「真実」というものに振り回されていたかもしれない。至る所、隠ぺいが普通にある世の中。それが、そこに、やっと、知りたいことがあるという刷り込みを自分で自分に作っていた。それは「自分とは何者か」という問いにも同じ。昨日教えを頂いた。良い悪いではなく、正誤でもなく、本当か嘘でもない。
良い悪いでもなければ、正誤でもなければ、本当か嘘でさえもない。本当か嘘か。それさえも私たちのジャッジメントだ。それが真実を測るものではない。そのまだ先にあるものが「ほんとう」なのだと。その先にあるもの・・・その一瞬に自分が100%の濃度であったこと。ジャッジメントがない状態。
Whomever I am, I am me. Whomever you are, whatever you're believing, you are you.
今まで階段を昇ることに抵抗があったけど、ノージャッジメントでその瞬間、常にその一点で在ることに意識すると、その瞬間の質やステージを上げたい、上げていきたいと思うのは自然なことかと、ふと感じた。
「元気」と「体力」は、ちょっと違うのかもね。病気との共存、症状との共存。全ての場合は無理にせよ、元気なら、これが可能なんじゃないだろうか。それが病気や症状の勢力が勝りそうになるとき、戦う力にもなる。
「聖母の画家」ラファエロ・サンツィオ。彼は終生、聖母マリアを思慕し続けたと云われています。今月2日より、東京・上野にて日本では初めてとなる、ラファエロだけの作品展が始まりました。 photozou.jp/photo/show/772…
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます