(コメント欄で予告済みですが、太字の箇所、書き直してます。)
お仲間ブログの幸福の科学高知 なかまのぶろぐのブログ布教所編集部の、ばくちゃん編集長さん(以下、ばくちゃん)が、
「我は何ゆえに幸福の科学信徒となりしか」という記事を書かれました。
「キューバ危機」以来の〝一発触発のヤバい時期”にコレを書かれた、ばくちゃんの「意気」に感じ入っております。
心からの敬意を表し、紹介させて頂きます。
この記事では、若き日のばくちゃんが戦争の原因が宗教にあると知って、もう然と聖書を読み始めたのをキッカケに、病院勤務という職業上の必要(若くして亡くなった叔父さんの存在が大きかったようですが…)もあって、宗教書を読み漁り「幸福の科学」に出会うまでの〝心のいきさつ”をさらっと書いておられますが、「求めよ、さらば与えられん!」を実地で証明されてきたような、熱い!熱い!真っ直ぐな!人生を送って来られた方だということが、よくわかります。
神に愛され、大きな夢を叶える人というのは、こういうタイプなのだと思います。
信者の中にはばくちゃんのように、自分をしっかり持っていて、自分が納得しない限り、そうカンタンに人の話をうのみにしない、疑い深い(笑)、理性的タイプの方も多いのです。(かくいう私も、以前は「信じる宗教を持っているは幸せだろうな~。私は無理だけど。」と思っていました。しかし、「幸福の科学」の書籍に出会って、「自分が求めていたものが、何であったか」を初めて知ることになりました。)
恥ずかしながらmegamiyamaの場合、思春期に入った頃、「もしかして、私が見ている世界は私しか見ていない?しかも、私の見方が変われば、モノゴトの善し悪しも、美醜も、価値感も、コロッと変わってしまう!”私”って何?私が居なければ〝何も無い!?”みたいやん。」と、〝私という存在”〝私の考え”の「不思議」と「当てにならなさ」にハタと気づいてしまい、自分が知らない不思議な世界や、自分が考えもつかないことを考える人や見たこともない世界について、知りたい!見てみたい!という願望に突き動かされて今がある気もしています。(と言っても、本を読んだり、観たり、聞いたり…が関の山ですが)
それに引き替え、ばくちゃんは若くして「世界から(宗教)戦争をなくすためにどうすればよいか?」等という、個人のスケールを遥かに超えた、しかし〝全人類が直面している最大の課題”に無謀にも単独で取り組むナンテことを始める、稀有な若者だったようです。
凡人と偉人の違いが「志の高さ」にあるなら、「戦争をなくすにはどうすればよいか?」ということを真剣に考えはじめた時点で、すでに偉人であります。
こういう人の話は、誰もバカに出来ません。
人間、何かしら求めて生きていますので、求めていたモノを見つけた人の話を聞くのは、(よっぽどのひねくれ者」でない限り…)嫌いじゃないはずです。
肝心なのは、ばくちゃんという「どうしたら、この世から戦争をなくせるか?」を本気で考える人間が出現したからこそ、その「答え」がばくちゃんに与えられた! ということ。その答えが「幸福の科学にあった」ということ。
「求めよ、さらば与えられん!」なのデス。
神は「沈黙」していないし、ましてや、死んでなどいない!のです。(ニーチェは能梅毒で死にましたが…)
そして、求めているものは個人個人皆、違うように見えるので皆バラバラに生きているようにみえますが…、誰だって本当は死にたくないし、ましてや殺されるなんてまっぴら御免!人が人を殺し合う戦争など望む人は誰も居ませんし、ましてや「人類滅亡」など誰も望んだりしません。そして、自分だけ助かれば(救われれば)」良いと思うのは、人間として最低だということ位皆知っています。
つまり「人間である限り、求めるものは、そう大して違わないのだ!」と考えることが、「平和・共存」の為の一番早道なのではないでしょうか?
…と書いて、自分の考えがばくちゃんより大分雑!なのに、やっと気づきました。(笑)
「どう考えるべきか?」というのは、よく考えれば誰でも考え付くのですが、「何故人は考えるのか?」という問いには、答えに窮するように、「どう生きるべきか」にはそれぞれの〝良い答え”があっても、「何故生きるのか?」「人間はどこから来て何処へ行くのか?」という問いは、「永遠の問い」として人類の前にあったはずでした。
そこで開き直って、確か、ソクラテスさんでも「重要なのは何を問うかだ!」みたいなコトをおっしゃっていたような…
確かにばくちゃんが云うように、「人は何故、生きるか?」(「何故考えるか?」「どこから来て何処へ行くのか?」)という問いに一言で答えた人は、古今東西の賢人や哲学者や宗教家を見渡しても、「未だかつていなかった!」のだと改めて思います。
ホント、それだけで十分!誰よりも偉大であることが証明されてしまっていたのでした。
人間の根源的、永遠の謎に「それは、こうだ!」という答えが初めて与えられた、稀有な時代!に今生きているのだということなのでした。
人間は実は、不思議が大好き!だから「カンタンにワカリタクナイ」というへそ曲がりな処もあって、「本当にワカル」まではカンタンに人の言葉など信じてたまるか!」という気持を誰しも持っているので、探し求めやっと「答え」にたどり着いた!という喜びを味わうために、人類はわざわざ延々と遠回りをしてきた…のかも知れませんね。
人類の師であるお釈迦様やイエス・キリストの時代を遥かに越える時代がやってきたという印!です。
「こうだ!」とは決して言わず、「ソレは違う」「アレは違う」としたり顔で云う学者や言論人の言葉こそ、疑った方が良いでしょう。(ましてや「神仏(或いは「天皇」)を敵視し、亡き者にしたい無神論共産主義者達のいう事など、真に受けては絶対ダメ!)
「世界平和」「人類の進歩と調和」(コレ「大阪万博」のキャッチフレーズ。サイコ―!)…求めるべき理想や普遍的価値をやっと、共有出来る時代になったのではないでしょうか?
日本人一人一人が「自分が本当に求めてきたものは、何だったのか?」を振り返ってみるべき時が、来たようですね。
国家や歴史をないがしろにして、国が亡びずに済むわけがありません。
国が滅びて、国民だけが生き延るハズもありません。
「国家」があることの有難さや「日本という国が世界にあることの意味」 について、日本人が〝思いを致す”時期にきたようです。(日本人は「日本人としての基本的人権(アイデンティ?)」を取り戻してみせましょう!)
(以下は、「弥栄の会ブログ」の「常識とストレス」という記事(http://earth.kurasu.biz/index.php?QBlog-20170315-1)にコメントさせてもらった時の文の一部ですが)
『マイケル・エルナーという米国のエッセイストが言ってます。
「見るといい。何もかも逆さまだ。医師は健康を破壊し、弁護士は正義を破壊し、大学は知識を破壊し、政府は自由を破壊し、主要メディアは情報を破壊し、宗教は精神性を破壊しているばかりだ」
(→http://indeep.jp/psychopaths-running-this-world-and-what.../「サイコパスとその理念が世界を動かしている「悪意の時代」の中で 」より)
上の言葉(宗教は精神性を破壊しているばかりだ。)につけ加えるならば、
「そして人々は、医師も、弁護士も、大学も、政府も、ついには神までも、信じられなくなった。」』
エライ時代になってしまいました。
だけど、大丈夫!
「求めよ、さらば与えられん!」
という言葉が「真理」であることを皆で証明すればいいのだ!(笑)
ばくちゃんに倣って、夢に向かって、真っ直ぐに生きたいものです。
日本が日本で無くなるのであれば、今日本に生まれ日本人として生きている私達は皆「日本国民失格!」になってしまいますので、心して「政治」に目を向けたいものです!
それにしても、満開の桜を見ていると、日本に生まれてきた甲斐があった!と思えますので、桜を愛でる日本人が居る限り、何があっても大丈夫な気もしてきます。(甘いか…!?)
http://blog.goo.ne.jp/rokochifukyosho/e/46d7b330269b44818da7cdb3c211414c
我は何ゆえに幸福の科学信徒となりしか
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私の職業は、看護師です。
私は十代後半には、神とか死後の世界は、なんとなく信じておりましたが、若い頃の私は、「努力以上に幸せになろうと思うのは欲だ」と思っていた節があって、宗教そのものには冷えた感情を抱いておりました。
ただ、現代における世界の戦争が、宗教が要因ということを20歳のころ知って、「戦争をなくしていくためには、宗教問題の解決が不可欠だ」と、病院に務めながら看護学校に通いつつ、「とりあえず聖書を読まないと、世界のことは分からない」と、猛然と聖書を読み始めたことを、今でも鮮明に覚えています。
そして看護師として、プロとして、人様の命に触れる職業でありました。
看護師という職業柄、命というものに、真摯にならざるを得なかったのですね。
とは申しましても現実的には、どっぷりと人様の生き死にに関わりすぎておりまして、悲しいかな、20代前半においての僕は、人様の死ということに、すでに不感症の域にまで達していたところがあります。(苦笑)
ただ、23歳の時に、初めて肉親を病気で亡くすという経験をいたしまして、「これではいけない。」「今のままでは、看護師として恥ずかしい。」と、初めて死生観を持つ必要性を感じた次第です。
その時に亡くなったのが、当時45歳だった、若い叔父であったことも、当時の若い僕に、少なからずショックを与えたものと推測いたします。
それまでのある意味での表面的な、宗教学的なアプローチから、本質的な宗教的関心、菩提心を持つことができたのは、大好きだった叔父の、若すぎる死がきっかけだったのです。
命を賭して、私の眠れる菩提心を目覚めさせてくださった叔父には、今も感謝しております。
そして、「命とは何ぞや」というテーマでの、また新たな試みが始まったのですけど、ここで私は驚愕してしまいました。
なぜならば、「なぜ、生きるのか。」という根本的な問いかけに、どの書籍を読んでも、答えにたどり着けなかったからです。
「どう生きたら良いのか?」という書物は、無限にありました。
それはそれで、とても参考になりました。
しかし肝心要の、「なぜ生きているのか」という問いかけには、どこのどなた様も、答えてはいないのです。
幸福の科学的に言えば、【人生の目的と使命】ですね。
この答えは、巷には、どこにも見当たらないのです。
あったかも知れませんが、当時の私には見つけることは出来ませんでした。
丹波哲郎さんなどの、霊界についての本も読み漁りました。
人間が霊であり、転生輪廻をして、修業していることも理解できました。
では、なぜ修行しているんですか?
これがわからないんですよ。
いつまでたっても、「なぜ?」には、誰も答えてくれないんです。
しかし、これまたあっさりと(笑)、大川隆法総裁先生は、お答え下さっているのですね。
そうです。
人生の目的は、【魂修行】であって、
人生の使命は、【地上のユートピアの建設】ですね。
そして最終的には、元なる仏と一体になることですね。
魂の里帰り運動が、永遠の人生なんですよね。
そしてその過程における経験と、有した個性を、神仏は、こよなく愛していらっしゃるんですね。
ですから、人生の目的と使命を提示するだけで、本当は凄いことなんです。
世の中に、それを提示できる人は、他にはいませんから。
もう本当は、これだけで良いんです。
しかし、その問いに答えるだけでなく、それを実証する形で、大川隆法総裁先生は御努力なさっているんですね。
圧倒的な書籍群を、ご自身で発行することによって。
ですから、世の中には幸福の科学を悪く言う勢力もありますけれども、であるならば、人生の目的と使命を語っていただきたいものです。
またできれば、世界から宗教戦争をなくしていく方法論や、その背景にある、地球的正義を提示していただきたいのです。
ですから、つまらぬマスコミなどの、揚げ足取りチックな批判など、本当はどうでも良いと思うのです。
「ああ、この世的な些細なことで、本当にお暇なんですねぇ。」(笑)
「その程度で、本当に批判になっていると、まさか思っていないでしょうねぇ?」
と、私は思っています。
なぜなら、幸福の科学は、世界で唯一、人生の目的と使命を、確固たる理論的・実証的確証を持って提示できる、人類史上においても稀有なる団体であるからなんです。
ですから、本気で幸福の科学を批判しようと思うならば、「人生の目的と使命が、魂修行とユートピア建設ではない」ということを、証明しないといけないんです。
それ以外なら、些細なことですし、時間の無駄だと思うのですよ。
たとえばある人が、心臓がときどき不整脈とかで、その方にとって理想的でない動きをしたからと言って、「こんな心臓なんていらない。」などと言い出したらどうしますか?
「あなた、死にますけれども。」という他はありませんよね。(大笑)
世界の宗教問題解決のための幸福の科学という概念もオリジナリティがありますが、「人生の目的と使命を提示する宗教」ということでも、同じことが言えるんです。
幸福の科学不要論は、「人生に目的も使命もない」と、同じ理屈なわけです。
なぜならば幸福の科学は、人生の目的と使命を唯一掲げ、それを証明しようとしているからです。
そして世界で唯一というのは、現代に限ったことではありません。
過去にも、仏陀やイエス・キリストは提示していたかも知れませんが、残念ながら記録に残っていません。
この、人生の目的と使命を、堂々と提示し続けられるお方、幸福の科学大川隆法総裁こそ、まさしく人類の師(仏陀)であるのです。
誰も、【人生の目的と使命】という、人間にとっての根源的なテーマは、語ることは出来ていないからです。
だから私は、幸福の科学信徒になりましたし、今後も信徒であり続けさせていただきたいと、心から願う次第です。
2008年御法話抜粋集 その1
「お花見どころじゃない!」等と書きましたが、このところ連日雨の中「お花見会」に出かけてマス。(昨日の夙川は完璧満開!デシタ。やはり、満開の桜をみると雨でも何でも、うれしくなりますね~!)
というわけで、いつもスミマセン!今朝になって大幅に書き直しましたので、前の記事は無かったことになりました(笑) 2017.4.9
読み返すと必ず、書き直さないとイケナイ箇所が…、悪い癖デス。
一旦、発信してしまった記事を書き直しても手遅れなのでしょうが…、万が一、コレを読んでくださった方に感謝します! 2017.4.10
>結局、人間が求めているのは、「より良い人生」なのではないでしょうか?そのためにどうしても必要なのが「平和」であり「自由」であり…
訂正後
>結局、人間が求めているのは「真・善・美」
2、訂正前
>つまり「人間が考えることなど、そう大して違わないのだ!」
訂正後
>つまり「人間が求める
3、訂正前
>ばくちゃんのように、夢に向かって、
訂正後
>ばくちゃんに倣って
4、訂正前
>megamiyamaの夢は、「日本に生まれた、この人生に成功すること」と云えますが、誰しも「成功したい!」のは同じではないでしょうか?
訂正後
>思春期に「自分が見ている世界は、自分の見方次第で変わってしまう」ということに気づいた女子中学生の夢は、「見る人」になることでしたが、イロイロ見てきてすっかりおばあさんになった今、「見ているだけじゃつまらないので、自分が見つけた良い景色、良い人、良い仕事、良い考え、ささやかながらワカッタこと…などを他の人にも伝えて他の人と共感したい一心!になってきました~(ブログをやり始めて、自分の考えを簡潔にわかりやすく言葉にする修行が始まってしまいました