「みんなの年金」公的年金と企業年金の総合年金カウンセリング!                 

このブログ内検索や記事一覧、カテゴリ-等でお楽しみください! すると、あなたの人生が変わります。

素材抜粋―清水博『生命を捉えなおす』

2011年07月28日 | 読書
素材抜粋                                  2011.07.22

生命を捉えなおす
生きている状態とは何か

清水博著
中公新書
2009年1月25日増補判10判

---------------------------------------------------------------------------------



アトミズムには、単に対象を微視的観点から捉えるだけではなく、動的な現象を静的な状態に分解して、興味を「現在」に絞って観察するという性格があるのです。自然界には本質的に動的な現象が存在します。発生、成長、進化、消滅などといわれる諸現象がこれです。このような現象は、一般にたくさんの要素が寄り集まってできている体系にはじめて見受けられる点に注意すべきです。発展、進化のように逆行できない(不可逆)現象は、数多くの要素が同時に存在する体系でなければ出現しないのです。したがってこのような自然の動態はアトミズムだけでは捉えられないのです。


揺動(ゆらぎ)というものは


不安定なときには、逆にゆらぎによってランダムさの中から一定の方向の選択、すなわち秩序が作られるのです。


粗視化して物事を眺めるという立場


 このように、原生動物には、ゆらぎ運動、このゆらぎによって生じた「二つ」の状態を見くらへてより好ましいほうを選択する能力、過去のことは忘れる能力、の三つがそなわっているので、空間の中の好ましい一点に向かって近づいていくことができるのです。


この意味では、思考の揺れ幅の大きさばかりでなく、記憶を適度に失うことができるということも、創造的な人間にとって、非常に大切な能力です。


誤る能力もない人間に、創造的な仕事は無理です。


生きている系における秩序の自己形成に関しては二つの大切な面がありました。一つは要素が系全体の発展に協調して秩序をつくることであり、もう一つは、根本的には各要素の状態はゆらぐことができて、環境の中から系の発展にとって最もよい条件を選択できるということです。


このような不確かなことがおきるのは、マクロな条件を一定に整えるだけでは具体的にどのような秩序が出現するかを決定できない状況(不安定な系)で、その決定が、ゆらぎにまかされているからです。この不確かな点を確かにするために、ゆらぎから決定権を奪って、生物自身の手で秩序を決定しようというのが、生成における情報発現の熱力学的原理です。私たちがゆらぎにとって変わって決定権を持ち、望む変化をおこそうというときには、(ゆらぎの与える揺動力よりある程度大きい力さえ与えればよいので)ほとんどエネルギーを使わなくても、出現する状態を決定することができます。この、ほとんどエネルギーを使わなくてもマクロな状態を決定できることが、情報発現の特徴です。


仏教について驚嘆するのは、生きている自然の全体像がほとんど科学的に捉えられている点です。……。しかし、宗教という次元から離れて、自然科学の立場からみるならば、仏教の自然観の中に、社会という階層が入っていないのが気になります。


このような<神―人間―他の生物>という縦の階層構造が、仏教で描く、人間と他の生物が横の関係にあり協同して大きい秩序をつくるという見方や自然の捉え方と際立った対照をみせています。今日の文明の諸矛盾はキリスト教のこのような物の見方に発しているという考え方もあるくらいです。


これに反して、日本の社会のようなタイプのシステムでは、要素が均質的で密着性の高いために拘束度が強くなり、狭い次元での競争を誘って秩序をつくりだす面が強いと思われます。つまり生成的ではないのです。さらに重要なことは、システムの閉鎖性のために、フィードフォワード(抜粋者:未来に還元)よりもフィードバック(過去に還元)が強く働いて秩序が自己組織される傾向が強いことです。このようなシステムではその拘束性の強さから、秩序の一犠牲が目立ってきます。
このようなことから、もしも日本の伝統的な秩序感覚によって、秩序を考えたり、無秩序の必要性を主張したりすると、大きな国際的な誤解を生む可能性があると思います。


そのためには混沌とした情報の中で大きな流れ(法則性)を掴み、それによって自分の状態を変えていくことが必要とされます。さらにその将来が、自己の積極的な活動によって変わるときには、自己の活動のあり方を、時間的に位置づけていく必要があります。


抜粋者:マドリングスルーな活動


このように自己の世界に環境から入ってくる混沌とした情報の中にさまざまな法則性を見出して、未来に創造的に対応していくことは、自己の世界の中で新しいセマンティック(意味論的な)情報を生成していくということを意味しています。

余談になりますが、日本の社会は画一的なフィードバック社会であるために、その構成員は、時代の大きな流れを掴んで、その中で自分のあるべき態度を自律的に決定するというタイプの創造性が苦手であるばかりでなく、またその画一性から、個人がこういう生き方をとることを排除するように働く傾向があります。


日本人の創造性は、マクロな状況への適応を主としたフィードバック面で発揮されてきたのです。フィードバック型社会では、行動目標ははじめから与えられているので、行動をするための「ハウ・ツー」が重要な問題となります。これに対して欧米型社会は、フィードフォワード型社会であると思われます。このような社会では、遠い将来における目標の設定が重要な課題であり、長期的レベルでの自己の行動規範の表明が必要とされるのです。


一般にシステムを取り巻く環境が分裂し、その状態が複雑で不確定になるほど、フィードフォワード制御が必要になります。


抜粋者:現代ではドイツ風観念論ではなくイギリス風経験論のほうが現実的な方法論


戦後、日本の社会の中から見るべき哲学が創造されていないことは、上に書いたフィードフォワード型の社会と関係しているでしよう。


哲学というものは、創造的なフィードフォワード制御のための法則性の発見という面を持っていなければ、単なる現象の整理の学に終わると思います。


これまで人間はこのボーダーに囲まれて分節化された意味を持つ固い論理の世界から自由になろうと、さまざまな試みをしてきました。その努力は、大乗仏教の空の概念や禅の無の概念ばかりでなく、古代中国の荘子の混沌、新プラトン主義のプロティノスの脱我的存在ヴィジョン、そしてイスラムのイブヌ・ル・アラビーなどに共通して見られる普遍的思想パラダイムを生み出していると井筒俊彦氏(『コスモスとアンチコスモス』岩波書店)は書いておられます。


この点、「事と事とを隔てる枠をとり、また再びその枠をはめる」という華厳哲学の論理(井筒)は、セマンティック・ボーダーを緩めて相対化する考え方として生命関係学の論理と共通するものがあるので私は大きな興味を持っています。



以上

最新の画像もっと見る

コメントを投稿