「にいたかやまのぼれ」「トラトラトラ」の無電で始まった
この戦争が、終わりを告げて今日で60年の月日が
経ちました。
私が書きました「私の戦争体験記」は、私の6歳の
終わり頃から10歳前後の記憶の綴りです。
所々話が前後しているかもしれませんがサイトの
方達に助けられて書き終えることが出来ましたことを御礼申し上げます。
書き始めましたら記憶が鮮明に甦ってきたことは、如何にこの戦争が「個」を犠牲に
しての無意味な戦いで有ったかを物語っていると思います。
戦中にも増して戦後の生活の大変さを語る大切さを感じました。
食糧難を初めとして、生活用品の不足による生活の不便さは、言葉では語り尽く
せない物があります。
育ち盛りの子供のために、ヤット焼け残った衣類と交換したお米が「取り締まり警察」
の手によって没収されていたのです。
同じ日本人で在りながら見逃すことが出来ない、この人達も同じ飢えに苦しむ家族を
抱えていたのでしょうに。
人は立場が逆転した時に蛇にも邪にもなれるのですね・・伝染病を始め肺結核で
一家全滅の家も出るほどでした。
ツベルクリンの接種とBCGの接種が学校では行われました。
ララ物資による名ばかりの給食も始まり、日向臭い粉ミルクを貪る様に飲んだもの
です。
復員してくる兵隊さんも日毎に増え、悲喜こもごもの家族が増えていったのです。
無事に帰ってきた家と、白木の箱だけの帰還の家の差は、生活苦に結びつくからです。
夫の留守を幼子を抱え戦火の中を生き抜いてきた母親達も疲れ切っていたと思います。
続いて起きた銀行の閉鎖・新円切り替えと経済的にも追い込まれていったのでした。
自分の蓄えすら自由に成らないこれが戦争に負けると言う事なのです。
私が良く覚えていますのは、お札に小さな印紙を貼って使っていたときに、その印紙
が剥がれて10円(今では一万円位の価値があると思います)のお金を使うことが
出来ずに母に怒られたからです。
両親が嫁入りの資金として買って置いてくれた国債は紙くずになりました。
何もかもが,無くなってしまった大人達はお酒の変わりに安く手に入るメチールアル
コールを飲んで憂さを晴らしその犠牲として、失明した人が沢山居ました。
こんな生活状態の中から良く立ち直った物だと思います。
何でも手作りで鉄兜は鍋に・焼け跡から拾ってきたトタンは塵取りに・兵隊さんの毛布は・外套に、何でも工夫してリサイクルしないと生きられませんでした。
それでも、隠れた闇物資が沢山あったようです、船が無く外地に送ることが出来な
かった、物資が何処からか流れ出してきて、その恩恵に預かって生活している人
達もいたようです。
子供達は,進駐軍の帽子に憧れ一番速く同化していったのは子供達かも知れません。
戦火を逃れ、親を失い・凡てを失っても受け継がれた命は逞しく次の時代を築いて
いったのでした。
******************************************************************
戦後60年の今日・・この戦争で尊い命を落とされた方々のご冥福を心よりお祈り致します(合掌)
この戦争が、終わりを告げて今日で60年の月日が
経ちました。
私が書きました「私の戦争体験記」は、私の6歳の
終わり頃から10歳前後の記憶の綴りです。
所々話が前後しているかもしれませんがサイトの
方達に助けられて書き終えることが出来ましたことを御礼申し上げます。
書き始めましたら記憶が鮮明に甦ってきたことは、如何にこの戦争が「個」を犠牲に
しての無意味な戦いで有ったかを物語っていると思います。
戦中にも増して戦後の生活の大変さを語る大切さを感じました。
食糧難を初めとして、生活用品の不足による生活の不便さは、言葉では語り尽く
せない物があります。
育ち盛りの子供のために、ヤット焼け残った衣類と交換したお米が「取り締まり警察」
の手によって没収されていたのです。
同じ日本人で在りながら見逃すことが出来ない、この人達も同じ飢えに苦しむ家族を
抱えていたのでしょうに。
人は立場が逆転した時に蛇にも邪にもなれるのですね・・伝染病を始め肺結核で
一家全滅の家も出るほどでした。
ツベルクリンの接種とBCGの接種が学校では行われました。
ララ物資による名ばかりの給食も始まり、日向臭い粉ミルクを貪る様に飲んだもの
です。
復員してくる兵隊さんも日毎に増え、悲喜こもごもの家族が増えていったのです。
無事に帰ってきた家と、白木の箱だけの帰還の家の差は、生活苦に結びつくからです。
夫の留守を幼子を抱え戦火の中を生き抜いてきた母親達も疲れ切っていたと思います。
続いて起きた銀行の閉鎖・新円切り替えと経済的にも追い込まれていったのでした。
自分の蓄えすら自由に成らないこれが戦争に負けると言う事なのです。
私が良く覚えていますのは、お札に小さな印紙を貼って使っていたときに、その印紙
が剥がれて10円(今では一万円位の価値があると思います)のお金を使うことが
出来ずに母に怒られたからです。
両親が嫁入りの資金として買って置いてくれた国債は紙くずになりました。
何もかもが,無くなってしまった大人達はお酒の変わりに安く手に入るメチールアル
コールを飲んで憂さを晴らしその犠牲として、失明した人が沢山居ました。
こんな生活状態の中から良く立ち直った物だと思います。
何でも手作りで鉄兜は鍋に・焼け跡から拾ってきたトタンは塵取りに・兵隊さんの毛布は・外套に、何でも工夫してリサイクルしないと生きられませんでした。
それでも、隠れた闇物資が沢山あったようです、船が無く外地に送ることが出来な
かった、物資が何処からか流れ出してきて、その恩恵に預かって生活している人
達もいたようです。
子供達は,進駐軍の帽子に憧れ一番速く同化していったのは子供達かも知れません。
戦火を逃れ、親を失い・凡てを失っても受け継がれた命は逞しく次の時代を築いて
いったのでした。
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戦後60年の今日・・この戦争で尊い命を落とされた方々のご冥福を心よりお祈り致します(合掌)