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年金電子書籍

年金カウンセラ-のeBook_18冊で、あなたの人生が引っくり返ります。

素材抜粋-若林栄四著『デフレの終わり』

2011年09月13日 | 読書

 

素材抜粋                               2011.08.19

 

デフレの終わり 

2012年に「千載一遇」の買い場がくる 

 

若林栄四著 

日本実業出版社 

2011/07/10第三刷

 

 

 

フィボナッチ・ナンバー

 

 

 もつとも格付会社S&Pなぞは、サブプライムボンドに最上級の格付けを与えてきた米国危機の戦犯のような企業であり、大したクレディビリティはない。

 

 

円が対米ドルでピークをつけるのは、2012年2月の1ドル=74円だ。

 

 

しかし、それを過ぎれば、本格的な円安トレンドの到来とともに、物価もデフレ基調からインフレ基調へと変わっていく。当然、そうなれば日本経済の回復に対する期待感も高まっていくため、株価は上昇トレンドに入っていく。

 

 

米国のメディアで報じられているマーケツト情報を見ても、常に投資家が主語に来る。そうではなく、本来は相場が主語にくるべきなのだ。

 

 

 

 

以上

 

 


卒論ブログ投稿を終えて

2011年08月03日 | 読書
【再掲】


平成21年4月10日
高野 義博

1.執筆時の状況

 投稿を終えて、どこから書き始めたものだろう……と、悩むより、ここは卒業論文の主題からということが宜しいのであろう。
それなら、あの「中学校の校庭」からということになろう。

私は、千葉市栄町に銀行員の父母の下に、昭和16年に誕生した。父は、キッツァクと言われる千葉の田舎の10代も続く名主の家(祖父の雅号は白鹿洞寿仙という)の末子に生まれ、当時としては、当たり前に新宅を作って故郷を離れ、いろいろあって千葉市に住まうようになっていた。
その栄町の家は、昭和20年の千葉の大空襲によって灰塵と化し、その折、私は異母兄に背負われて、見渡す限り真っ赤な空の下、父の実家に逃げ延びたのであった。
その後、昭和22,23年頃、香取飛行場南面の国道脇の八軒町というところに、父が実家から材木を譲り受けて二階家を作った。そこが、私が少年時代をすごす家になったのである。

そこから、豊畑小学校、豊畑中学校に9年間通うことになったのであるが、戦後の経済の復興期で食うものも無く、昼の弁当抜きは再々であった。まわりは大半が百姓の少年達だから、皆白いご飯をたらふく食べていたが。

その頃には、父は、今で言う、<起業家>で、家族5人が食うために何でもした。ポップコーンの爆弾屋とか、粟・ヒワのおこし屋とか、カリントウ屋とか、せんべい屋とか、パン屋とか、米の担ぎ屋とか、不動産屋とか、不発に終わったブロック屋とか……手当たり次第であった。そんな父の夢の残骸の看板―黄金の地に黒々と「旭電業社」と書かれていたものが、長いこと廊下の床下に投げ捨てられていたものである。

そのような折、「中学校の校庭」で、あの事件が起きたのである。

「或る事件が十三才の時、校庭で起きた。
 秋始めのある晴れた日、私は昼食後の満腹感で校庭を歩きはじめた。他の中学生達は既に校庭で遊んでいた。すると急に、風の音と彼らの遊び声が、ボリュームを落とし、あたりが静まり、私は白いワイシャツが風に揺れているさまを見続けていた。それは風の強い日の旗のように、バタバタと音をたてていた。その衣服の白さとバタバタという音だけに、私の意識は集中した。その時、ひどい孤独と共に私は叫んだ。――ああ! 彼らも人間だ、と。
その白さ、バタバタという音は、私の意識に、他人としてそこに「ある」という感じを、叩きつけた。」

その後、私は貧窮の極みで地元の高等学校に進学できず、東京・自由が丘のいとこのご亭主が営んでいる模型屋に住み込みで働くことになり、夜は新宿駅西口近くにあった夜間高校の電気科に通うことになった。昼はメグロのオートバイで蔵前まで商品の仕入れに走り、夜は大正時代の教材モーターで電磁事象を学ぶという生活になり、あの事件はすっかり忘れ去られていった。

高校生活終りの頃には、私は、売店で買った新聞を片手に、行き交う人々の群れを避けて誰も座っていない駅のベンチに腰を落とすのが日課になっていた。すぐ求人欄を覗き込み、「さて、今日はどこへ行こうか」と思案し始めるのであった。日課とはいえ、十八歳の身には心重いひとときである。中学卒業時の当初の目論見とは違って、夜間高校の電気課卒業では、大都会にこれと言えるほどの仕事もない現実を突きつけられて、途方にくれていた日々であった。

その頃であった、ドストエフスキーの『地下生活者の手記』を読み、日記「雑感雑記」を大学ノートに50冊ほど書きながら、突破口を見つけたく人生の煩悶に身悶えていたのであった。また、その頃だった。フランスの天才少年詩人ランボーの行跡を知ったのは……。

少年ランボーは、詩を書き続けるために「年金」を手に入れることを考えたのだ。その末に、アフリカへ渡り密輸商人になってひと山当てることを目論んだが、壊疽か何かになって朽ち果てたのだ。更に、友人の影響で左翼思想の一端に触れ、ユートピアを夢見たりしていた。

四年生高校を卒業の時点では、就職先もなく、取立ての縁故もなく、師と仰ぐ人も無しに路頭に迷うという生活であったので、このままアルバイト生活を続けるのに恐怖が募るばかりであった。そういう状況で、「人生とは何ぞや」とか「私とは何か」とかという疑問が自然に湧き出してきたのであった。

ここから問題の転換――就職から疑問の解決――が起き、「哲学」を学ぼうということに展開したのであった。とはいえ、中学時代は地元の高校進学が出来ないということで勉強はそっちのけで野球にのめっていたし、高校は夜間の電気科で丹沢山塊の単独行での尾根歩きに明け暮れていて、アドバイスを受けられる人は誰も居らず、いわゆる大学受験の準備は出来ていなかった。学力も知力も低く金も無く、大学入学は独りよがりの途方もない課題であった。

ようよう潜り込んだ大学での生活も、勉学は二の次で、食うためのアルバイトに明け暮れ、そのうえ無謀にも女性を妊娠させてしまい、卒業式の翌4月には出産ということになっていたのである。その頃のアルバイトは、新橋にあった銀座大飯店でのウェイターであったが、夜中の2、3時に自転車で皇居脇を走り、白山の下宿に帰るのであったが、不審者として警官の職務質問に遇ったり、過労が溜まって洗面器イッパイの喀血をしたりしていた。

そんな生活の中で、このたびは高校卒業のときとは違って、子どもの誕生という逃げおおせない現実が迫ってきており、なんとしてでも卒業だけはしなければならないということになってしまった。
夜中のアルバイトのためではないが、出席日数と試験の点数の悪いラテン語は、直接教授の自宅に押しかけ、事情を説明し、及第点をいただくようなことまでしたし、50枚以上の卒業論文提出についても逃げおおせないこととして取り組むことになった。

大学での聴講は、実存哲学、ギリシャ語、ラテン語、ドイツ語、サンスクリット語、科学哲学、仏教哲学、特に禅学特講を受講した。クラスメイトは不思議なことに年齢が十歳くらい離れている面々であったし、「哲学研究会」には全国から異様な人物が集まってきていた。高下駄、羽織袴、ひげもじゃ、精神分裂者、大企業の姫、その後の自殺者等々、一気に世の中を見る視野を拡大されたのである。

難渋の上、締め切り間近の1月10日、身重の女性に清書してもらい、卒業論文「暗号について」(4百字詰め原稿用紙102枚)が完成したのであった。



2.25歳の文章

このたびの読み直しで、まず驚いたことは「誤字」「脱字」が多いことであった。それは、教養も学力も非常に低いことによるのであろう。単に時間が無かったのではないだろう。
また、改行も不自然である。論理展開がどうなされていたのだろうか? 文脈が途切れ、断片の羅列という事態であった。指導教授の書き込みに「?」が多く、故人となられた教授に申し訳なかったし、恥ずかしい限りである。

この度のブログ投稿に際して、改行を挿入し、明らかな誤字の訂正を行い、不適切な言い回しを一部修正した。25歳の文章とはこんな程度のものなのか、時に煌きもあるが、総じて知能程度の低い若書きの文章ということであろう。そのような文章をあえて公開したのは、一にそこに私の<社会的営為>の淵源があるためである。

つまり、卒業論文「暗号について」は、25歳の文章としては稚拙の限りであるが、意義があるとすれば、その後の私の人生を左右した生涯のテーマの出現があったということであろう。
このとき、人は、<叫ぶ>のだ! というテーマである。
特に、第4章の終了の仕方<ここに至って、何をか言わんや……>は単なる蛇足とは言えないほど特徴的であると考えるがどうであろうか。というのも、その後の私の著作において繰り返されるパターンが、ここに現れていたのである。

平成7年哲学書『情緒の力業』の最終章は、壮大な実験、<惚けた遊び>全体でパターンの繰り返しを行っている。
平成12年経済書『人様のお金』PDF155枚の最終部分は、<今はただ、笑而不答、笑而不答。>の一行で終わっている。

これはいったいなんだろう。
論理の拒否、断念、「言葉と経験はズレてるのが建前(たてまえ)」(飯島宗享『気分の哲学』 p.25)故の回避行動であろうか。喋れない、喋りたくない、無言の内に閉じこもる、つまり不立文字、言葉を使わないというステージに立ち入ったということなのだろう。



3.主題の湧出

「彼はあたりを見まわした。すると自分自身の他に何ひとつ見えなかった。そこで彼は始めて叫んだ。――私がいる! と。……それから彼は不安になった。ひとりきりでいると不安になるからだ。」ブリハッド・アーラニヤカ・ウパニシャッド 、という文章に触れて、忘れ去られていたあの事件が22歳のときに蘇ってきたのである。
 それから、夢中になってこのテーマの追求が始まり、卒業論文を書くにあたってはこれが主題になったのである。これをヤスパースの暗号になぞらえて、論文構成を考えたのであった。



4.執筆後の状況

卒業論文を提出し、ラテン語もようよう及第点をいただき、いよいよ卒業という時点で、高校卒業のときと同様、またしても東京で仕事は見つからない状態に陥っていた。ただ、前回と違ってこのたびは子どもが生まれてくるのだから、緊急を要した場面で、やむなく父の紹介で親戚筋が経営している福山市の築炉会社、溶鉱炉の炉を築く会社に行くことになった。

1月ほどしてから、千葉から父と妻と、そして誕生したばかりの長女の3人が福山駅にやってきて、父から「ほら、お前ンだ!」と言って長女を渡されたときに、私の命運は定まったのであろう。食うための仕事が始まった。

結局、その会社は2年ほどで辞め、東京に舞い戻り、紆余曲折の末、昭和44年10月、横浜の運送会社に就職し、その会社の厚生年金基金で「年金」の仕事を30年ほどすることになったのである。

一方、哲学の方では、思わぬ展開が昭和45年3月に起こっていたのである。というのも、先の私の卒業論文の一部(あの事件の件)が、卒業論文指導教授の著作、飯島宗享著『気分の哲学―失われた想像力を求めて』毎日新聞社 昭和45年3月発行 に引用されていたのである。

「……だけどね、そのときの光景をまざまざと記憶している人も、案外、たくさんいるらしくて、いつだったか学生の卒業論文を見ていたら、そのなかの一人が、この経験について実に鮮明な印象を記している一説があったんで、論文そのものはみんな学生に返したけど、その箇所だけは写しをとって、しまっといたんだ。どこか、そこらにあるはずだから、見てみよう。……これですがね、そう、いい機会だから、披露しておこう。こういう文章なんだ――」同書

 「このことは、著者にとって卒論に記述された私的な問題であったものが、公刊、公開されたことによって社会的営為となったため、更に深くこの問題を問いつめることを不可避としたのである。その追求は三十代を貫いて六百三十枚の『述語は永遠に……』となったのであるが、」 針生清人『情緒の力業』ブックレビュー東洋大学校友会報 188号

 「概念ならざるものによる探求」同書 は、その後、平成7年に哲学書『情緒の力業』(400字詰め原稿用紙553枚)近代文藝社出版 となったのである。

 指導教授に献呈を捧げた『情緒の力業』は出版されたが、その後再販の話はないので、少しも売れないままであろう。売れるような本ではないし、売れないのはかまわないのだが、ただ一点、なによりも筆者にとって嬉しいことが生じたのである。

それは、同校の文学部教授針生さんが『情緒の力業』ブックレビューを書いてくれたことである。このレビューひとつで、私のこの本に対する営為は全て満たされたのである。全ての余事は他事である。

「途上にあるもの」同書 として、その後の私の営為が位置づけられるのであろうが、「年金」関係の仕事は下記の通り一段落した。

平成09年 旅行記「童女のようにはしゃいだギリシャ旅行記」(A4×6枚)脱稿
平成11年 調査記録「401(k)の百聞は一見に如かず」(A4×19枚)脱稿
平成12年 経済書「人様のお金」(A4×155枚)脱稿
平成12年 経済書「厚生年金基金 事務長奮闘記」(A4×134枚)脱稿
平成16年 実用書「年金生活への第一歩」(A4×82枚)脱稿
平成19年 雑誌記事「年金履歴書の作成による請求もれ年金発見の仕方」(B5×13枚)ビジネスガイド掲載
平成20年 雑誌記事「企業年金の記録漏れ問題・不払い問題 具体的解決策は何か?」(B5×5枚)ビジネスガイド掲載

 今はただ、昔、書いたものを読み返している段階であり、このブログ投稿もその一環である。このたびの投稿で、「暗号について」、「述語は永遠に……」、『情緒の力業』等で追求されている主題は確認できたのであるが、67歳になった今、私の主題の延長線上に言葉を超えるものを書くという選択肢もあろうし、まったく書かないという選択肢もあろう。また、まったく選択しないという選択肢もあろう。……どうなることやら



                                         以上


経  緯

2011年08月02日 | 読書

1.卒業論文「暗号について」
  昭和42年(25歳) 400字詰め原稿用紙100枚提出
  卒論


2.飯島宗亨『気分の哲学』への引用
  昭和45年(28歳) 上記卒業論文の一部(下記)が引用された。

「秋始めのある晴れた日、私は昼食後の満腹感で校庭を歩きはじめた。他の中学生達は既
に校庭で遊んでいた。すると急に、風の音と彼らの遊び声が、ボリュームを落とし、あた
りが静まり、私は白いワイシャツが風に揺れているさまを見続けていた。それは風の強い
日の旗のように、バタバタと音をたてていた。その衣服の白さとバタバタという音だけに、
私の意識は集中した。その時、ひどい孤独と共に私は叫んだ。――ああ! 彼らも人間だ、
と。
その白さ、バタバタという音は、私の意識に、他人としてそこに「ある」という感じを、
叩きつけた。」




3.「述語は永遠に…」
  昭和56年(39歳) 400字詰め原稿用紙636枚脱稿


4.『情緒の力業』
  平成07年(53歳) (400字詰め原稿用紙553枚)近代文芸社 出版




5.『情緒の力業』書評
  平成8年(54歳)  東洋大学:校友会報・第188号・P.8 Book Review 平成8年7月31日発行に針生清人氏書評掲載


  

素材抜粋-井筒俊彦『イスラーム文化』

2011年08月01日 | 読書

ご挨拶



長い間、年金カウンセラーとしてこのブログに投稿してまいりましたが、この八月で70歳を迎えるのを期に年金カウンセラーとしての投稿は終わりにして、別の方面に出向きたいと考えております。

お蔭様で、いままで大勢の方々にご覧頂き、大変励みになりました。と同時に、大変感謝もいたしております。その一端として、年金カウンセラーとしての作業はパブーの電子書籍に集約いたしました。

今後は、いままでの足跡を振り返りつつ、年金を離れて初心に戻るつもりにしております。
ということで、今後このブログはパブリックからドメスティックに性格が変わりますので、皆さんにはご覧いただけなくなるかもしれません。

長い間、ご高覧賜りありがとうございました。



2011.08.01
年金カウンセラー
高野 義博




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素材抜粋                               2011.06.03

イスラーム文化
-その根底にあるもの-

井筒俊彦著
岩波書店
1981年



はじめに


時局的知識の集積であるとはいえ、


人類全体が、現在、地球的規模で統一化への道を進みつつあることは、いまや誰の目にも明らかな事実であります。


「地球的(グローバル)」という形容詞がさかんに使われるようになってきたことは決して偶然ではないと思います。


「地球社会」はもはやユートピアでも夢想でもない。むしろそれこそが、人類や世界の未来像を描くときに、われわれの直面するすべての深刻な問題を考えるさいの、われわれの思考の座標軸になりつつあるのです。


「栄光ある孤立」は既に過去の言葉です。


すへてがすべてに有機的につながって、密接な相互依存関係の統一体をなす、それが現在の時点での人間存在の普遍的形態なのであります。まさに華厳哲学の説く事々無礙法界の風光。


二つの全く違った伝統的文化価値体系の激突によって惹き起こされる文化的危機。そのダイナミックな緊迫感の中で、対立する二つの文化(あるいはその一方)は初めて己を他の枠組みの目で批判的に見ることを学ぶのです。そこに思いもかけなかったような視座が生まれ、新しい知的地平の展望が開け、それによって自己を超え、相手を超え、さらには自己と相手との対立をも超えて、より高い次元に跳出することも可能になってくる。H・G・ガダマーの語る「地平融合」(Horizontverschmelzung)の現成です。


異文化間の対話(ダイアローグ)」



1 宗教


イスラームはその起源においてすら、アラビア砂漠の砂漠的人間の宗教ではなかったのであります。


預言者ムハンマドはまさに砂漠的人間のいちばん大切にしていたもの、砂漠的人間の価値体系そのものに真正面から衝突し、対抗し、それとの激しい闘争によってイスラームという宗教を築き上げたのであります。


預言者ムハンマドはベドウィン――典型的な砂漠的人間――にたいして実に根深い不信の念を抱いていました。


こうしてイスラームは最初から砂漠的人間、すなわち砂漠の遊牧民の世界観や、存在感覚の所産ではなくて、商売人の宗教――商業取引における契約の重要性をはっきり意識して、何よりも相互の信義、誠、絶対に嘘をつかない、約束したことは必ずこれを守って履行するというということを、何にもまして重んじる商人の道義を反映した宗教だったのであります。


都市の複雑な人間関係のなかで刻々に変化する生活の状況に敏感に適応し、人生の敗残者とならないために、たえず思考力を働かせていなければならなかった、活発で、現実的な商人のメンタリティを反映する宗教でもありました。


こう考えてまいりますと、イスラーム文化なるものは、砂漠の文化として簡単に類型化されるようなものではなくて、種々様々に異なる文化伝統の入り乱れ、錯綜し、からみ合う多くの交差点の網の目の広がりのなかで形成された複雑な内的構造をもったひとつの国際的文化であることがわかります。


イスラーム文化の現在を一瞥しただけでもアラブの代表するスンニー派(いわゆる正統派)的イスラームと、イラン人の代表するシーア派イスラームとは、これが同じ一つのイスラームなのかと言いたくなるほど根本的に違っております。


イスラーム文化は究極的にはコーランの自己展開なのであります。


とにかく本物、偽物とりまぜて何万という数の「ハディース」(預言者ムハンマドの言行録)が『コーラン』の周りを十重二十重に取り囲みまして、まんなかにある『コーラン』はそのプリズムを通して種々様々の意味に分裂して解釈されます。


われわれがふつうイスラーム文化の構成要素としているものは、学問をはじめとして道徳も政治も法律も芸術も、ことごとく『コーラン』の解釈学的展開の諸相なのであります。
……。(他の聖典と違い) これに対して『コーラン』は神の言葉だけをそのまま直接に記録した聖典として完全に単層的です。そういう単一構成の書物がさまざまの方向に向かって解釈されまして、それがイスラーム文化を生んでいく、そこに大きな特徴があります。


イスラームは、『コーラン』そのものの教えに基づきまして、原則的に聖と俗との区別を立てない、それが最大の原因であります。……。いわゆる神の国と人間の国です。ところがイスラームという宗教では存在に聖なる領域と俗なる領域とを、少なくとも原則としてはまったく区別しない。……。生活の全部が宗教なのです。


なんといっても、イスラーム教徒が神の啓示に基づいた一つの信仰共同体に属しているのだという強烈な連帯意識であります。……。イスラーム教徒としての自覚がある限り、彼らの心の奥深いところには、依然として一つのイスラーム、世界中のムスリム(イスラーム教徒)は一体だという連帯意識がひそんでいます。しかもそれが実に強烈な、情熱的な連帯感なのです。


解釈があまり生き過ぎて許容範囲を逸脱した場合には、共同体の統一に責任ある指導者たち(ウラマー)が、『コーラン』の権威によって、ただちに断固としてこれに異端宣告して、共同体から追い出してしまうのです。


原則として聖なる領域と俗なる領域、聖俗をまったく区別しないイスラームでは、僧侶階級というものは存在致しませんし、また存在できません。ウラマーというひとつの特別な身分が、イスラーム社会に階層的に存在するわけではありません。ウラマーとは、『コーラン』とそれに関連する学問を専門に研究する人のことであります。しかも、聖俗を区別しないのですから、宗教研究の権威者ともなりますと、狭い意味での宗教や信仰に関することだけでなくて、社会問題、政治問題、法律問題、風俗問題、道徳問題など、人事百般について『コーラン』の名において判定を下すことのできる権威者となります。


この点で、ウラマーの政治的権力は実に絶大なものであります。なぜなら、いったん異端を宣告されたが最後、その人、あるいはそのグループは完全にイスラーム共同体から締め出されてしまう。ということは、イスラーム教徒としての一切の権利を剥奪されて、「イスラームの敵」――より正しく述語的には「神の敵」(‘aduww Alla(-)h) ――となることであります。「イスラームの敵」になったものの刑は死刑、全財産没収。個人の場合はもちろんそのまま死刑。異端宣告を受けたためにどれほど多くの人々が刑場に消えていったか、数えきれません。


しかしながら、逆の方向から見ますと、これほど多くの人たちの血の犠牲においてはじめてイスラームは、内部的分裂を重ねながらも、しかもよく根源的統一性を守り通すことができたのであります。自己消滅にも至りかねない分裂と極端な画一性を強制する統一
――この相矛盾する、そしてそれぞれに極めて危険な二つの傾向性の間に緊迫したバランスをとりながら、イスラームは広大な古代オリエント文明世界の全領域に伸びひろがっていき、その時代時代、その地域地域で著しく変動する状況に柔軟に適応しつつ様々な方向に展開し、ついにあの創造性に満ちた多層的イスラーム文化構造体にまで発展していくことができたのであります。


 イスラーム教徒自身、ムスリム自身は、しかし、この三つ(キリスト教、仏教、イスラーム)を同列に並べることはおそらくしないと思います。なぜなら、セム的な人格一神教とは著しく性格を異にする仏教が果たして彼らの目から見て宗教といえるかどうか、少なからず疑問があるからです。


 事実イスラームの立場からしますと、この三つ(ユダヤ教、キリスト教、イスラーム)は一系列の宗教なのです。ユダヤ教、キリスト教、イスラーム――人類の歴史の流れのなかでこそ三つの違った形で現れましたけれども、根本的には同じ一つの宗教であります。


預言者の召命体験


測りがたい神の意思が突然、閃光のようにひらめいて預言者の深層意識を言語的に触発する。


約20年かけて断続的にムハンマドに与えられたこのアラビア語の啓示が、現在われわれが『コーラン』という名で呼んでいるものであります。


人格的関係と申しましても、神はあくまでも主(rabb)、主人、絶対的権力をもつ支配者です。そして人間はその奴隷(‘add)。つまり神と人との人格関係は、あくまで主人と奴隷の関係なのであります。人間を神の奴隷ないしは奴僕とする、このイスラーム的考え方はイスラームという宗教の性格を理解する上で決定的重要性をもつものでありまして、(略)


つまりイスラームは宗教的には「絶対帰依」以外の何ものでもありえないのです。
……。絶対無条件的な神への依嘱、依存の態度をいつでもどこでも堅持して放さない人のことです。


ということは、世界は無始なる過去に一回だけ創られてそれで創造は終わるのではなく、どこまでも瞬間ごとに世界が新しく創造されていくということでありまして、神のこの瞬間的創造行為の連鎖が、世界、そして人間の歴史を形成するのであります。瞬間ごとにまったく新しく創造されるのですから、全体が切れ目のない一つの流れではありません。とぎれとぎれの独立した単位の連鎖であります。いまこの瞬間の状態を、一瞬前の状態とくらべてみますと、そのあいだには絶対的な断絶がある。いまこの瞬間を一瞬後の状態と比較しましても、そのあいだには何ら内的関連がありません。まさに仏教哲学でいう「前後裁断」であります。前とうしろがとぎれているのです。


空間的に世界は互いに内的に連絡のないバラバラの単位、つまりアトムの一大集合として表象されます。これがふつうイスラームのアトミズム=原子論的存在論と呼ばれている有名なものですが、とにかくこのように世界にあるいっさいの事物が時間的にも、空間的にも個々別々であってしかもそれら個々別々の事物の一つ一つが、それ自体多数の不可分割的な微粒子、つまりアトムの組み合わせから成り立っている。それらの微粒子は、お互いに融合し合うことが絶対にない。微粒子相互のあいだにも、それらの微粒子の集合で出来上がっている事物相互のあいだにも、何ら内的連結がないのです。ただ偶然に並んでそこにあるだけなのです。


そうなりますと結局、われわれの経験的世界は、哲学的には因果律の成立しない世界ということになる。因果関係で内的に結ばれているものは、この世界には何一つ存在しない。また、そうであればこそ神の全能性が絶対的な形で成立しうると考えるのであります。


行動においても存在においても人間はまったく無力。自分の力では何一つすることができない。そういう絶対無力の人間にしてはじめて絶対有力の神にたいして真の意味で、無条件的に「奴隷」であることができる。これがアトミズムの典型的な人間観であります。


ただアラブ的思惟の典型的形態であるアトミズムの内蔵する問題を指摘するだけにとどめておきます。


もう一つ、ここで申し上げておきたいことは、因果律(そして人間の場合には自由意志)の否定を伴うこの非連続的存在感が、イスラームの正統派――スン二ー派と呼ばれている非常に大きな、ほとんどイスラームの大多数を占める人々――の根本的な哲学なのであるということです。


そのなかでアラビア人一般のものの見方の注目すべき特質として、感覚の異常な鋭さということをさかんに論じたてたものです。……。事物認識におけるこの感覚的鋭さこそ、古来アラビア人が自ら誇りとするところだったのであります。


しかし、この点に関連して、それよりももっと重要なことは、このように異常な鮮明度をもって、異常に鋭敏な輪郭で生き生きととらえられたあらゆる事物が、ポツンポツンととぎれていて、それぞれ孤独に浮かび上がっているだけでありまして、それら相互のあいだに内的結びつきがないという事実なのです。


「燦然と輝く宝石があたり一面にバラまかれている、しかしそれらの宝石を一つにつなぐ糸が通っていない」(アフマッド・アミーン)、つまり認識された事物がバラバラでみんなアトム的だということです。


感覚的アトムとしての事物の集合、この特徴ある世界認識のの様式に基づく一種独特の現実感覚が、イスラーム文化のアラブ性という形で、この文化のなかに組み込まれていきます。そしてこのイスラーム文化のアラブ的性格がやがてイスラーム文化自身のなかで、これと正反対のイラン的、ペルシア的性格と正面から衝突することになります。



2 法と倫理


イスラームは血縁意識に基く部族的連帯性という社会構成の原理を、完全に廃棄しまして、血縁の絆による連帯性の無効性を堂々と宣言し、その代わりに唯一なる神への共通の信仰を、新しい社会構成の原理として打ち出しました。


しかし、イスラ-ム的、ユダヤ的、この二つの選民思想のあいだには根本的な違いがあります。
それは、ユダヤの場合、選民、すなわち自分たちが神によって特に選ばれた民であるという自覚には、一種異様な神秘的忘我、陶酔があるからです。……。つまりイスラエルと呼ばれるユダヤ共同体は、民族性の激しい情念に支えられたひとつの情的共同体であり、またそのゆえに、民族的に閉ざされた、密閉された共同体なのであります。
これに反して、イスラームの共同体はもっと冷静であり、合理的です。……。この選ばれた集団は、選ばれた集団でありながら、しかも外に向かって大きく門を開いている。開放的であって、排他的でない。ユダヤ共同体のように民族的に閉鎖された社会ではありません。誰でもその一員になることが許されるのです。この意味でイスラーム共同体の宗教は、仏教やキリスト教と同じく一つの開かれた、普遍的、人類的宗教であります。


聖典あるいは啓典を授けられた人々の集団


「啓典の民」を強制してイスラーム教徒に改宗させてしまえば、人頭税を徴収することができなくなってしまう。イスラームを信奉しない「啓典の民」から入ってくる税金こそ、形成途上にあった「サラセン帝国」の国庫の最大の財源だった。ですから、イスラームを強制するどころか、降伏した「啓典の民」に、なんとかイスラームに改宗させる気を起こさせないでおこうというのがその頃の為政者、つまりイスラーム共同体の指導者たちの極めて現実主義的な政策ですらあったのです。


近代ナショナリズムの勃興は、この意味(近代人たらんとする)において、イスラームの文化構造そのものに重くのしかかってきました。


同じイスラーム世界でも、トルコのように思い切りよく「聖」を棄てて完全な世俗国家となり、イスラーム法を撤廃し、アラビア文字の代りにラテン文字のアルファベットを制定し、一切の公文書をアラビア語(……)ではなくトルコ語で書く、そういう大胆な改革をやってのけた国もありますが


今日イスラーム圏のどの国にもナショナリズムの波が澎湃と押し寄せてきております。


ターハー・ホセイン『エジプトにおける文化の将来』1938


聖俗を分離することなしに、しかもイスラーム社会を科学技術的に近代化することが果たしてできるだろうか――それが現在すべてのイスラーム国家が直面している、いやでも直面せざるをえない、大問題なのであります。


人間生活の全体が、毎日毎日の生活、その一瞬一瞬が、神の臨在の感覚で充たされなければならない。そういう生活様式に人生を作り上げていくことによって、人は神に真の意味で仕えることができるのだ。
                         ムハンマド・ガザーリー


この意味で、イスラーム法とは人間生活の正しいあり方に関する神の意志そのものを法的に体系化したもの、契約化したもの、構造化したものです。……。ですからイスラーム法は……終始一貫して、何をせよ、何をするなという体系なのです。命令と禁止の体系です。


元来、人間の理性ではどうにもならない、その意味でまったく非合理的な啓示を素材としながら、それを徹底的な理性の行使、合理的思惟によって解釈していく。そしてそれを法的組織にまで体系化したもの、それがイスラーム法であります。



3 内面への道


アーリムとは「学者」という訳語がぴったり合うような人、つまりものごとを学問的に研究したり理性的に頭で考えたりして知る人でありまして、その「知」は主として事物の概念的、思弁的理解に基づく概念的知識。これに反してアーリフといいますのは、合理的、分析的思弁に頼らず、むしろその彼方に、事物の真相(=深層)を非合理的直感によって、あるいはその事物が意識の深みに喚起する象徴的形象を通して、簡単に言えば霊感によって、事物の内面的リアリティーを把握して知っている人のことであります。


「内面への道」の二つの違った系統、その一つはシーア派的イスラーム、もう一つはスーフィズムの名で西洋で知られておりますイスラーム神秘主義であります。


このように、神の言葉の内面に「秘密の意味」を認めるシーア派の人々にとっては、『コーラン』は一つの暗号書です。


前回の主題であった律法的共同体型の宗教としてのイスラームは、メディナ期の精神文化的展開であります。これに対して、メッカ期の啓示に基づくイスラームは、個人的、実存型の宗教で、スーフィズムはこのメッカ期の啓示の精神を、そのまま純粋に推し進めていったものといえると思います。


終末論的実存的情緒


自我意識払拭の修行道

ああ、できることなら「二」という数を
口にしないでおりたいものを。
ハッラージ


しかしながら、スーフィーが自己否定の道をどこまでも進んでいくうちに、思いもかけなかった不思議な事態が起こってまいります。自己否定がまったく新しい積極的な意味をもちはじめ、一種の自己肯定に変わってくるのです。否定に否定を重ねて自我意識を消しながら、我をその内面に向かって深く掘り下げていくと、自己否定の道の極限において、人は己の無の底に突き当たる。ここに至って人間の主体性の意識は余すところなく消滅し、我が無に帰してしまいます。自我の完全な無化、我が虚無と化すということです。
ところが、この人間的主体性の無の底に、スーフィーは突如として燦然と輝き出す神の顔を見る。つまり人間の側における自我意識の虚無性が、そのまま間髪をいれず、神の実在性の顕現に転生するのであります。


むしろ逆に、神的実在(ハキーカ)から発出してくる強烈な光で、意識全体がそっくり光と化し、光以外の何ものもなくなってしまうということなのであります。


こういう形而上的光明体験を、審美主義の述語で「照明体験」illuminatio、アラビア語ではイシュラークと申します。


     私は彼だったのだ
                     バクスターミー


抜粋者:A.ランボーのイルナミシォン


                                          以上



素材抜粋-古賀茂明『官僚の責任』

2011年07月31日 | 読書
素材抜粋                               2011.07.31

官僚の責任

古賀茂明著
PHP新書
2011/08/10第一版第二刷



どうやってこっそりやるかといえば、「意図的に内容をわかりにくくする」方法がもっともよく使われる。具体的には、「いくつかにわける」という方法がとられることが多い。一つの文書としてまとめたかたちで表に出せば、多くの人にわかりやすくなってしまうので、あえて内容をバラして複数の文書にちりばめ、なおかつ発表時期をずらすのだ。


「改正について」ではなくて、「改正等について」と「等」がついている。
これは官僚がよく使うテクニックで、「等」をつけることによって、内容をまるっきり変えてしまうのである。


通常、それらは年度内に使わなければならない。いや、必ずしも使い切る必要はないのだが、その場合、「繰越」の許可をもらわなければならず、役人からすれば、その手続きが非常に面倒なのだ。


抜粋者:単式簿記の弊害


ところが、役所ではふつう一、二年で異動がある。頻繁に異動があるのも、要するに責任の所在をうやむやにする狙いがあるわけだが、いずれにせよ、自分が作成にかかわった政策の成果が出るころには、大概は別の部署に移っている。


利権が官僚にとっての「売り上げ」なのである。


すなわち、権限と予算と天下りポスト。
この三点セットをつけることを自動的に考えるように思考回路が形成されているのだ。


ギリシャが破綻を招いたきっかけの一つは、公務員の「身分制」を最後まで温存したことだった。


年功序列、身分保障とともに、いったん入省したら未来永劫、所属が変わらない縦割りの組織構成に理由がある。各省のなかに自分たちの生活を守る仕組み、言い換えれば互助会ができあがっているのだ。


「予算は他人のお金ではない。自分自身のお金なんだ」


抜粋者:人様のお金



「あまりに従順すぎるのではないか。もう少し文句を言ってもいいのではないか?」


                                         以上

素材抜粋―清水博『生命を捉えなおす』

2011年07月28日 | 読書
素材抜粋                                  2011.07.22

生命を捉えなおす
生きている状態とは何か

清水博著
中公新書
2009年1月25日増補判10判

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アトミズムには、単に対象を微視的観点から捉えるだけではなく、動的な現象を静的な状態に分解して、興味を「現在」に絞って観察するという性格があるのです。自然界には本質的に動的な現象が存在します。発生、成長、進化、消滅などといわれる諸現象がこれです。このような現象は、一般にたくさんの要素が寄り集まってできている体系にはじめて見受けられる点に注意すべきです。発展、進化のように逆行できない(不可逆)現象は、数多くの要素が同時に存在する体系でなければ出現しないのです。したがってこのような自然の動態はアトミズムだけでは捉えられないのです。


揺動(ゆらぎ)というものは


不安定なときには、逆にゆらぎによってランダムさの中から一定の方向の選択、すなわち秩序が作られるのです。


粗視化して物事を眺めるという立場


 このように、原生動物には、ゆらぎ運動、このゆらぎによって生じた「二つ」の状態を見くらへてより好ましいほうを選択する能力、過去のことは忘れる能力、の三つがそなわっているので、空間の中の好ましい一点に向かって近づいていくことができるのです。


この意味では、思考の揺れ幅の大きさばかりでなく、記憶を適度に失うことができるということも、創造的な人間にとって、非常に大切な能力です。


誤る能力もない人間に、創造的な仕事は無理です。


生きている系における秩序の自己形成に関しては二つの大切な面がありました。一つは要素が系全体の発展に協調して秩序をつくることであり、もう一つは、根本的には各要素の状態はゆらぐことができて、環境の中から系の発展にとって最もよい条件を選択できるということです。


このような不確かなことがおきるのは、マクロな条件を一定に整えるだけでは具体的にどのような秩序が出現するかを決定できない状況(不安定な系)で、その決定が、ゆらぎにまかされているからです。この不確かな点を確かにするために、ゆらぎから決定権を奪って、生物自身の手で秩序を決定しようというのが、生成における情報発現の熱力学的原理です。私たちがゆらぎにとって変わって決定権を持ち、望む変化をおこそうというときには、(ゆらぎの与える揺動力よりある程度大きい力さえ与えればよいので)ほとんどエネルギーを使わなくても、出現する状態を決定することができます。この、ほとんどエネルギーを使わなくてもマクロな状態を決定できることが、情報発現の特徴です。


仏教について驚嘆するのは、生きている自然の全体像がほとんど科学的に捉えられている点です。……。しかし、宗教という次元から離れて、自然科学の立場からみるならば、仏教の自然観の中に、社会という階層が入っていないのが気になります。


このような<神―人間―他の生物>という縦の階層構造が、仏教で描く、人間と他の生物が横の関係にあり協同して大きい秩序をつくるという見方や自然の捉え方と際立った対照をみせています。今日の文明の諸矛盾はキリスト教のこのような物の見方に発しているという考え方もあるくらいです。


これに反して、日本の社会のようなタイプのシステムでは、要素が均質的で密着性の高いために拘束度が強くなり、狭い次元での競争を誘って秩序をつくりだす面が強いと思われます。つまり生成的ではないのです。さらに重要なことは、システムの閉鎖性のために、フィードフォワード(抜粋者:未来に還元)よりもフィードバック(過去に還元)が強く働いて秩序が自己組織される傾向が強いことです。このようなシステムではその拘束性の強さから、秩序の一犠牲が目立ってきます。
このようなことから、もしも日本の伝統的な秩序感覚によって、秩序を考えたり、無秩序の必要性を主張したりすると、大きな国際的な誤解を生む可能性があると思います。


そのためには混沌とした情報の中で大きな流れ(法則性)を掴み、それによって自分の状態を変えていくことが必要とされます。さらにその将来が、自己の積極的な活動によって変わるときには、自己の活動のあり方を、時間的に位置づけていく必要があります。


抜粋者:マドリングスルーな活動


このように自己の世界に環境から入ってくる混沌とした情報の中にさまざまな法則性を見出して、未来に創造的に対応していくことは、自己の世界の中で新しいセマンティック(意味論的な)情報を生成していくということを意味しています。

余談になりますが、日本の社会は画一的なフィードバック社会であるために、その構成員は、時代の大きな流れを掴んで、その中で自分のあるべき態度を自律的に決定するというタイプの創造性が苦手であるばかりでなく、またその画一性から、個人がこういう生き方をとることを排除するように働く傾向があります。


日本人の創造性は、マクロな状況への適応を主としたフィードバック面で発揮されてきたのです。フィードバック型社会では、行動目標ははじめから与えられているので、行動をするための「ハウ・ツー」が重要な問題となります。これに対して欧米型社会は、フィードフォワード型社会であると思われます。このような社会では、遠い将来における目標の設定が重要な課題であり、長期的レベルでの自己の行動規範の表明が必要とされるのです。


一般にシステムを取り巻く環境が分裂し、その状態が複雑で不確定になるほど、フィードフォワード制御が必要になります。


抜粋者:現代ではドイツ風観念論ではなくイギリス風経験論のほうが現実的な方法論


戦後、日本の社会の中から見るべき哲学が創造されていないことは、上に書いたフィードフォワード型の社会と関係しているでしよう。


哲学というものは、創造的なフィードフォワード制御のための法則性の発見という面を持っていなければ、単なる現象の整理の学に終わると思います。


これまで人間はこのボーダーに囲まれて分節化された意味を持つ固い論理の世界から自由になろうと、さまざまな試みをしてきました。その努力は、大乗仏教の空の概念や禅の無の概念ばかりでなく、古代中国の荘子の混沌、新プラトン主義のプロティノスの脱我的存在ヴィジョン、そしてイスラムのイブヌ・ル・アラビーなどに共通して見られる普遍的思想パラダイムを生み出していると井筒俊彦氏(『コスモスとアンチコスモス』岩波書店)は書いておられます。


この点、「事と事とを隔てる枠をとり、また再びその枠をはめる」という華厳哲学の論理(井筒)は、セマンティック・ボーダーを緩めて相対化する考え方として生命関係学の論理と共通するものがあるので私は大きな興味を持っています。



以上

ブレイクスル-な事態

2011年07月11日 | 読書

 

  事務局から与えられました時間は30分ということですので、早速、本論を始めさせて頂きますが・・・・・その前に、皆さん不思議に思われていることでしょうから、一言お断りしておきます。 

  私は、ここの学部を昭和42年に卒業して、以来民間企業で30年ほど働いております「会社人間」です。その会社での担当業務は<厚生年金基金>という企業の年金でして、20数年同一の仕事を行なっています。ということで、20数年同一の仕事をするなどというのは一般企業では希なことであって、典型的会社人間というよりアウトサイダ-的会社人間ということになります。 

  「白山哲学会」のような学究的世界に、私のような会社人間が厚かましくもしゃしゃり出てきましたにつきましては、こちらの針生教授に、今年の7月に発行された校友会報に拙著『情緒の力業』の紹介を書いて頂いておりますので、そちらをご参照頂けたら幸いです。私の本の出版を機会に、少々大袈裟に言えば異業種交流が図られたとでもお考え頂いたら宜しいかと思います。 

 

  そういうことで、以下、私が皆さんにお話することは、皆さんのような学究的な方々にはラチもない三百代言であって、普段親しまれているエレガントなベグリッフの世界からはほど遠い内容かも知れません。ここで、お話させて頂くについては、やはり<哲学>について皆さんの前で話すべきかとも考えましたが、早々に私の任にあらずと断念致しました。むしろ、会社人間として実業の世界の一端でもお話した方が皆さんにはエキサィティングだろうと考えるに至りました。

 

  さて、本日のお話の構成は、アリストテレスの「三段論法」でもなく、ヘ-ゲルの「正・

反・合」でもなく、花伝書の「序・破・急」に沿ってお話してみたいと考えました。

  といいますのも、常々、私は「三段論法」や「正・反・合」の西洋合理主義の論理構成、

つまり<1+1=2>に対して、何か胡散臭さ、でっち上げの意図を感じておりました。そ

れは、ただ単に論理展開ツ-ルとしての仮定にしか過ぎないのではないかと、不信の念に捕らわれていました。

  しかし、現代哲学で支配的な考え方は、あくまでも、知的、客観的、科学的合理性追求の姿勢でありましょう。しかし、会社人間の私が日夜格闘していますのは「結論・背景・効果」というような性急なスタイルです。そういうことで、実業の世界には、一片たりとも知的、客観的、科学的合理性追求の姿勢はありませんと断言してもよいようなドロに塗れた世界です。その逆がまかり通っているのが現実です。もちろん、私自身のプライベ-トな考え方は、著書のタイトルのように、『情緒の力業』なのですが。

 

  ところで、先日、私のところの事務所で、或る外資系投資顧問会社のうら若き女性営業員とお話していたとき、その方が次のように話されたことがありました。

 

 「外資系企業に入社しようと思って、<英検>の勉強をしていましたときに、<英検>そのものには受かりましたのですけど・・・・・何んとなく、英語というものが分からず、もやもやしていたのです。

  或る日、友人の外人家庭に遊びに行ったとき、パ-ティ-の席で、夢中になって友人の家族皆なと話している自分に気がついたの!

  その瞬間、こんな太い角材でガツンと殴られたかのように分かったの。

 IT'S A ENGLISH,ENGLISH !

 と叫んでいたわ、その時! 

 

  その方は、この経験、立ちふさがっていたもやもやしたものが破れ、向う側へ突破したことを英語では「ブレイクスル-」と言うと教えてくれました。

  偶々、私も『情緒の力業』の中で、同様な事例を数多く採集していましたので、その内の幾つか、とくに宇宙飛行士逹の経験(立花隆『宇宙からの帰還』)を話して尽きるところがありませんでした。

  この経験にはどんな意味があるのかということで、40代の全部を使って私は『情緒の力業』を書いたことになりましたが、この話しを聞いた頃、この本の出版の準備をしていましたので、本の帯に「ブレイクスル-」という言葉を使わせてもらいました。

  一方、実業の厚生年金基金業務展開の方でも、もやもやしたものがありました。厚生年金基金の仕事は、お陰様で20数年継続させてもらいましたので、その間に数多くの業務改善も実現致しました。しかし、最近ではこの業務改善の思考スタイルの限界を意識していました。といいますのも、この「カイゼン」は英語になっているそうですが、基本的に線形論理で構成されていて、改善に改善を重ねて一直線上をひた走ることになります。硬直的でスタティックなこの業務改善の思考方法では、動的な現実に対応出来なくなっています。そこへ、この「ブレイクスル-」な思考スタイルが浮上してきました。コンセプトの拡張はこれで達成されることでありましょう。

 

  「序」はこの程度に致しまして、次いで花伝書の「破」と行きましょう。そこで「破」らしく日本の金融の機能不全についてです。

  世界がグロ-バル化している事態については皆さんもご承知のことと存じます。技術は世界を一つにしてしまいました。国境が無意味になりつつあります。鎖国政策や共産主義はロ-カル視されて立ちいかなくなりつつあります。恣意的なスタンドプレ-や個人や国家の作為が成り立たなくなっています。共産主義はニクソンが為替のフロ-ト制移行を決意したことで簡単に崩壊してしまいました。赤い血を見ることもなく。

  世界のグロ-バル化は、金融の世界に端的に表れています。金融界のグロ-バリゼィションの進行は、金銭の決済場面で典型的に表れています。ロンドンからニュ-ヨ-ク、そして東京、香港と巨大マネ-が<資本の論理>によって瞬時のうちに移動します。1円の円高ドル安で一企業のレベルで百億円単位の損益のブレが発生します。1ドル80円にでもなれば、日本で製造業は成り立たなくなるそうです。そうなれば、雇用はますます悪化し、ますます少子社会となり、年金も学校も従来通りには成り立たなくなるでしょう。

  それなのに、日本の金融は95年に次々に発生した金融事件の対応に示されたように、従来体制の無能力、当事者能力が無い既得権益集団であることを公開し、機能不全そのもので金融危機の様子を見せ始めています。超低利金融政策による銀行救済と年金生活者潰し、それに中高年、女子大生等の就労機会を奪っています。厚生年金基金でも、低利回りの資産運用のため、積立不足基金が続出し、解散する基金も出始めています。

  金融を中心にして、日本の経済はどん詰まりにきて、タ-ニング・ポイントに近づきつつあるようです。かっての日本経済の勢いはすっかり失われ、身動きの出来ない状態に陥っています。このことは経済界だけのことではなく、日本全体が陥っている閉塞状況であろうと考えられます。そして、これを現象させたのが、従来手法の機能不全ということです。

 

  最後に、花伝書の「急」と行きましょう。日本全体の閉塞状況、つまり従来手法の機能不全の根本原因は<国民の総サラリ-マン化>によるものと考えられます。

  役人から始まって、政治家も会社人間も、教育界もスポ-ツ界も、商売人も経営者も、農家も大工も、・・・・・・・日本のあらゆる場面で、人々はすっかりサラリ-マンとなってしまいました。サラリ-マンをやっていれば、どうにか事は回っていましたし、どうにか食えたし、また別の意味では、それがあまりに長く続いたことで事を荒立てる必要が無くなってしまったのであります。

  このサラリ-マンの手法というのが出る釘は打たれる、横並び発想、群れ思考、角は丸めること、光は削ぐこと、アィディアは殺すこと、農耕村落的発想等々言われているものであります。つまり、最終的には<何もしないこと>がサラリ-マンの鉄則となっているのです。

  こういう手法で、グロ-バル化した世界に立ち向かうというのは何ということでしょう。

農耕民族の仲良しクラブで鎖国政策を維持・継続しようとも、グロ-バル化した世界では狩猟民族の切磋琢磨にとても勝ち目はないでしょう。

  従来手法の機能不全がこのように、国民の総サラリ-マン化によって生み出されたとすれば、それを生み出しました母体は何であったのでしょうか。

  それは、農耕民族である日本の土壌の上に、戦前「満州国」で実験され、日本に持ち込まれた官僚による統制経済、共産主義国家よりも過重な計画経済の導入であったろうと考えられます。官僚による統制は、日本国民の農耕的資質にマッチして国民の自主性をスポイルしてしまい、ハシの上げ下げまで人に言われなければ出来ないような主体性のまったくないロボット人間を大量に作りだしてしまったのです。自らの好き嫌いの判断を行動に示すのではないドブネズミ色の背広集団を作りだしたのです。

  統制・計画経済の手法は、<決める>ということであって、物事が<決まる>ということについては無知であり、<決まる>ということを認めることは論理矛盾でもあります。

この<決まる>ということを言っている方は、通貨マフィアでもあったかっての大蔵官僚の行天豊雄氏ですが、行天氏は外国との為替交渉の経験からこのような知恵を得られたとのことであります。それなのに、大蔵行政の日々の業務は逆に<決める>ばかりが先行し、あらゆる場面で物議をかもしています。

  世の中には、相手の主張を論破して<決める>という論理形式に対して、浮遊させたまま結論を急がず<決まる>まで放り置くという形式も有りえるのでしょう。

  ただ、今ここで私が考えている「序・破・急」の論理も、そういう<決まる>という事態を前提に、素材をそこへ提供するだけに限定していて、皆さんと議論を戦わしたいと望んでいるわけではありません。

 

  さて、今、日本は閉塞状況にあって、従来手法の機能不全を招いている場面でいろんなモヤモヤが重く立ちこめています。まだまだ向う側へブレイクスル-していないプレ・ブレイクスル-な事態にあるのでしょう。唐突ですが、おそらく明治維新前と同じでありましょう。明治時代の人たちには良きにつけ悪しきにつけ、なんと「人物」が多かったことでしょう。あの時代には、人々にヴィジョンが充満していたし、人が生きるというベ-シックな次元からの高邁な生が日々の生活に具現していたようです。そこから類推すれば日本人にもそのような品性があるようです。今は何処かに置き忘れているのかも知れません。

  昔、ドイツの哲学者フィヒテは「ドイツ国民に告ぐ!  」と高らかに叫んだことがありました。今や、日本は戦後の手法の末期症状を呈し、ブレイクスル-を目指して何かが必要になつてきたようであります。どなたか、この会場の中からでも「日本国民に告ぐ!  」と叫んでもらいたいと思います。そういう伝統が、この「白山哲学会」には脈打っているものと信じております。

 

  つまらない話しを申し上げました。  ご静聴、誠に有難うございました。

 

 

 

平成8年10月26日

東洋大学白山哲学会

 

http://p.booklog.jp/book/30007


素材抜粋-北沢 栄著 『公益法人』ー隠された官の聖域 

2011年02月24日 | 読書
素材抜粋



隠された官の聖域



北沢 栄著『公益法人』ー隠された官の聖域

岩波新書




 それ(民法第34条公益法人の設立)は「公益」の定義がないことである。設立許可権限を持つ主務官庁が「公益性のある非営利事業である」と判断して認定さえすれば許可できるわけである。肝心の「どういう事業が公益性があるのか」を判定する「公益」の定義はないから、結局、客観的な基準によってでなく、主務官庁の官僚の裁量次第で、「公益事業かどうか」が決まってしまうわけである。

 

 国際的にみてベラボウに高い日本の物価高の要因の一つは、こういう「見えない政府」が作り上げている仕組みによるものだ。

 

 局長通達は、局長の一存で主務大臣をも素通りして出せる。法的根拠はなく、不透明きわまりない行政の支配ツールだ。日本の行政で透明なのは、法律(議会が決める)、政令(閣議で決める)、省令(大臣が決める)、告示(大臣が決める)まで。……・。ところが、官僚は「通達」を勝手に出して、自分たちの利益に利用できる。

 

 そこで、官庁はあることを決め、広く世に知らせようと考えるなら告示することになる。なるほど告示は形式的には大臣の名で出されるが、事務局が発案し大臣に代行して大臣のハンコを事務方が押せば、それで一件落着だからである。実態は、官僚が自分の裁量で必要に応じて難なく出せるのである。

 

 「非公開の金融情報」を限定した企業に提供する、とのうたい文句で会員に誘い、会員の金融機関から1社当たりなんと年間300万円もの寄付金を会費として納めさせてきた。このような超高額の寄付金を要求できたのも、同基金(大蔵省の社団法人「研究情報基金」)が監督権を持つ大蔵省によってつくられ、歴代大蔵トップが天下る法人だったためだ。



 会員の三分の二を占める銀行・証券・保険など金融機関側は、大蔵省の機嫌を損ねないよう、泣く泣く会員になって高すぎる寄付金も納め、なかには同社団に協力するため社員を研究目的などとして、給与は自己負担で派遣した銀行もあった。

 

 結果、公益性の定義がないため、設立権限を握る主務官庁は、自分たちの裁量で公益性の有無を考え、公益法人の設立を許可することができる。



 公益法人ならぬ官僚の利益のための「官益法人」が数多く生み出された背景には、こうした制度的欠陥があった。

 

 17世紀以来の伝統を持つ英国のチャリティ委員会が重要なモデルとなる。

 

 当時(17世紀英国)、協会の権威の没落を穴埋めするように、民間のボランティア協会が誕生している。旧教徒(カトリック)の責任に、新教徒(プロテスタント)と市民の責任がとって代わりつつあったといわれる。

 

 このような定義から出発した英国のチャリティ活動をモデルに、現状の問題多い主務官庁制を柱とする公益法人制度に代わる日本版チャリティ委員会を考案すべきである。

 

 英国チャリティ委員会のホームページ

http://www.charity-commission.gov.uk/ccfacts.htm

 

北沢 栄のホームページ

 http://www.the-naguri.com/  


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【投稿者コメント】官僚を監視するてだて!


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「素材抜粋」をお読みいただき、まことにありがとうございました。
本日で終わりです。
コメント等いただけましたら、うれしいです!


 

素材抜粋-トマス・パス 『マネーゲームの予言者たち』 

2011年02月24日 | 読書
素材抜粋           
2001/07/15




複雑系科学者、
市場予測に挑む


トマス・パス『マネーゲームの予言者たち』栗原百代訳 
徳間書店 2001年




 ジョーンズのロビン・フッド基金は、ウォール街の富者から奪い取った数百万ドルという大金を二ューヨークの恵まれない人々に与えている。
 「成功したのは、エリオット波動論のおかげだ」と、ジョーンズ。太陰周期やフィボナッチ数列など、テクニカル分析と呼ばれる魔術師の鞄から取り出される秘法は、おおかた信じているという。



 ウォール街の投資家は二つの陣営に分かれる。ファンダメンタルズ派対テクニカル派。ファンダメンタルズ派は経済データーや企業レポートをじっくり研究し、″価値 ″を見きわめようとする。価値思考の投資は流行に反し、保守的で、プロテスタント的な厳格さをもつ。長期的なリターンを求める、地道で手堅い商売である。一方、テクニカル派は、どちらかといえば、神の介在を信じやすい人たちだ。市場の不可思議な動きは、前触れもなく運命を逆転させ、底辺であえぐ株が天から報いられることもある。テクニカル派のトレーダーは、オフィスの壁に図表を貼りまくり、有効とおぼしきトレーディング手法はなんでも試す包容力をもつ。



 「父は金儲けはいつも二の次にしてたわ。他人のお金をいじるのではなしに、仕事を創造することが、起業家としての父の生きがいだった」



 ワインバーガーの世界観によれば、金融市場を支配する根本原則は、その数学的な空間がどんどん抽象化する傾向にあるということだ。まずは一次的市場(発行市場)。ゼネラル・モーターズ(GM)は株式を一般に売りに出し、この株式公開から得た資金を使って工場を建て、自動車を製造した。それから二次的市場(流通市場)。投機家、おばあちゃんたち、年金基金--あらゆる売買希望者によって、GMの株がやりとりされる証券取引所がそれだ。……。株式市場に寄食する投機という行為は、有効に機能すればこそ正当化される。投機は、資本主義の資本を円滑に流している。それゆえ、株式市場はホーチミンシティーからモスクワまで、世界各地に整備されつつあるのだ。
 1972年から82年にかけての十年間に、通貨先物、オプション、株価指数といったデリバティブが登場し、三次的市場ともいうべきものが生まれ、資本主義の数学的空間は一層抽象的になった。



 株価指数のみに賭けられた金は、株式市場には直接入ってこないし、株式市場で賭けられた金は、企業の直接の財源とはならないという事実が、デリバティブ市場の寄食性を倍加させている。



 しかし、いよいよ抽象化し難解になった三次的市場での賭けは、資本主義を円滑に進める役割を果たしている。だから、どこかの新任財務大臣が、この事実を知らずに人民のデリバティブ売買を禁じようとしたら、目も当てられない。「金は望まれるところに行き、これを重んじるところにとどまる。それだけのことだ」とシティコープの元会長、ウォルター・リストンの言である。いまや世界の投資資本の大部分は「国境なきマネー」であり、かって金融市場の貨幣の移動を統制していた各国の財務省や中央銀行の力は、もはやそこにおよぶものではない、とリストンは言う。



 「二次的市場は、一次的市場が適性に機能するのに不可欠だ。そして三次的市場は、二次的市場が適性に機能するのに不可欠になった」



 ワインバーガーの見方では、これらの市場は不確定なものに過ぎないが、補完しあうことにより、投資家が金利リスクや市場変動リスクをヘッジする助けになる。キーワードは―流動性。ゲームが手早くすめば、そのぶん大量のマネーがテーブルに載る。「流通市場は派生商品の流動性を高める」たたし、ワインバーガーは断りを入れた。「とはいえ、請合ってもいいが、“おい、ずいぶん経済に貢献してるぞ”なんて自賛するトレーダーはいない。目的が違うんだ」



 市場のアイロニーというべきか、数字脅迫症で変動依存症の強突張りどもが、ともかく資本の流れを作っており、その金でGMが工場を建設し、雇用を創出する。このプロセスを動かすのが、アダム・スミスのいう“見えざる手”だ。こうした経済の基本的な力-今日では複雑適応系と呼ばれるもの-が、どうにかこうにか私欲を公益に変換する。市場は数学的空間を満たしつづけるから、この基本的な力はすでに四次的市場を生み出そうとしている。それはオプションのオプション、グローバルな指数の指数に賭ける、二重のデリバティブ市場である。



 ブラック・ショールズ・モデルをオプション市場に適用した当初から、オコナー社は、めざましい成長曲線を描いていた。1970年代には、ラサール通りの数学天才軍団ほどにこれらの価値を知る者はなかったので、儲かる一方だった。オプション算出式が認知されだすと、オコナー社は、また別の面で進化した。まずはリスク中立的な投資を設計した。株とオプションを組み合わせたバランス運用により、分野間のリスクを相殺するものだ。その後は、リスク裁定にも進出して、株の買占めや企業乗っ取りで生じる株価の激しい変動から利益をあげていった。



 プレディクション社に送られるデータは、流れてやまぬ滝のようだった。始値、終値、売り値、買い値、売り呼び値、買い呼び値……・。しかし、この数字の川に見えない大小の渦があって、不意に進路を変えた先に、予測する男たちが、“制度的移行”と呼ぶことになるものが潜んでいるとしたら? この突然の方向転換-上向きか下向きかバラバラに動いていた市場が、やにわに反対に動き出す-すなわち、制度的移行の背後には、非線形力学と群集心理がある。グローバル市場は、世界のあちこちで時々刻々行われる世論調査だ。市場は見解をぐらつかせ、噂や新しいアイディアに驚きながら、不意にヒステリーや高揚感に襲われることもある。



 日本のバブル経済やアジア市場の破綻は、制度的移行であった。ジョージ・ソロスが成功を収めた英ポンドへの攻撃も、リチャード・ニクソンの金・ドル本位制廃止の決断も、オプションやデリバティブの発明も、ソビエト連邦の崩壊も、なんにせよ、市場を動かす世界情勢はそうである。大きな変化なら説明がつきそうだが、小さな動きや理由が定かでない動きは? 市場は変動しつづけるか、一定のアトラクター(誘引)に収束するのか? 「陰でスイッチをいじられてるって感じだ」ドアンが愚痴をこぼす。「狙う的が絶えず動いているんで、統計的な平均には意味がない。実際、そんなものは存在しないんだから」



 分析の結果、自然の事象の多くはランダムではないことを、ハースト(イギリスの水文学者)は知った。自然は過去の記憶を保ち、過去を模倣しているように見える。未曾有の大洪水や旱魃は、まとまって起きる傾向がある。「洪水は、概して水位が高いときは長期間にわたり、低いときはそうでもない」ハーストは述べた。市場にも同じことが言える。大きな動きがあった翌日には、また大きな動きが起こりがちだ。変動性には傾向があるのだ。



 しかし、ハーストのグラフは正規分布にならなかった。グラフの尾が太く、データの塊が端のほうに集まっていて、そこで旱魃や洪水など、異常な事象が起きたのだ。ハーストは、こうした太い尾のグラフと正規分布のグラフとの偏差を測定する方法を考案した。それは今ではハースト指数と呼ばれ、ある異常な事象につづいて同様の事象が起きる可能性を測るものだ。ハースト指数が大きければ、その過程が連続する傾向があることを示している。ハーストの数式は、カオスなどの非線形現象の測定に挑んでいる研究者や、市場データが太い尾のグラフを描くことに気付いたアナリストたちから、高く評価されている。



 「非定常性は、単一の動物ではなく、むしろ雑多な動物が集まった動物園である」多数の研究論文の中でも社外秘とされたものに、ドアンは記している。結論としては、この問題を切り抜けるための最善の道は、「モデル集合」を構築して非定常的なターゲットを柔軟にとらえることである。たとえば、プレディクション社の為替モデルでは、じつに三十二のサブシステムを組み合わせている。「並行予測」の原則どおりに働き、「投票」したものを踏まえて、買いや売りの判断を下すのだ。



 「市場に関する根源的な真理の一つに、市場の力学は非定常的だということがある」ノーマンが説明する。「安定した統計的性質を持つアトラクターの存在を示す証拠は、見当たらない。それがカオスの特徴なのだから。僕らが見ているのはカオスじゃない。なにかほかのものだ。ストレンジ・アトラクターよりさらにストレンジなアトラクター、とでも言おうか。実のところ、アトラクターでもなんでもないのかもしれない。



 市場には、構造としてのまとまりや、統計上は定常的なパターンを示す時期もある。だけどそれは、いつかは消滅してしまう。構造という雲は、浮かんでは消える。プレディクション社の仕事は、こうした構造のかけらを-なるだけ強力なシグナルを発し、長持ちするやつを-見つけることなんだ。この構造がいつ現れ、いつ消えるかが知りたい-消えてしまうものに賭けたくないから。
 いまあるのは、この凝縮する構造の曖昧なイメージだけだ。統計学、モデルリング、力学系といった分野で研究が確立したものじゃない。まだ名前もない-ストレンジ・アトラクタ-よりさらにストレンジなアトラクタ-、という以外は。“移行または消滅するカオス”も悪くないけど、この呼び方は矛盾してるね。カオスについての根源的な真理の一つが、不変測度というものがあること。安定した統計学的特性で、カオス的なアトラクターを特徴付けるものだ。だから、この、よりストレンジな系と、カオスのようによく知られた数学的特性とを結び付けないほうがいい。この系には、まだ定理もモデルもない。数学的には未知の領域なんだ」



 「予測可能な構造を見つけて、それによる売買行うことは、市場をより効率的にする。こうした売買が市場全体の変動性を減じ、したがって市場参加者のリスクが減じられる。成功した予測者にもたらされる利益は、市場の効率性を増してリスクを減じた働きにたいする市場からの報酬のようなものだ」 ノーマン



 ノーマンの主張によれば、金融予測業者は、他社の労働にたかる寄食者どころか、資本主義の善玉だ。市場の深さと流動性と透明性を保つ-これらの経済用語にしても物理学からの借用-ことに役立っている。



 “深さ”があるとは、市場がマネーで満たされていること。“流動性”があるとは、マネーがあちこちに流れていること。“透明性”があるとは、インサイダー取引や独占や価格操作といった不正で流れが阻害されないこと。いずれにせよ、プレディクション社が開発した金融予測モデルは、現在利用できる最高の不正探知機だ。世界経済の鼓動を捕らえて、ある種、うそ発見器のような働きを示す。金融の流れや変動をきわめて敏感に察知し、市場の異常をまたたく間に突き止める。証券取引委員会がこの技術を手に入れたら、それこそ秩序を保つ者にとって夢のような話だろう。



 ドアンは、プレディクション社の事業の倫理性を擁護するため、べつの方針をとった。「ビットに立つトレーダーは、人類の叡智を結集した意思決定機関の一部だ。商品が取引される価格は、農家がもっと小麦や大豆を作るかどうかを左右する。株が取引される価格は、資本投下が自動車やコンピューターの製造に向けられるか否かを左右する。トレーダー相互のやりとりが価格を決定し、社会全体に資源を配分する。これは民主主義と同様、あまり機能的でない非効率なシステムである。しかし、他の知られているシステム、たとえば中央集権的な経済よりは勝っているようだ。



 ドアンがこのテーマに下した結論は、警告めいていた。「金融取引の倫理性について云々したところで、どれも見当違いのような気がする。金融市場は自己組織系であって、その創発特性はよくわかっていない。投機家は暴落を起こしたとか、国家経済を破綻させたとか、ほかにも悪行のかどで非難されてきた。だが投機家がいなかったら、市場は機能しないだろう。たしかにもつとよい方法があるとは思うが、それがどんなものなのかは、まったくわからない。そして、それがどんなものかわかっていると言う連中には、注意するようにしている」



 二十世紀最大の研究所として三つを挙げる。トランジスターを発明した、ベル研究所。コンピュターのマウスとウィンドウ・システムを生んだ、ゼロックス社のバロアルト研究センター。原爆を開発し、近年では複雑系研究に取り組んでいる、ロスアラモス国立研究所の理論部門。



 1999年には、デリバティブの名目元本ベースの取引高(年間)は、九十兆ドルにものぼっている。



 「市場は未来を見越すものではなく、これを正確に捉えるはずもない。むしろ、未来を築くように動くのです。一定の状況では、いわゆるファンダメンタルズ、市場を反映するものに悪影響をおよぼします。そういう場合、市場は動的不均衡の状態に陥って、効率的市場仮説では説明できないようなふるまいを見せるのです」
                                    ソロス・下院銀行委員会公聴会宣誓証言



 目標管理(ディヴィッド・パッカード自伝『HPウェイ』)は、統制管理の対極にあるものだ。軍隊のようなトップダウン方式で仕事をすべて割り振ることはしない。企業の目標に、監督者も労働者も関係者すべてが同意するシステムである。目標がどう達成されるのかは、任された社員しだい。「それはマネジメントにおける分権化の理念であり、まさに自由企業の本質である」と、パッカードは書いている。



 金融自由化のつぎなるステップは、すべてのコンピューター利用者に開かれたトレディング・ネットワークの開発だろう。これは中間業者を排除し、注文の執行時間と手数料をゼロにまで切り下げることになる。「この種のことでは、機械のほうが人間よりずっと手際がいいし効率的だ」ニューヨークの投資銀行家ディヴィッド・ショーが言う。ショーをはじめ金融界の起業家たちは、電子取引ネットワークの構築を急いでいる。いつの日かニューヨーク証券取引所は閉鎖に追い込まれる、とショーは予想する。



( 情報をシャッフルする 高野 義博 )



 金融市場には、従来の数学的手法は通用しない-それがドアンたちの出発点だ。線形原理を前提とした単純な還元論を拒み、複雑なものを複雑なまま、全体としてとらえ、その系自らにパターンを描かせる非線形の予測テクノロジーを構築しようとする。だが理論から実践に向かうとき、跳び越えなければならない障害は、思いのほか高いものだ。質が悪い(ノイズが多い)うえに入手困難なデータ。気が遠くなるほど込み入った、膨大な数のプログラミング。完璧と思われたモデルをいとも簡単に破壊する、FRB(連邦準備制度理事会)の市場介入などの外的ショック。
                                            栗原百代「訳者あとがき」


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【投稿者コメント】情報をシャッフルする!


素材抜粋-山本昌弘 『国際会計の教室』 

2011年02月23日 | 読書
素材抜粋


国際会計の教室
IASがビジネスを変える

出典:山本 昌弘『国際会計の教室』PHP新書








 ERP(enterprise resource pianning=調達、生産、販売、物流、会計、人事など企業業務の一元管理が可能なソフト)のシステムは、ドイツのSAP社など世界のソフトウェア・ハウスによってパッケージ商品として開発されている。



 近年では、国際会計基準を中心にキャッシュフロー計算書が貸借対照表や損益計算書に続く第三の財務表として世界的に定着している。



 操業開始期のベンチャー企業は、創業経営者が一人で会社を引っ張るマイ・カンパニーであるが、急成長して社員数が増えると我々の会社すなわちアワ・カンパニーに変化する。
ウチの会社とか我が社とかの表現が頻繁になされるのが、それである。けれども、そのようなアワ・カンパニーは株式上場によって、ユアー・カンパニーに変化しなければならない。



 「英語・パソコン・国際会計」を駆使できるアカウンタントには、世界レベルで活躍の場が用意される。



 したがって、日本に国際会計基準そのものが導入されるのではなく、日本の会計基準が国際会計基準と調和化されると表現することが最も厳密である。



 現在、世界的に進展しているのは、一方で各国の会計基準が国際会計基準と調和化されていき、他方で国際会計基準が各国の証券取引所や投資家によって受容されていくという二重の標準化プロセスである。そして先進国の中でこのルールの標準化の流れから一番はずれていたのが、実は日本である。



 先進国の会計制度は、英米型と大陸型に区分することが出来る。英米型の会計制度は、英国、米国を始め、アイルランド、カナダ、オーストラリア、ニュージーランド、インド、マレーシア、フィリピンなど歴史的に英米両国と関係の深い国々で採用されている制度である。これらの諸国では、法律的には英米法が採用されている。英米法は、慣習法を特徴とし、成文化された条文は法体系の一部分に過ぎないとするものである。それゆえ会計制度についても、実務や慣習を重視し、商法や会社法などによって詳細に条文規定するという方向性を採らなかった。



 そこで英米型の会計制度において重要な役割を果たすのが、公認会計士(米国)や勅許会計士(英国)とよばれる会計のプロフェッションである。彼らは、法律に依存することなく、自主規制として自ら会計基準を作成してきたのである。



 英米型の制度上のメリットは、会計基準が法律から独立して設定されるため、国家の枠組みに囚われずに適用されることである。



 日本の法制度は、ドイツの影響を非常に強く受けてきた。商法がその典型であるが、会計制度も同様である。この大陸型会計制度は、他にもフランス、オーストリア、スペイン、スイスなど、主としてヨーロッパ大陸諸国で採用されている。これらの諸国は、大陸法を採用している。その特徴は、実定法であり、慣習よりも成文化された法体系を重視することにある。それゆえ会計基準についても、様々な法律に具体的に規定されることになる。なかでも会計と密接な関係を持っているのが商法で、大陸法諸国の商法には会計の計算規定が具体的に条文化されているケースが多い。



 大陸型会計制度を採用する国々では、法律家や官僚の役割が大きくなるため、公認会計士などの職業会計士の数が英米型会計制度諸国と比べ極めて少なくなる。



 大陸型会計制度では、広く第三者に情報開示するという考え方は根付かない。それゆえ、自分は何も悪いことをしていないのに、何故痛くもない腹を探られなければならないのかという論理になってしまう。ましてや、公認会計士のような会社と何の関係もない人間に入ってこられて、自社の帳簿をひっくり返されるのではたまったものではないと企業経営者は考える。そのため、日本だけではなくドイツやフランスを含む大陸型の会計制度は保守的で秘密主義であると、英米の研究者からしばしば批判されてきたのである。



 国際会計基準を生み出した英米型会計制度では、会計は会計として専門職の自主規制で実施されている。それゆえ国単位で法律や他の経済制度が異なったとしても、各国の会計プロフェッションが了承すれば、それぞれの国の法律に煩わされずに新しい会計問題に迅速に対処することが出来るため、非常にグローバル化に向いていることがわかる。



 各基準は、まず公開草案として世界中に提示され、インターネットなどを通じてさまざまな意見を受け入れたのち、執行機関である理事会によって承認され、正式に公表されるというプロセスを採っている。



 英米法は、条文化された成文法と実際に行われている慣習の統一体として成立しており、慣習部分については、政府が直接コミットするのではなく、それぞれの領域の専門家すなわちプロフェッションの判断に委ねられる。会計に関していえば、それが資格を有する職業会計士である。それゆえ英米法の国々では、職業会計士を中心とする民間の会計基準設定団体によって会計基準が作成されることが一般的となっており、政府当局もその活動を尊重している。そのような民間団体への権限委譲が、世界政府の存在しない状況において、逆にうまく機能しているといえる。



 連結経営では、業績の悪い子会社をいかに連結対象から外すかという連結外しがよく話題になるが、後見優位の理論からすれば、業績が好調な子会社にとって役に立たない親会社が存在することは、連結グループ全体で自社の創出する価値を搾取されてしまうことを意味する。そのようなケースでは、連結外れという戦略が浮上する。親会社とは別の株主を探し出して、グループから独立するのである。これをMBOとよんでいる。M&Aの一種である。



 ともあれ、日本企業の経営目標は計数化されないことが多かったし、さらには文書化すらされないケースも少なくなかった。



 ちなみに、ヨーロッパ連合における統一通貨ユーロの導入によって、EU域内での外貨換算問題がなくなり、EU企業の為替リスクが大幅に低減している。またアメリカ企業は、世界中の取引きを出来る限りドル建てで行っている。今日、主要先進国において最も外国為替リスクの大きいのが、日本企業であり、まさにグローバル財務戦略の構築が火急の要件となっている。


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【投稿者コメント】島国ゆえの愚鈍?

素材抜粋-磯山 友幸著 国際会計基準戦争

2011年02月23日 | 読書
素材抜粋                    
2003/11/03


国際会計基準戦争

磯山 友幸著 
日経BP社 1999年




 白鳥は日本の会計制度が歪んでしまった大きな原因として、会計基準の目的についての考え方が日本と欧米諸国で大きく異なる点を挙げている。日本の場合、「会計の主たる目的は、株主と債権者の利害調整とする考え方が根強く残っている。(中略)しかし、こうした考え方は欧米諸国にない日本独自のものであり、日本と欧米諸国の間にギャップを生む一因となっている」というのだ。一方、国際会計基準では「会計の目的を利害関係者が経済的な意思決定を行う際に必要な情報を提供することと規定している。そのうえで、必要な情報とは、投資家(株主)が必要とする情報であると位置づけている。


 会計というのは、現実のビジネスで行われているものを、決算書にどう正確に表記するかが問題なのであって、現実のビジネスをつぶしてしまうようなことを、会計士が決めてはならないのだ」・・・・・・・。これが北村(日本公認会計士協会常務理事)の考え方だった。まず「現実ありき」であって、会計基準が先にあるのではない。会計基準を通して現実を変えてしまうような権限など、会計士は持っていないというのだ。


 こうした会計士の“言い訳”に共通しているのは、会計士の行動が実体経済に影響を与えることがあってはならない、影響が大きいから手を打てないという「基本姿勢」だった。
この「基本姿勢」こそが、日本の会計制度が大きく時代から取り残されることになった一因だ。しかも、この基本姿勢を貫いてきたのは会計士だけではない。大蔵官僚や学者、経団連に代表される財界、企業経営者にいたるまで、日本の隅々まで浸透していたのだ。重大な問題を抱えていることがわかったとき、それを白日の下にさらすことなく、影響をできるだけ小さくするように、毎年少しずつ問題を処理していく。
 こうした「問題先送り」の風土に日本はどっぷりと浸っている。成長が続く右肩上がり経済の中では、問題を先送りして分割処理する方法はうまくいった。成長ののりしろで過去の失敗を帳消しにするすることが可能だったわけだ。


 大蔵省の中でも、会計基準の担当だった企業財務課は蚊帳の外だった。
「(原価法と低価法の選択制は)商法が認めているもので、低価法に限ってきたのは銀行法を運用するうえでの行政の判断。そうなると担当は銀行課になるんでしょうね」
 企業財務課長の三国谷勝範は、まさにその時、日本の会計制度を国際水準に近づけるための「時価会計」の導入を準備中で、会計基準を巡る国際的な流れも理解していた。
 だが、所轄でない銀行行政に口を出すことは、避けていた。


 一方で時価を避け(保有株評価の原価法採用)、一方で時価を使う(土地再評価法)―。共通しているのは「損失の表面化を防ぐ」ということだけだった。内外の専門化が眉をひそめる、二つの相矛盾する会計マジックは、「緊急避難」を錦の御旗にほとんど議論されることなく、導入が決まった。 


 1998年6月16日、大蔵省内の記者クラブ「財政研究会」。その会見室で行われた記者会見は一見、専門的過ぎる内容ゆえにさほど注目されず、記者の質問もわずかだった。だが、後から振り返れば、日本企業や銀行に激震をもたらす、日本経済史上、極めて重要な会見だった。
 その会見では、日本の会計基準を決める場である企業会計審議会が五つの意見書・報告書をまとめて公表したのだ。重要だというのは、この年の4月1日から、曲がりなりにもスタ-トを切っていた「日本版金融ビッグバン」の大きな柱の一つだったためばかりではない。日本の会計基準をグローバル・スタンダードに大転換する姿勢を明確に示したもので、これまで「日本的経営」を守ろうとしてきた経済界や大蔵省にとっては、まさに「無条件降伏」の宣言にも等しいものだったからだ。


 大蔵省が発表したのは、「退職給付会計に係る会計基準の設定に関する意見書」「中間監査基準の設定に関する意見書」「監査基準、監査実施準則及び監査報告準則の改訂に関する意見書」「金融商品に係る会計基準の設定に関する意見書(公開草案)」の四つの意見書と、大蔵省と法務省が連名で出した「商法と企業会計の調整に関する研究会報告書」の五つ。大雑把に言えば、最初が年金会計の導入、二つ目と三つ目が連結決算をにらんだ監査基準の整備、四番目が株式など金融資産への時価会計の導入、五番目は、企業会計を税務会計から事実上分離する基本的な考え方をまとめたものだった。


 衝撃的だったのは、「金融商品」の会計基準で、時価会計の適用範囲に持ち合い株式が含まれていたことだ。・・・・・・・。(持ち合い株式は)帳簿価格が低いため、少ない配当でも表面上つじつまが合ってきたが、時価評価された途端、著しく非効率な資産に一変することになる。また、株価変動が資産の増減に直結するため、株式保有のリスクが大幅に高まる。時価会計の導入で株式持ち合い制が早晩消えていくのは自明だった。


 同様に日本経済を大きく揺さぶることになる退職給付会計、いわゆる年金会計の導入も打ち出された。企業が従業員に支払う退職金や年金を、毎期発生した段階で費用とするのではなく、将来にわたって発生するであろう費用をあらかじめ処理することを義務付けるもので、日本企業全体の積立不足は30兆円にのぼるとも60兆円だとも言われていた。金融機関の不良債権処理額に匹敵する、「もう一つの不良債権問題」といってもよかった。


 退職給付会計の導入は、高額の退職金を前提とした終身雇用や、年功序列型賃金制度を根底から覆す可能性を秘めていた。


 ただ、その前に官僚たちには抜きがたい「癖」があった。民に対する裁量権を失うこと自体に無条件に拒絶反応を示す、という癖が。会計の問題でも、もろにこの癖が出たというわけである。
 しかも、規制緩和の流れの中で権限そのものがなくなる、というのならばともかく、この会計基準については、官が握っていた権限を民間組織に移す、という話である。官から民に権限そのものが移る―これは大げさに言えば、明治以来の日本の官僚制で始めて起ころうとしている「事件」だった。


 企業会計なら債券の発行は「負債」だが、日本で一般的に行われている自治体の財政では「歳入」つまり収入になる。借金をすればするほど収入が増えるわけだ。日本の地方自治体の多くが破綻の淵で喘いでいるのも、一因はここにある。ニューヨーク市は決算書を整備した上で、民間の会計士による監査を導入した。自治体に企業会計の管理手法を大胆に導入し、「経営」を行うためのインフラを整備したわけである。
 財政再建の手本と日本から視察が相次いでいるニュージーランドや英国のエージェンシー(外庁)でも、企業経営の手法が生かされている。


 しかもニュージーランドの決算は連結ベースである。政府が関与する公益事業体なども決算の対象だ。そのうえ、ニュージーランドは四半期決算や月次の決算情報の開示まで始めている。
 最も影響の大きかったのが「発生主義」への変更である。というのも「現金主義」では国債や公債を発行して入ってくる現金も「収入」ととらえることになるため、際限ない借金依存へと陥ってしまう。


 近い将来、「発生主義」や「連結ベース」「時価主義」を前提とした公会計の世界統一基準を、各国に広げていくことが急務だというわけである。


 90年代以降の数多くのグローバル・スタンダード(世界基準)を巡る国際的なヘゲモニー争いの中で、日本が常に後手に回る結果となったのは、こうした「理念」が欠如していることが大きい。そして理念の欠如は、そのままヘゲモニー争いを勝ち抜く「戦略」の欠如につながる。


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【投稿者コメント】「借金が収入」のカラクリ!

素材抜粋-R.B.ライシュ 『21世紀資本主義のイメージ』

2011年02月22日 | 読書
素材抜粋         
2001/07/01



国家の役割

R.B.ライシュ『21世紀資本主義のイメージ』 中谷巌訳
 ダイヤモンド社 1991年




均質で、ルーティン的に生産される標準的な製品――地球上のほとんどどこでも大量に生産でき、再生産でき、手に入れることができる――を収益源とする大量生産型企業の間で競争が続く一方、先進工業国において成功している企業は、特別仕様の製品やサービスに基づいた事業へとその基盤を移行しつつある。新たに出来た参入障壁は、量でも価格でもない。それは特定の市場に見合った特定の技術を探し出す技能である。中核企業はもはや、製品それ自体には注目していない。中核企業の企業戦略は、ますます個別情報に基づいて立案されるようになっているのである。



 このような高付加価値事業をより厳密に見てみると、事業を推進している三つの、互いに異なってはいるが関連を持つ技能が見出せる。第一は、物事を独自な方法で組み立てることが要求される技能である(合金、新しい分子構造、半導体チップ、ソフトウェアの言語、映画のシナリオ、年金のポートフォリオ、情報)。……・。
 第二は、顧客が自らのニーズを理解するのを助け、ニーズに合致した商品を供給するためには、どのように製品の仕様を変更すればよいのかを決定できる技能である。……・。
 第三は、問題解決者とを結びつけるために必要とされる技能である。……。
つまり、彼らの役割を果たしているのである。



 商人には国家がない。
                       1806 トマス・ジェファーソン


 企業の国籍を議論するのは無意味だ。
                       1990 R.B.ライシュ



 政策決定者はまだまだ、国家の本当のテクノロジーの資産が将来の複雑な問題を解決するその市民の能力であり、それが現在の問題と過去の問題を解決した経験から生まれるものだ、ということを理解するには至っていない。



 グローバル・ウェブ「クモの巣」状の企業組織網がますます一般的になり、グローバル企業の組織形態は今や地球大に拡がっている。本社部門が米国に置かれ、そこから資金調達の大部分は受けるが、研究、設計、生産設備は日本、欧州、北米に、さらに生産設備は東南アジアや南米に、販売および物流部門はそれぞれの大陸に配置され、さらに台湾、日本、ドイツは米国同様、資金の出し手、投資家としての役割を担うという具合に。このようなグローバルな拡がりを持つ企業は、他の国に本拠を置く同種の企業と競争しているのであって、国境はもはや意味がなくなっている。



 したがって、地球経済における本当のアメリカ人の競争力の違いを知るには、新しい分類法を編み出す必要がある。
 本質的な観点から見て、競争的な立場の異なる職業に対応した、三つの大まかな職種区分が生まれつつある。この三つとは、「ルーティン・プロダクション(生産)・サービス」、「インパースン(対人)・サービス」、「シンボリック・アナリティック(シンボル分析的)・サービス」である。こうした区分は、今や米国以外の先進国にも当てはまりつつある。



 市場は、神の手によって天地創造の六日間にできたわけではなく(最初からあったのではない)、神の意志によって営まれているわけでもない。それは人々の創意によるものであり、個人の権利と責任に関する多くの判断を重ねたすえの集大成なのである。……。国家がこれらの問題に対する解答を成文化していけば、市場に関する国家の方針は形成される。
 そうした問題に対する解答は、論理や分析だけで見つかるものではない。国家によって、また時代によって、その解答はまったく異なる。その解答は、その社会の信奉する価値観、すなわち連帯、繁栄、伝統、敬虔など、その社会が何を重視するかによって決まる。



 より重要なことは、これらの恵まれた子供たちが、いかにして問題とその解決を頭の中で概念化するかを学習するという点にある。そこで、初歩段階のシンボリック・アナリスト向けの正式の教育では、四つの基礎的技能の習得が課される。その四つとは、、、、そしてである。



 まず、抽象化について考えてみよう。現実の世界は、さまざまな音、形、色、匂い、組織からなる巨大なごたまぜである――基本的には、人間の精神によって何らかの秩序が確立されるまでは意味のない世界である。抽象化の能力――この無秩序にパターンと意味を発見する――は、シンボル分析のまさにエッセンスのなかのエッセンスであり、ごたまぜの現実が単純化されることによって、新しい形で理解され操作されことが可能となるのである。



 シンボリック・アナリストは、方程式、公式、アナロジー、モデル、製図、分類、メタファーを駆使しながら、我々を取り巻いている混沌としたデータを、どうしたら再解釈し再配列できるかの可能性を見つけだすのである。
 この結果、乱雑な情報の巨大な渦が統合、同化され、新しい解決策、問題点、そして選択肢が目の前に現れる。すべての革新的な科学者、法律家、技術者、デザイナー、経営コンサルタント、脚本家、さらには広告専門家は、絶えず現実を表す表現方法として、これまでにないより魅力的な、あるいは説得力のある方法を発見するのに余念がない。用いる技術はそれぞれ異なるが、生のデータを操作可能な形に、ときには独創的なパターンに抽象化するという過程は、きわめてよく似ている。
 シンボリック・アナリストの卵ではない多くの子供たちが受ける正式な教育は、米国でも他の国でも、これとはまったく逆である。自分で意味を組み立てていくのではなく、意味は最初から与えられるのである。学ぶべき事柄は、学習計画や授業、教科書に前もって定められている。現実は前もって単純化されている。すなわち、生徒はひたすら従順に記憶すればいいのである。効率的な教育課程とは、効率のよい工場の組み立てラインに部品が次々と付け加えられていくように、生徒に知識が付け加えられていくことだとされている。教えられる内容はともかくとして、この種の学習では、我々の周りにあるデータや、目の前に起こる事件や感動の渦に意味を与えたり、解釈したりするのは、自分ではなく誰か他人のやる仕事なのである。この学習では、新しい発見の可能性に満ちたこの世界で、生徒たちが成功する芽を摘み取るだけである。



 人間は大人になると、現実を一連のスナップ・ショットとしてとらえるようになる。……・。すなわち、そうした数々の現象は、その間に相互関係がないのである。



 ……・新しい機会を発見するためには、人間は全体を見渡す能力と、現実を構成する要素が互いに関連し合っている過程を理解する能力が必要である。現実の世界では、物事が前もって意味付けられ、整然と分割できるように立ち現れることはめったにない。



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【投稿者コメント】所与を手段に新しい世界を創造!

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