goo blog サービス終了のお知らせ 

「みんなの年金」公的年金と企業年金の総合年金カウンセリング!                 

このブログ内検索や記事一覧、カテゴリ-等でお楽しみください! すると、あなたの人生が変わります。

あなたの…

 いらっしゃいませ! 以下のキ-ワ-ドをコピペして、右サイドの「このブログ内で」検索をお楽しみください。→  DB DC 年金カウンセリング 若い人 年金カウンセラ- 日本版401k 勝手格付け 確定給付 運用 確定拠出 年金履歴書 もらい損ね年金 基金広報誌 年金図表 401k調査旅行 アセット・ミックス 年金証書 イリノイ大学ブリーフ 年金の行方 組織 受託者責任 厚生年金基金アーカイブ 分散投資 フリ-ランス 代行返上 基金解散 企業年金連合会 業務分掌表 主婦 事例 iDeCo 年金eBook ポ-トフォリオ 加入員台帳 年金手帳 利差益 年金支給開始 年金のキホン 年金の加入記録 年金の仕組み 年金の請求 年金生活 ROE投資 老後 自分年金 年金加入歴 事例で学ぶ アメリカ年金 年金加入期間 加給年金 素材抜粋 読書 国民年金 厚生年金 厚生年金基金 GPIF PDF  もらい損ね企業年金 惚けた遊び …… 外に、あなたの年金フレーズ、キィワ-ド、疑問点を検索してみてください。必ず、お役に立ちます! ご訪問、ありがとうございます。先ずはお楽しみください。

年金電子書籍

年金カウンセラ-のeBook_18冊で、あなたの人生が引っくり返ります。

素材抜粋-オリビア・S・ミッチェル 企業年金設計の多様化について 

2011年02月21日 | 読書
素材抜粋                              
2002/03/20


企業年金設計の多様化について
~米国の最新事情から~

講師:オリビア・S・ミッチェル
平成13年3月19日 駒場エミナース 厚生年金基金連合会 第23回 年金財政講座
(http://www.pfa.or.jp/よりダウンロード)
問合せ先:厚生年金基金連合会 数理部 Eーmail suri@pfa.or.jp





 米国の平均的な男子は生涯に10の職を経験し、40歳までには6つの職を経験します。



 受給要件として最低年齢や最低勤続年数を規定している確定給付企業年金の割合は、グラフ(略)のようにあまり変化しておらず、雇用流動化の障害となっています。



 米国において問題なのは、年金プランの加入者自身が過去ベースのABOと将来ベースのPBOとの違いをあまりよく理解していないことです。つまり、加入者は将来にわたる給付額の増加分も加味したPBOを保証してほしいと考えるわけですが、法律上保証されているのはABOであり、PBOではないわけです。このことが、加入者の期待と株主の利害との対立の元となっています。



 各従業員は毎年資産額計算書を受け取ることにより、自分の年金資産とこれにかかる運用利回りに関する情報を得ることができます。これにより、従来のプランに比べ、自分の受け取る給付額をより明確に把握することが可能です。



 米国の確定給付企業年金の規約においては、いつでも事業主が制度を修正・変更することにより将来分の給付を変更し、または制度を終了する可能性があるという条文が必ず設けられています。



 なぜ確定給付型の年間掛金額が少なくなってきているのかという理由の一つは、多くの制度において、積立不足がない、つまり過剰積立の状態にあるからです。



 米国の税法である内国歳入法の401条(k)項に規定されているように、401(k)は税を後払いする年金プランと捉えられます。非常に重要な点ですが、従業員からの401(k)プランへの拠出金は、拠出時には税金控除となり、給付時まで課税が繰り延べられます。



 ところで、年金を選択した人と、一般的な国民との間には、ある違いがあります。それは、年金を選択する人の方が長生きをする傾向があることで、アクチュアリーの世界ではこのような逆選択が存在することが知られています。



 第三に、ブッシュ新大統領が提唱している興味深い考え方なのですが、社会保障の一部を民営化して個人勘定に移すことにより、個人勘定から資本市場への投資を可能とすることです。



 また、確定給付型年金を一時金払いにすることによって、加入者がそれを運用していける形に変えることが考えられます。



-------------------------------------------------------------
【投稿者コメント】規模縮小で確定給付のメリット救出!

素材抜粋-日本経済新聞 「大機小機」(陰陽) 企業年金の公的化現象

2011年02月20日 | 読書
素材抜粋                             2002/12/13


企業年金の公的化現象

2002/12/13 日本経済新聞 「大機小機」(陰陽)




 また、厚年基金は公的年金である厚生年金保険の報酬比例部分の代行が主たる役割とされてきたが、今回、代行部分を国に返上することが認められたことで、従来の思想は180度転換された。


 バブル崩壊後のデフレ・低金利に苦しむ企業年金は、国内外の株安で一段と苦境にあるが、新会計基準の導入で年金の未積立債務がバランスシートを直撃したことから二重の重圧下にある。


 さて、厚年基金の代行返上の場合、過去の積立金は政府に返還されるが、その受け皿は年金資金運用基金である。また、厚年基金が解散する場合は、積立金は厚生年金基金連合会に資産移管される。連合会は民間機関にみえるが法律に基づく紛れもない政府の特殊法人だ。


 今後スリム化が避けられない公的年金を補うには、企業年金の拡充が国民にとって切なる期待であるにもかかわらず、現実は細る一方の企業年金から公的年金へと資金の逆流現象が加速している。ただでさえ財政面で問題を抱える公的年金は更なる負荷に見舞われ、いずれ国民にそのツケが回ることが懸念される。


この結果、株式市場本来の機能は弱められ株価回復が遅れると懸念する声も少なくない。


------------------------------------------
【投稿者コメント】官に40兆円寄贈!

素材抜粋-北川 哲雄 『アナリストのための企業分析と資本市場』 

2011年02月19日 | 読書
素材抜粋            


企業分析と資本市場

北川 哲雄『アナリストのための企業分析と資本市場』
東洋経済新報社 2000年
 



FASBはまさに時代の法的要請を受けて発足以来、1998年までの25年間で134もの新たな基準書を生み出してきた。これをもって、フィードバック制御が良く働き、法の変革機能が順調に果たされてきた、という評価を与えることも可能であろう。



……・資本市場においては「自生」的な制御の仕組みがアメリカでは長年の歴史からできあがっているという仮説を筆者はもっている。



法的規制下にある情報開示はミニマム(最低限)のものとなりつつある。フォーマルに対してインフォーマルな、強制的に対し自主的な、インボランタリーに対してボランタリーな情報開示の分析が、今や避けて通れないものとなってきた。



それでは、このインフォーマルな情報開示、情報交換におけるフィードバック制御はいかにしてなされるのか。ここでは、公認会計士のような「法的強制力をもつ安定装置」、FASB、SECのような「安定機能と変動に対応する機能」をあわせもつ「半公的(セミパブリック)機関」あるいは「公的(パブリック)機関」はない。しかし、現実には精妙なフィードバック制御が働いている。その要因の一つは、個々の構成者の行為に対し常にその機構の外部に「評価者」が存在しているからである。



Institutional Investor 誌は、純粋な私企業が経営する一雑誌にすぎないが、資本市場システムにおける重要なフィードバック制御機能の一翼を担っているのである。



 インフォーマルな情報発信、それを受けてのアナリストによる「予想収益の算定」、さらに、それをもとにする機関投資家の投資決定等それらの「行為」が、資本市場システム目標を叶えるのにきわめて重要なものであるということになる。そこにみられる各構成者を他の構成者が適切に「評価」する仕組みが存在することが重要である点も指摘した。
 そして、その評価の仕組みが「自生」的にーー強制的監督機関によりできあがったわけではなく、いわば自然発生的に、しかし必然性の結果としてできあがったという意味ーー形成されてきている点も指摘した。そして「自生」的なるゆえに、この制御機構は「非常に時代の変化に敏感に対応できるシステム」ということができよう。そして、この社会的背景として考えなければならないのは「サブスタンス・オーバー・フォーム」という哲学であろう。これは通常、アメリカ会計理論でよく使われる概念である。連結会計による財務諸表作成の正当性をいうとき、「法的形式よりも経済活動上の実質を優先して考える」といったときの説明概念である。しかし、この哲学はもっと広範なものを示している。「法的形式」自体が悪いわけではない。社会・経済構造は常に変動する。刑法上の「法的形式」はともかく、経済活動に絡まる「法的形式」は、社会の変動に対応する形で、自主的、自生的に一定の合意の上で可能な範囲内で「実態」にあわせていこうという哲学とみてよいだろう。



 戦後(日本)の企業会計制度(証取法会計)における確定決算制度の首尾一貫した容認によって、投資家のための財務情報提供は歪められてきたが、「法的」には有効なため、抵抗する動きもなく今日まできてしまったという苦い経験がある。もし日本人の関係者の間に、「サブスタンス・オーバー・フォーム」という哲学が少しでもあれば、とっくに解決できていた問題であろう。



 つまり、本来の「企業利益算定」にあたり、「会計理論」に沿った適用を企業の経営者が行わない、あるいは考えることすらしないという「風土」を日本の上場企業の一部(大部分?)に醸成してしまった。



 昨今の話題では、日本においても「年金の会計基準」が変更され、新しい基準に基づく会計処理が2000年度決算よりなされることになり、企業によっては大きな「利益変動要因」となると予想される。おそらくは今後も、大きな利益変動要因になることは十分考えられる。年金会計の仕組みを完璧に理解するのは、会計士でも専門分野が異なれば難解なものとされる。



 これらの点は社会システム理論の中でもホメオスタシス理論を援用して説明することが最も適合すると思われる。



 …… なぜアメリカでそのようなシステム運営ができ、日本はアメリカに及ばないと思われているかということである。
 …… 。
 第3は、やや抽象的ないい方ではあるが、「記憶」あるいは「経験」の欠如である。第1番目の資本市場システムの「非オリジン性」「遅行性」と第2番目の「形式的存在性」、これらの要因が相まって起こるものが、資本市場システムの運営に携わる人々、あるいは参画する構成者の、さまざまな資本市場システムにからまる「課題」への「対処」の遅さ、感覚の鈍さといったようなものである。これは「記憶」が生かされないことを意味する。換言すれば、起こった問題に対する森有正氏が述べたところの「経験」を積む力に欠けているのかもしれない。



 …… 細胞は作り出して他の細胞に働きかけ、増殖や文化、運動、成長、分泌などの新しい働きを呼び覚ます生物活性分子群を、ひとまとめにしてサイトカインと呼ぶ。サイトカインは細胞と細胞の間の情報伝達をしている分子である。真にアナリストの役割は資本市場という一つの生体システムにおいて、他のシステム構成者(細胞)に「何らかの新しい働きを呼び覚ます」役割をもつサイトカインと呼ぶことができる。



 プライベートな自生的な組織



 しかし、時代は大きく変わりつつある。これら日本特有の金融構造は瓦解しつつある。いつまでもピントのずれた意識をもっている企業に未来はないといえるだろう。



 この年、ICFA(公認財務アナリスト協会)が設立され、その翌年第1回のCFA公認財務アナリスト試験が実施され268名が合格し、晴れてアメリカに新たなプロフェッションが誕生した。しかしここに至るまでの道は平坦なものではなかった。
 日本と異なり、もともとお手本がどこかの国にあり、官民が一体となって制度の整備を進めてゆくのではなく、いわばプライベート・セクターに属する人々が自らの職業集団の社会的意義を高く掲げ、組織化し維持するためには、その職業人であるための知識、経験があるだけでなく、法律家に要求されるのと同じような高い職業倫理が必要となる。CFAの誕生にあたってもその点の十分な議論があったとみることができよう。



 その「スピードののろさ」の要因はさらに、「主体的に新たな経済環境に対応することの能力が関係者に欠如」しているためという仮説を筆者はもっている。



主な会計基準の施行年度の時差





 「税効果会計」の本格適用は、なんとアメリカの33年遅れである。この基準の適用が遅れたのは、アナリストの立場からすればまったく理解のできないものであろう。ついでに言えば、「確定決算主義」にもとづく「税法基準優位性」も、アメリカのアナリストから見ればまったく理解不能の事項である。




---------------------------------------------------------
【投稿者コメント】理解不能なことが多すぎる日本の仕組み!


素材抜粋-三ツ谷 誠 『実践IR-自社株マーケティング戦略』 

2011年02月18日 | 読書
素材抜粋


実践IR

三ツ谷 誠『実践IR-自社株マーケティング戦略』 
NTT出版 2000年





この出張を契機として、単なる技術論ではなく、「思想としてIRを把握する」必要を強く感じたことを思い出す。



つまり、IR活動を突き詰めれば、それは「企業にまつわる情報の生産」と、「その情報の流通戦略の策定・実行・評価」の活動となる。



IR活動の二つの頭文字は、「“Investor Revolution”(投資家革命)のIRでもある」という議論(投資家革命論)である。



高度に発展した資本主義は、いまや企業自身をも「株式という商品」として資本市場で売買される状況を作り出した。このことが意味するのは、「商品」の需要者である「投資家」が、その影響力を行使し、自らが望む方向に「商品」である企業自身をも変革させることができる、という認識である。一方で企業の側にも、「商品」としての永続性を考えた時に、需要者である「投資家」の声に耳を傾け、常に良い「商品」として存在するように、自己革新を図ろうとする誘因が存在する。
そして、その「投資家」とは年金などの回路を通じた「機関化」の流れを前提に考えれば、すでに「大衆」そのものなのである。



「国際会計基準」の求めるものは、グローバル化する経済のなかで「市場=価格機構」を資源配分の機構として正しく機能させるための、「国際間で比較可能な共通の土俵の設定」そのものなのだ。



IRとは、“Investor Relations”の頭文字を取ったものであり、わが国では「投資家向け広報」と訳され紹介されることが多い。ちなみにこれによく似た言葉にPR(Public Relations)があり、日本語ではそのまま「広報」と訳されている。



しかし資金調達の回路がメインバンクを中心とする銀行団から市場にシフトし始めた昨今、現実はそのような配慮はしてくれない。そこには日本的なヒエラルキーなど存在せず、純粋な資金の委託者と受託者の関係があるだけである。資金の受託者がその委託者の質問に対して(それがどれほど耳の痛い質問であろうと)誠実に答えるのは単なる義務でしかない。いわゆる「説明者責任」(accountability)である。
当然のことながら、「自発的」決算説明会が企業の一方的な説明の場になるはずがない。それは委託者と受託者の対話の場、まごうことなき「第二の株主総会」なのだ。



しかし単純に巨大なGDPを誇るわが国企業の株式の約8%が、この10年間に文化も慣習も異なる外国人投資家の手に渡ったことの意味合いは、想像以上に大きい。単純にその「日本買い」の総額の巨大さわれわれを圧倒するし、それ以上に海を渡ったそれら株式が外国人投資家に与える巨大な権限が、わが国を「市場主義の普遍性」の流れのなかに染め上げてゆくことが恐ろしい。「大袈裟な話だな、たかが株の話じゃないか」と思われる方もいるかもしれない。しかし高度資本主義社会においては生産の主役は事実上「株式会社」であり、株式とは社会変革の原動力それ自体、あらゆる運動の根本主体なのだ。



「攘夷か、開国か」という議論は再び決着を見ようとしている。「株式持ち合い」により達成されたかにみえた攘夷は敗れ去り、株式市場が海外に開かれたことによってわが国は再び、そして永劫に「市場主義」の世界に開かれたのでないだろうか。



インベスター・リレーションズは、企業の財務機能とコミュニケーション機能とを統合して行われる「戦略的かつ全社的なマーケティング活動」であり、投資家に対して企業の業績やその将来性に関する正確な姿を提供するものである。そして、その活動は、究極的に企業の資本コストを下げる効果を持つ可能性を持つ。
                      (全米IR協会のIR活動定義)



多くの日本人は太平洋戦争までは国家という幻想の「イエ」に所属することで、自身のアイディンティティを確認してきた。戦後、その幻想の「イエ」は企業になったといわれている。このような感覚からはほど遠い社会が、現実にわれわれの社会として根付きつつある。



彼ら(鋭敏な経営者)は「共同体の長」から「機能集団の長」へ転進を遂げつつある。



資本による労働の簒奪、搾取の存在を問題にしたマルクスでさえ、資本が自らをも「商品化」させる世界は想像できなかったのではないだろうか。



そもそも会計とはそれ自体が「言語」の体系なのであり、企業活動、経済活動という極めて複雑な人間行動の集積を、貨幣を単位として、「企業会計原則」のような共通のルールに基づき、抽象化して財務諸表にまとめ上げたものにほかならない。



むしろこれからの資本市場の主役は、基礎的な企業分析の力と、機関投資家が株価形成の主役となるなかで必須の知識となる「現代投資理論」の理論的なフレームワークを押さえられる人材となる。



商品が流通する市場や、その商品の価値を決定する要素がわからないで、その商品のマーケティングなどできるはずがない。多くの日本企業が全く理解できていない「IR活動の急所」がここにある。残念ながら、この領域をフォローできる人材は限りなく乏しい。それは、IRの領域に人材を提供するべき当の金融界、証券会社が「日本特殊的な株式流通の現実」に熟知した人材は育成できても、真の意味での「投資銀行家」は全く育成できていないからだ。



この議論で重要なのは、個々のイベントを「ただ単に遂行すること」だけではあまり意味がなく、確立された目的があって、その目的を達成させるための「仮説」をもって、意識的に活動内容を組み合わせていかなければならない、という点であろう。



重要なのは「伝えるべきメッセージ」そのものが光っているかどうかである。



あらゆる職務が専門性を帯びたアメリカ系企業と、いまなお「従業員共同体」の要素を色濃く残すわが国企業とを同列に論ずるのは意味がないことではあるが……



IRセクションに求められるのは「共同体」を新しい世界に適応させるための「感覚器官」としての役割である。



「フォーディズム」の「黄金回路」は生産性の上昇が賃金に反映し、それがまた潤沢な消費を担保する形で機能したが、「カルパーシズム」の「黄金回路」は企業経営そのものに対する年金基金の積極的関与が企業を成長させ、その果実が「株価」の上昇(正確には企業価値の増大)という形で、「株主」である「大衆」の資産を増大させ、それが潤沢な消費を担保するという形で機能する。



     <カルパースの投資したい企業の六条件>
①株主(パフォーマンス、株価)に対する経営責任を認識している。
②透明性(グローバル・スタンダードに基づくディスクロージャー)。
③公平性(全ての株主を公平に扱う)。
④株主総会議決権行使に関する十分な情報と制度上の配慮。
⑤ベストプラクティス(会社の行動規範)の開示と遵守。
⑥長期経営戦略を持っている。




 そもそも「会計」は遠くローマの時代から主には「受託者責任の解除」という機能を負って発展・継承されてきた「言語」である。



 シュマーレンバッハは新古典派経済学の強い影響の下で、一九一九年『動的貸借対照表論』を著し、それまでの貸借対照表を中心とし企業関係者のために当該年度の解散価値を計測するための「会計」を、会計年度ごとの「実現収益」と「発生費用」を対応させる損益計算書を中心とする「利益」中心の「会計」へと変更すべきことを主張した。



 ケインズはアメリカの大暴落の背後に「市場機構」そのものの脆弱性を感じ、「市場機構」を超えた「叡智ある政府」による「経済の管理」を主張した。
 逆にアメリカの会計学者や会計士たちは、「市場機構」を作動させる前提条件の不備こそが、大暴落の原因となった、と考え、「会計原則運動」をさらに発展させ、「情報」の相互比較が可能な枠組みの形成や、「監査」制度の導入などに意を尽くした。



 そしてケインズの「叡智ある政府」の前提に対し、「多元的な勢力の拮抗から運営される『民主主義的政府』にそのような叡智など期待できるはずがない」という財政学者ブキャナンの本質的な批判が、ケインズの「市場の失敗」を「政府」が補正する、とする経済思想を過去の思想にさせようとしているのが、現在のわれわれの世界である。



 一九六六年にアメリカの会計学者から提示されたASOBAT(A Statement OF Basic Accounting Theory:基礎的会計理論)は会計目的として「投資意思決定有用性概念」を強く打ち出し、損益計算目的の「会計」から、情報提供目的の「会計」へと、さらに資本市場よりにその「会計」観を変更させた。


     
     <ASOBATの会計規定>
(会計とは)情報の利用者が事情に精通して判断や意思決定をすることが可能なように経済的情報を識別し、測定し、伝達するプロセスである。



------------------------------------------------------------
【投稿者コメント】日本政府の単式簿記をどう考えるか?

素材抜粋-田中 弘著 時価会計不況 

2011年02月17日 | 読書
素材抜粋                           
2003/09/21


時価会計不況

田中 弘著
新潮新書 2003年




 会計の世界で「悪者」とされたのが、商法の個別決算(会社ごとに行う決算)であり、原価会計です。どちらも、利益操作の元凶とされ、しかも、国際的な流れに遅れたものとされました。
 国際的な流れとは、連結決算(親会社と子会社を一つにまとめた決算)であり、時価会計(資産を時価で評価する会計)です。その流れに追いつくために導入された会計ビッグバンの三本柱が、「連結財務諸表」「金融資産の時価評価」「退職給付債務の計上」です。後の二つは、「資産の時価評価」と「負債の時価評価」と言い換えることができます。




 新しい連結決算では関連会社に債務や損失を「飛ばす」ことができなくなる、時価会計によって含み益を使った益出しや原価法による損失隠しができなくなる、新しい退職給付債務の基準により隠れ債務が明らかになるなど、多くの効果が期待されています。




 連結財務諸表というのは、企業集団の決算書ではなく、「企業集団の概要や全体像を伝えるための情報」に過ぎません。連結財務諸表に計上される利益に対して、どこかの株主が配当を受ける権利を持つわけでもないのです。




 本当に、時価会計にすることで、企業の「丸はだかの姿」が明らかになるのであれば、時価会計はすばらしいものです。
 しかし、時価会計は企業の実態を正しく映し出すのでしょうか。
 実は、この“期末の時価で評価し直す”というのが、曲者なのです。これは、実際には有価証券を売っていないけれども、「売ったことにして」財産と利益を計算するということなのです。




 時価会計の基準は、こうした1社が保有する株を考えても夢物語に過ぎないのに、日本の企業がこぞって有価証券を売りに出しても「すべて時価で売れる」ことを前提にして財産と利益を計算するのです。




 時価会計で丸はだかにするのではなく、どのくらいの「含み」があるか、情報開示を十分にすれば、投資家も、企業の益出し行為の意味を正しく評価することができるはずです。




 社債や国債のように満期がある債券の場合は、それを満期まで所有する意図があるかどうかで含み損益の扱いが違います。「満期まで保有する目的の債券(有価証券)」は、満期日に額面額で償還されるので、満期までの間に生じる価格変動があっても、とりあえず無視することができます。そのために、満期保有目的の債券は、原価(買値)をもってバランス・シート(貸借対照表)に記載することになっています。




 売買目的以外の目的で所有する有価証券(主に、持ち合い株式)は「その他有価証券」と呼ばれ、その含み益は、原則として、バランス・シートの「資本の部」に記載されます。なぜ、当期の損益としないのかといいますと、「その他有価証券」の含み益はいつ実現(実際に売却することによって、本物の利益になること)できるかわからないからだというのです。



 時価会計基準を読みますと、暗黙のうちに、次の三段階の「実現」を想定しているようです。第一の段階は、「有価証券の含み益は売却によってすでに『実現』している」というレベル。第二の段階は「売買目的有価証券の含み益は『いつでも実現可能』だ」というレベル。第三の段階は、「その他有価証券の含み益は『いつ実現するか不明』である」というレベルです。
 商法はこのうち、第一のレベルに達した利益(実際の売却益)だけを配当可能な利益とし、第二と第三の段階にある含み益は配当できないとしているのです。




 売買目的であれ持ち合い株であれ、どれも売らなければ配当可能利益にならず、売ればその期の配当可能利益となるのです。利益を出したいときに含みのある有価証券を売れば配当可能利益を出せるというのですから、これぞまさしく「含み経営」です。




 時価会計基準の導入は、透明性を高め、含み経営を排除することが目的でした。しかし、実際に設定された基準と商法を組み合わせて見ますと、もくろみとは逆に、含み経営を温存するものになってしまっているのです。




 商法では、会計基準が指示する評価損益の扱いに対して、二つの点で自己主張しました。一点は、会計基準が評価損益の計上を「強制」したのに対して、商法は「任意」としたことです。もう一点は、持ち合い株の評価益だけでなく、時価会計支持者が100%利益であると主張してきた「売買目的有価証券の評価益」も、それを配当の原資とすることを認めなかったことです(商法第290条第一項第四号)。




 これが、時価会計基準の実態です。今の時価会計では、財務諸表の上だけの時価評価であって、評価益を計上しても配当可能利益は増えませんし、持ち合い株(その他有価証券)の評価益には税金も課されないのです。つまり、商法や税法は、会計の時価評価を否認しているのです。




 以上のように、期末に保有する有価証券の時価としては、①取引所の終値、②専門市場の大口取引価格、③大口クロス取引の価格、④市場外の相対取引価格、⑤取引量・保有量を考慮して求める売却可能価格など、いくつも存在するのです。




 ある価格の下での需給一致は、断念と怨念を引きずっている分だけ次の価格での不均衡を生み出し、その不均衡は新しい価格での断念と怨念を生み出さなければ、市場での需給の一致はもたらさない。


                                               岸本重陳 教授




 時価会計では、何と、「売れた1%の時価=1000円」を使って、「売れ残った99%を時価評価する」のです。売れる価格は700円かもしれないし、500円かもしれない株が、バランス・シートに1000円とかかれるのです。




 「金融商品(有価証券及びデリバティブ取引の他、営業債権、貸付金、営業債務、借入金等を含む)は、証券・金融市場の発達が一定の段階に達している状況の下では、一般的には、取引市場が存在することにより時価を把握し、かつ、換金・決済等により評価差額を損益として確定することが可能である(価格の客観性の保証、売買の自由の保証)」

                                      1997年6月大蔵省企業会計審議会



「金融商品に係る会計処理基準に関する論点整理

 この論点整理では、上場している有価証券なら「時価で売れる」と言っているのです。これを基に、有価証券の含み益はいつでも実現(換金)できるのだから、期末に保有する上場証券は時価評価して、含み益を利益として認識しようというのです。これが「時価会計」です。




 全員が実現できないような「含み益」を、各社が利益として計上するなんて、最後には自分がババを引いて負けるかもしれないのに、ゲームの途中で祝勝会を開くようなものです。




 わが国の有価証券時価評価論は、交換しただけの紙切れを、それを発行した企業がクロスという仮想の取引(自分で売った株を自分で買い取るもの)でつけたり、政府がPKO(株価維持策)やPLO(株価騰貴策)でつり上げたりした価格で再評価することを主張しています。株式の含み益が「ペーパー・プロフィット(紙の上の利益)」であることを理解していないのです。これらを時価で評価し直せば、含み益が多いとされている会社ほど、後になってからの株価の下落が脅威になるでしょう。
 要するに、①上場株は時価では売れない、それどころか、②持ち合い株は紙切れ同然だということをいいたかったのです。




 東証の関係者によりますと、所有比率を区分する場合、日本の企業が外資系証券会社(例えば、メリル・リンチなど)で買うものも、ロンドンやニュウーヨークなどの外国市場で買うのも、すべて外国投資家として区分されるのです。




 つまり、時価会計によれば、「売れば損失(売却損)が出て、売らずにいれば利益(評価益)が出る」のです。売らずにいたほうが利益が大きいなんて、経済法則をまるで無視しています。原価会計は含み益や含み損を塩漬けにするとして批判されてきましたが、時価会計は評価益を計上しながら、実は含み損を作る会計なのです。ちょっと考えただけで詐欺的としか言いようがないでしょう。




 期末に時価評価するということは、「次期になってから少しずつ売れば実現できる利益」を、前期末に前倒しで計上することになります。毎期の利益を計算する会計では、その年に稼いだ利益を計算するのであって、次の年に稼ぐ利益まで計上するようなことはしません。




第4章 錬金術に毒されたアメリカ型資本主義


 アメリカの会計がここまで腐敗したのは、「ギャンブラー会計」のせいだけではありません。私には、より根本的な原因があると思うのです。ベトナム戦争あたりを境にしてでしょうか、この国が順法精神と倫理観を失い始めたような気がするのです。高邁な理想とか世界観を見失ったのかもしれません。




 ・・・・・・・、最後にアメリカの会計を評するならば、今のアメリカ会計は、決して、健全な投資家、中・長期的な株式保有者のための用具とはなっていません。グローバル・スタンダードの実態は、「ギャンブラーのための会計」だったのです。




 もう一つ、なんとも不思議なことがあります。実は、わが国の時価会計は「1日限りの時価会計」であり、残りの364日は、「原価会計」だということです。いったいこれは、どういうことなのでしょうか。




 わが国の銀行や事業会社が保有する有価証券は、ほとんどが「その他有価証券(長期保有)」に分類されています。その多くが、昔から所有している株式(持ち合い株)か、バブル期に取得したものです。昔から所有している株には巨額の含み益があり、バブル期に取得したものには巨額の含み損があります。
 「その他有価証券」は、時価評価された後、「洗い替え」という処理が行われます。「洗い替え」というのは、3月31日に時価評価して計上した評価損益を、翌日の4月1日に取り消す処理をいいます。




 洗い替え処理(洗い替え法)は「売買目的有価証券」には適用されず、「その他有価証券」だけに適用されます。「その他有価証券」を期末(3月31日)に時価評価して含み損益をバランス・シートの資本の部に計上しても、次期の期首(4月1日)にそれを取り消して、バランス・シートを元の原価に戻して作成するのです。




 シンデレラは夜中の12時に、「ガラスの靴」を落としていきましたが、時価会計は夜の12時に、債務超過やBIS基準不達成といった「恐怖の落し物」を残したまま原価会計に戻るのです。




 なぜ、「その他有価証券」の含み損益を「いったん計上させておいて、すぐに取り消す」ような妙な処理(洗い替え法)を使うことにしたのでしょうか。また、どうして評価「損益」といいながら、損益計算書に出さずに、バランス・シートに計上するのでしょうか。
 おそらく、企業会計審議会で時価会計基準を設定した人たちは、日本の銀行や事業会社が持つ有価証券を時価評価したときに、日本経済に与える影響が余りにも大きく、まともに時価評価することが「危険極まりないことだ」と認識していたのでしょう。




 実は、国として時価会計の基準を持っているのは、先進国では日本とアメリカだけなのです(向伊知郎著『連結財務諸表の比較可能性』中央経済社、2003年、211ページ参照)。しかも、・・・・・・・、アメリカには時価会計の基準あっても、会社や銀行は有価証券をほとんど保有しません。対象となる有価証券がない以上、基準がないのと同じです。このままでは、日本だけが時価会計の被爆国になりかねません。




 (厚生年金基金の時価会計はどうなっているのだろう。基金解散や代行返上は人為ミスか? 資産運用の失敗ではないのか。)




 嫌われることを覚悟して言えば、会計理論を担う学者も、その理論を実践するはずの経営者も、理論や基準が遵守されているかどうかを監査する会計士も、ネガティブにかポジティブにかの差はあるでしょうが、何らかの形で、直接間接に利益操作に荷担してきたといってもよいのかもしれません。
 例えば、株価が低迷して売れないとき、国を挙げてPLO(株価騰貴策)とかPKO(株価維持策)をやり、そうしてつり上げた価格で、各社がクロス取引という架空の取引をでっち上げて含み益を実現させてきました。そうして計上した利益が実質を伴わないものであることは、多くの会計関係者は承知していたはずです。それにもかかわらず、学界からも会計士業界からも、批判らしい批判の声は挙がらなかったのです。それどころか、株価操作を公認するかのように、学界や会計士業界からは怒涛のごとく時価会計を主張する声が高まったのです。




 時価会計は、こうした国を挙げての株価操作や経済界ぐるみの利益操作を公認して、みんなでつり上げた株価で時価評価しようとするのです。株価操作や利益操作を公認するような会計基準を作って、いったいどうする気なのでしょうか。




 原価会計では「たられば」を認めません。期末までに売却していない商品・株式・土地などは、売っていないのですから、売ったかのように利益を出すことはしないのです。
 一方、時価会計は「足られば」の世界です。たとえ売るタイミングを逃がしたとしても、「期末に売っていたら」とか、「あの時、売れたとすれば」と考えて、利益を計上するのです。




 私は今まで、商売の常道は「高値で売る」ことかと思っていましたが、、時価会計では、「高値で買う」ことが利益を出す手になるのです。そんな時価会計を信じられますか。




 なぜアメリカ会計は静態化したのか
  原因①ギャンブルを加速させた四半期報告
  原因②「監督会計」は時価が好き
  原因③FASBの資産・負債アプローチ




 FASBは、SECの「了解」の下に、「資産・負債アプローチ」を軸とした概念フレームワークを作り、会計基準が客観的・理論的に形成されるものであり、いずれかの団体や利害関係者集団の利益によって誘導されるものではないことを示そうとしました。




 破綻したとされる金融機関や生保の中には、本当は泳げるところがいくつもあったのではないでしょうか。




 時価会計基準の適用を見合わせることが第一のデフレかつ傑作であろうと考えます。この解決策なら、税金を1円も使わずに済みます。



---------------------------------------------------------
【投稿者コメント】論理整合性の欠如か?

素材抜粋-椎名麻紗枝 『100万人を破滅させた大銀行の犯罪』 

2011年02月16日 | 読書
素材抜粋
2001/11/22



100万人を破滅させた大銀行の犯罪

椎名麻紗枝(弁護士・「銀行の貸し手責任を問う会」事務局長)著
『100万人を破滅させた大銀行の犯罪』 
 講談社 2001年




 バブル期に、金余り現象の中で融資先獲得に躍起となった銀行から、相続税対策を名目に、変額保険、不動産投資などの提案融資を押し付けられた多数の個人が、その後のバブル崩壊で銀行の提案した返済スキームが破綻するや、銀行に彼らが長年働いて取得した自宅をはじめ、すべての財産を根こそぎ奪い取られようとしているのに、国は何ら救済しようとはしていない。自らバブルを煽り、バブルに狂奔して経営危機を招いた銀行に対しては、国民の血税で経営危機を救っているのに、だ。



 この銀行の提案融資に利用されたのが、80年代後半より大手都銀から売り出された不動産担保の「大型フリーローン」であった。大型フリーローンは、従来、銀行の融資の鉄則とされていた「融資使途の確認」「過剰融資の排除」が取り払われ、不動産の担保さえあれば、資金使途も年収も問わないというものである。銀行は、大型フリーローンにより株投資、不動産共同投資、ゴルフ会員権など、投機目的にみさかいない融資を行った。



 サラ金では、貸金業規制法第13条で過剰融資が禁止されているのに、銀行にはこれを規制する法律がない。



 87年12月発行の『情報活用による融資渉外』(金融財政事情研究会編)は、大手都市銀行の融資渉外担当者の執筆によるものであるが、この冊子には、リテールバンキング(小口金融)業務拡充のためのさまざまな提案融資の実践マニュアルが書かれている。
 まず巻頭には、<今求められているのは、〔融資創造の仕掛け人〕とも呼ぶべき〔提案型融資セールス〕を展開できる渉外担当者だろう>と書かれている。そのえうえで、提案融資が成功するためには相続税対策が有効であるとして、融資渉外担当者は税についての知識を習得することが大事であると書かれている。
 このように、銀行は、庶民の相続税に対する不安感につけ入り、大型フリーローンを相続税対策、あるいは節税対策を売り物にした変額保険や不動産共同投資などとセットにして大量に販売しようという意図を、当初から持っていたのである。



 野中さんから相談を受けた91年当時は、わが国では、「貸し手責任」という言葉自体なじみのない、いやそんな言葉自体あるという認識すらない状態であった。「お金を融資したら、借りた側にのみ返す義務が残るだけで、銀行には何一つ責任はない」という論理が少しも疑いをもたれていなかった。しかし、アメリカを例に取れば、銀行の貸し手責任(レンダーライアビリティ)は、自明のこととして社会的に認知されていて、ある金融商品について、高度の金融知識を持っておらずその商品について理解できない人には売ってはいけないことになっている。



 過剰融資については、ノンバンクについてであるが、94年3月16日に釧路簡易裁判所が、「過剰与信と認められる債務についてその返済請求を認めない」とする注目すべき判決を出している。



 楠本くに代『金融機関の貸し手責任と消費者保護ーレンダー・ライアビリティ』(東洋経済新報社)



 銀行被害者の多くは、大手銀行から、リスクの説明はいっさいないまま、相続税対策に最適であるとだまされ、融資を受けて、株式の売買をはじめ、変額保険や不動産小口化商品などを購入させられたのだ。返済できない銀行被害者の多くは、銀行から担保に取られた自宅を売却して返済するか、もし任意に売却しないのであれば競売すると脅され、住む家をとられたら自殺するしかない、という状態に追い込まれている。銀行被害の恐るべき実態はほとんど知られておらず、私たちの味方はあまりに少なく、敵はあまりにも強大だった。



 今回の予備的調査は、憲法第62条に定められた議院の国政調査権にもとづくものであり、金融監督庁、大蔵省の行政機関は、国権の最高機関の行う国政調査に対しては、最大限応えなければならない憲法上の義務があるのに、回答を事実上拒否しているばかりか、嘘の回答をしているのである。



 この予備的調査への回答で、金融監督庁が、金融機関の協力が得られなければ検査ができないとした態度に、はしなくも金融監督庁の金融検査に対する姿勢が現れていた。



実際の相続税額を何倍も上回る数字を言って、相続税の不安を煽るのは、銀行・生保の常套手段だ。




 (変額保険裁判で自殺した事例が出たのを機に、自殺問題についての緊急アンケート。用紙の余白に寄せられた憤懣やるかたない思い)
 「三権分立などウソっぱち。裁判を含め、この世はすべて資本家のためにある」
 「裁判官は現状を知らなすぎる。銀行も反省がまったくない。この悔しさと恨みは忘れません」
 「裁判官は官僚的で事なかれ主義。日本の裁判は成熟していないような気がしてなりませんでした」
 「味方をしてくれると思った裁判所が大生保と大銀行の味方だったことを知り、悔しくてなりません」
 「(裁判官は)被害者の心の痛みより、自分の立身出世と退官後のことしか念頭にないのでしょうか」
 「裁判所は被告の経歴や地位を重視して(被害者の)主張を斥け、生保レディのウソの主張を見抜けず、判決を下した。裁判はまったく信頼できない」
 被告を恫喝する裁判官



『裁判官は訴える! 私たちの大疑問』(講談社)



裁判所は、書類に押されている印鑑が本人のものでさえあれば、特段の反証のない限り、その文書は本人の意思にもとづいて作成されたものと推認されるという立場をとっている。
 これは、一般人の生活感覚に合うだろうか。



 最高裁が印影について推定を認める根拠は、「本人の印章を他人が勝手に使用することは通常ありえない」という日常生活上の経験則を基礎としているにすぎない。



 判決の多くは40年近くも前の最高裁判決を、いまだに踏襲しているのだ。



 したがって、イギリスのように、オンブズマンが提案した調停案に対して債務者の側が同意した場合には、金融機関のほうでそれを拒否できないという制度を導入するしかない。そうでない限り、大手ゼネコンや関連企業に対しては債権放棄をしながら、個人債務者に対しては身ぐるみはぐという、銀行の理不尽なやり方がまかりとおってしまうのだ。



 事件処理数で裁判官が評価され、昇給も決まるからだ。裁判官はおのずと、時間のかかる面倒な裁判は引き受けたがらなくなる。できるだけ時間をかけずに一件落着したがるのだ。



 (併合審理を裁判所が拒んだことに対して)
 方法は、一つしかなかった。私たち代理人が全部の事件から辞任して本人訴訟にすることだ。本人が代理人を依頼しないで自分で法廷に出て訴訟活動をすることになれば、いちばん困るのは裁判所だ。



 銀行との裁判での借り手の勝訴率は極端に低い。なぜ銀行だけが独り勝ちしているのか。その原因は、裁判所の体質と裁判の仕組みの問題とがある。



 最高裁による管理統制だ。



 この最高裁の態度自体、政治的である。今、銀行の不良債権の処理が国策とされる中で、最高裁も競売手続きの迅速化を援護しているのだ。



 銀行は、裁判官にとって、いわば天下り先の一つになっているというのだ。
 東京地裁の裁判官には、最高裁ばかり向いている上昇志向の強い裁判官が多いというのは、かねてから弁護士の間で言われていたことだ。



 同教授(松元恒雄一橋大学教授)は、先物取引、証券取引、銀行取引の金融被害のうち、裁判所が課する業者への注意義務は先物取引にいちばん厳しく、次に証券取引で、銀行取引に関しては非常に甘いことが特徴であると分析している。



 銀行員の証言をさしたる根拠もなく採用して、被害者本人の証言は「にわかに措信しがたい」という言葉で斥ける判決が多い。人間の嘘をつく心理がわからない裁判官は多いのである。証人の肩書きなどに幻惑されてしまうのだ。いくら社会的には立派に見える人でも、会社のためであれば、嘘をつくのもやむを得ないと考える者がいくらでもいることが分からないのだ。何のために裁判官になったのだろう、と考えてしまう。



 「認識がなかったことについては過失がない」
                    (最高裁2000年7月7日判決)



 大蔵省の上層部は腐っていても、若い人たちは、大蔵省がこのままでよいと考えているわけではないのではないか。

 その第一歩が、金融紛争処理解決機構の立法化だ。

 その方法の一つとして考えているのが、国家賠償訴訟である。


-------------------------------------------------------------
【投稿者コメント】彼らの土俵で戦うのはどんなものだろう! 

素材抜粋-田坂 広志 『複雑系の経営』 

2011年02月15日 | 読書
素材抜粋
2001/11/14



「複雑系の知」から経営者への
七つのメッセージ

田坂 広志『複雑系の経営』 
東洋経済新報社 1997年




 言葉を換えれば、これまで、経済学や経営学の領域において、肯定的に用いられ、有効性を発揮してきた、「分析」「設計」「集中」「集積」「規模」「法則」「予測」などのキーワード群が、根本的な発想転換を求められているのである。



「七つの知」
(1) 全体性の知/「複雑化」すると「新しい性質」を獲得する。
(2) 創発性の知/「個の自発性」が「全体の秩序」を生み出す。
(3) 共鳴場の知/「共鳴」が「自己組織化」を促す。
(4) 共鳴力の知/「ミクロ」のゆらぎが「マクロ」の大勢を支配する。
(5) 共進化の知/「部分と全体」は「共進化」する。
(6) 超進化の知/「進化のプロセス」も「進化」する。
(7) 一回性の知/「進化の未来」は「予測」できない。



「七つのメッセージ」
(1) 全体性の知/「分析」はできない、全体を「洞察」せよ。
(2) 創発性の知/「設計・管理」をするな、「自己組織化」を促せ。
(3) 共鳴場の知/「情報共有」ではない、「情報共鳴」を生み出せ。
(4) 共鳴力の知/「組織の総合力」ではない、「個人の共鳴力」である。
(5) 共進化の知/「トップダウン」でもなく、「ボトムアップ」でもない。
(6) 超進化の知/ 法則は「変わる」、そして「変えられる」。
(7) 一回性の知/ 未来を「予測」するな、未来を「創造」せよ。



 従って、いま我々が直面している「分析」という手法の限界は、必然的に、近代科学の「要素還元主義」の限界を意味しており、さらには、「デカルト的パラダイム」の限界を意味している。そして、当然のことながら、それは「分析」を前提として成立する「総合」という手法の限界をも意味しているのである。



そして、これから、我が国に「複雑系の知」の広大な原野を開拓していく研究者が現れるとするならば、それは単なる「頭脳の知」を備えた研究者ではなく、「身体性の知」(somatic knowing)を有した研究者であろう。
 なぜならば、「複雑系の知」の本質は、「身体性の知」によってしか理解できないものだからである。



 すなわち、「複雑系の知」による認識の手法は、対象を「部分」に切り刻むことなく、その「ありのままの全体」を「洞察」によって把握する手法となっていく。



 中村雄二郎「臨床の知」
 マイケル・ポランニー「暗黙の知」
 「非言語の知」の三つの伝達方法「否定法」「隠喩法」「指示法」



 「設計」という発想は、まず「全体」のあるべき姿に関する詳細な「設計図」を作成し、この設計図に合わせて「個」を「全体」の中に位置づけ、配置していくことによって「秩序」や「構造」を創り出すという発想である。



 これからの時代に、企業が消費者に対して共有するべき最も大切な情報は、何よりも、その企業が、いかなる社会的価値をめざしているかという「企業理念」であり、どのような企業像をめざしているかという「企業ビジョン」である。



 この相違は、究極、世界を「構造」と見るか、「プロセス」と見るかの世界観の相違である。



     哲学者たちは、これまで「世界」を「解釈」してきたに過ぎない。
     大切なことは、それを「変革」することである。
                             カール・マルクス



 「共生の戦略」としてのインターオペラビリティ(相互運用性)

 すべては、「1回限り」なのである。「繰り返し」など無い。

 未来を「予測」する最良の方法は、それを「発明」することである。
                                  アラン・ケイ



「イデオロギー原理」とは、「堅い原理」である。基本的には、ある価値観を中心として他の価値観を許容せず、排除する原理である。これに対して、「コスモロジー原理」とは、「柔らかい原理」である。多様な価値観を、その違いがゆえに排除せず、その中に包み込み、多様な価値観同士の豊かな相互作用なかで、さらに新しい価値観が生まれてくることを大切にする原理である。



 このコスモロジー原理にもとづく「ビジョン」を語るときに重要なことは、言霊である。「言霊」とは、生命力を持った言葉である。その言葉を聞くことによって、想像力が高められ、新しい価値の創造が促されるような言葉である。・・・・・・・。
 それは、あまりに厳密かつ具体的な言葉で語られるべきではなく、また、あまりに難解かつ抽象的な言葉で語られるべきでもない。



 経営者が日々の経営の実践の中で、「体得」している智恵は、まさに「身体性の知」と呼ぶべきものに他ならない。



 それは、単なる制度的な対策だけでは解決できない問題であり、これまでの「機械的世界観」の手法によっては「解」が見出せない問題である。



 しかし、知の諸領域において、いま、注目すべき潮流が生まれつつある。近年、さまざまな領域において、「生命体」や「生態系」の優れた特徴に学ぶ、新しい思想と理論が創造されているのである。
 例えば、社会・経済、産業・経営、科学・技術など、多くの領域において、エントロピー、ゆらぎ、自己組織化、ホロン、シナジー(協働)、ホメオスタシス(恒常性)、メタボリズム(代謝)、進化、共生、エコロジーなど、「生命」に特有のキーワードが用いられている。



 また、複数の異質な価値観が共存する現代社会においては、これら多様な価値観の相互作用を通じて、積極的に「価値のゆらぎ」を生み出し、この「ゆらぎ」を通じて新しい価値の「自己組織化」を促進してゆく方法が提唱されている。



 それは、いまわれわれが直面している諸問題を解決するためには、単に新しい理論や方法を創造するのではなく、その前提となる「物の見方の基本的枠組み」や「物の考え方の基本的発想」、すなわち「パラダイム」そのものを大きく転換してゆくことが必要であるこちを意味している。



 製作研究者と行政官、学識者とフィールドワーカー、経営コンサルタントと企業経営者など、「知」の専門家と「行」の専門家との密接な協力である。



 生命論パラダイムにおいては、「構造」よりも、むしろ、「プロセス」が重視される。なぜならば、生命的プロセスにおいて観察される「構造」とは、本質的には、その生命的プロセスがダイナミックな運動を繰り広げる際に擬似的に形成する「動的構造」であり、「動的安定状態」の別称に他ならないからである。



 生命の本質は、こうした「静的な構造」にではなく、構造を一定に維持する「動的安定性」や、体内の状態を一定に保つ「恒常性維持機能」(ホメオスタシス)などの「プロセス」にこそあると言える。



 <構造から過程(渦中)> <渦中にある者は渦中にあるを知らず>(高野 義博)



 機械論パラダイムにおいては、世界を“巨大な機械”とみなすために、世界を変革するための方法として、「設計」と「制御」が重視される。
すなわち、世界(機械)を望ましい状態へと変化させるためには、まず、あたかも機械の構造を理解するごとく世界の構造を理解し、その理解にもとづいて望ましい世界を「設計」し、望ましい状態へと世界を「制御」するという方法が用いられるわけである。
これに対して、生命論パラダイムにおいては、世界を生命的プロセスとみなすため、世界を変革するための方法として、「自己組織化」が重視される。



<制度の知的限界> (高野 義博)



この自己組織化を促進するためには、二つの方法が重要となる。ひとつの方法は、「未来ビジョン」の創出である。生命論パラダイムにおいて「未来」は未だ決定されておらず、この「未来」を決定するのは、まず何よりも「想像力」と「創造力」を駆使して描かれた、未来に関する「ビジョン」である。
もうひとつのほうほうは、「ゆらぎ」の意識的な導入と活用である。そして、この「ゆらぎ」を導入し活用する際に留意すべきことは、世界の進化にとって「好ましいゆらぎ」とは何かであり、これを判断する「洞察力」と「直感力」である。



想像力と創造力を尽くして豊かな「未来ビジョン」を描くとともに、現在の世界における「ゆらぎ」を意識的に増大させ、「自己組織化」を促進するという方法を用いる必要がある。



社会システムやライフスタイルを「設計」したり「制御」したりすることは極めて困難であり、むしろ社会システムの内部の「ゆらぎ」を増大させることにより、望ましい変化を「自己組織化」させるという発想が求められる。



この時代に求められているのは、「リエンジニアリング」(再構築)ではなく、むしろ、「インキュベーション」(孵化)の発想である。すなわち、あたかも「卵から雛を孵す」ごとく、あくまでも自己組織化のプロセスを促進することによって、「不連続な進化」を実現していく発想である。



従って、社会や企業の「進化」を論ずる時、我々に求められているのは、分析や予測といった「受動的行為」ではない。
求められているのは、いかなる「未来」を実現するべきかを力強く描き出すことであり、そのビジョンを実現するための「積極的行動」である。



この方法(フィールドワーク原理)は、「世界の“真理”はフィールドに存在する」という世界観にもとづき、「フィールド」(実際の現場)における対象の生きた姿に直接的に係わり、体験し、体感することにより、対象の本質と全体像を把握する方法である。



機械論パラダイムにおいては、その認識方法である要素還元主義の本質から、対象を「要素」に分割し、分割された対象に対して個別に焦点を当てて分析してゆくという「フォーカスの視点」が重視されてきた。



このように「主客一体の前提」は、機械論パラダイムにおける「客観的認識」という「幻想」を打ち砕きつつある。世界が「自己」と関係の無い「他者」ではなく、あくまでも「自己」を含んだ世界である限り、厳密な意味での「客観的認識」は不可能であり、「客観的予測」や「客観的評価」という言葉には本質的な限界がある。



機械論パラダイムから生命論パラダイムへと「知のパラダイム」を転換してゆくことの重要性。それは、近年、知の諸領域において、ますます強い認識となってきている。



現代科学における「複雑系」の研究は、いまだ、物質、生命、生態系のレベルにおける「複雑系」の振る舞いと、その進化の様相のごく一部を理解しつつあるに過ぎない。すなわち、いま、「複雑系」の研究者達は、進化の階梯の前段に位置する「複雑系」の性質の、ごく一部を解き明かしつつあるに過ぎない。



そして、経営者は、「企業」という“生き物”を環境に適応させ、進化させていくために、その「精妙なバランス」を、頭で理解するのではなく、まさに体得し続けている。それゆえ、本書は、現代科学の最先端の「複雑系」という理論を、「経営」に応用することを試みたものではない。


-----------------------------------------------------------
【投稿者コメント】「インキュベーション」(孵化)の発想!







素材抜粋-サイモン・シン著 青木 薫訳 フェルマーの最終定理 

2011年02月14日 | 読書
素材抜粋                            
2003/10/21

フェルマーの最終定理
ピュタゴラスに始まり、ワイルズが証明するまで
サイモン・シン著 青木 薫訳
新潮社 2000年




 今日ではコンピューターを使って完全数の探索が続けられており、2216090×(2216091-1)という、なんと十三万桁を越える巨大な数がエウクレイデスの規則に従うことがわかっている(訳注:1999年には419万7919桁の完全数が発見された)。



 ピュタゴラスは、完全数がもつパターンや性質の豊かさに魅了され、その精妙さに心服した。完全数という概念は、一見するとやさしそうにみえるかもしれないが、そこには古代ギリシャ人には解決できなかった根本的な問題が潜んでいる。たとえば、約数の和がその数自身よりも1だけ小さい数はたくさんある(それを「わずかに不足する数」と呼ぼう)。ところが、約数の和がその数自身よりも1だけ大きい数(「わずかに過剰な数」)は一つも存在しないようなのだ。ギリシャ人たちは「わずかに過剰な数」を一つも見つけられず、なぜ見つけなれないのかを説明することもできなかった。「わずかに過剰な数」が見つからないというのに、そんな数は存在しないと証明することもできない―これは実に苛立たしい状況である。「わずかに過剰な数」は存在しないことを証明したところで何の役にも立ちはしないだろうが、それは数の本質に迫る可能性をはらんだ、研究に値する問題なのだ。ピュタゴラス教団が頭を悩ませていたのはこうした問題だった。そして二千五百年の時を経た今日でも、数学者たちは「わずかに過剰な数」が存在しないことを証明できずにいるのである。



 ある理論が正しいかどうかは、人の意見には左右されないのである。それに代わって、数学の論理的構造が真理の審判者になった。これこそはピュタゴラスが文明になした最大の貢献だった―われわれは誤りをまぬがれない人間存在の判断を超えて、真理を見出す方法を手に入れたのである。



 フェルマーの最終定理は次のように書かれている。
   
Xn+Yn=Zn

この方程式はnが2より大きい場合には整数解をもたない。



 フェルマーがメルセンヌ以外の人間に自分のアィディアを明かしたのは、このパスカルとの文通のときだけだった。そしてこのときの議論から、まったく新しい数学の一分野、確率論が生まれたのである。



 紀元前第三千年紀のバビロニア人でさえ、この区別をつけるにはゼロが役立つことを知っていたし、彼らのアィディアを取り入れたギリシャ人は、今日の0に似た丸い記号を使っていた。しかしゼロは単に位置を示すだけでなく、それ自身として深い意味をもつのである。そのことを完全に理解したのは、ギリシャ人よりも数世紀後のインド人だった。インドの数学者たちは、ゼロが“無”を意味していることに気づいたのである。こうして“無”という抽象的概念にはじめて具体的な記号が与えられることになった。




 ゲーデルが証明したのは、完全で無矛盾な数学体系を作るのは不可能だということだった。彼のアイディアは簡潔な二つの命題として表すことができる。

   第一不完全性定理
   公理的集合論が無矛盾ならば、証明することも反証することもできない定理が存在する。

   第二不完全性定理
   公理的集合論の無矛盾性を証明する構成的手続きは存在しない。

 

 ゲーデルの第一不完全性定理が述べているのは、要するに、公理の集合としてどんなものを使おうとも、数学には答えることのできない問題が存在するということだ。完全性は決して達成できないものである。これに追い打ちをかけるように、第二不完全性定理はこう述べる。公理の集合として選んだものが矛盾をもたらさないと確信することは決してできない。つまり、無矛盾性は決して証明されないということだ。



 ゲーデルの発見は、そのころ量子物理学の分野でなされた発見と似たところがある。不完全性定理の発表よりも四年前のこと、ドイツの物理学者ヴェルナー・ハイゼンベルクが不確定性原理を発見していた。ハイゼンベルクは、数学者が証明できる定理には根本的な限界があるように、物理学者が計測できる特質にも根源的な限界があることを示したのだった。



 谷山(豊)は数学者としての短い経歴(31歳で自殺)で、多くの根本的なアイディアを出して数学に貢献した。シンポジウムで谷山が提出した問題には、彼のアイディアのなかでもっとも大きなものが含まれていた。しかしそれはあまりにも時代に先駆けていたため、谷山は自分のアイディアが数論に莫大な影響を与えるのを目にすることなく世を去った。谷山の知的想像力は悲しい形で失われ、それとともに日本の若手数学者たちは一人のリーダーを失ったのである。



 谷山の死後、志村〔五郎〕はもてる力のすべてを注いで、楕円方程式とモジュラー形式の関係を厳密に理解しようとした。それから数年・・・・・・・。そうして志村は少しずつ、すべての楕円方程式が、どれかのモジュラー形式と関連しているに違いないと確信するようになった。だが、ほかの数学者たちは半信半疑だった。志村は、ある高名な数学者とのこんなやりとりを覚えている。その教授はこう問いただした。「きみの意見では、いくつかの楕円方程式はモジュラー形式に関連付けられるというんだね」
 「いえ、そうではありません」志村は答えた。「いくつかの楕円方程式ではなく、すべての楕円方程式です」



 「私は、良さ(goodness)の哲学というものをもっています。それは、数学はその内に良さをそなえていなければならないということです。」
                                               志村 五郎



 1986年、アンドリュー・ワイルズは、谷山=志村予想という道を通ってフェルマーの最終定理を証明できる可能性があることを知った。



 問題解決のエキスパートは、相矛盾する二つの資質をそなえていなければならない-たえまなく湧きあがる想像力と、じっくり考えるしぶとさである。
                                          ハワード・E・イーヴズ


 大事なのは、どれだけ考え抜けるかです。考えをはっきりさせようと紙に書く人もいますが、それは必ずしも必要ではありません。とくに、袋小路に入り込んでしまったり、未解決の問題にぶつかったりしたときには、定石になったような考え方は何の役にも立たないのです。新しいアイディアにたどりつくためには、長時間とてつもない集中力で問題に向かわなければならない。その問題以外のことを考えてはいけない。ただそれだけを考えるのです。それから集中を解く。すると、ふっとリラックスした瞬間が訪れます。そのとき潜在意識が働いて、新しい洞察が得られるのです。
                                          アンドリュー・ワイルズ



 しかし1988年3月8日、ワイルズは新聞の第一面を見て衝撃を受けた。その見出しは、フェルマーの最終定理が解決されたことを告げていたのである。『ワシントン・ポスト』と『ニューヨーク・タイムズ』の記事によれば、38歳になる東京都立大学の数学者、宮岡洋一が、世界一の難問に解法を見出したということだった。宮岡は、その時点ではまだ証明を論文として発表したわけではなく、ボンのマックス・プランク数学研究所で開かれた会議であらましを説明しただけであった。聴衆のなかにいた同研究所教授ドン・ザギエルの次の言葉は、参加者の楽観を伝えている。「宮岡の証明にはまったくわくわくさせられるし、何人かの者はその証明でうまくいきそうだとみているようだ。まだ決定的ではないが、今までのところ問題はない。


 そのころ彼は岩澤理論と呼ばれる方法を調べ始めていた。岩澤理論は楕円方程式を分析するための手段で、ワイルズはこれをケンブリッジ大学のジョン・コーツのもとで学んでいた。



 「五月も末のある朝のことでした。ナーダと子供たちは外に出かけ、私は机に向かって残った楕円方程式の族について考えていました。そして、ふとハリー・メーザの論文を眺めると、短い一文に目が止まったのです。そこには19世紀に作られた構成法のことが書いてありました。そのとき突然、コリヴァギン=フラッハ法を最後の楕円方程式の族に適用するために、その構成法が使えることに気づいたのです。私は午後までそのことを考え続け、昼食をとりに下に降りるのも忘れていました。3時か4時ごろになって、最後の問題はその方法で解決できるという確信が得られました。そろそろお茶の時間だったので、私は下に降りていきました。ナーダは私がこんなに遅く降りてきたことに驚いていたようです。私は彼女に言いましたーフェルマーの最終定理を解いたよ、と」
                                        アンドリュー・ワイルズ




 (ニュートン研究所でカール・ルービンが同僚に宛てたEメール)

 日付:1993年6月21日、月曜、13:33:06
題 :ワイルズ

 こんにちは。今日アンドリューが第一回目の講演をした。谷山=志村の証明の発表はなかったが、その方向に向かっており、講演はあと二回分残っている。最終的な結論は依然として明かそうとしない。
 私の想像では、もしもEがQ上の楕円曲線で、E上の位数3の点についてのガロア表現が何らかの仮定を満足するなら、Eはモジュラーだという証明をしようとしているのだと思う。
 これまでに彼が言ったことから考えるに、谷山=志村予想のすべてを証明しようというのではなさそうだ。これがフライ曲線に適用され、ひいてはフェルマーに言及するのかどうかはまだわからない。また報せる。
                                            カール・ルービン
                                            オハイオ州立大学



 志村教授が自分の予想が証明されたことをはじめて知ったのは、『ニューヨーク・タイムズ』の第一面を見たときだったー「数学界長年の謎に、ついに『解けた!』の声」。友人の谷山豊の自殺から35年目のことだった。谷山=志村予想が証明されたことは、フェルマーーの最終定理が証明されたことよりもずっと大きな快挙だとみる専門家は多い。というのも、谷山=志村予想が証明されることは、ほかの多くの定理にとってとてつもなく大きな意義があるからだ。ところがジャーナリストたちはフェルマーにばかり焦点を合わせ、谷山=志村には軽く触れるだけーあるいはまったく触れないーことになりがちだった。



 そして1993年、証明はケンブリッジで発表され、彼は英雄になった。ところが2ヶ月としないうちに、コリヴァギン=フラッハ法に欠陥のあることがわかり、それからというもの状況は悪くなる一方だった。コリヴァギン=フラッハ法を修正すべくあらゆる試みが行われたが、すべては失敗に終わった。



 「ある月曜日の朝、そう、9月の19日のことです。私は机に向かってコリヴァギン=フラッハ法を吟味していました。この方法を生かせると思っていたわけではありませんが、少なくとも、なぜだめなのか説明できるだろうと。溺れる者は藁をもつかむといった心境でしたが、私は自信を取り戻したかった。すると突然、まったく不意に、信じられないような閃きがありました。コリヴァギン=フラッハ法は完全ではないけれども、これさえあれば、最初考えていた岩澤理論が使えることに気づいたのです。コリヴァギン=フラッハ法があれば、3年前に考えていたアプローチが使える。それはまるで、コリヴァギン=フラッハの灰の中から真の答えが立ち上がったようでした。」
 岩澤理論は、それだけでは不十分だった。コリヴァギン=フラッハ法もそれだけでは不十分である。それぞれが相手を補い合ってはじめて完全になるのだ。その閃きの瞬間を、ワイルズは決して忘れないだろう。その瞬間について語るとき、あまりにも鮮烈な記憶にワイルズは涙ぐんだ。
 「言葉にしようのない、美しい瞬間でした。とてもシンプルで、とてもエレガントで ・・・・・・。どうして見落としていたのか自分でも分からなくて、信じられない思いで20分間もじっと見つめていました。それから、日中は数学科の中を歩き回り、何度も机に戻っては、それがまだそこにあることを確かめました。ええ、ちゃんとありましたよ。私は自分の気持ちを抑えられなくて、とても興奮していました。あれは私の研究人生で最も重要な瞬間です。あれほどのことはもう二度となしえないでしょう」



 それにしてもフェルマーの最終定理の証明に大きな役割を果たした日本人がこれほど多いのはどうしたわけだろう。故谷山豊さん、プリンストン大学教授の志村五郎先生、岩澤理論の故岩澤健吉先生(プリンストン大学名誉教授、1998年10月死去)。また、本書では取り上げられていないが、現在UCLAの教授である肥田春三先生の仕事は、ワイルズの証明に本質的なところで寄与しているという。ひょっとすると、日本人の頭は数論向きなのか(個人的にはそうは思えないが)? 人文系の学問にくらべて言葉の壁がそれほど問題にならない数学や自然科学は、日本人の活躍しやすい分野なのか? あるいは、どの分野でも日本人が大勢活躍していて、私が知らないだけなのか? それとも単なる偶然なのか? みなさんはどう思われるだろうか。

                                              訳者あとがき


----------------------------------------------------------
【投稿者コメント】長時間のとてつもない集中!

素材抜粋-刈谷武昭著 『金融工学とは何か』-リスクから考える 

2011年02月13日 | 読書
素材抜粋         
2000/12/5


不完備制度の完備化

刈谷武昭著『金融工学とは何か』-リスクから考える
岩波新書 2000年




高度に蓄積された資本がみずからの効率的利用(リスクとコストを小さく、収益を大きくする無駄のない利用)を求めてその投資先を国際規模に拡大したいという欲求に情報技術革命が反応し、世界の資本市場の統合化あるいはグローバル化を急速に進めている。
その中で金融は、この資本の効率的利用の欲求にもとづいて、情報技術の大きな利用者・需要者として情報技術革命を促進していく役割を果たしている。さらに、金融は、情報技術と融合をして、互いに反応しながら、お金の流れや資本の利用あるいは経済自体を効率化していくと同時に、金融自体のあり方あるいは制度、システムも大きく変革していく。一言でいうなら「制度から機能へ」と。



日本の金融システムに関わる問題点は、当局が金融は重要な産業に資金を配分するという「産業金融」の歴史的経験から、「金融は制度である」と錯覚したことによる点が極めて大きい。



……伝統的金融の視点では、金融の見方(概念的枠組み)としては銀行、証券、保険といった業態を中心としたインスティチューショナル(業態的、制度)アプローチによる見方を最近までしていた。これが個人金融資産で1300兆円を超える「金融資産ストック時代」の、進化した金融の見方としてはなじまなくなってきたことは指摘したとおりであるが、それに変わる見方(概念的枠組み)が金融の機能によるファンクショナル(機能的)アプローチである。



機能的金融は、金融商品を媒介にして世界の中でのリスクの最適配分をするだけでなく、その最適性が十分でないときには商品の発生や制度の変更を促す。これを「不完備制度の完備化」プロセスとみる。さらにベンチャー企業の資本市場の創設などもこのプロセスの例であると見る。



広義の金融技術は、資本市場の機能・金融の機能を促進させる手段であり、経済社会の中でのリスクシェアリングの機会の拡大や取引コストの低下、情報コストやエージェンシー(代理人)コストの減少による効率性の改善を促す。そして金融技術は資本サービス業としての金融業にとっての付加価値を生産する手段である。



さらにまた各国の金融システムのあり方も、この資本市場の機能の効率化のためにあるべきであり、当局の制御可能性や金融政策のためでない。……・。世界の高度に蓄積された資本は資本市場の機能の効率化を要求し、市場システムとして空間的(場所的)、時間的同質性を促し、ゲームのルールが共通なシステムを作ろうとしている。その例が、2001年3月の決算期からスタートする時価会計と国際会計基準に基づく情報開示である。



機能的視点からの資本主義経済システムは完成形のないオープンシステムであり、従ってシステムの設計・開発において重要な点は、時間と共に変更可能性をもつオープンかつ動的なシステムとなることであろう。



日本の当局は新しいシステム設計能力が弱かった。当局のレベルアップ、専門的官僚の中途採用やインセンティブシステムの導入が必要であるだけでなく、日常化したルーティン的業者行政から脱却し、知的ベースの拡大が必要である。



高度に蓄積された資本は、みずからの価値増殖の基本的要求(資本の論理)に基づいて世界の経済をグローバル化し、世界の市場の更なる効率化を要求し続けるように宿命付けられている。その宿命を与えているのは、いい意味でも悪い意味でも人間の進歩、富、権力等への限りない欲望であろう。この欲望に支えられた資本の要求は、より豊かな経済社会を作るための原動力である。
さらに重要なことは、資本の投資を通じた生産力拡大機能は、現在と将来を結ぶ経済発展の基本的原動力として働くということである。その意味で、資本は将来世代の生産性と価値(福祉、雇用、豊かさ)を創造する重要な生産要素であり、その効率的利用は現世代の使命でもある。すなわち、人間の過去と未来をつなぐのが現世代であるのに対して、その人間を養う経済生産性の過去と未来を結ぶのが過去から蓄積されてきた現時点での資本である。子供たちのために将来の「メシの種」として資本を有効に利用することは私たちの使命である。



金融工学の価格理論のもっとも重要な基本概念は、無裁定性概念である。その概念は、マクロ的にもミクロ的にも金融の機能を促進する上で概念生産、概念展開、概念の洗練化のための基礎であり、実際のシステム設計、商品開発などを助ける。その概念を一言で言うのなら「ノーフリーランチ(ただメシの機会はない)」、あるいは「ノーリスク、ノーリターン(リスクを取らないとリターンもない)」であり、資本主義の基本概念である。



新しい商品の出現は、市場が不完備な状況にあるためにそれを埋める「不完備制度の完備化」プロセスと見ることができる。



市場でリスクの価格が無裁定性概念によって一意的に決定できないとき、市場は狭い意味で不完備であるといい、その場合一つの理由が、リスクの要因の数に比べて現存している金融商品の数が少ないことである。したがって、そのリスク要因がなんであれ、それが不利益、不都合である限り、市場はそのリスクを制御可能にする新しい商品で埋めようとする。また、リスクが複合的であれば、それを識別し、分化させようとする。それが無裁定性理論の中に意味されており、制度裁定のデリバティブの発生はその結果であるとも見ることができる。
さらに理論はリスクの識別とその価格付けをとおして、複雑なものを分解し再び結合することで、概念展開力や商品設計のあり方に洞察を与える。さらにまた、複製するための取引コストや税が高すぎる場合、理論的に完備であっても新しい金融商品を生み出す。



無裁定性概念は、経済学の基礎概念である均衡概念を包摂する。実際裁定機会がある状況は、均衡ではなく、人々は行動を変えてそのフリーランチにあずかろうとするからである。すなわち均衡ならば無裁定である。主体的均衡概念に理論的基礎をおく経済学は、需要者、供給者の主体概念を設定し、それぞれの目的関数を最大にするように需要曲線と供給曲線を導き、市場で需要量と供給量が等しくなる水準に均衡価格と均衡量が決定されるという分析的枠組みを取る。
しかしこの枠組みが機能しないのが金融市場の価格である。



日本の金融業が国際競争力を持つためには、情報収集・変換・分析能力の向上や経営者の経営能力の拡大・専門性の重視等、機能的視点へのビジネスアプローチの転換、独自な戦略の開発、国際法務も含めた広範な知識ベースの拡大が必要である。金融業ではイノベーションなしにはサバイバルできず、金融の機能的視点からイノベーションのリスクを見極める経営能力こそ、日本の金融業が国際市場で勝ち抜くための唯一の道であろう。……。金融ビッグバンの中での最大のリスクはイノベーションをしないことであり、オポチュニティコスト(機会費用)を累積していくことである。その累積は将来世代に対する債務であり、リスクの転嫁である。


--------------------------------------------------------------
【投稿者コメント】制度的視点から機能的視点への展開!

素材抜粋-馬渕 一著 デイ・トレーダー 

2011年02月12日 | 読書
素材抜粋                             
2003/10/26  


デイ・トレーダー

馬渕 一著 
角川書店 1999年




 デイ・トレーディング(DT)はその名の通り、1日で売買を完結する超短期の投資法だ。1日どころか、実際の売買では買った株を5~10秒後に売ってしまうこともある。ロングLong(買いから入って、保有する株式を売却して決済する通常の取引)だけでなく、私はあまりやらないが、売りから入って買い戻すショートShortもできる。



 こうした超短期売買は、日本でも「日計り」と呼ばれ、以前から行われていた。アメリカでも日本でも、株式投資の王道は長期投資とされており、日計りは典型的なギャンブル投資法でマトモな人間は手を出さないとされてきた。今でもDTをギャンブルの一種だとして、眉をひそめる人たちが、たくさんいる。


 私はこの本で、DTはギャンブルではなく、ハイテクとネットワークの急速な進化の中で新しく生まれた資産運用の有効なツールであるとともに、人生の新たな可能性を開くものであることを伝えたいと考えているが・・・・・・・


 まず、株式売買手数料が違う。・・・・・・・(日本の手数料は)All Techのざっと30倍だ。当然、利益を確保するためのハードルも、30倍高くなる。このようにDTは、売買手数料の劇的なディスカウントによって可能になった。


 DTと「日計り」のもうひとつの違いは、売買システムだ。
 従来の株式投資では、証券会社に電話して売買注文を出すくらいしか、個人投資家の取引方法はなかった。リアルタイムの株価を知るためには、こまめに証券会社に電話するか、証券会社の店頭にある株価ボートにかぶりついているしかなかった。こんな原始的な方法では、プロの機関投資家と対等に渡り合えるはずがない。
 それに対してDTでは、個人投資家がプロのディーラーと比べてもまったく遜色のない、優れたシステムを安価に利用することができる。
 こうした条件を満たすことによって、DTは「日計り」のようなギャンブル的手段から、リスク分散のための優れたトレード方法へと進化を遂げたのだ。


 DTとディスカウント・オンライン・ブローカーを使ったトレーディングの違いは、使用する機材とシステムを見れば一目瞭然だ。ディスカウント・オンライン・ブローカーでは、インターネット・エクスプローラInternet Explorerやネットスケープ・ナビゲータNetscape Navigator などの無料ブラウザを使って株式売買するが、これでは決定的に速度が遅い。また、ディスカウント・オンライン・ブローカーの売買執行の信頼性が低いという問題もある。
 こうした環境に比べると、All Techで使っているPC Quote (ソフトウエア)とATTAIN(システム)は素晴らしいものだ。少なくともこのクラスの機能と応答性がないと、DTで利益を出すのは難しい。


 All Techで使っているPC Quoteは、1日、数日、数ヶ月、数年のチャートを、日足・週足で自由に表示させる性能を持っている。もちろんすべてリアルタイムで、サイズや数の制限もない。マーケットの今という瞬間が、そのまま目の前の画面に表示されるのだ。


 さらに、DTで使う売買システムとディスカウント・オンライン・ブローカーとの決定的な違いは、売買に要する時間だ。・・・・・・・。仮に個人で使える専用線で接続していたとしても、売買高が急激に増えるとオンライン証券会社のサーバーがビジーになったり、最悪の場合にはダウンしたりする恐れもある。肝心な時に売買が執行できないのは、DTにとって致命的だ。
 それに対して、All Techの高速システムでは、サテライト(衛星)回線でNASDAQのメインフレームに直結し、マーケット・メーカーと直接売買することができる。簡単に言えば、ディスカウント・オンライン・ブローカーを使うトレーダーが、渋滞している一般道をのろのろと進んでいるのを横目に、デイ・トレーダは高速ハイウェイを一瞬にして走り抜けていくわけだ。
 逆に言えば、これくらいのソフトやシステムがないと、DTで勝ち抜くことはできないとも言えるだろう。


 DTのシステムやソフトについて文章で説明しても未体験の人には分かりづらいと思うので、実際の売買画面を使って、DTに必要な基本機能を図解しておこう。(以下、カラー写真で、図1:All Tech Investmentで使っているソフトPC Quote 6.0、図3:PC Quoteによるマイクロソフトのレベル2ウインドウ、図5:Ticker Window、図6:Trend Lines、図7:Gann Linesで描いたグラフ、図9:チャート3種 等々が表示・説明されている。詳細は原書にあたってください。)


 要(『The Warren Buffett Portfolio』の言っていること)は、分散投資より厳選した優良銘柄に絞り込んで長期保有をしなさい、ということのようだ。確かにヘタなDTをするんだったら、こういう投資のほうが確実だ。


 DTは基本的に、1日で取引を終了させる。今までの株式投資とは、株式を保有する時間が違う。先にも述べたように、ポジションを持つ(株式を保有する)リスクを軽減するためだ。


 スウィング・トレードSwing Tradeは2~5日ぐらいの取引、ポジション・トレードPosition Tradeは1週間から、さらに長期にわたって保有するトレードのことだ。こうした取引には、「時間のリスク」がある。


 選択する銘柄を間違わなければ、株式を1日以上保有する従来のトレードをDTとミックスすることで、大きな利益を生み出すことができる。成功しているアメリカのデイ・トレーダーたちの多くは、DTとポジション・トレードやスウィング・トレードを組み合わせて、効率的に資産を運用しているのだ。

 考えてみれば、今までの株式取引は、すべてオーバー・ナイトを積み重ねた手法だということができる。


 ところが今では、この「5分間ルール」は廃止され、そのかわりに、株価が下落している途中の空売りが禁止された。要するに、株価が上昇しているときしかショートはできないわけで、これを「アップティック・ルール」という。だから、株価が下落中にショートをしても、システムがこのオーダーを受け付けない。


 たぶんそう遠くない将来に、日本でもDT専用システムを使って、株式市場に投資できる日が来るはずだ。


 米国株ファンドでも1998年の平均の運用成績は14.52%。過去15年間の年率平均運用成績は14.49%。プロのファンド・マネージャーは、デイ・トレーダのように頻繁な売買はしない。それでも、ダウの16%上昇や、S&P500の28%上昇には及ばないという結果が出ている。
 1997年と1998年のヘッジ・ファンドの運用成績などは、マイナス2桁の運用成績という惨憺たる結果だ。


 このような不利な条件を考えれば、日本から短期投資を行う場合、DTではなく、数日で利益を出すスウィング・トレードの方がはるかに安全だ。


 DTを成功させるためには、いくつかの条件がある。
 まず、専用回線に近い通信速度と安定性か必要だ。通常のダイアル・アップ接続では、肝心のときに回線が途切れたり、つながらなかったりしたときには、お手上げである。
 NASDAQの高速なワークステーションでさえ、システム不良が起こることがある。
こういう状況では、日本側のプロバイダの不具合なのか、それともNASDAQを含むアメリカ側の問題なのかを判断してそれを解決するような悠長なことをやっている時間はない。株価が急に下がり始めて、みんながパニックになっているときなど、秒を争って脱出しなければならないのだから。・・・・・・・。こういう状況で、脱出に失敗して損をしても、どこにも文句を言うことはできない。自己責任の世界だ。


 なぜ長短のトレードを組み合わせると有利かの答えは、このあたりにあるのではないだろうか。長期の株式投資と短期のトレードは、未来が不確定な株式投資においては、お互いが保険のような役割をするのだ。


 どこかのニュースサイトの記事にもあったが、プロトレーダーの運用する投資信託の平均上昇率は、S&P500を6年連続で下回っているという。証券会社のプロトレーダーの方法論自体が、時代の流れに会わなくなってきている。株式市場でのDTの比重が大きくなることで、株価の動きや傾向が変わってきているということもあるだろう。これはDTが始まってからしばらくして起こり始めた現象だ。DTの及ぼす影響は、私たちが想像するよりはるかに大きいのかもしれない。


 ネットを使った個人の株式投資家は、今やNASDAQの売買高の12%を取引するようになり、機関投資家向けのオンライン証券会社ITGの調査によると、インターネット関連株の中でも人気のあるYHOOやアマゾンAMZNの売買高の75%がこれら小口投資家によるコンピューターを使った売買だという。
ということは、会社の利益の何倍が適正株価に相当するという、PERのような機関投資家の常識やセオリーを知らない投資家が株式市場に数多く参入するわけだから、株価が今までの基準では推し量ることのできない水準まで高騰したとしても、けっして不思議ではないと思う。


 成功も人を選ぶ。というより、成功は意思というあなたのパワーに呼び寄せられて、少しずつ実現していくものなのだ。成功すると強く信じて、全力投球。これは、失敗がいちばん嫌う姿勢だ。


だから、右肩上がりのチャート銘柄でトレードするというのは、リスクを減らすための基本になる。


 「下降基調ではショート(売り)、買うなら上昇基調で」というのがセオリー。


オルタブックス・ホームページ
http://www.mediaworks.co.jp/alt/
海外投資を楽しむ会ホームページ
http://www.altーinvest.com/
Daytradenetホームページ
http://www.daytradenet.com/


--------------------------------------------------------------
【投稿者コメント】高速コンピューターの可能性はどればかり! エジプトのように。

素材抜粋-D・L・ソールズベリー編 アメリカ年金事情 

2011年02月11日 | 読書
素材抜粋       
2003/04/22


アメリカ年金事情
エリサ法(従業員退職所得保障法)制定20年後の真実

D・L・ソールズベリー編
鈴木旭監修
大川洋三訳
新水社 2002年





 年金資産の運用成果を最大化すべく努力することと、アメリカ経済を強化すべく年金資産を運用していくという二つの目的は矛盾しないと思います。


 年金基金は、かって資本市場や経済に影響を与えることなく個別に運用決定をすることもできましたが、今やそういったことはありえないと言ったほうがいいかもしれません。4兆6000臆ドル(1ドル120円で、552兆円)という金額からして、年金基金はアメリカの資本市場そのものであると言うべきだと思います。


 私がお願いしたいことは、年金基金の受託機関ならびに投資運用会社の方々が、自分達のところが永続的に経済的な健全性を保っていけるのも、ひとえに国全体の経済が健全であればこそということを認識され、力強いアメリカ経済を構築すべく、創造的な運用戦略・戦術の構築に専念していただくことです。


 「個人責任」とは、自らの退職後の生活状況を十分に理解しているということを意味しています。例えば、労働者の方がある年金に加入した場合、それがどんな制度の年金か、あるいはその年金の条項、さらにはその制度を揺るぎなきものにするためにはどんな対策が必要かを知る必要があります。


 社会のあらゆる層で、社会の安全ネットが、擦り切れていっている状況です。


 ・・・・・・・私としては、経済的に保障してあげるという考え方がいいのか、経済的には個人が責任を取るべきだという考え方がいいのかという、根本的な論争が、年金の分野でこそ徹底されるべきだと考えています。


 この企業は年金の支出面でのこうした激動に対処できるほどの体力は持っていません。結局は、年金制度をやめてしまうことになるのでしょう。


 結局行き着く先は? アメリカには、主要な競合国と比較しても、はるかに大きな所得格差があります。退職後の所得面においても、恵まれている人と恵まれていない人とのギャップは他国以上に深刻です。そして、その格差はさらに拡大しつつあります。その主たる原因は、年金制度にあります。年金所得のある人に対し、まったくない人という図式です。401(k)の出現で、所得の不公平さが一層悪化していると思います。


 退職に備える負担を、自らの手で構築させるべく従業員に転嫁するということでは、解決策になりません。解決策は伝統的な旧来式の企業年金制度を次のような制度に再構築することです。すなわち、公平かつシンプルなルール、自らの資金の投資方法に対する発言権、そしておそらく最も大切なことでしょうが、仕事を変わったとき、あるいは新しい年金口座に変わるとき、積立資金の移動が可能な制度です。


 強制的なものが、全国民をカバーしうる唯一の方法です。・・・・・・・最低統一年金制度(MUPS)のような強制的普遍的な年金制度こそが、年金による保障範囲の課題を解決し、将来の社会発展に必要な資本の確保につながるものなのです。
 ・・・・・・・。
 最後に、強制的制度によって複雑さから逃れることが出来ます。われわれは変化を好み、多様性を好みます。また皆さん方には個別の要望を満足させられるものを提供したいとは思っています。しかし、制度が複雑だと、管理上破綻に近い状態になったり、制度上のコストが受け入れがたいレベルにまで上昇してしまうなど、厄介な問題が出てきます。
 強制的な最低統一年金制度ですと、単純明快さはもとより退職後の所得保障あるいは経済の将来の発展が勝ち取れるのです。


 年金基金と年金基金マネージャーのなし得たことで最も評価すべきは、おそらく株主の伝統的な役割に復帰したことではないでしょうか。1960年代、1970年代、株主は眠りこけていたも同然でした。大企業のCEO達は、企業帝国を作り上げていました。いわゆるコングロマリットです。・・・・・・・。
 1980年代になると、株主は企業所有者としての役割を放棄、乗っ取り専門家に仕事を任せてしまったのです。乗っ取り専門家もよい仕事を残してはいます。彼らが手を貸しコングロマリットを解体したケースもあります。悪い側面としては、行き過ぎたレバレッジ手段を使い、様々な課題を引き起こしたことがあげられます。
 1990年代になると、企業の業績説明責任を全うさせる制度を構築する義務があるということを、株主が意識し始めました。年金制度がこの運動の先鋒となっています。


 肝心なことは、貯蓄率や税制にかかわらず、年金を受領する定年退職者にとって究極の価値基準は、年金基金が投資する企業の成長力です。年金基金は、多数の企業に多額の資金を投資しています。しかし、企業がグローバル市場で勝ってくれなければ、資産価値は下がってしまいます。


-----------------------------------------------------------
【投稿者コメント】確定給付型が見直される時が来るのかも知れない。 

素材抜粋-山崎 元 『僕はこうやって11回転職に成功した』 

2011年02月10日 | 読書
素材抜粋                             
2002/11/04


僕はこうやって11回転職に成功した

山崎 元『僕はこうやって11回転職に成功した』
文芸春秋 2002年




 野村投信に限らず、日本の運用会社の多くが金融機関の子会社としてスタートしており、会社の経営と人事を親会社が握る構造になっている。この点は、運用会社の経営のあり方として大きな問題であり、日本の運用会社の決定的な欠点だ。運用経験のない経営者に経営される運用会社は、その顧客と共に不幸だ。そして、永続的に被支配者側に立つ社員にはどことなく投げやりな無力感が漂うのである。「俺は仕事は分からないけれども、人間は使える」というサラリーマン経営者の無根拠な自信を矯正することは実に難しい。


 当時、転職を決めて気負い気味の筆者は、親会社で一度人生の全盛期を終えてきた転籍者の気分にも同化できなかったし、どことなく覇気のない、いわば電圧が低いような感じのプロパー社員にも同化できなかった。


 また、こんな会社ならば辞めても惜しくないという印象的な仕事が一つあった。筆者の担当地域であるカナダの製鉄メーカーへの製鉄設備の入札案件であった。当時ドルの金利は高く、円金利が相対的に低かったのだが、それは、三菱商事が円を調達して相手に円とドルの金利の間くらいで、ドルで貸して、為替リスクを負担するという仕組みの案件だった。後で分かったことだが、日本企業の為替への無知につけ込んで、米国の投資銀行がこうした仕組みを北米の製鉄メーカーに勧めていたのだった。
 筆者は、為替レートがそれほど円高にならずに推移するのであれば、米国の国債でも買う方が、利回りが高くかつ信用リスクもなしに、十数億円余計に儲けることができる、という計算を示して「この十数億円は、寄付ですか、広告費ですか」と反対した。しかし、ライバル商社との争いに負けたくない営業部門、営業部門に嫌われたくない上司といった構図の下に、この案件は「已む無し」で通さざるを得なかった。上司にも縷々説明されたが、理屈になっていないことが分かってしまったので、心が離れるばかりだった。


 まずは<抜粋者注/野村投信に転職して1986年にバランス型投資信託の担当に着任したころ>、株式投資に関する入門書を手当たり次第に買ってきて、雑な読み方だが二、三十冊読んだ。「・・・・・・・入門」とか「・・・・・・・必勝法」といったタイトルが付いた類のものを含めて、たくさん読んだ。これは、かって競馬を始める時に使った方法だ。まず、ある程度の量の基本的な概念を具体的なイメージとともに獲得してしまうと、後の理解がはかどることが多い。またこれと並行して、なるべく専門の論文を読んだ。アメリカのアナリスト協会が出している「フィナンシャル・アナリスト・ジャーナル」という英文の雑誌が会社にあったので、ポツリ、ポツリと興味の持てそうな論文を読んだ。レベルでいうと、上下から挟み撃ちにする感覚である。


 他の仕事でも、二年間くらい必死に努力すれば「何とか他人の役に立つ」、つまりプロとしての最低限くらいのレベルに達することができるのではないかと思う。


 また、余計なことかも知れないが、こうした扱いが理不尽なレベルに及んだ時には当事者である上司に「あなたは、たかだか会社の上司だというだけで、そんな振る舞いをしていて恥ずかしくないか」と、はっきり軽蔑の意を表すべきだと思う。転職する立場で威張ってはいけないが、基本的に「対等」であることはきちんと伝えるべきだ。転職者はこんなところで妥協する必要はない。気分よく朗らかに会社を去ることは、残りの一生の気分の上でも大切だ。


 しかし、たとえば<生命保険会社の>証券会社に対する態度は情けなかった。筆者が野村投信にいるときに、少しも役に立つと思わなかった野村證券の機関投資家向けの投資情報を奪い合うようにありがたがっている。野村以外の証券会社に対しても、投資情報は証券会社から取るのが当然といった雰囲気だ。しかも、オフィスの中まで証券会社の担当者が入り込み、ファンドマネージャーの隣に腰を下ろして雑談している。また、ファンドマネージャーの何人かは証券会社の接待付けになっていた。これでは、餌付けされた猿も同然である。機関投資家とは名ばかりの「お客さん」たちがそこにいた。


 三菱商事時代の為替予約チームでの決算操作もそうだったが、運用の場で結果を恣意的に操作する行為は我慢がならなかった。別に、筆者自身は高潔な人間ではないのだが、我慢できない。しかし、この種の不正を筆者は今後、何度も目にすることになる。


 1980年代の半ばくらい(昭和の終わり頃)から、日本の運用実務の世界で「モダンポートフォリオ理論」と呼ばれるような一群の理論的研究への関心とともに、ファイナンスの理論的な研究に関心が集まるようになった。


 また、仕事の内容が専門化するほど経営者層や企画部門、あるいは人事部門の人材や仕事に対する評価が不正確になっていくので、制度の公平な運用が難しくなる。


また、筆者にしたところで、この数ヵ月後に先物のディーリング的な日計り商い(一日のうちに売り買い両方を行って儲けようとするトレード)をやりながら、儲かった取引を、たとえば厚生年金基金連合会といった重要顧客のファンドに入れて、損した取引を合同口で引き取る、といったことを何度か(累計二、三億円だろうか)行ったことがある。良くないことをした、と反省している。自分だけが悪いことをしていないなどと言うつもりはない。ともかく、悪いことは悪いのである。


 しかし、素朴に考えて、これ<信託銀行のファンドトラスト利益操作>は他人(ファンドB)から盗んだお金で、別の他人(ファンドA)に対して損失補填しているのと同じことだから、証券会社の損失補填よりもさらに悪いといえる。


 さて、91年に証券会社の損失補填問題が大問題として取り上げられたとき、筆者は信託銀行のファンドトラストも問題になればいいと思った。そう思う背景には、会社にとってのリスクの問題や、損益操作に伴う倫理的な怒りということもあったが、より素直に言えば、マーケットで運用してフェアに決まるはずの運用利回りを操作する人間がいることの不愉快さ、こうした操作を当然のこととして振舞う人間への不快感、つまりマーケットを汚す人たち(と筆者には思えた)への怒りがあった。


 「事実は事実としても、ファンド間の益移動は他人のためにする窃盗行為であり、一段罪が重い。『よくあること』とか『しかたがない』と当事者は言うが、倫理感覚が腐っていると言われてもしかたがあるまい」
                       <金融関係雑誌の匿名コラム>


 まず、一度転職したことがなければ、会社と自分を基本的に対等の存在と位置づけること、つまり会社の相対化ができなかった可能性が大きい。


 あくまで理想だが、35歳くらいまでに、たとえば同業他社が機会があったら是非雇ってみたいと思うような職業スキルとそれを証明できる仕事の実績が欲しい。


 たとえば、ディーラーがマーケットから離れたり、セールスマンが顧客から離れたりという状態はキャリアの断絶を意味する。こうした場合、会社と心中するつもりで異動を受け入れてその会社特有のキャリアを積むか、職業の方を選んで早々に転職するか、方向を選択しなければならない。


 ・・・・・・・筆者の運用のやり方は、どちらかというと“トップダウン型 ”、つまりポートフォリオ(複数の銘柄を組み入れた運用資産全体を「ポートフォリオ」と称する)全体をまとめてコントロールしようとするスタイルで、たとえばコンピューターを使ってリスクやリターンを計算するようなやり方だ。理論指向、数量分析指向といってもいい。


 92年の2月にロンドンの本社(シュローダー)に約3週間、シュローダーの香港法人に5日という日程で出張に出た。


 日本の運用会社の最大の弱点は、技術や人材ではなくて、<運用を知らない>経営者とその取り巻きなのである。


一般に、自分で自分の身の上をコントロールできないということのストレスは大きいから、不満な状況のまま会社にどうにかされるのを待つというよりは、自分で身の振り方を決めようとするのだ。これは転職者が、しばしば転職を繰り返す心理的な理由の一つだ。


 筆者たちの仕事<メリルリンチ証券での>はいわゆる「クオンツ」の、すなわちバーラ的なマーケット分析や運用に関するアイデアの提供を顧客である機関投資家に行って、機関投資家から売買注文をもらって儲けるというスタイルのビジネスだった。


 この商品は売れなかったが、あまりにひどい商品だったので、帰り道でセールスマンと喧嘩になった。一般に複雑に工夫された金融商品は、売り手側の儲けの大きさを隠して、かつ顧客をその気にさせるように開発されており、売り手側が計算間違いでもしなければ、顧客にとって有利なものとはなり得ない。アタマでは分かっていたが、現実にインチキ臭い商品を多数目の当りにして、よく分かった。
 こうした経験は、後年個人向けの投資のガイドブックを書く時に役に立った。投資家は「自分でよく分かったもの以外投資してはいけない」、「特に、売り手の儲けの幅が完全に分からない商品は買ってはいけない」、「購入を見送っても、儲け損なって損をするのは売り手のほうだ」といった少数の原則を心得ておけば理不尽な損を避けることができる。大機関投資家から個人にいたるまで共通の原則だ。


 また、当時の外資系証券会社の大きな収益源であった、デリバティブやオプションのファンドを使った日本企業用の決算対策の商品をメリルリンチ証券も扱っていた。証券ビジネスは慈善事業ではないし、特に外資系の証券会社では個人が儲けに応じた報酬を得ることができるので、法的にギリギリのところまで商売をする。決算対策商品は当時はっきり「クロ」と認定されていたわけではないが(日本の監督当局がだらしなかっただけのことだが)明らかに反社会的でかつ投資として非本質的だった。自分が直接やっているわけではないが、同僚がこうしたビジネスに手を染めているというのはあまり気分のよいものではなかった。


 もっとも、二、三年おきに退職金をもらい歩く日本の天下り官僚のケースほど効率よくこのメリット<退職金の課税が低いこと>を享受したわけではない。


 しかし、給与やボーナスと退職金が、もらい方によってはこんなに税率が違うことに合理性はない。終身雇用・年功序列に加えて退職金と年金で報酬支払いが完了する「延べ払い型」の報酬システムは、人材の再配置の機会費用を高めて、今日、日本の経済にとって大きなマイナスの要因となっているように思うが、退職金の税制上の優遇はこうした制度を強くサポートとしている。正しくは、退職金への課税をもっと強化すべきだと思う。本当は、給与に対する課税と同じでいいのではないだろうか。


 特に証券ビジネスは、稼げるビジネスの場所が頻繁に移動する狩猟型のビジネスだ、これを、年貢を納める農民を管理する江戸時代の藩のようにマネジメントしてもだめだ。


 本を出してみたいとお考えのビジネスマンは少なくないと思うが、テーマと書くべき内容があるとすれば、(1)誰を読者対象にして何を伝える本で、なぜ売れると思うか、(2)本の内容のなるべく詳しい構成案、(3)文章に関する何らかの実績、といったものをまとめて売り込みに行けば十分にチャンスは得られるものと思う。必要なものは、企画書と文章のサンプルとプレゼンテーションの準備だ。もちろん、出版社も商売なのだから、(1)を説得的に伝えることが肝心である。


 『ファンドマネージメント』は幸い地味ながら読者を得て、何度か増刷されたし、韓国語訳が出たりもした。ファンドマネージャー向けの定番テキストの一冊として推薦してもらえるケースもあるし、その後の世渡りの上で名刺代わり的な効力を発揮したことが何度かあった。


 年金の運用は、日本で96年当時にはすでに大きなビジネスであったが、今後も運用資産の拡大が期待できた。また、投信や個人の資産運用と較べた場合に一番プロセスが厳格なので、年金運用を理解しておくと他の運用分野に応用が利く。実際に、その後、確定拠出年金とか投資信託といった分野では、確定給付型のこれまでの企業年金での手続きや考え方が大いに生きている。


 証券会社の仕事上の関わりだけではなかなか厚生年金基金の担当者などと関係を深めることはできなかったが、企業年金研究所という年金関係の独立のサービス会社のM社長と親しくなって、同社を通じて年金スポンサー向けのセミナーの講師をすることなどを通じて、年金運用関係の知識と、年金関係者との人的関係を徐々に増やしていった。


 具体的な成果としては、企業年金研究所でのセミナーをもとにして、年金スポンサー向けの年金運用の解説書を一冊書くことができた。『年金運用の実際知識』という本で東洋経済新報社から出版した。単独での著書の二作目だ。思い通りにのびのび書けた本なので、著者とはしては割合気に入っている本なのだが、出版時期がちょうど山一證券の自主廃業騒動にぶつかったことと、装丁が地味であったこともあってか、あまり売れていない(現在三刷りで止まっている)のは少々残念なところだ。


 余談だが、日本の年金は信用できないので、自分の老後資金は年金に頼らずに自分でためるしかない、という話を特に若い人からよく聞く。確かに、年金の将来には不安があり、たとえば国の年金で将来は、現在の年金受給者が得ているような実質的な価値を得られなくなる可能性は小さくない。支給開始も遅れるし、実質的な額も将来は減るだろうし、近年の運用難から年金の財政状態は公的年金、企業年金ともに良くない。それでは、年金の掛金を支払わない方がいいのか、という話はそれほど単純ではない。それは、老後の資金は結局自分で準備するしかないが、この貯蓄を、税引き後の手取り所得の中から積み立てて、しかも運用益に課税されながら運用することは、国の年金や企業年金と比較して著しく不利だからだ。また、これから確定拠出年金が広まると多くの人が実感するところとなるだろうが、自分で運用する方が、国や企業よりうまいという保証はまったくない。結局、「自分で考える」という覚悟は持つべきだが、そうした上で、年金制度を手段として利用するかしないか冷静に損得を考えるということが、今後の経済的サバイバル術の要点の一つになる。もちろん、最適なやり方は人によって違う。


 転職には、快感があります。



------------------------------------------------------------------
【投稿者コメント】企業年金研究所の縁でした。麹町界隈をのみ回りました。


素材抜粋-W.D.バイグレイブ、J.A.ティモンズ著 『ベンチャーキャピタルの実態と戦略』

2011年02月09日 | 読書
素材抜粋                                                    2001/03/26

 

ベンチャーキャピタルの実態と戦略



出典:W.D.バイグレイブ、J.A.ティモンズ著

『ベンチャーキャピタルの実態と戦略』

日本合同ファイナンス(株)訳・東洋経済新報社

 

 

 ARD(ハイテク新設企業への純投資)を研究したパトリック・ライルズによると、ベンチャーキャピタルは、当時のボストン連銀総裁ラルフ・F・フランダースの構想であった。新規企業の設立件数の減少と、保険会社や委託基金などの機関投資家に集積されつつあった資金が利用できないことを懸念したフランダースは、1945年11月16日、シカゴで開催された全米証券業協会の総会で画期的な提案を発表した。創業企業に資金を提供できる公的な機関が存在しない時代に、フランダースは1940年投資会社法の規程を一部緩和して、機関投資家資産の5%を新しい会社の株式購入資金に充てることができるようにすべきだと提案したのである。

 

「アメリカのビジネス、アメリカの雇用、アメリカ国民の繁栄は、自由な企業体制のもとで新しい企業が続々と生まれてくることで保証される。将来にわたって既存大企業の成長だけに依存することはできない。新しい力、エネルギー、才能を吸収しなければならない。支援を求める新しいアイディアのために、莫大な機関投資家資金の一部を投資するための仕組みを作らねばならない。」

                       ラルフ・F・フランダース

 

 ドリオ(ハーバード・ビジネススクールの教授)、フランダース、その同僚は、第二次世界大戦中にMITで開発された技術の企業家の可能性を信じていた。金融機関の資金さえ導入できれば、政府の援助がなくとも民間の独立した機関を設立し、技術的な研究成果を企業化できると確信していた。

 

 しかし1980年になって、「正常」な投資サイクルは短縮された。時間をかけ、しっかりした審査(デューディリジェンス=ベンチャーキャピタルが投資に際して対象企業の調査・分析を行い、判断を下す審査プロセスを指す。)は、思わぬ結果を生んだ。つまり、慎重な審査をしようとすればするほど、なり振り構わぬ新設ファンドに最後のところで競り負けてしまうのであった。

 通商委員会の調査によると、第二次世界大戦後に行われた画期的な全イノベーションの95%は、大企業ではなく、むしろ設立間もない中小企業が起こしたものであった。新規参入者なくしては、いかなる経済も長期的下降を避けられない運命にある。

 

 彼ら(マーチャントキャピタル)の好むのは、MBOやMBI(マネジメント・バイイン)、そしてエクスパンションステージ(発展期)にある成熟企業である。スタートアップ企業に対してはほとんど興味を失いつつあり、またスタートアップ企業投資のノウハウもほとんど持ち合わせていない。この種の投資が、世界各国のベンチャーキャピタルの85%以上を占めている。イギリス最大手のベンチャーキャピタル3iですら、スタートアップ企業投資から撤退し、1991年には自らを「ディベロップメントキャピタル」と名付けている。

 

 しかし知識社会においては、これこそがリーダーシップを発揮し得る唯一の処方箋なのである。ここでは、特化(focus)、迅速(fast)、柔軟(flexible)、そしてフラット(flat)の4Fを持った企業が求められている。すなわち、将来性のあるニッチな市場に特化していること、変化する技術や市場にすばやく対応できること、物事の処理が柔軟であること、できるかぎりヒエラルキー階層の少ないフラットな組織を持っていることである。レジス・マッケンナが述べているように、今後は「『その他』の時代」になるであろう。すなわち、産業分類では「その他」に分類されるような新しい産業分野での成長企業群の時代が来る、というのである。新しい時代には、有名な大企業ではなく、起業家に率いられた若い企業が中心的存在となろう。

 

 だが彼(アマー・ボーズ、MIT教授でオーディオ機器メーカー設立者)は、世界経済の中にあって筆頭の競争相手である日本とドイツの教育システムにもはや追いつけないほど、アメリカの教育水準が低下していると懸念する。

 

 先進国で経済を変革しつつある知識社会への挑戦において、より適応力の労働力を有するのは、アメリカであろうか、それとも日本であろうか。……。



 日本メーカーの素晴らしい製造技術に当惑しているフォーチュン500社を見て、アメリカのビジネススクールは、経営効率の改善を教える講座を増やしてきた。しかし、こうすることによってビジネススクールは、MBAの学生に改良主義、言い換えればプロダクトイノベーションよりもプロセスイノベーションを重視する考え方を植え付けてしまう危険を冒している。もちろん、現在の経営をできるだけ効率的で合理的にするために微調整は必要である。そうすれば、日本の魔法のような製造方法にも追いつけるかもしれない。

 

 しかし、左脳の理論的分析力だけでは、アメリカ産業を海外との競争で勝利に導くことはできないであろう。創造力をもっと駆使することが大事である。残念ながらMBAの講座では、洞察力と創造力を犠牲にして、分析力を強調しがちである。ドリオが以前指摘したように、MBA出身者に分析できないものはない、彼らは、もうこれ以上分析しても意味がなくなるまで、何でも分析してしまうのである。

 

 つまり、1980年代半ばのハーバードは、科学者とエンジニアを金融業者と不動産業者に育て直していたことになる。

 

 「教えるべきでないことを教え、教えるべきことを教えてこなかった」のではないだろうか。MBAの学生は、ボウスキー、アイカーン、ミルケン、クラビス、ピッケンズ、トランプのことを大変よく知っている。しかし、フレミング、ショックレー、バーディーン、ワトソン、クリック、フェルミ、タウンズのことはほとんど知らないであろう。これらのノーベル賞受賞者の発明が現代人の生活そのものを大きく変革したにもかかわらず、多くの学生は、彼らハイテクの生みの親たちについてまともに答えられないのである。

 

 ハイテク分野の起業家の偉大な業績を軽視する一方で、金融業界の派手な「偉業」を、あたかも魔術のように喧伝し、起業家や学生の欲望を過剰に刺激してしまったのではなかろうか。失業を生み出す金融業者より雇用を増やす起業家に憧れる学生を育てねばならなかったのである。

 

 世界的な起業家である故本田宗一郎は、官僚は「新しいことを始めようとすると何かと障害になる」と述べている。

 

--------------------------------------------------------------
【投稿者コメント】
MBAの愚かしさ!

素材抜粋-高安秀樹 やさしい経済学 

2011年02月08日 | 読書
素材抜粋                             
2003/02/02


やさしい経済学

高安秀樹
 日本経済新聞掲載 2000年
http://www.kansai-cs.com/yasasii-keizaigaku-page.htm




 今、世界が直面している経済の混迷の根本的な原因は、複雑なゆらぎに対する一貫した視点を持たず、その場しのぎのゆらぎ対策を行ってきたことにある、と私は考えている。


 今、改めて経済学を見直してみると、経済学がゆらぎをほとんど無視した形で出来上がっていることに愕然とさせられる。


 もし、需要に内在するゆらぎが経済現象において本質的な役割を演じているならば、バネの近似に基づいた議論は全て砂上の楼閣のごとく崩れ去ってしまうことになるのである。実は、次回以降の話の中で紹介するように、ゆらぎは既存の経済学の常識を覆し、経済現象に新しい切り口を提供する中心的な役割を演じているのである。


 このように2つの相の境目の状態を自動的に維持する現象は、物理学では自己組織臨界現象と呼ばれ、以前から研究が進んでいる。


 20世紀は計画経済の実験の時代であった、というように将来は認識されるのではないかと思う。協賛革命を起こした国々はトップダウンの計画経済を実践し、自由経済の国においても公共事業という形で計画経済が現在でも大規模に実施されている。計画経済の評価はいろいろとあるだろうが、ゆらぎという視点から見れば、計画経済とはハイリスクハイリタ-ンを狙う戦略であり、長い目では破綻する確立が非常に高いことは明らかである。


 複雑系に対しては明確な定義はないが、あえていえば、自律的開放系である。自律とは自分で勝手に動き外部からは完全な予測や制御ができないことを表し、開放とは外部とのやりとりを欠かさないこと、そして、系とはひとかたまりとみなせるもの、という意味である。


 生きているシステムを有効に活用するためには、複雑系独特のゆらぎを十分に理解し、自律性と開放性を尊重したようなゆとりをもった戦略を持ち、複雑系が自ら発展成長するのを見守るような立場が必要なのである。


 論文は、人種や信仰や年齢などのあらゆる差別なしに誰がいつどこで読んでも足跡をたどれるような方法で記述する必要がある。


 ----------------------------------------------------------
【投稿者コメント】
計画経済のどん詰まり!

素材抜粋-木村剛 『通貨が堕落するとき』

2011年02月07日 | 読書
素材抜粋                                   2001/07/01



通貨が堕落するとき

木村剛『通貨が堕落するとき』 講談社 2000年




まともな会話になっていない。平行線はいつまで経っても平行線のままだ。これでは茶番劇にもならない。もっとも、これはマスコミに対する想定問答の基本中の基本である。
 「回答にならないような回答がいちばんいい。そうすれば何も答えなかったことと同じになる」
 先輩たちから厳しく教え込まれたことを思い出す。


      
 日本では、信託という金融の器は不十分なまま整備されずに放置されてきた。普通、信託という器は受託者責任という重大な責務を背負っている。受託者は、委託者の財産を守る義務があり、財産を管理する者として慎重に投資行為・管理行為を行わなければならない。だから本来であれば、信用力に問題があり破綻のリスクがある金融機関などに資金を融通してはならない。欧米では、このようなスタンスのことをプル-デントマン・ル-ルというが、日本ではプル-デント(慎重な)という言葉が笑い話になるほど、受託者としての責務は無視されてきた。かくして厳密な意味での受託者責任が課せられない日本では、信託の器が好きなように悪用された。



 山三證券系列の山三投信には、投信販売で集めた巨額のカネが蓄えられている。本当は他人のカネだが、受託者責任の希薄な日本では、自分のカネのように自由に使える。山三證券は山三投信のカネを横取りして、自分の資金繰りを行うようになった。
 ここでとばっちりを受けたのが東北拓殖銀行だ。



 「それは違う。瑕疵担保理論はロスシェアリングじゃない。ロスシェアリングは、値段が下がれば、一定割合とはいえ、買い手はけがを負う。だから売り浴びせるというインセンティブはない。しかし、瑕疵担保理論は別だ。値段が下がれば買い手はロスを抱えなくてよくなる。だから、売り浴びせるインセンティブがある。ロスシェアリングと瑕疵担保理論は似て非なるものなんだ。モ-ルスサットン証券のインベストメント・バンカ-に騙されちゃいけないんだ。



 「そう、そのいい加減な金利を付けるお役目を担ったのが、北嶋證券だったわけだ。公的資金を申請した銀行は一行につき3000万円はとったらしいから、少なく見積もっても三億円ぐらいは懐に入れてるだろう。ジェイソンは5000万円くらいボ-ナスをもらったんじゃないか」



 「たしかにそうだが、アメリカの金融当局に入る奴には三通りいるんだ」
 ロバ-ツは咳払いを一つした。
 「まずは、本当にパブリック・ポリシ-(国家の政策)を担いたくて志望する奴、これが5%。この層は本当に優秀で出世も早い。俺もその一人だ。次に来るのが、カネが目当てで履歴書をきれいにするために入ってくる奴だ。だいたい15%かな。経歴に当局でも経済分析をやっていましたと書くために役所を利用する奴だ。ジェイソンはこの輩(NY連銀で1年ほどエコノミスト見習いを経験)だよ。本当にトップ層なら、俺みたいに官僚の組織の中で順調にエリ-トコ-スを辿ってるはずさ」



 実際、そのような劣悪生保の一つの帰結が、1997年に破綻した産日生命の破綻であったと言っていいだろう。決算数字を作るために、外資系証券会社の言うがままに取引を拡大させ、含み損を膨張させていった。その結果が破綻である。粉飾決算は、産日生命を再生させることなく、財務内容をさらに一層痛ませるだけに終わった。たった一つの中小生保を処理するために、生保業界は2000億円を拠出した。



 「銀行もひでえが、生保もひでえ。これじゃ、公的資金なんぞ、いくらあっても足りねえぜ」
 「どんな生保の商品でも90%までは保護しようって言うんだからね。めちゃくちゃだよ。決済システムに係わっている銀行であればともかく、生保に公的資金を突っ込んで幅広く保護するというのは日本だけだよ」



 米国や英国では破綻処理への業界拠出は、破綻が起こってから出す事後拠出の仕組みを取っている。米国では1970年代から90年代初めにかけて約300社の破綻があった。
しかし、その多くは新設の小規模な会社で、業界負担は約700億円で済んでいる。英国も同様の状況で三社に対して合計三億円で終わっている。日本とは比較にならない。



 「返す言葉がありません。日本銀行は、みずからのすべてを賭けて、通貨の堕落――インフレ-ション――を止めなければならなかった。その気概を持っていなかったと批判されても仕方ないと思います」
――しかも、その失敗に対する厳しい反省が見られないような気がします。
 「インフレ-ションは天災ではありません。統治機構に絡む人間たちの決定によって引き起こされる人災です。……・。」



 「だから、どんな為政者であってもその誘惑を断ち切れません。その結果、通貨を堕落させる為政者の誘惑はしばしば人々の暮らしを困窮化させてきました。その歴史的な反省に立ち、為政者の誘惑を完全に断ち切るために設立されたのが中央銀行という存在なのです――中央銀行の存在こそが近代と現代を分ける人類の進歩の証だったのでいから」
――なるほど、そういう歴史的な経緯があるのですか。それで、中央銀行の独立性が重視されるのですね。
 「そうなのです。中央銀行には、通貨を堕落させる為政者の魔の手から人々の生活を守るという重要な義務が課せられているのです。中央銀行の設立を人類の叡智と呼ぶのはこうした背景があるからなんです」



 日本の企業っていうのは、景気がいいときは政府には頼らないと大見得を切ってみせるくせに、少し悪くなるとすぐにお上に頼ろうとする。財政資金はなあ、財政資金はなあ……、国民全体のカネなんだよ。自分で会社の業績を改善できないような自堕落な経営者を救うためにあるカネじゃないんだ。ところが自分には何の痛みもないものだから、すぐ俺にもくれという話になる。そんな戯言を一つ一つ聞いていたらどうなる。そういうモラルハザ-ドを防ぐためには厳しい財政規律が必要になるのだ。そうだろう、石崎くん」



 「そう、正論だった。財政構造改革法は必要だったのだ」
 再び鹿島は仰向けになって、天井を見詰め始めた。
 「……・しかし、日本の国民はそこまで成熟していなかった。財政再建が必要であることを受け入れるだけの心の準備がなかった。政治家として、国民の成熟度を見誤ったのは致命的なわたしの落ち度だ。いかに政策が正しくとも、それを貫き通すだけの支持が得られなければ、その政策はないも同然だ。国としてもたないのだよ。……・。」



 「……。カネがじゃぶじゃぶ余ってインフレの危険が増しているというのに、識者と称する愚か者どもが、目先のデフレに気を取られて、量的緩和論や調整インフレ論を喜んで担ぐありさまだ。日本国民には知性が育っていないということが証明された。民主主義は、国民のレベルを超えることはできないということを痛感させられたよ」


【投稿者コメント】
負けるボクサーの事前コメントだったのか。

 

学生向け哲学風読み物『情緒の力業』の販売

ブログ呆けた遊びでご案内しています…

年金カウンセラー検定

みんなの年金・基本のキ・10問です! →  年金カウンセラー検定   ぷち検定優秀賞受賞  →  平成28年12月現在  合格者数 179名 / 受験者数 473名 合格率37.8% さぁ、あなたも挑戦! 

年金カウンセラー検索

年金カウンセラー