
みくさんから、「ウソのはなしなんです」と聞いていたけれど、その本を手にし、読んで見ると、それはウソのお話しではなく、壮大な創造力あふれる空想のお話しでした。
文章の折々に描かれる作家の繊細な描写には、うまいなぁ−、そうだよなぁーと思い、その文章をちゃんと理解して絵に表現した画家さんも、素晴らしいと思った。
作家が描きたかった意図を、、深くしっかりと汲み取っていることが、よくわかる。
そして、全ページの絵が、カラー!!
これにも、びっくり。
くもんの担当編集者さん、頑張ったんだね−! えらい!!
特に、児童書は、作家、画家、編集者が、がっちりと三位一体になれたとき、良い本が、傑作が、生まれるのだと、私は思っている。
と、なにやらかにやら思いながら、最後まで読み終わったときに、自分の幼かった時のこと、おおよそ今や忘却の彼方だった出来事がふつふつと、脳裡にわき出るが如くに浮かんで来た。
私が幼かった時、きみひろくん以上に相当の嘘つきで、とにかく空想のなかにいた。
子ども時分、よく父に叱られた。
「ぼーっとしているな!」と。
私は、ごはんを食べている最中でも、窓の外の風景をみているうちに空想の世界へ行ってしまい、ご飯茶碗を手にしたまま、まるで静止画像のようなっていた。
その静止画像の阿保面が、よっぽど父には腹立たしかったようで「おまえは、ご飯茶碗にネズミのフンが入っていても気がつかないで食べてしまうような子だ」とよく叱られた。
そんなに叱られても、私の空想癖は直らなかった。
机に向かうと絵を描いていた。
私は、そんな空想を文字で描くのではなく、頭に浮かぶストーリーをなぜか絵で描いていた。
ああ、そうだ、私は絵を描くのが好きだった…ということを思い出した。
今、描いたらどんな絵になるんだなろうと、鉛筆を持ってメモ用紙に、何十年ぶりかに描いてみた。
それが、この絵。

当時流行ったマンガの絵のような感じで、ほぼ昔のまんまなことに、少々、おどろく。
字癖は結構、変化するのに、絵の傾向は年月が経ってもそんなに変わらないものらしい。
絵を描くのが好きだったということも、すっかり忘れいた。
描いた絵を見て、ああ、そうそう、と更に思いだしたことがある。
息子が、小学生の低学年の頃、私が『グリム童話』を読むと、息子はなぜかその物語を絵に描いてと言った。
それで、ラプンツゥエルとか、スケッチブックに描いていたものだった。
だから、絵を描くのは25年ぶりぐらいのことになる。
幼かった息子に、「描いて」と言われなくなって以来である。
それにしても不思議だ。(と、今ごろ、気付いた。)
私が子どもの時分、物語を絵で表現し、
息子もまた、耳に聞く物語を、絵に描いて、と言ったこと。
みくさんの『きみひろくん』は、そんなこんな、いろんな、ことを、たくさん、思い出させてくれた。
小さな読者に共感されること、勿論だけど、私のように、年をとって、いろんなことが脳のひだの奥に追いやられてしまったような大人にとっても、あんなことが、あったと……そう、枯れかかった植木鉢に、ジョウロの水をいっぱいかけてもらった、そんな感じがした本でした。
良い本というのは、作家が描いた文章のどこそかが良いということを挙げることが、例えば書評などではそうあるべきだと思うが、実はその本を読んで、読んだ人の心の中に、どれほどもの世界を甦らせることができるのか、或いは、喚起させられる力があるのか、ではないだろうか。
いわば、それが、「共感」という事なのではないか。
……これは、しみじみと心にしみ入る良い本です。
つくづく、そう思いました。
大人たちは、『きみひろくん』を読んで、己の幼かった頃をきっと彷彿とするにちがいない。
きみひろくんと、ともきくんと。
どちらかじゃなくて自分のなかにある、どちらも!
そうすると、いかに阿保で傲慢で思いやりも忘れ、世間への忖度専門の大人になってしまっているか、気付くかも知れない。