業である。独裁権力でなければ不可能な理不尽さといえよう。
 では、ことはそれで収まったのだろうか。いや、中世の日本人はそんなにおとなしくはない。それに、これまでみてきたように、日本の中世は訴訟の時代であった。
 御家人から凡下に至るまで、土地を守るため、あるいは中央の政策変更に乗じて土地を騙し取るために、訴訟が激増することになる。
 現在の日本人だけをみて、日本人は訴訟が苦手とか、結局は泣き寝入りしてしまうなどというのは、はなはだ危うい議論である。利があるとなれば、なんでもいとわずに訴訟に取り掛かるというのが中世の日本人であり、まぎれもなく現在のわれわれにつながる人間像であったのだ。

鎌倉幕府は、自立的な諸集団、諸身分、諸勢力の内部には干渉せず、それら相互の利害関係を調整する分権的な統治形態をとった。
そしてそうした集団・勢力、さらには地域それぞれに「道理」が存在して、互いに侵犯を許さなかった。荘園においては、その道理が「撫民と公平」だった。

 そして、中世の道理に代わって幕藩体制の統治の論理として登場したのが、「公儀」の「ご威光」である。

 その「公儀」が出す法令は1613年(慶弔18年)の「公家諸法度」、1615年(元和元年)の「武家諸法度」に代表される「ご法度」であった。要するに「禁止令」である。道理も議論もなく、「してはいけない」という結論のみ。学校の校則のようなものだ。

 戦後の日本の徳政令は、為政者の支配を強化することが目的ではなく、敗戦からの経済復興を目指したものだった。また、中世のように暴力的に借金を棒引きにするという見えやすい政策ではなく、金融システムを利用した巧緻なものだった。

 こうして(大蔵省は)一切の創意工夫を禁じ、競争を制限して秩序を維持したのだった。

セ-フティネットは形だけの段ボ-ルで作った救命ボ-ト。これがバブル経済が崩壊して金融危機が表面化するころの、日本の金融システムの実態だった。
 この「銀行倒産はない」と大蔵省が言う、だから銀行倒産はありえない、ありえないことに備える必要はない、という「ない」の三段論法は、日本は神国である、だから負けることはない、だから敗北に備える必要はない、という論法とどこか似ていた。
 この体制は、息苦しいけれども、楽でもある。

 日本経済の高度成長を支えたメカニズムの一つは、欧米の金融機関や産業界には理解し難い低利融資の存在であった。それを可能にしたのが、低預金金利政策という戦後型徳政令と、後に触れる財政投融資制度だった。
 日本人が、大蔵省の意図的な低預金金利政策の存在も知らずに営々と貯金し、そうして集めた低コストの資金を、銀行は産業界に低利で融資あるいは出資し、産業界は低コストの資金で設備投資が可能になって、国際競争力を獲得することができた。
 日本人の個々人は、長期の経済成長によって毎年、賃上げを獲得してきた。しかし、給与に金利はつかない。運用して初めて資産となる。その運用の手段を奪われていたために、日本人個人の資産形成は、経済成長の大きさに比べて、貧しいものにとどまった。
 一方、銀行や企業は、不動産や、出資や持合いで獲得した株式を、ほとんど売買しなかった。特に資本自由化以後は、安定株主として持ち続けた。
 そうした不動産や株式の価格は長期間にわたって上昇し、銀行や企業は膨大な含み益を蓄積することになった。
 これが戦後の日本で、長期間、巨大な規模で展開されてきた徳政令のメカニズムである。

 これまで大蔵省や金融機関が、「お前のものは俺のもの」といわんばかりに無造作に扱ってきた膨大な個人金融資産には、それぞれ持ち主があり、大切に扱わないと海外の同業者にもっていかれてしまうという認識が、日本の金融機関にようやく生まれた。

 大蔵省の統治原理では対応出来ない事態が、バブル経済期の金融の国際化で生まれていた。ル-ルが変わり始めていたのだ。

住専処理をめぐる情報の隠蔽と説明不足は、大蔵省にとっても金融界にとっても財政にとっても日本経済全体にとっても、まことに高いものについた。
 結局、失敗したのは、大蔵省の護送船団方式もさることながら、現実に即して可能な選択を追及するのではなく、権威によって国民を依らしめるという、「公儀」以来の権威的な統治原理だった。

 行政の権威が傷つけば、信頼が失われて当事者能力を失いかねないというこの仕組みでは、失敗や誤りを行政として認めること自体が、行政の自己否定に結びつく。
 そこで行政当局は、人間には不可能な「無誤謬」という神話・観念にしがみつくことになる。
 行政が誤りや失敗を公認できないのであれば、国民を信頼して広範な情報を開示することなどできるはずもない。さらに権威の失墜を恐れて不利な情報が隠蔽されるのは当然だった。
 他方、「依らしめられた」国民は、権威に頼り、おもねることに慣れて、公表された情報に基づいて自己責任で判断を下すという鍛錬を受けることはなかった。
断片的な、場合によっては風説に類するような情報に振り回されても、むしろそれを楽しんだ。その判断、選択の誤りの責任を取る必要がなかったからである。社会の構成員というよりは、芝居の観客に似た存在であった。

 しかし、権威による統治に慣れた行政も政治も国民も、恐ろしく観念的であった。

 現実を直視するのではなく、面子や観念が優先される仕組みでは、行政も政治も国民も相互の面子が傷つくことを恐れて現実から目をそむけてしまう。現実を犠牲にして建前を守るという力学が働いてしまう。
 
現在の日本人のある種の「幼さ」は、現実を見据える訓練の不足によるものではないかとさえ思えるのだ。
 とはいえ、これは日本人の一般論ではない。現実に中世の日本には、平安時代までの呪術的な支配から逃れて、しかも江戸幕府以降の官僚支配にはいまだなじまず、自己責任に基づいた行動をとる魅力的な人々が多くいた。

 少なくとも、経営の最高責任者に、直前まで不良債権の実態が知らされていなかったことは確実だった。危機を管理するにはナイ-ブすぎる人間に、世界的な金融システム危機に結びつきかねない瀬戸際のリスク管理が委ねられていたことも一目瞭然だった。
 そして、山一證券を破綻させた当事者たちは、その時点では姿を消していた。管理者も責任者も不在という、ありうべからざる事態が目の前で起きていた。
 生贄の新社長に、記者会見の席で立ち往生させ、泣き叫ばせることが大蔵省のシナリオだったのだろうか。山一證券の自主廃業の背後に控える大蔵省の姿は異様であり、理解不能だった。

 このため、官僚支配に依存していた分野と、銀行の公的使命に依存していた分野は大きな変化に直面することになる。
 そして、官僚に代わって統治の主体に進出してくるのは、より自立した個人しかありえない。しかし、その役割と力量とはまだはっきり見えていない。

 権威による統治には、幾つかの弊害がある。
第一には、失敗を認めることができない。・・・・・・・。
第二に、抜本的な対策を採ることができない。・・・・・・。
第三に、ル-ルが変更されたときに、意外な脆さを露呈する。・・・・・・。
第四に、権威が及ばない外部には無力である。・・・・・・。
第五に、権威による統治では、統治者は保護者として振舞うから、統治される側が鍛えられることがないし、統治者と秘統治者が運命共同体として結びつくこともない。・・・・・・・。
第六に、技術革新や変革を秩序維持の名において妨害する傾向がある。・・・・・・・。
最後に、権威による統治では行政の中に専門家が育たない。・・・・・・・。

 そして懸念するのは、日本の中央官庁、場合によっては地方官庁も、多かれ少なかれ大蔵省に似た統治形態をとっているのではないか、ということだ。
 そうだとすれば、大蔵省の失敗と退場は、今後、多くの官庁、役所、特殊法人、外郭団体などで追体験されることになる。すでに各地の県警本部では実証されてしまったが。

 しかし、日本人が最初から、お上任せの自立心の弱い人間などではないことは、中世の日本人が証明している。
 個人が自分で調べ、判断し、選択するように変わっていくとすれば、代わりの統治者の不在という最大の問題にも、自ずから解答がもたらされることになる。個人が主役に躍り出るほかはないのだ。

 官僚に依存する時代が長く続いた分だけ、隠された失敗の累積は大きく、その失敗を糊塗しようにも、財政の悪化でごまかしも先送りもできなくなっている。
 そのときに、個人や諸集団が開発してきた多様な論理や価値観が、官僚に代わる調節機能を果たすことができるであろうか。それだけの力と能力を備えるまでに育っているだろうか。最大の不安がここにある。
 

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【投稿者コメント】
諸悪の根源、それが官僚の観念論! 

素材抜粋-広井 良典さんに聞く 社会保障と年金改革

2011年02月02日 | 読書
素材抜粋                            
03/09/15


社会保障と年金改革

広井 良典さんに聞く 
朝日新聞 平成15年9月13日朝刊




 これからの時代にふさわしい社会保障制度を考える場合、欧米の三つのモデルが参考になる。
① 共助=家族など伝統的な共同体をベースとするモデル。制度的には相互扶助を基本とする、いわゆる社会保険方式で、ドイツ、フランスなどが典型だ。財源は社会保険料を中心に税金をミックスしている。<政治的には保守主義>
② 自助=自立した個人が自分自身を守るモデル。自己責任を原則とし、市場主義の米国に代表される。保険料・税金とも比重は低く、民間の個人保険が中心となる。<政治的には自由主義>
③ 公助=自立した個人をベースにしながら、公共部門で守るモデル。スウェーデンなど北欧諸国がモデルで、税金の比重が大きい。<政治的には社会民主主義>


日本の社会保障制度は、家族や会社に依存しながら①の共助の考え方で社会保険方式を
とってきた。しかし社会の成熟に伴い、古い共同体は壊れ、社会は個人単位に変わった。地縁・血縁の古い共同体には戻れず、自立した個人が成熟社会の基本のはずなのに、社会保障制度は古い共同体モデルが基本のままだ。古い共同体にかわる新しい共同体が見えず、個人がバラバラで孤立した状態にあるのが日本の現状だ。


 今直面しているのは、「価値の選択」だ。これは官僚にはできない。まさに政治の役割だ。


 政治の対立軸(社会保障のビジョン)として明確に位置づけられてこそ、社会保障制度は国民のものになる。



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【投稿者コメント】
新たな共同体という枠組み?

素材抜粋-青木 昌彦著 日本経済の制度分析 情報・インセンティブ・交渉ゲ-ム

2011年02月01日 | 読書
素材抜粋
2003/01/24


日本経済の制度分析
情報・インセンティブ・交渉ゲ-ム

青木 昌彦著 永易 浩一訳
筑摩書房 1992年



 そして他方では、覚えの早い、生産性の高い、士気の高い、協調性のある労働者を、中途でやめる気を起こさせないようにして、企業にロック・インしようとする。このシステムには三つの重要な要素がある。(1)年功と勤務査定とを組み合わせた賃金制度、(2)勤務査定に基づく差別的な内部昇進制度、(3)定年もしくは退職の際の退職金、である。


 クライン-ロ-ゼンバ-グの連鎖モデルは、日本の研究開発のプロセスを特徴付けるのに格好の枠組みを与えてくれる。従来の線型モデルでは、J企業は(日本人一般も)創造性や革新性に欠けるということになる。しかし、このような特徴づけでは、日本の競争力のある一面を見逃すことになる。連鎖モデルによれば、J企業はある面では想像的であるということになる。


 J企業の技術革新におけるこのような強みは、テクネとエピステメをギリシャ人のようにヒエラルキ-的順序で分けてしまわずに、その区別の曖昧さを認めたからであるともいうよう。


 最近登場してきた新しいアプロ-チは、違うタイプの知識を有している複数の企業をネットワ-ク化することである。


 J企業では、管理者が昇進ヒエラルキ-において評価される際の一つの重要な基準は、調停能力であり、これは部下のチェックを受けている。出世した管理者は、通常この点で非常に優れている。


 ここで想起すべきは、ランク・ヒエラルキ-の本質は、労働者の学習意欲を引き出し、学習の達成度によって選別していく競争制度であるということである。


 中谷巌・小池和男・青木昌彦『日本企業グロ-バル化の研究』(PHP 1990年)


いわば、特定の企業内情報システム、インセンティブ・システム、労働市場、金融制度などの諸制度が、絵パズルのように不可分に組み合わさって、一つの纏まった絵を構成している事に類推される。


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【投稿者コメント】
断片化ではなく、連結化の構造体!

素材抜粋- 神谷秀樹 『ニュ-ヨ-ク流 たった5人の「大きな会社」』

2011年01月30日 | 読書
素材抜粋                                 2002/02/17



ニュ-ヨ-ク流 たった5人の「大きな会社」

神谷秀樹『ニュ-ヨ-ク流 たった5人の「大きな会社」』
亜紀書房 2001年6月





 ニユ-ヨ-クを拠点に、大西洋や太平洋を跨ぎ推進している、技術を主体とした投資銀行業務を我々は「グロ-バル・テクノロジ-・ア-ビトラジ-」(技術の国家間裁定取引)と呼んでいる。発明された技術が、発明家自身の所在国に囚われずに、その技術に相応しい事業家の場を求め、国境を越えて移動するようになったのである。

 それでは知的資産を持つ個人と大企業がいれば事足りるのであろうか。もう一つ大事な要素が必要である。それは、知的資産を持つ個人と大企業とをオ-ガナイズするプロデュ-サ-である。

 なぜなら当社は「他人に雇われたくない人」、裏返せば、「自分が自分の雇い主」でありたい人が、気持ち良く働ける場として経営しているからである。

 そこで私が考えたのは、現金で頂戴する手数料は抑制し、その代わりにワラント(株式を一定の価格で購入する権利。従業員のストック・オプションと同様)であるとか、将来ライセンス先が支払ってくれるロイヤリティ-(特許料など)の一部を「出世払い手数料」として頂戴するシステムである。
 ワラントから出てくる利益は資本市場がもたらすものであり、ロイヤリティ-は消費者への売上げから出てくるものである。いずれも「市場」が支払ってくれるものであり、ベンチャ-企業の懐のなけなしの財布から支払って貰うものではない。

 このように規制の改正というのは、常に実態の後追いである。言い換えるならば、市場の改革とは政府が与えてくれるものではなく、自ら生み出すべきものなのである。ウォール街の者は常にそういう気概を持って生きている。

 私は今、大量失業時代を迎える日本で解雇されるサラリ-マンや、定職を持たないフリ-タ-が小さいながらも一国一城の主として自立することを支援する金融、自営業者の日々の資金繰りを手伝える金融、老後の年金づくりなどのサ-ビスを必要とする人々の役に立つ金融など、「需要家起点」の金融サ-ビスの構築を、趣旨に賛同してくれる経営者を見出し、実行に移してみたいと考えている。

 今までの日本の教育サ-ビスは完全に供給者起点で国民に提供されてきた。誰もが文部科学省検定の教科書を使い、同じく同省の指導要領に則って公立・私立にかかわらず画一的な教育がなされた。丸暗記が中心のこのような教育は、全員一緒に並んで田植えをする農民、一緒に行進して鉄砲を撃つ兵隊、ベルトコンベア-の横に一線にならんで自動車を作る工員を、均一に大量生産するのには向いていたのであろう。

 そしてツイン・ピ-クスという丘の上に案内し、サンフランシスコの夜景を楽しんだ後に、彼の家へ向かった。朝が来て、その窓から見たティプロンの景色は、この世のものとは思えない、それは美しいものだった。こんな豊かな環境に住める人がこの地上にいるのだ、と正直感激した。

 「僕にはエゴもあるし、金持ちになりたいという欲もある。僕のエゴとは、我々の経営哲学を貫いた上で、結果大金持ちになることではじめて満たされるもので、経営哲学を曲げて金持ちになってもまったく満たされない。だいたい我々の今日までの成功は小さいながらもこの経営哲学に従って仕事をしてきたから生まれたもので、経営哲学を捨てるということは自殺に等しい。韓国の仕事で言えば、ゴ-ルドマン・サックスもメリル・リンチもみんなサムソンやLGで商売を獲得するのに必死だ。彼らは2000ドルのス-ツを着たMBA(経営学修士号を持った人々)を10人連れてプレゼンテ-ションに来る。それに対して僕が一人で行ってどうして無競争で仕事を貰ってこれるのか。これはここ6年間、当社の経営哲学を宣教師のように語り続けてきたからだ。我々が大手投資銀行のように、長期的な関係作りより目先の取引を起こすことに重きを置き、単にお金儲け走って同じことをするならば、勝ち目はない。我々は戦い方が違う。だから勝てる。我々にとっての最高の武器は我々の経営哲学だ」というのがジェフリ-の弁である。

 日本の投資担当者の多くは、「実績を作るのは自分、損を出すのは自分が転勤した後の誰か」、もしくは「今日の出世の方が10年後に得る評価よりも大事」というサラリ-マン根性丸出しで仕事をしていた。ゴ-ルドマン・サックスなどは、この日本人気質を常に大いに利用して仕事をしている。


 アメリカのマンモス投資銀行は、顧客がどうなろうとも次々に儲かる仕組みを作り上げている。バブルに乗って高値で物件を買い込んだ顧客は必ずそれを吐き出すようになる。すると今度は自己勘定で買うか、または売却の斡旋をする。もし投資が成功していれば、今度はそれを担保に借金を膨らますことを勧める。株価が上がると思えば株をしこたま自己勘定で買い込む。株価が上がり過ぎていると思えば今度は大量に空売りをかける。投資銀行業務で手数料を稼げる顧客からは手数料で稼ぐし、投資銀行業務のない会社については市場での株式の売買で稼ぐ。また一番いい投資の機会は顧客には見せず、自己勘定で買ってしまう。これがマンモス投資銀行を偉大なるマネ-・メ-キング・マシ-ンにしている仕組みである。好況でも不況でも、アドバイザリ-業務か、証券売買業務か自己勘定での投資業務か、どれかが収益を上げるという体制を作っているのである。彼らにとって顧客とは、自己の収益を追求するための素材に過ぎない。

 「自分の信じる投資銀行業務」の本質とは、「顧客と投資銀行家と投資家の利害の一致」である。この目標を達成するための仕組みとして、私の手数料のうち大きな部分を取引を斡旋することで手にするのではなく、斡旋した取引が将来生み出す利益から頂戴する体系を作り出した。現金の手数料を抑制し、斡旋した事業の持分や、将来の売上げまたは利益への参加権という部分を多くした。だから斡旋した事業そのものが所期の目的を達成しないことには、私にも大きな報酬はもたらされないという仕組みだ。

 アメリカという国の特徴を表わすのに、もっとも相応しい形容は「リインベントするための国」ということだと思うが、いつも困るのはこの「リインベント」という言葉をどう日本語に翻訳したらいいかということである。「インベント」とは「発明する」「こしらえる」ということであり、その前にある「リ」とは「再び」という意味である。この二つの言葉が一体となった時、さてどう訳すのかということなのだが、私は「生まれ変わる」とするのが、一番良くニュアンスを表わしているように思う。

(抜粋者がここで使用しているパソコンは米国のヒユ-レッド・パッカ-ド社製で、電源を入れ立ち上げるとデスクトップの画面に、HPのロゴの下「invent」という文字が現れる)

 変化することを拒んだ時に成長は止まる。成長するとは、絶えることなく変化し、誤りを正し、改善する努力をすることである。言い換えるならば、絶えず生まれ変わろうとして行くことである。生まれ変わろうとするエネルギ-は人の内から湧いてくるものであり、他人に強制されるものではない。また回りの環境の変化に、受け身ではなく、能動的に自らの意思をもって対応することである。

 誤りを認め、その誤りを一つ一つ直し、新しい自分に生まれ変わろうと努力を続けることにこそ、活き活きと生きるコツがあり、意味があるように思う。アメリカという国は、そんな考えを持って人生を送ろうとする人々に相応しい国であると感じる。

 ・・・・・・・最終的にやりたい事業の姿はおぼろげながら見え始めている。
 それはもっと教育に参加することと、「非営利目的投資銀行」を設立することである。

 起点はいつも一個人なのである。政府がリ-ダ-シップを取り、上から下りてくる改革などありえないと考えたほうがいい。政府が行う改革とは起こってしまった変化を追認する程度のことである。これはアメリカでも同様である。まず市場で何かが起きてから、政府はそれを承認するのである。違うだろうか。

 日本の景気の低迷など、余りに小さな問題だ。やるべき対策や処方箋はすべて分かっている。ただこの国民たちはなぜかその処方箋を実行しない。そんな国民が世界の進歩の潮流に乗り遅れ、経済的な地位が下落したとしても、それは何の同情にも値しない愚行であったとしか人類史には記録されないであろう。日本の改革など勇気と呼ぶにもおよばない、ほんの少しの覚悟さえすればできるはずだ。アメリカ人がよく言う「ノ-・ペイン、ノ-ゲイン」すなわち痛みなくしては、何にも得ることはできない。極めて単純な原則だ。その覚悟をせずに、たかだかバブルの後遺症に未だ悩んでいるなど、世界からは笑い者にされてしまう。

 それはインタ-ネットがあらゆる産業における財やサ-ビスの供給システム(サプライ・チェ-ン)を、供給者起点のものから、需要家起点のものへと転換し、経済を次のレベルに押し上げるうえで、決定的に重要な役割を果たすからである。私は、供給者起点のサプライ・チェ-ンを「オ-ルド・エコノミ-」、需要家起点のサプライ・チェ-ンを「ニュ-・エコノミ-」と呼ぶのが相応しいのではないかと考えている。

 これまでのインタ-ネット・ビジネスのほとんどはコンテンツ(テレビで言えば番組)を企業が作り、そのコンテンツを消費者に落して行くという形態であった。上記で私が議論しているものは、そのような一方通行ではなく、患者が自らの医療デ-タを蓄積するとか、生徒や先生、両親という需要家が自らネットワ-クを作るとか、すべてコンテンツが需要家側にある需要家起点のモデルである。このように需要家がコンテンツの発信者になるビジネスであれば、需要家は十分お金を払うであろう。インタ-ネット・ビジネスの採算性を伴った成功の鍵はそこにあるように思う。

 我々は彼らを見習い、みな「革命家」になろうではないか。IT革命は政府や企業といった「上」から下ろして来るべきものではなく、日本人一人ひとりが「下」から起こして牽引してゆくべきものだと確信する。

「是々非々の判断、信念を日本の組織の中で表明することは、まだ個人にとって非常に勇気がいることです。少なくとも、現実の日本の組織は、まだそうした議論を許容するだけの度量の広さと、組織構造を持っていないと思います。大組織を単に組織として維持する上で、一番簡単な形態が、官僚組織だからだと思います。自分の意見を持たない、上司の感情だけを忖度することに長けた人たちが経営層を構成する。(後略)」
                         著者の友人・五十嵐 雅博氏

 彼(ジョ-ジ・ソロス)の投資は、物とか会社とかに投資することではなく、変化を起こす可能性のある「人」に投資することを特徴としているが、ロシアや東欧で成功したこの「人に対する投資」が中国では惨めに失敗したという。
 その理由を彼は儒教にあると分析している。

 ジョ-ジによると、儒教の文化圏では、人に何かして上げた場合、そこにできる関係は、「してあげた人」と「してもらった人」の二者の間の閉鎖的なものになるという。・・・・・・・。
これが、ユダヤ教、キリスト教の世界と著しく異なる価値観だという。ユダヤ教、キリスト教の世界では、人に「してもらった親切」は、「してくれた人」に対して返すべきものではなく、誰かにしてあげればいいので、言わば親切の連鎖が起こって行く。すなわちここに「開放社会」が築かれて行く。

 「自分の人生は自分で切り開かないことには、誰も切り開いてはくれないのだよ」

 この授業(ポンゼショセ大学国際経営大学院)に参加するための必読書は、ジェ-ムス・コリンズ、ジェリ-・ポ-ラス共著の『ビジョナリ-・カンパニ-』、レジナ・ヘルツリンガ-著『医療サ-ビス市場の勝者』、そしてレスタ-・サロ-著『資本主義の未来』(本の名は翻訳版のタイトルである)の三冊である。

 このアクション・プランというのを、私はとても大事に考えている。もし何かを学んでも、ただ学んだだけでは、頭に残るかも知れないが、「腑に落ちない」。学んだことが、どう自分の人生、行動に結びつくのかを考えて、初めて学んだことが「腑に落ちる」。私はそんな風に考えている。

 教師を怠けさせないためには、学生が教師を評価するというのは極めて重要だ。

 日本からもたくさんの技術が生まれ、そして世界に普及しない理由がない。若い読者には特に強調したい。「グッド・アイデア」を考えてください。あなたが考えたアイデアが本当にいいものなら、世界はあなたを手放さない。

次にビジネス・モデルを綿密に研究した。彼ら(MarketPlayer.com)は消費者に対してどの株を選ぶのかという「選択肢」(「チョイス・ボ-ド」という)を提供するだけでなく、その選択肢の中から自分の希望に合致するものを見つけ出す方法(「ナビケ-タ機能」という)も教える。参加者それぞれが投資方針を築き、かつ運用成績を競う「投資ゲ-ム」を行うことにより、自身の運用技術の巧拙を測る機会が提供されるのだ。かつそれは「ゲ-ム」形式をとっており、楽しみながら勉強できる。

 よく話を聞いてみると、立派な技術者は日本にも数多くいる。問題は、それらの技術を企業として育て、商業ベ-スに乗せることのできるマネ-ジメントがいないことの方にある。科学者よりも圧倒的に不足しているのは、これらの技術を商業化できるビジネスマンなのである。

 しかし、日本で今後終身雇用という制度を維持できないことは余りに明白である。

 アメリカと日本の雇用システムの最大の違いは「受け身の人生か」「能動的な人生か」ということにあるように思う。

 一体何に恵まれているのか。それを突き詰めれば、自己実現を図る機会に恵まれているということではないだろうか。その機会を単に受け身で受け止めるのではなく、積極的に活かして生きようとするとき、より豊かな人生を過ごすことができるのではないだろうか。


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【投稿者コメント】
違う戦い方があるということ。

素材抜粋-企業年金の公的化現象 2002/12/13 日本経済新聞 「大機小機」(陰陽)

2011年01月29日 | 読書
素材抜粋
2002/12/13


企業年金の公的化現象

2002/12/13 日本経済新聞 「大機小機」(陰陽)




 また、厚年基金は公的年金である厚生年金保険の報酬比例部分の代行が主たる役割とされてきたが、今回、代行部分を国に返上することが認められたことで、従来の思想は180度転換された。


 バブル崩壊後のデフレ・低金利に苦しむ企業年金は、国内外の株安で一段と苦境にあるが、新会計基準の導入で年金の未積立債務がバランスシートを直撃したことから二重の重圧下にある。


 さて、厚年基金の代行返上の場合、過去の積立金は政府に返還されるが、その受け皿は年金資金運用基金である。また、厚年基金が解散する場合は、積立金は厚生年金基金連合会に資産移管される。連合会は民間機関にみえるが法律に基づく紛れもない政府の特殊法人だ。


 今後スリム化が避けられない公的年金を補うには、企業年金の拡充が国民にとって切なる期待であるにもかかわらず、現実は細る一方の企業年金から公的年金へと資金の逆流現象が加速している。ただでさえ財政面で問題を抱える公的年金は更なる負荷に見舞われ、いずれ国民にそのツケが回ることが懸念される。


この結果、株式市場本来の機能は弱められ株価回復が遅れると懸念する声も少なくない。


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【投稿者コメント】
60兆円が20兆円になり、40兆円が国に戻ってしまった。


素材抜粋-ロバ-ト・J・シラ-  『投機バブル-根拠なき熱狂-アメリカ株式市場、暴落の必然』 

2011年01月29日 | 読書
素材抜粋



投機バブル 根拠なき熱狂



ロバ-ト・J・シラ- 『投機バブル-根拠なき熱狂-アメリカ株式市場、暴落の必然』

植草一秀監訳 ダイヤモンド社 2001年





彼ら(ウォ-ル街のプロ)が発言する機会は、推薦広告やメディアでの短い引用に限定され
ているからだ。物事を整理するには、本を丸ごと書かねば足りない――たとえば、本書の
ような。



市場評論家として有名なジェ-ムス・グラントは次のように話している。

「ウォール街では、正直さがカネになったことなど一度もないが、それでもブロ-カ-た
ちは、表向きは正直そうな顔を取り繕っていたものだ。だが今や彼らはうわべを飾るのを
やめてしまった。『証券調査』と称する部署は、これまで以上に単なる販売部門に従属する
ものになってしまった。投資家は注意したほうがいい。」



米国の年金基金における最も革命的な変化は、確定給付型年金プランが減少し、代わり
に確定拠出型年金プランが拡大したことである。その重要な節目になったのが、初めて
401Kプランが誕生した1981年である。その後401(k)は、内国歳入庁の画期的な採
決によって追認された。



1982年に市場が底を打って以来、さまざまな要因によって、確定拠出型年金プラン
の成長が促されてきた。労働組合は伝統的に、組合員の定年退職後の福祉を保障するため、
確定給付型年金プランを要求してきた。その組合が衰退してきたということは、このタイ
ブのプランに対する支持が減ったことを意味する。長年にわたって労働組合と確定給付型
年金プランの根城となっていた製造部門の重要性も弱まってきた。また、経営サイドでも、
確定給付型年金プランの人気は落ちていた。いわゆる資金過剰プランのせいで、企業が乗
っ取られやすくなるケ-スが見られたからである。確定拠出型年金プランのほうが、確定
給付型年金プランよりも管理者にとってコストが低いと考えられている。さらに、確定拠
出型年金プランは、自分の投資を監視していたいと考える従業員のあいだで人気が高まっ
ており、企業がすべての従業員に対してこの種のプランを提供する傾向が生じている。



株式市場に対する関心が、年金プランというレンズを通して向けられる場合、それは長
期的にものを見る考え方を促進する可能性がある。・・・・・・・。こうした長期志向の考
え方は、株式市場の水準を押し上げる可能性がある。投資家が短期的な変動ばかりを気に
する状況が避けられるからだ。


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【投稿者コメント】
年金は民意反映の仕組みだ!

素材抜粋-青木 昌彦 『経済システムの進化と多元性』 -比較制度分析序説-

2011年01月27日 | 読書
素材抜粋
2002/08/26



経済システムの進化と多元性


青木 昌彦 『経済システムの進化と多元性』

-比較制度分析序説-


東洋経済新報社 1995年







状態依存的ガバナンスとは、企業の財務状態が健全であるかぎり、企業のコントロ-ル権
は従業員の内部ヒエラルキ-をへて昇進・選抜された経営者(インサイダ-)に完全に委ね
られているが、企業の財務状態が悪化した場合、そしてそういう場合にのみ、内部者から「特
定」の外部者、すなわちメインバンクへ、コントロ-ル権が自動的に移行する、そういうこ
とが当事者のあいだで前もって了解されているようなガバナンス構造である。





この、事前・中間.事後のモニタリングが統合してメインバンクという一仲介機関に事実上委
託されていたことが、他の金融制度からメインバンク制度を分かつ重要な特徴である.アング
ロ・アメリカンのシステムでは、事前・中間.事後のモニタリングは、機能ごとに特殊化した
仲介機関やその他の機関によって遂行される。たとえば、事前のモニタリングは、投資銀行、
商業銀行、ベンチャ-・キャピタルなど、中間モニタリングはアナリスト、市場裁定者、基
金投資マネ-ジャ-など、事後的モニタリングは会計監査事務所、テ-ク・オ-バ-・ビッ
ダ-、再建専門機関、破産裁判所などである。





むしろ、戦略的に重要で、政治的に実現可能な変化の糸口を見つけることが、さまざまな
制度の間の「補完性」の構造を通じて、システムの変化を芋蔓式に誘発する契機となりうる
かもしれない。





それはシステム環境と個別的な職場環境の双方に目を配れる「幅の広い」ものであろう。
こうした技能を「文脈的(contextual)」技能とよぼう。それは、一定の組織の文脈で具体的
に習得され、蓄積されうるような技能だからである。組織の参加に先立つ教育においては、
その準備として、より一般的な問題解決とコミュニケ-ションの能力に投資しておくことが
有効であろう。こうした準備的技能を「可塑的 (malleable) 」技能とよぼう。つまり、不特定
の組織における具体的な文脈的技能形成を予期した、素材の形成といった意味合いである。





もう一つ、理論的に歴史の制約を緩和しうるメカニズムは、最適戦略の模倣という「限定
合理的」な戦略からのゆらぎ、ないしは突然変異 (mutant) の連続的、確率的な発生である。
すなわち、戦略の補完性を無視して行動する主体の進入である。






第三に、個人株主の保有率が急速に低下し、かわって年金基金、ミュ-チュアル・ファン
ドなどの機関投資家の保有率が増大したことである。これらのファンドはリスクを軽減し、
平均収益を高めるべく、株価指数(インデックス)に大部分の資産を投資しているため、個々
の会社のマネジメントをモニタ-(監視)するインセンティブを持たない。……・。したがっ
て、カリフォルニア州公務員年金基金や大学教員退職株式基金など代表的な半公共的基金を
除けば、多くの機関投資家は、企業モニタリングにおいて積極的行動をとっていない。しか
しながら、それらの機関投資家は、全体として上場会社の過半数の株式を所有するに至った
とみられている。





重層的な、持株会社のヒエラルキ-構造というアイデアは、単に従来の計画官僚機構を再
生産するに過ぎない、新古典派パラダイムのカリカチュアというべきであろう。





一方国際競争力が激化して、業際的・国際的な企業間連携や会社資産の買収・売却が会社
戦略の策定にとって重要性を帯びてくると、戦略的決定を担当するものは、経常的な事業か
らある程度の距離を持って思考する必要が生じてくる。しかし、そうした距離を保つことは、
情報共有を原理として進化してきた組織の中ではなかなかに難しいことである。だからとい
って、通産省が戦略決定機能を代行しうる時代でも、もはやない。たとえば産業規格もまだ
明瞭に浮かび上がっていないマルチメディア産業などへの進出決定は、企業レベルにおける
分権的、かつ多元的な戦略決定が、併存し、競争することが、システム進化論的に本来的な
優越性を持つはずである。政府の一元的コントロ-ルは、企業のあいだに不可避的な情報同
化作用をもたらし、誤りから生ずる社会的コストをひじょうに高いものにするであろう。か
くして、企業レベルで、戦略的部門と事業部門とを、ある程度距離を持った別々の器に入れ
る必要性が生じてくるのである。





だとすると、残されたオプションは既存の主要株主である機関投資家、銀行や生命保険会
社、および会計監査人に対し、これまで以上に積極的なモニタリングの義務を課すことであ
ろう。たとえば純粋持株会社制の解禁にあたっては、子会社の決算の開示に厳格な基準を課
し、またその取締役会には三分の一以上の外部取締役の指名を要件とし、彼らに厳しい受託
義務 fiduciary duty を負わせるなどという会社法上の改革が必要になろう。





純粋持株会社制度はたとえ解禁されたとしても、その採択は個別の企業の選択事項である。
この点からいっても、純粋持株会社制度の解禁が、日本経済における仕切られた多元性のジ
レンマを解く魔法の杖とはなりえないことは明らかである。だが、それを禁止する格別の理
由もみあたらない。しかも、それは、日本経済の中に組織型の多様性を内在化するためのね
穏やかではあるが、政治的に十分に実施可能な、改革の道筋を示しているように思われるの
である。財閥復活や外国による系列強化批判を恐れて、純粋持株会社の解禁に逡巡すること
は、時代錯誤と国際認識の欠如として、世の批判の俎上にのぼらされてもやむをえないであ
ろう。


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【投稿者コメント】
観念論的官僚が太刀打ちできない現実が出現しているということ。

素材抜粋-吉永 良正 『「複雑系」とは何か』

2011年01月27日 | 読書
素材抜粋
2002/10/30



「複雑系」とは何か



吉永 良正『「複雑系」とは何か』

講談社現代新書 1996年







そのポイントは、「複雑なコンプレックス」現象と「込み入ったコンプリケイテッド
」との相違を際立たせることにある。つまり、後者は「全体は部分の和である」という
スロ-ガンに象徴される要素還元論的な方法で解明できる現象であるのに対し、
前者は「全体は部分の総和以上である」という性質をもつがゆえに、
これまでの科学の方法では攻略できないというわけだ。





サンタフェ研究所は、内部的な百家争鳴と混乱にもかかわらず、いやかえってそんな中
からこそ、ある日突然、世界をアッと驚かせてくれるような結果を出してくれるのではな
いかと、私はおおいに期待している。





過去に自分がいた、いろんな場所の記憶を自分の中におりたたみながら、様々な場所を
自発的に渡り歩くというようなイメ-ジを込めるには、遍歴という言葉が一番いいのでは
ないか。

(池田研介、金子邦彦「カオス的遍歴をめぐって」「現代思想」1995年5月号)





金子らはこの多様性を維持した安定性機構を「ホメオカオス homeochaos」と呼んでい
る。いわゆるホメオスタシスが、理想的な静的安定性を想定し、そこから生じたゆらぎに
対するゆり戻しのフィ-ドバック機構と考えられてきたのに対し、ホメオカオスはそのよ
うな理想状態を仮想しなくてもいいことを教えてくれている。

ホメオカオスがとくに重要になるのは、相空間の次元を決めるシステムそのものの自由
度が変動するケ-スである。具体的には、要素的なユニットが互いの相互作用を経て分裂
したり、また途中から消失したりする場合であり、たとえば細胞の増殖や死など、自然界
の大半のシステムはこうした自由度の変動を許す開いたシステムになっている。






欧米の研究で感じるのは、複雑にみえる現象をできるだけ単純に理解しようという傾向
である。そのためにはむろん多くの部分をエイヤッと捨象しなければならない。これに対
し複雑さをそのまま捉えようとする姿勢が日本の(欧米の追っかけでない)研究にはみられると
思う(それゆえにかえって欧米人には“アンタのは複雑すぎてようわからん”といって評価されず、
後に出た、その一部を単純化した研究のみが流行りだすという傾向もあるのだが)。
われわれは複雑な系をその複雑さを失うことなく捉えていくという科学の新方向をきりひらけないだろうか。

(金子邦彦「数理科学」1991年6月号)





金子は、「物語というのは複雑系研究の方法として人類が生み出した最高の手法なのでは
ないだろうか」とさえ述べている。





古典力学の決定論が”秩序”の、統計力学の確率論が”混沌”の、各々に関する静的な構造を
扱っているとすれば、新たに生まれた二つの潮流は秩序と混沌との間の動的関係をこそ問
題にしていると言うことができる。スロ-ガン的に言えば、カオスは”秩序からの混沌”の、
自己組織化は”混沌からの秩序”の研究としてスタ-トした。





自己組織化をありのままに見ようという立場に立とうというのなら、だからいかなるメ
タレベルの統制原理をも、さし当たってはカッコに入れておく必要があるように思える。
ただし、その際のメタレベルとは「上からの」あるいは「外からの」という意味であり、内
発的に、文字通り自己組織化される原理については除外すべきかもしれない。このあたり
の見分けは、言うほどにたやすいことではない。





複雑なものを複雑なままに見ようという決意は、<世界>の受動的な先所与性を最大限
に重視しようとする立場の表明である。





真に求められているのは、曖昧で神秘的な全体像などでは談じてなく、「非線形還元論の
図式」とも呼ぶべき、要素的過程から全体的特性を導出するための新しい論理形式の構築
なのである。



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【投稿者コメント】
<世界>の受動的な先所与性、つまり、そこにあるものの不可思議!

素材抜粋-中谷 巌 『eエコノミ-の衝撃』

2011年01月26日 | 読書
素材抜粋                                   2002/01/13


eエコノミ-の衝撃


中谷 巌『eエコノミ-の衝撃』
東洋経済新報社 2000年




21世紀には、ウィンドウズのようなOSで顧客を囲い込もうとする「閉じた」ビジネス・モデルではなく、インタ-ネット技術をベ-スに世界に広範なネットワ-クを構築し、「収穫爆発」の成果を享受するような企業が注目されるようになるだろう。

  エグゼクティブ・サマリ-
 第一 ビジネスが「個人化」する。
 第二 中抜き現象の常態化
 第三 複数の商品・サ-ビスを組み合わせたソリュ-ション・ビジネスが中心

 
 日本のインタ-ネット元年が2000年だとすると、アメリカのインタ-ネット元年は1994~95年ということになる。


日本企業では従来、基本的にゼネラリストが重視されてきた。つまり、特定の分野のプロフェッショナルよりも、何でも器用にこなせる人材が出世するシステムでやってきた。しかし、競争がグロ-バル化してくると、多くの分野ではゼネラリストでは太刀打ちできず、プロの出番となる。


プライス・ラインは航空チケットをオ-クションで販売するという画期的な、しかしきわめてシンプルなアイデアで成功を収めた。


オ-クション・モデルでは、必ずしも一物一価の法則に従う必要はなくなる。
サン・マイクロ・システムズでは、自社が作ったサ-バ-の一部をeベイのオ-クションサイトを使って販売している。


生活サポ-トビジネスの例
-老後の生き方を支援する-

● 健康を維持するシステムを創る
● 財政的に安定した生活を送る
● 自己啓発のプログラムを実行する
● 住居環境を整備する
● 旅行・趣味を拡充する

 



 高齢化社会になって、老後の生活設計が気になるところだが、これに関するサ-ビスは現時点ではきわめて貧弱である。たとえば、退職金で何千万円かの収入があったとき、これをベ-スにあと20年間、安定した生活を過ごすために資産をどう運用するのがもっとも有利か、親身になって相談に乗ってくれる人(インテグレ-タ・・・・・・・抜粋者)はなかなかいない。
 もし、この老後の資産運用に対してきめ細かく、ていねいに答えてくれるネット業者がいれば、老人はずいぶん助かるだろう。たとえば、投資信託、アメリカの国債、銀行の預金、株式、ドル預金など、最適のポ-トフォリオを組んでくれ、安定した財政生活を保証するサ-ビスを提供してもらうことができれば大助かりだろう。


 「商品をタダで配って、その後のサ-ビスで収益を確保する」という考え方だ。


 モノを売ったときは、そのとき一回かぎりの利益だが、継続的なサ-ビスでチャ-ジできれば、永続的な利益を確保できるというわけだ。


 情報革命への対応が企業戦略の方向を大きく変えるものである以上、現場で対応できないのは当然であって、これこそ、まさにCEOマタ-なのである。


 もし企業の効率が上がり、ROEがたとえば、アメリカ並みに15%になれば、配当率も上昇し、金利も上がるだろう。低金利というのは、企業がそれだけ収益性が低いからであり、経営の効率が悪いからである。


 郵便貯金は元本保証なので、もし元金を割り込むような資産運用をしたときは、税金で補填しようというのだろうか。運用責任はどうなるのか。このへんがあいまいで、担当者が代われば、誰も責任をとらないことになってしまう。こういう素人集団に、何十兆円という巨額のおカネを預けること自体が、本当にいいことなのだろうか。


 「制度を変える力」は、けっして政治そのものの内部から生まれるものでなく、新しいマ-ケット・フォ-スが改革の先導役になると考えているからだ。政治がだめだから日本の将来は暗い、と考えるのではなく、マ-ケットの圧倒的な力で政治は変わらざるを得なくなるという意味である。


 そうなったとき、あっという間に、アンシャン・レジュ-ムは崩れていく、というのが著者の直感である。・・・・・・・。印象としては、5年くらいのうちに怒涛のようにeエコノミ-の波が押し寄せ、規制が強く、制度的不備の多い日本も急速に変わっていくことになるだろう。


 ・・・・・・・、決定的に重要なことは、日本人の意識構造である。


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【投稿者コメント】
政治を動かすのは、民間のマドリング・スルーな活動だ。

素材抜粋-箭内 昇 『元役員が見た長銀破綻』-バブルから隘路、そして

2011年01月25日 | 読書
素材抜粋
2002/11/21


元役員が見た長銀破綻


箭内 昇 『元役員が見た長銀破綻』-バブルから隘路、そして
文芸春秋 1999





 80年代にアメリカで始まったデリバティブと呼ばれる新しい金融技術は、90年代初めごろから日本にも上陸した。そしてデリバティブの中でもスワップ取引の拡大は長信銀の経営に決定的なダメ-ジを与えた。
 ・・・・・・・。
 この問題は、結局97年になってようやく短期貸とスワップを最初から一本化した長期貸が認められたことで決着した。
 この間ずっと顧客に煩瑣な手続きを強いてきたのである。時代の流れと顧客の利便を若手と、感情的で天動説の守旧派経営者の意識のギャップが浮き彫りになった象徴的出来事であった。


 本来、貸出債権のリスク管理は、倒産率のデ-タ不足や担保の有無などの違いもあって、債権などに比べると難しい。しかし、長銀の若手は大変な情熱を持って95年頃基本システムを作りあげた。これもおそらく日本の銀行では一番手であろう。
 特に取引先の信用ランク別貸出金利のガイドラインは重要であった。


 当時、行内で行われたこのシステムの説明会での質疑が印象深かった。
 質問者(融資本部)「もし、長銀の力ではこのガイドライン金利で貸せる先が一社も見つからなかったらどうするんですか」
 説明者(リスク管理システム設計者)「貸すのを止めるか、別の運用先を考えるか、銀行業を止めるしかないでしょう」
 質問者「そんな馬鹿な。利鞘収入のない銀行業なんかあり得ない」
 説明者「たとえば、1年以内に2%の確立で倒産する企業に利鞘1%で貸したら、元本ロスが利鞘収入を上回り毎年赤字になります。それで銀行業が成り立ちますか」
 質問者「デモ98%は倒産しないんでしょう」
 この質問者には確率の概念が欠落しているのであるが、当時の長銀の融資本部の幹部の大部分がこの質問者と同じ意識だったと思われる。というより、日本の銀行員のほとんどがそうであったろう。


 なお、同期というのはどんなに意見が対立しても最後は妥協点を見出そうという力学の働く関係であり、決して切磋琢磨にはならないのが常である。乱世にはむかないのである。
このように、順送り人事や旗本役員を作るやり方は、全体として相互に批判を手控える反面、運命共同体的仲間意識を高め、お互いをかばい合う風土を醸成する。そういう風土において個々の問題について責任問題を追及し、自らがけじめをつけることを期待するのは土台不可能というべきであろう。


 「粗利益を増やすために、要員増加などで経費を膨らますこともあり得るのですか。その場合、粗利益は増えても経費控除後の純益が減ることもあり得るのですか」と私が質問すると「それでもよい」と言う。


 杉浦氏に限らず日本の企業では、これほど卓越した経営者が、企業にしがみつくのはなぜか。一般論だが、一つはやはり快適なのであろう。会社に行けば極めて大事に扱われるからである。杉浦氏の場合も、彼だけが唯一ベンツに乗り(予備を含め2台)、また専属のマッサ-ジ師を置いていた。
 また、しがみつかせることによって利益を受ける勢力があって、これが引退を許さないということもあるであろう。
 さらには、仮に引退しても、他にすることがないというトップが多いのではないか。それまで仕事にせよ遊びにせよ圧倒的な組織の力でやってきた者が、突然一人で何かやれと言われても戸惑うばかりなのではないか。


 最初の出会いは80年の企画部時代、大野木氏を企画室長として迎えたときであった。
 就任挨拶で「ア-ティフィシャル(人工的・規制)からナチュラル(自然・自由)へ」と「マドリングスル-」が信条であると言った。マドリングスル-とは耳慣れない言葉であったが、要は「苦しくても何とかもがいているうちに展望が開ける」という意味であった。
 ・・・・・・・。マドリングスル-とは、楽観主義のことであったかもしれない。


 前述の雑誌の座談会で、大手銀行の若手行員から共通して出た意見が「能力の逆格差」の問題であった。
 つまり、銀行業務全体が高度化、専門化していく中で、上司が部下の知識や感覚についていけなくなっているというのである。また、それが若手行員が銀行に見切りをつけて退職した大きな理由の一つだというのである。
 これは極めて重要な指摘である。こうした現象が今も大手銀行はもとより、日銀や大蔵省でも進行しており、優秀な若手層の大量退職につながっているようである。


 また、感じるだけでは足りない。即座に対応するスピ-ドが要求されるのである。したがって、会議を開いてとか、みなの意見を聞いてからという悠長なことでは勝ち残れない。経営者のみならず、経営システムそのものを大幅に見直す必要があるであろう。


 私もニューヨーク支店時代何回か連銀の検査を受けたが、まさに総合検査であった。いわゆるCAMEL方式ということで資本(Capital)、資産(Asset)、経営(Management)、収益力(Earning)、流動性(Liquidity)のすべてが検査項目であり、検査官のレベルは高かった。
 それに比べると大蔵省の銀行検査は圧倒的に資産検査に重点が置かれ、それでも銀行の「飛ばし」の悪知恵にには追いつかなかった。都銀の一部では、検査が入る前になると、あらゆる手を使って不良資産飛ばしをやっていたことは公知の事実である。まして、バランスシ-トの裏まで読める検査官はほとんどいなかったと言ってよい。大手銀行の実態業務純益をどこまで把握していたか、大いに疑問である。


 ・・・・・・・国に対する業務上横領、背任の犯罪行為ではないとさえ思える。


 モラルの面でさらに言えば、最近金融の欧米化が進む中で、日本にもいつの頃からか「法に触れなければよい」という思想が入り込んできたようにおもう。


 米国は、前述のとおり法律が攻撃・防御両面でいわば武器になっている国である。それは、ベ-スとして米国が新しい国であり、多数の民族が集まった国であるため、共通の土俵を無理やりにでも作るためにはどうしても法律の力を借りざるを得なかったのである。
 これに対して、日本は古い歴史を持つほぼ単民族の国家であり、すべてを法律で律さなくてもやってこれた国であった。契約書もすべての事項を盛り込む必要はなく、いざとなれば「公序良俗」や「公知の事実」や「信頼の原則」「経験則」などに任せればよいのである。
 さらに日本のベ-スには、道徳や倫理といった、いわば心の法律があるのである。「人を騙すな、嘘をつくな、いたずらに傷つけるな」などは日本の道徳の一頁であることは言うまでもない。この日本の誇りとも言うべき心の法律を、経済界のリ-ダ-たる銀行のトップが自ら破ることの影響は大きい。


 役所にとって「継続性の原則」が大事であることについては異論がないが、変化の時代である現在、問題によっては「君子豹変す」で思い切って舵を切ることがどうしても必要である。






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【投稿者コメント】 日本経済全体に蓄積されたバブルの垢は削ぐのに時間がかかるだろう。

素材抜粋-新しい科学をつくる ジェイムズ・グリック 『カオス』

2011年01月24日 | 読書
素材抜粋
2001/10/21


新しい科学をつくる

ジェイムズ・グリック『カオス』

上田亮監修 大貫昌子訳 新潮文庫 平成3年







思えば初期のカオス論者たち、つまりこの分野を軌道に乗せた人たちは、ある共通の感
性を持っていたようだ。それは特にパタ-ンというもの、ことに同時に異なったスケ-ル
で現れるパタ-ンを見抜く鋭い目である。しかも不規則、ランダムなもの、複雑さ、ギザギザの縁、
急な跳躍などに気付く特別な勘をもっていたのではないか。カオスを信じる人々、時には
信者とか転向者とか、伝道者などと自称している学者たちは、決定論や自由意志、進化、
そして自覚を持った知能の本質などについて、あれこれ考えをめぐらしている人たちなの
だ。



この新しい科学の最も熱心な支持者たちは、二十世紀の科学が、一に相対論、二に量子
力学論、そして三にカオスというこの三つの発見によって人類の記憶に残るだろうとまで
言っている。つまりカオスこそは物理学上今世紀に起こった第三番目の大革命だというこ
とになるが、最初の二つ同様カオスもまた、ニュ-トン物理学の教義に立ち向かうもので
ある。ある物理学者に言わせると、相対論は絶対空間と絶対時間というニュ-トンの錯覚
を一掃してしまったし、量子論はコントロ-ルできる測定の過程などというニュ-トンの
夢を打ち消すことになった。またカオスは決定論的な予測が可能だとするラプラス風の幻
想を根こそぎくつがえしたのである。



もしロ-レンツがバタフライ効果――つまり予測可能なものが、全く混沌としたものに
変わってしまう姿イメ-ジ――の発見だけに止まっていたとしたら、彼はただ単にたいへん悪いニ
ュ-スをもたらしたというだけのことになる。だが彼は天候模型の中に、ただの偶然性以
上のものが埋まっているのを見たのだ。それは「でたらめさという仮面、、、を、かぶった
、、、、秩序」という、微細な幾何学的構造だったのである。



そのバタフライ果は、「初期値に対する鋭敏な依存性」という専門的な名前をもらうこ
とになったが、・・・・・・・




さてマンデブロルのもう一つの強みだが、それは綿の値段や電子伝達ノイズ、川の洪水
などの問題にぶつかっているうち、次第に頭の中に形をとり始めた現実の姿である。そし
て今やその姿にいよいよ焦点が合ってはっきり見えはじめたのだ。今まで取り組んできた
自然界の過程に現れる不規則なパタ-ンの研究や、無限に複雑な形の探求が、ついに「自
己相似性」という一つの知的焦点に絞られてきたのだった。フラクタルとは、すなわち自
己相似性を意味するのである。




自己相似性とは、スケ-ル全体にわたるシンメトリのことで、パタ-ンのなかのパタ-
ン、つまり「回帰」を意味している。





一方日本では上田亮という学者が、機械的バネのふるまいに似ているが、もっとずっ
と高速の電子回路を研究しているうち、一連の無類に美しいストレンジ・アトラクタを発
見していた。



物理学者同様、数学者もどこへなりと実験が導く方へ、どしどし進んで行けばよい。計
算上の数の力と、直感にじかに訴えてくる目印こそ、数学者が袋小路に迷い込むことのな
いよう、有望な方向を示してくれるのではないか。かくて新しい道が見つかり、新しい対
照を隔離したところで、標準的な証明に戻ればいいではないか。



それにしても偶然というものは、果たして必要なのだろうか? ハバ-ドもまたマンデル
ブロ集合と、生物の情報の記号化との間の類似を考えてはいたものの、そのような過程が
確率によるものだなどという意見を聞くと大いに憤慨する。「マンデルブロ集合に偶然性
など一切ないよ」と彼は言い切った。



革命的な境界を越えた会話というものは、必然的に偏かたよったものである。

                       ト-マス・ク-ン



クラッチフィ-ルドに言わせると、「とにかく現在通用している枠組には、どうしても当
てはまらない、物理的経験の広い領域があるんだという発見ですよ。いったいなぜ僕らの
教わったことの中にそれが入っていないのか? ここで僕らは自分の住んでいるこの世界を、
改めて見直す機会を与えられたわけです。ありふれすぎていて、しかもすばらしいこの世
界を見て、何かを理解するという機会をね」




彼らは夢中になり、決定論や知性の本質、生物進化の方向など飛躍した質問をどしどし
浴びせ、教授たちを困らせた。




「生物学の上では、平衡状態に達するということはこれすなわち死ぬということだよ」
と彼(マンデル)は言い切るのだ。



彼(マンデル)の見るところ問題はむしろ概念的なものなのだ。脳というこの「最も不
安定でダイナミックであり、しかも無限の次元を持つ機械」を治療する従来の方法は、い
とも線形的、還元主義的だった。彼に言わせればつまりその「根本にある考えの規範は、
そもそも遺伝子一個→プチペド一個→一酵素→神経伝達物質一つ→受容体一個→生物の振
る舞い一種→臨床的症状一つ→薬一つ→臨床的評価スケ-ル一つという旧式な形のまま、
ちっとも変わっていはしない。そしてこの規範が神経薬理学研究や治療のほとんど全部を
支配しているんだ。ところが実際には五十以上もの伝達物質があり、細胞の種類は数千、
複雑な電磁現象と、蛋白質から脳波にいたるまで、全レベルにわたって不安定さに基づく
自立運動が絶えず続いている。それなのに脳はいまだに点から点への化学的電話交換台み
たいなものと考えられているんだからな」いったん非線形力学の世界に触れた者は、この
ような現状に対し「いやはや何と幼稚なことか」と呆れるばかりである。



彼のほかにもカオスの形式を人工知能の研究に適用し始めた学者たちが大勢いる。たと
えば引力圏の間をさまよう系の力学は、記号や記憶をモデル化する方法を探している研究
者の心を大いに惹くものがあった。「アイデア」というものを定義するにあたって、離れて
いながら重なり合い、磁石のように引き合いながらも互いを自由に泳がせるような、境界
のぼやけた領域と考える物理学者なら、「引力圏」をもつ位相空間のイメ-ジに心を向ける
のは当然のことである。



エルヴィン・シュレ-ディンガ-は、四十年も前に次のようなことを言っている。「生物
というものは自分自身に『秩序の流れ』を集中するという、驚くべき力を持っている。そ
の力があるからこそ、原始的混沌へとおちいって亡びるという運命を逃れているのだ」と。






全体から部分だけを切り離して研究することの無益さを感じる者もまた増え始めたが、
彼らにとってカオスこそは、科学の還元的な研究制度に終止符を打つものとなったのであ
る。



生態学で今まで基本的だとされていた概念は、怒り狂う嵐の前の霧のようなものだ。そ
の嵐とは、この場合全面的な非線形的嵐のことだが」と。




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【投稿者コメント】
聞こえぬ物を聞く能力を持ち合わせている人物がおるということだ。


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