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長崎に落ちた原爆のコト

2018-08-12 08:25:29 | megamiyama

一昨日なってしまいましたが、ねずさんが今日は長崎に原爆が投下された日という記事を書かれて、長崎に原爆が落とされた日のコトを初めて詳しく知ることが出来ました

実家の母は長崎生まれ長崎育ちですが、原爆が長崎に投下された時は、家族と共に朝鮮に疎開していて難を逃れました。

今も残る、市内中心部のめがね橋のすぐ近くに住んでいたらしいのですが、爆撃後は長崎に帰ることはなかったようです。私達子供にとって母の実家は熊本。熊本にはよく遊びに行きました(多分、母方の祖母か祖父の実家が熊本にあったのでしょう。)が、長崎は母にとって「女学校時代の友人もご近所さんも知っている人は皆、原爆で亡くなって、帰っても誰も居ない。帰ってもしょうがない。」場所となりました。

生まれ故郷を奪われ、6人兄弟の内すぐ上の一番仲の良かった兄弟を戦争で亡くしているというのに、それでも母からアメリカを憎む言葉を聞いたことがなく、それどころか

「戦時中の日本は暗かった。アノ時代のことは思い出したくない。」「進駐軍の"アメリカさん”の明るさには驚いた。負けたのがアメリカで(ロシアでなくて?)良かったと思った。」などと昔云ってたこともある位。(そして長い間、選挙では「社会党」とかに投票してたようです。)

私達兄弟が子供の頃、町の教会(日曜学校)に通わせたのも、母が子どもの頃長崎天主堂にちょくちょく遊びに行ってたからかも知れません。

その「天主堂」の真上に原爆が落とされたのでした。

「何故、よりによってキリスト教会の上に原爆を落したのか?」「アメリカがしたことは、神をも畏れぬ所業じゃないか!?」と長年いぶかしく思ってきましたが、この記事を読み、米軍が教会を狙って原爆を投下していたのではなく、そこだけ雲の切れ目があって、たまたまその下に教会があった!ということだったのだと初めて知りました。

が、逆に「日本の神が雲の煙幕を張って原爆から日本を守ろうとしたけれど、アメリカの神を祀っている教会がある処だけは煙幕(結界)が張れず、破られてしまった!」というコトではなかったか?と思わずにはいられません。

ルーズベルトやトルーマンなどアメリカの指導者は、日本を「悪魔の帝国」呼ばわりして猛攻撃しましたが、アノ戦争は確かに、日本の神々と欧米の神(エホバ?)がお互いを悪魔と勘違い!?して決死の闘いをした宗教戦争でもあったのでしょう。

この視点は、大川隆法総の最初の著作「太陽の法」でも明らかにされてたことですが、ねずさんの記事を読んで、実際日米の神?の熾烈な戦いぶりが目に浮かぶようです。

それにしても!ヒロシマのたった三日後に小倉を狙い、小倉がダメならナガサキにと、ひたすら日本各地に原爆の威力を世界に示す為に、わざわざ雲のきれ目をつくってまで落とさせた「存在」が、果たして「神」の名に値するのか!?

本当にアメリカは「正義の国」だったのか!?

二発目の原爆がよりによって、長崎天主堂の真上にしか落とせなかった!ということが、原爆の悪魔性、ひいてはアメリカの神の悪魔性を無言で証明しているのではないか?

と妙に納得してしまいました。

アメリカの言い分は、戦争を終結する為!自分達の被害を最小限度に留めるため!日本が二度とアメリカに立ち向かって来ないようにする為!ロシアにアメリカが持つ核兵器の威力を示す為!

幾らでも云い訳はできますが、しかし防戦一方の相手に日本なら"武士の情”をかける処を、情け容赦の無いとどめを射す為に、原爆を一度ならず二度も落としたアメリカの罪が果たしてこのまま明らかにされずに終わってよいのでしょうか?

隠ぺいしてきた「真実」があることを公表すべき…とここまで考えて、実際封印されてきた「機密」をアメリカはどんどん公開しているというのに、ソレをちゃんと受け止めきれずにいる「日本」の問題なのだと、ハタと気づきます。

先ずは、真実を知るコト。

 ソレが肝心!

これまで、「長崎に落ちた原爆の真実」を、何も知らずにきたであろう母親にも、この記事を読んでもらおうと思います。

http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-3845.html

ねずさんの独り言

今日は長崎に原爆が投下された日


長崎に落とされた原爆の
最初の目標地点は北九州市でした。
北九州を救ったのは、
小倉造兵廠にいた陸軍守備隊の
必死の煙幕作戦でした。


20150805 長崎原爆
(画像はクリックすると、お借りした当該画像の元ページに飛ぶようにしています。
画像は単なるイメージで本編とは関係のないものです。)

8月9日は、長崎に原爆が投下された日です。
そこで毎年、長崎の原爆のことを、この日に書いています。
はじめに黙祷し、長崎での原爆投下によってお亡くなりになられたすべての御霊のご冥福をお祈りさせていただきます。
また8月9日はソ連軍が日ソ不可侵条約を一方的に破棄して満州、北鮮、樺太、アリューシャンへの侵攻を開始した日でもあります。

長崎で原爆が炸裂したのは、昭和20(1945)年8月9日、午前11時2分です。
この原爆投下時の情況について、
「空襲警報が鳴ったけれど、
 なぜか解除されたところに原爆が落ちた」
とか、
「大本営はB-29の無線をキャッチしていたけれど、これを放置した」
とかいう言論があります。
はっきり申し上げますが、それは当時の軍を悪く言わんとする妄言です。
ジャーナリストだから何を言っても良いと思うのは傲慢です。

 


 

戦後では半島系の売文屋がとんでも説を書いた本を出し、その本を「引用元」として学者という肩書を持つやはり半島系の反日活動家が、それを「引用文献」とした本にし、その本をもとにアカヒなどの大手新聞社が宣伝と拡散を行って、その記事がまたひとり歩きするというパターンが繰り返されました。
 

愛はすべてにつながります。
国を愛する心も同じです。
いたずらに過去を否定され、愛を見失った日本人が、こうして拡散されたデマを頭から信じ込み、覇気をなくし、国家の活力、企業の活力を失わせ、企業業績を悪化させました。
そうすることで、企業や団体、組織が安く乗っ取られていきました。
結果、ゆがんだ人たちにとって素晴らしい日本ができました。
それはまるで、どこかのアマチュアスポーツ協会のドンと同じです。

ちなみにこの「引用」について、「引用元が明らかでない論説は学説の名に値しない」という論がいまではすっかりまかり通っていますが、引用のある論説だけが論だとするのは、行き過ぎです。
それはただの半島系左翼のプロパガンダです。

話が脱線しました。
長崎の原爆についてです。

長崎市の当時の人口は24万人です。
原爆によってお亡くなりになられた方は14万9千人です。
なんと市民の62%の命が、一瞬にして奪われました。

このときの死者数は、すこし複雑です。
一般に戦死や殉職死は、国家の保障の対象とされます。
ところが原爆の場合には、
 熱線による被害、
 放射線による被害、
 後障害、
 高熱火災による被災、
 爆風による被災、
 建物倒壊等による被災
など様々な状況があります。

従って、即死、即日死をまぬがれた人であっても、その数日後、あるいは数カ月後にお亡くなりになるケースが生まれます。
長崎原爆の場合、爆心地から半径1km以内が、即死・即日死で、およそ7万人。
1km圏外での即死・即日死が、周辺地での死者が7万人、
そして数ヶ月のうちに亡くなった方を含めると、上の数になります。
長崎への原爆投下は、本当に大災害を引き起こしたのです。

ところが実は、被害はもっと大きかったかもしれなかったということは、あまり知られていません。
どういうことかというと、長崎への原爆投下の、つまりこの日の原爆投下の、当初目標地点は、福岡県小倉市(現:北九州市)だったということです。

当時の小倉市(現:北九州市)の人口は約30万人です。
小倉市は、長崎以上に平野部が広がっています。
つまり長崎と違って、遮蔽物となる山がありません。
そこに原爆が投下されると、熱線による被災は、
北九州の戸畑、若松、八幡、門司全域だけでなく、
さらに関門海峡を越えて対岸にある下関市にまでに及びます。

従って被害規模は、推定で即日死が30万人以上、数ヶ月後の死者を含めると、おそらく40万人以上の被害が生まれたことでしょう。
それこそ、ぞっとする事態です。
この、「当初目標地点が小倉市であった」という事実は、私たちが知っておかなければならない重要な事実です。

ではなぜ、原爆投下が、小倉から長崎に変更になったのでしょうか。

この日、原爆投下のために米軍が飛ばしたB-29は6機です。
6機は別々に飛び立ち、硫黄島を経由して、屋久島上空で合流する予定でした。
ところが4機にエンジントラブルが発生し、4機は、出発をし直しに帰還しています。
残りの2機だけが午前9時44分に、目標地点である小倉市に到達しました。

その飛来したB-29に、小倉造兵廠にいた陸軍守備隊は、あらゆる火力を使って応戦しました。
空中で炸裂できるもの、あるもの、全部を撃ちあげて、空中に巨大な煙幕を張ったのです。
3日前の6日には、広島に原爆が投下されているのです。
B-29の大編隊なら焼夷弾投下の可能性もありますが、わずか2機で飛来したということは、それは「原爆投下のためにやってきた可能性が大」なのです。

ですから小倉造兵廠の陸軍守備隊は、市民を護るため、それこそ必死の応戦をしました。
当時の日本の高射砲は、B-29の高高度飛行までは弾が届きません。
けれど爆弾投下のためにB-29は、高度2000メートルくらいまで降りてきます。
ですから、普通なら、B-29がある程度の低空飛行になるのを待って、高射砲を撃つのです。
そうでないと弾がもったいないからです。
日本は物資が少ないのです。

ところがこのときの小倉造兵廠の陸軍守備隊は、B-29の飛来とともに、あらゆる火力を動員して、B-29の真下に、手許にある炸裂弾を片端から撃ちあげました。
そうすることによって、B-29の真下に、煙幕を張ったのです。

大きな花火大会などを見に行かれたことのある方なら、ご理解いただけると思います。
風向きによって、花火自体の煙が空を覆ってしまって、肝心の花火が全然見えなくなってしまうことがあります。
小倉造兵廠の陸軍守備隊は、まさにこれをやったのです。

こうなるとB-29は、高い高度にある煙幕のために、目標地点の目視ができません。
煙幕の下に出ようとすれば、今度は高射砲の餌食となります。
それでもB-29は、45分かけて、低空飛行に移って目標地点を補足しようとする行動を3度繰り返します。

そしてその、まさに「めちゃくちゃに撃ってくる高射砲」の煙幕のために3度目の低空飛行入りに失敗したとき、
陸軍の芦屋飛行場から飛行第59戦隊の五式戦闘機が、
同時に海軍の築城基地から第203航空隊の零式艦上戦闘機10機が、
緊急発進やってきたのです。

このためB−29は、小倉への原爆投下を断念し、目標地点を第二目標の長崎市に切り替えて、小倉の空から去ったのです。
こうして、小倉市民は救われました。
ですから、小倉から対岸の下関に及ぶ地域の40万の命が守られたのは、まさに日本の陸海軍のおかげなのです。

さて、小倉上空を離脱したB-29は、目標地点を第二目標の長崎に切り替えました。
そのB-29が、長崎上空に達したのは、小倉上空で原爆投下をしようとした約1時間後の午前10時50分のことです。
この日の長崎上空は、積雲に覆われていました。
積雲は分厚い「夏の雲」です。
つまりB-29は、地上から発見されないまま長崎上空に到達しています。

B−29
B−29


発見されていませんから、当然、地上からの反撃もありません。
ところがB-29の側も困りました。
第二目標の長崎上空に達したことは機内での計算によってわかっているものの、積雲の上を飛行しているため、原爆投下の目標地点の目視ができないのです。
つまりそのままでは原爆の投下ができなかったのです。

ところがこのとき、空を分厚く覆っていた積雲に突然割れ目が生じました。
そこから眼下に長崎の街並が見えました。
そこでB-29は「手動操作で」原爆を投下しています。
それが午前11時1分のことです。
放物線を描いて落下した原爆は、およそ1分後の午前11時2分に炸裂しました。
爆心地である炸裂の場所が、長崎市街中心部から約3km逸れたのは、このような事情があったからです。

原爆は、長崎市松浦上地区中央にあったテニスコート上空、高度503mで炸裂しました。
長崎に投下された原爆の威力はTNT火薬換算で22,000トン(22キロトン)です。
これは、広島に投下されたウラン235型原爆の1.5倍の威力のある爆弾でした。

この炸裂によって、長崎市の浦上地区はほぼ完全に瓦礫の平原となり、一瞬で町に住む14万9千人がお亡くなりになりました。
広島よりも威力の大きな爆弾で、広島(人口20万人)よりも死傷者が少なかったのは、爆心地が市街中心部から多少逸れたこと、および長崎市の周囲をとりまく山々が遮蔽物となったことによります。
それでもおよそ15万人にものぼる市民の命が奪われました。

では、どうして長崎では、空襲警報も応射も間に合わなかったのでしょうか。

わずか3日前には、広島に原爆が落されたばかりです。
当然のことながら、長崎でも強烈な危機感を持ってB-29の飛来を警戒していました。
一方、硫黄島を出た二機のB-29は、午前9時すぎに大分県姫島方面から日本領空に飛来し、9時44分に小倉に現れました。
このため長崎では午前10時過ぎに、いったん警戒警報の解除を行っています。
なぜならB-29の空爆先が小倉とわかったからです。
いったん防空壕に避難した長崎市民も、日常の生活に戻りました。

ところがそのB-29は、小倉での爆弾投下に失敗します。
そして移動するのですが、北九州から長崎までの空は、ぶ厚い積雲が覆っています。
また、高高度を飛行するB-29は、雲の上を飛びますから、地上から見えません。

このことは、B-29の側にとっても、地上が見えないことを意味します。
そこでB-29の乗員のひとりが、航法士に「現在地はどの辺りか」と尋ねたのです。
このとき答えようとした航法士が、誤って内線用のインタホンのスイッチと外部送受信用の無線スイッチを取り違えて、返事をしました。
このためB-29の機内通信が、外に洩れました。
よほど慌てたのでしょう。
慌てた操縦士が運転を誤り、あやうくもう一機のB-29と空中で衝突しそうになっています。

この無線を、鹿児島沖で作戦からはぐれて迷子になって飛行していた別なB-29がキャッチしました。
そのB-29が、突然はいってきた現在地を知らせる僚機の無線に、
「チャック、いまどこにいる?」
と音声無線を返したのです。
これが午前10時50分です。

この無線通信を、日本も傍受しました。
ほんの一瞬の無線漏洩ですが、高度警戒態勢にあった日本の通信傍受隊は、B-29の一機が鹿児島沖にあり、もうひとつが長崎方面にいると場所を突き止めます。
そしてすぐに長崎に警戒を呼びかけました。

知らせを受けた長崎市では、すぐに空襲警報を鳴り響かせています。
これを聞いたら、市民はなにはさておいても防空壕へ避難することになっています。
いつもなら、これだけの対応なのですが、広島の原爆投下で甚大な被害を受けたばかりのできごとです。
軍と市は一体となって、空襲警報だけでなく、ラジオの臨時ニュースでも動員して、長崎市民への緊急避難を呼びかけました。

ラジオからは、
「長崎市民は全員退避せよ。
 繰り返す。
 長崎市民は全員退避せよ」
という声が繰り返し流されました。

そしてその臨時ニュースの声が「全員退避・・・・」と言ったとき、原爆が炸裂しました。
そしてラジオの声は無変調になりました。
アナウンサーの声は、原爆が光ったその瞬間で途切れたのです。

この当時の状況について、
「長崎への原爆投下は、
 空襲警報が鳴ったけれど、
 なぜか解除された。
 そこに原爆が落ちた」
とか、
「大本営はB-29の無線をキャッチしていたが、これを放置した」
とかいう妄言を言う人がいます。

なるほど長崎では、いったん空襲警報が解除されましたが、原爆の炸裂前に、再度警報を出しているのです。
そしてもしかしたらそれが新型爆弾(原爆のこと)かもしれないと知っていながら、ラジオのアナウンサーも、局のスタッフも、死の瞬間まで市民への呼びかけを繰り返したのです。
そしてその放送は、軍の無線キャッチによる警戒情報発令があったからこそ行なわれたことです。

事実の断片だけを切り取って、まったく異なる事態であるかのようにすり替えることは、今も昔も変わらぬ特亜国の宣伝工作や、日本国内にいる日本人のような顔をして日本語を話す日本人でない人モドキの人々の常套手段です。
残念なことにいまだに、それを真実と思い込んでいる人が多いようですが、それが妄言に他ならないことは、少し調べたらすぐにわかることです。

20170809 印象操作


さて、冒頭にある写真は、長崎に原爆が落ちたときのものです。
何もかもが瓦礫の山となった中にあって、長崎の山王権現様の鳥居だけ、まるで無傷で建ち残っています。
鳥居が残った理由は、物理的には、「鳥居は石でできた穴の空いた台にはめ込んでいるだけであったから、爆風を柳に風と受け流すことができた」というものです。
しかしそうであったとしても、熱風をものともせずに、そのまま立ち続けているのは、やはり不思議なことです。

山王権現というのは、日吉(ひよし)様の別称です。
もともとは大山咋神(おおやまくいのかみ)を御祭神としています。
お名前にある「咋」とは「杭(くい、くひ)」のことで、大きな山に杭を打つ、すなわち大きな山の所有者の神様であり、山の地主神であり、そこから国土鎮守の神様とされています。
つまりこの鳥居は、日本にはれっきとした神々がおわすこと、そしてたとえ焼け野原になっても、決してめげることなく、雄々しく起ち上がれという神様からのメッセージを表しているのではないかと思います。

さて、おわりにひとつ。
北九州が「必死の抵抗を試みたことで救われた」ということは、私達日本が世界で唯一の原爆国であるだけに、しっかりと認識すべきことなのではないかと思います。
残念なことですが、世界は、必死の自衛を講じなければ、民族ごと蹂躙されるのです。
それが世界の現実であり、歴史であり、真実です。
これによって日本人は、現実に犠牲者を出しています。

北九州の小倉で行なわれた必死の抵抗は、まさに自衛権の行使です。
上空が弾幕の煙幕で隠れてしまうほどの対空砲火を行ったということは、それが市街地ですから、その対空砲火の流れ弾や上空で爆発した弾薬の破片等が市街地に落下してきて民家等に被害をもたらす危険だってあるのです。
けれど、だからといって対空砲火を「しなかった」なら、何が起こったのでしょうかということにこそ、私たちは気づかなければならないのだと思います。

お読みいただき、ありがとうございました。

※この記事は2015年8月の記事のリニューアルです。


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