大学病院へ転送・・・余りのシビアさに・・立てなくなった私(T_T)

2005年03月26日 00時14分51秒 | 花影
一睡もしないで夜を明かした私達親子の前に眠そうな
顔をして現れた先生は、主人の様子を見て「救急車呼
びますから」と言うと行ってしまった。

朝早く、集まった親戚や会社の人たちは、どうなるのか
心配できているようでした。お葬式に成るかも知れない
と親戚の人たちは、喪服を持ってきていたのが荷物の
大きさで察する事が出来ました。

早朝の環状7号をサイレンを鳴らして走る救急車の中には私と娘が乗りました。
救急隊員の方達はただ泣いているだけの私に優しく声を掛けてくださいまし
たが、流れる涙は止めることが出来ませんでしたこれから先の事とセンター
ラインを猛スピードで走る怖さにどうすることも出来なかったのです。

こうして朝早く主人は三鷹の杏林大学に転送されたのです。会社の人たちが、
救急車と同時位に病院に着いて下さいました。

着くより早くCTの検査を受けました。この間まで、CTの開発に携わっていた
身がこんなに早く自分がお世話になるとは、本当に人生は一寸先は闇とは
良く言ったものです。

検査の結果は、最悪のものでした。「カンハレンスルーム」での説明を聞いている内に
私は自分を失っていくような気がしてきました。こうゆう立場の時の先生方の冷静さは
異常なまでに「患者の家族」を無視して話が出来るのだと思いました。
「良く持って3日です。即死でないのが奇跡でした」私はこの言葉を生涯忘れないと
おもいます。

お話を聞いて立ち上がろうとしても、立てないのです。腰が抜けたとはこういう事を言う
のでしょう。親戚の人に、両脇を抱えられて部屋を出たことを覚えています。夏の暑さは、感じませんでした。

こうして私と主人のこの病院での生活が始まったのです。
色々有ったことをこれから書き続けていきたいと思っております。。つづく

「夏の日の出来事つづる時が来て我の月日の長さを知りぬ」