あなたの…

我々はこの特異でダイナミックな状態(全人的に行為に没入している時に人が感ずる包括的感覚)をフローと呼ぶことにする。フローの状態にある時、行為は行為者の意識的な仲介の必要がないかのように、内的な論理に従って次々に進んでいく。人はそれをある瞬間から次の瞬間への統一的な流れとして経験し、その中で自分の行為を統御しており、更にそこでは自我と環境との間、刺激と反応との間、過去現在未来との間の差はほとんどない。
(M・チクセントミハイ)
前にも言ったように、いろんなことが「自動的」に進むようになると……ある意味でほとんど自我のない状態になって……どういうものか、考えることなしに、また全く何もしないのに……正しくことが運ばれる……とにかくそうなってしまうのです……。それもふだんより気分が集中している、禅が精神の集中であるように、これは瞑想のようなものでしょう。やらねばならないただ一つのことは、心を一点に集めることです。何物かに到達するために精神の焦点を結ばせる能力がたいせつです。
(或るロッククライマー)
結果にではなく、行いの中に動機を置かねばならない。行為への動機が報酬に対する期待に置かれるような人間であってはならない。
(『バガヴァツド・ギータ』)
たった一瞬というが、全き熱中のために、人は瞬間の内に消え去り、永遠という風がその中を吹き抜ける。
(D・ロビンソン)
考えるということは、相違を忘れることと、概括すること、抽象することである。過度に充満したフネスの世界には、細部、ほとんど連続した細部しかなかった。
(J・L・ボルヘス)
断片的なアプローチに対応して必ず断片的反応が返ってくるのは、実在が全体的なものだからである。
(D・ボーム)
心理療法家としては、このような退行現象に耐えていると、その頂点に達したと思われるところ、エネルギーの流れの反転が生じ、それは無意識内の心的内容を意識内へもたらし、そこに新しい創造的な生き方が開示されてくるのを見るのである。
(M・トルガ)
エネルギーの流れがあまり複雑になると、系が吸収できないほどの大きな<ゆらぎ>が生じ、系は有機体化を強いられる。しかし有機体化が行われるとエネルギーの流れはいっそう複雑になり、ゆらぎもますます大きくなる。こうして、不安定性の増大がさらなる有機体化をもたらす。つまり、生物がどんどん新しい構造に生まれ変わっていくのだ。
(プリゴジン)
何がリアルかということについてのわれわれの観念が、リアリティの形成手順においてわれわれの知覚器官の方向付けをするのだ。
(J・ピアス)
「筋」は要らない、人生には「筋」はない……
(阿部昭)
汝の右手をた易く誰にでも差し出すなかれ。
(ピュタゴラス)
よき人のおほせをかぶりて、信ずる他に別の子細なきなり。
(親鸞)
このようにヨーガの本質は、ある何かの対象に精神集中することによって、暴れ馬のように散漫に移り変わっていく心の働き(雑念状態)を制御し、統一して、心のより深い高次元の内面の世界の発動を促進することにあったのである。
(番場一雄)
三昧においては、心が不動となって対象と一つになる。名称や概念、連想などによって汚されていない事物の実在と直接的に結合した状態である。このとき対象は私の意識の対象として現れるのではなくて、意識が対象自体と一つとなり、主体と客体の二元性は消え去り、心は自ら集中している対象そのものに変容してしまうのである。
(S・N・ダスグプタ)
人間が現状のアイデンティティの幅とか、現状の意識のレベルから上昇するにしろ下降するにしろ、違うレベルに移行する場合には、ある種の錯乱状態は不可欠なものであって、逆にいえば、もしかすると、なんらかの錯乱状態がないままで意識レベルやアイデンティティが変わるということはありえない。
(J・ペリー)
だれでも新しく生まれなければ、神の国を見ることはできない。
(ヨハネ福音書)
チベット神秘思想は、瞑想の実習を通して得られる五つの異なった「眼」、或いは段階的認識能力を挙げている。
(E・バーンバウム)
道高ければ即ち魔盛んなリ。
(『天台小止観』)
これまで精神病だとして精神病院に送り込まれてきた人の大半が、本当はいわゆる精神病ではなくて、ただ単に現在の自己像、自己イメージというものを脱皮して、よりひろい自己イメージを獲得するための途中の<ゆらぎの状態>のなかにいるんだということですね。
(吉福伸逸)
肝心なのは、生活を一転させることで、あとのことはどれも大したことじゃない。
(チェーホフ)
彼(滑稽)もまた一身に体現した過剰の境界逸脱性すなわち偏異性を武器に世界の中心に闖入し、日常生活の秩序を攪乱し、通常人の安固な世界感覚を混乱に陥れて無気味な怪訝と新鮮な驚愕によって彼らにもう一つの世界の所在を開示する鏡の創造者にほかならなかった。
(大室幹雄)
バイファーケーションとは、臨界点で物質に新しい状態が現れることです。
(ブリゴジン)
だから、よくトランスパーソナル心理学やゲシュタルト・セラピーでは、よく「症状を高める」といいます。
(吉福伸逸)
ということは行き着くところまで行き着くと、だいたい全部おさまるんです。で、まわりの人は、その「旅」を当人が完了することを支援してあげればいいんです。
(吉福伸逸)
だから詩的言語においては、しばしば文法はずれが試みられる。というのは文法通り線状(リニア)に統合された文章は、どうしても一義的に意味を限定する作用が強いので、それを壊すことによってさまざまの潜在的な統合可能性の海の中へ読者を放り出すわけです。
(市川浩)
人は誰しも、他人の目に映った自分を見つけると、それを受け入れ、それにもとづいて自分を作っていく。他人が考える自分と本来の自分とを混同し、この居もしない架空の存在にたいする周囲の期待に沿って行動するようになるんだ。
(J・C・オネッティ)
日本人が庭を作るのに巧みな理由の一つは、彼らは空間の知覚に視覚ばかりでなく、その他あらゆる感覚を用いることにある。嗅覚、温度の変化、湿度、光、影、色などが協同して身体全体を感覚器官として用いるように促す。ルネッサンスとバロックの画家の単一点遠近法に対して日本の庭は多くの視点から眺められるように設計してある。
(E・T・ホール)
生きることのなかで、たえず新たな結合が生まれ、気づかれない癒合が起こっているような、たえず生成する星雲状複合体ともいうべきものです。
(市川浩)
モノクロニックな時間は、われわれを、われわれ自身から疎外し、広義のコンテクスト(文脈)のなかで物事を見るという機会を与えてはくれない。こうしてモノクロニックな時間は、厚紙を丸めた筒でものを見るのに似て、視野を狭めてしまうのである。
(E・T・ホール)
しかし、プランをたてるなど、いったい人間とは何者なのでしょうか?
(ホフマンスタール)
かかる経験において音楽の調べの特異なる暗在的構造が有する全体的意味は、人をして情緒的反応を起こさしめるという意味において作動的なものである。
(D・ボーム)
生きている真理だけが言葉にならないのである。
(イオネスコ)
ぼくたちが読んでいる本が、ゲンコツで頭をブンなぐるように、ぼくたちの目を醒まさせないのなら、なんでそんな本を読むのか。
(カフカ)
たがいに寄り集まって次の瞬間を構成するであろう全ファクタ-集合体は、総合的状況のなかに巻き込まれて〔暗在化されて〕いる。そして、このような事物の全体的状況が内にはらむ必然性の力をとおしてこれらのファクタ-は「巻き込まれ」ながら(暗在的に)結合されて、新しい事物の状況を産みだすにいたるのである。
(D・ボーム)
タブローの形象のひとつひとつはこうして一連の範列の圧縮であり、形象のひとつひとつが意味を帯びるのは連合の領域からそれが受けとるあの多元的決定によってなのだ。
(M・マラン)
日本人は話の核心には触れないで、そのまわりで話す。日本人は、知性のあるひとなら、問題点を、コンテクスト――彼らは細心の注意を払ってそれを提示している――から把握できるはずだと考える。
(E・T・ホール)
日本の不動明王などの恐れる仏は、その怒りが内面化されている。情緒をあからさまに外に露出することを控える。
(松永有慶)
というのも、諸君が現実と呼んでいるものは、実は現実ではないからである。
(クルト・ピントゥス)
詩人はあらゆる物の傍観者である。いな、彼はその隠れた同志であり、無口な兄弟なのである。
(ホフマンスタール)
けれども礼拝式で経典を読誦するということは、やはり次のような観念を伴っている。つまり一同のおごそかな読経によって、経典の精神的意味内容を生動させ、そのはたらきを発動させようというのである。
(E・ベンツ)
絶対無限は決して論理的に証明されるものにあらざるなり。
(清沢満之)
具象物こそ、玄妙なるものの抽象形なり
(D・ボーム)
言語にもとづかず、たとえばイコンだの音符だのといった、言語以外の伝達力にもとづく叡智的感覚的実在のありかたもある。沈黙に根ざす精神活動もある。この活動を<口で語る>ことは困難だ。沈黙のすがたと活力を、どうして弁舌などが正確に伝えることができよう。
(G・スタイナー)
甘えがあるだけだ。なんでもかんでも説明しようとして、自分に甘えとるのさ。お前の場合、説明なぞ金輪際不必要だ。
(カスタネダ)
生きる技術とは、あらゆる瞬間に敏感になりきることだ。その瞬間をまったく新しい唯一のものとしてとらえ、心を開き、完全に受容的になるのである。
(A・ワッツ)
そして現前する万象だけが読むべき唯一の書物となる。
(トゥルンパ)
西洋式の学問の伝統ではノートを取るということが重要な役割を果たしている。そして、その人の知識のほとんどが教科書の両扉の間に閉じ込められてしまう。私たちの場合、その知識の蓄えは暗記を通じて私たちの心に入りこんでいる。
(ゲシェー・ラプテン)
海のものおと。海と空とを隔てる曲線。葉陰をゆく風。鳥の鳴き声。こういったすべてがわれわれのうちに多様な印象をもたらす。そして突然、こちらの思いとはおおよそなんのかかわりもなしに、それらの記憶のひとつひとつがわれわれの外にひろがり、音楽として表現されるのです。それは己のうちに自らの和音を秘めています。
(ドビュッシー)
答は簡単さ。逃げないことだ。恐怖なぞものともせずに次のステップへ進むんだ。それからつぎ、つぎへとな。きっと恐怖でいっぱいになるにちがいない。だが止まってはいかんのだ。これがルールだ!
(カスタネダ)
死が狩人である世界ではだな、おい、後悔したり疑ったりするひまなぞないんだよ。あるのは決心する時間だけだ。
(カスタネダ)
これらの要素は一つ一つ別なものではなく、一つの態度であり、一つの経験の側面であるため、切り離しがたい点も多々あることを断っておく。したがって、一つ一つの要素を見るとき、重複する点も多くなることは避けられない。
(田辺菫)
西洋近代の自我は神の座を乗っ取りつつ、一神教のパタ-ンを継承しているので、彼らは自我のシステム内に矛盾の存在を許容できない。西洋近代の自我はその統合性の維持のため、それと共存できぬものをシステム外に追い出すより仕方がなかった。
(河合隼雄)
わしの言っている変化は、少しずつ起こるなんてことは絶対にない。突然起こるんだ。おまえにはまだ、ガラッとひっくりかえる変化の準備ができておらん。
(カスタネダ)
しかし、これらの一方を賞賛するためには、もう一方をけなすことが本当に必要なのであろうか。一方がもう一つとは全然違うとしても、それぞれがそれなりに偉大で賞賛すべきあると認めることができないのであろうか。……世界は広く、その中では多くのものが相並んで共存できる。
(F・シュレーゲル)
そのあるものは、修練の方法として直ちに没我状態に入るよりも、むしろ心知の観察、やたらにかけめぐる放浪癖のある思考習慣の消耗を避ける訓練として心知を沈黙状態に入るや、その放浪癖から一切の是認、目的、関係が後退するのを感取し、一切の外向的思惟が除去される強力、迅速、有効なかのものを感じ、心の絶対静寂のなかで心がただ純粋清浄な「存在」だけを写し、あるいは超意識的存在のなかへ移入する。
(シュリ・オーロビンド)
だが、王の麗しい御姿を見るに値しない者は、門のところで天使たちによって意識を狂わせられた。
(ヘハロース・テキスト ミュンヘン手稿本)
散逸システムを通して流れるエネルギーや物質にゆらぎが生じても、そのゆらぎが特定の限界内にとどまる限り内部組織は維持される。そのシステムは些細な物理的傷害で苦しむこともあるが、自己組織化する性質を通して自らを「癒す」。けれども、ゆらぎが特定の限界以上に大きくなると、システムは安定性を失う。
(P・ラッセル)
人は自らを閉ざしてしまったため、自分の洞窟の狭い隙間を通してすべてのものを見てしまう。
(W・ブレイク)
老荘的対話にあっては、話者のしばしばしたたかに攻撃的である高燥な心情は自在なフモールとなって諧謔的言説を投げつけ、対する聴者はいまだ完璧に老荘的人間に成熟していないために、浴びせかけられる言説にたじろいで、狼狽、驚愕、不安、怪訝、不快あるいは不気味さ等々といったすこぶる負性の印象によって対応するしかないのであった。
(大室幹雄)
というのは医学は患者に現れたある一つの徴候から病気を診断しなければならないからである。この一つの徴候から全体を見きわめようとする医学的な考え方は、対象を量的にとらえ分析しようとする近代科学の方法(ガリレオの方法)に対立すると著者(C・ギンスブルグ)は考える。彼はこうした考え方の起源を、原始時代、狩人が足跡を見て獲物のことを推定し追いかけた能力に見ている。
(竹山博英)
求仏求法、即是造地獄業。求菩薩、亦造業、看経看教、亦是造業。
(臨済義玄)
精神は徹頭徹尾、能動的な活動の主体であるべきで、ものごとに受身になるのは恥辱である、というのが近代的自我の主張であった。それが大きく変わって、現代の自我はより謙虚になり、自分自身の内部にも外界にも、自分の力で支配しきれないものがある、という現実を認めつつある。
(山崎正和)
マハーマティよ、言語は究極の真理ではない。言語によって獲得できるのは、究極の真理ではないのだ。なぜか? 話すことによって、人は真理に入ることができるが、言語自体は真理ではない。真理とは、非二元的洞察を介した知恵によって、内的に体験される自己実現であり、言葉、二元性、ならびに知性の領域には属さない……。世界は心以外の何ものでもない……すべてが心なのである。
(「楞伽経」)
われわれが提案しようとしているのは証明すべき議論ではなく、直接的に体験されるべきリアリティであること。
(K・ウィルバー)
われわれはこれまでに聞き方を学んだことのないものは聞かないのです。
(J・ラカン)
礼儀には礼儀を返すほかない。かくして再び偽装のはじまり。
(R・クレヴェル)
言葉は類推系統図とでもいうもの、すなわち、そういった言葉が読者の心の内部に拡げてゆく、概念の連合にかかわる系統図をもっているのです。
(F・ポンジュ)
ポリクロニックな民族は互いの問題に非常に深くかかわり合っているので、常に接触を保ちつづけていなければ不安を感じる。したがって、どんなに脈略のない情報の断片も集められ、記憶される。お互いについての彼らの知識はまさに驚くべきものがある。ひとが互いにかかわり合うことこそ、彼らの存在の核心にほかならない。
(T・E・ホール)
一つの思考なり情緒なりが、線的に展開するのではなく、いくつかの思考が同時に展開するわけである。
(秋山澄夫)
欧米の世界は、時間について継続的・線型的なイメージに親しんできた。……それは過去を非合理の墓として死に追いやり、未来を完全性への約束として賞賛した。
(フェンテス)
概念というのは線である。
(G・ドウルーズ、F・ガタリ)
日本の庭園を構造化する論理は、部分の接続のしかたという点を措いて他に求められないのではないか。隣接しあう他の部分と補完し合い、また逆に妨害しあう相互の関係はどのようであるか、景物のとり合わせ、トポスの連鎖、空間の連辞はどうなっているか、これらの点をこそ探求すべきではないだろうか。
(持田公子)
今、文献を読んでいて、僕は馬鹿になりそうだ。文献を読むというのは、ものを書く者に課せられる恐るべき難行苦行です。その過程で、僕自身のものはすべて枯渇してしまいます。僕がもっている新しい考えを思い出させなくなることがしばしばあります。それでも、それはまったく新しい。現在、僕に見えている限りでは、読まねばならない文献は無限に広がっています。
(フロイド)
読むことによって、書物それ自体を作るのは読者でしかない。彼にはある行為が要請されることになる。
(F・ポンジュ)
どこで言葉が見つかるだろうか、どこで言葉が鳴り響くだろうか? ここではない、それだけの沈黙がない。
(T・S・エリオット)
世界は観念である。
(ヴァスヴァンドウ)
キリスト教が到達したものとか、ルネッサンスがなし遂げたものなどはさほど重要な事件ではありません。なぜかといえば、それらはまだ、ギリシャに端を発する幾何学や修辞学の内部(つまり西欧文明の内部)におかれていたからです。われわれは、はるかに深刻な激動のときを生きているのです。
(F・ポンジュ)
アイデンティティ、すなわち同一性とはどういうことなのか。同一性、それは不変ということであろう。だが私は日頃身に沁みて感ずるのだが、如何なる現実も不変ではありえない。すべては変わるのだ。この流動変化の現実にどうして固定的な名辞をつけることが出来るのだろう。アイデンティティ、それは動的な現実に応ずるに余りに静的な概念である。
(M・デ・プラダ)
何も考えるな、ただ事実につけ。
(W・C・ウィリアムズ)
条件づけられたできあいの概念に寄りかかる態度を棄てること。自分が今受けている衝撃やそのつど浮かび上がる思考をすなおに受け入れる寛容性。自分自身の心を知覚するのに欠かせないおだやかさ。意識の中でたえまなく生起する「プロセス」や何の加工も加えられていない生の心的内容をやさしく受け入れることのできる思いやり。「放棄」をとおして、「自分の頭のなかで起っていること」を見抜いていく能力が、身についてくる、これはたしかなことだ。
(A・ギンスバーク)
人が、内的に外的に、絶えず何かを経験する、その一つ一つの印象が、無意識的に心を染めていく、丁度、香のかおりが、知らず知らず、衣に薫きこめられていくように。人間の経験の一片一片は、必ず心の奥に意味の匂いを残さないではいない。意識深層に薫きこめられた匂いは、「意味可能体」を生む。その一つ一つを「種子」と呼ぶのだ。こうして生まれた「種子」は、潜在的意味の形で言語アラヤ識のなかに貯えられ、条件がととのえば、顕在的意味形象となって意識表層に浮かび上がってくる。そして、この経験そのものが、またアラヤ識を「薫重」して、新しい「種子」を生む。
(井筒俊彦)
真の交合は至上のシャクティ(クンダリニー)と自我のアートマンとの結合であり、そういった結合でなければ、それはただ女性の奴隷にすぎぬ。
『ワラールナヴァ・タントラ』
神秘学へ深く参入すればする程、人はますます謙虚になる、そして特定の認識内容を受けとるためには、極くゆっくりと自分をそれにふさわしく成熟させていくしかないことを認めるようになる。そして人間の誇りとか傲慢とかは、結局、特定の認識段階に達してしまったら、もはや何の意味ももたなくなる。
(R・シュタイナー)