振り返れば、私は「変わる」についての解釈をじっくりとしたことがなかったかもしれません。
当ブログにも、似たようなことを繰り返し書いてきたにもかかわらずです。私は「前に進む」、ある一点へ「辿り着く」といった考えは常に持っていました。そのことと、今から書くことは、同じと言えば同じかもしれませんが、やはり決定的に違う点があります。
まず今までの考えからですが・・進み、辿り着く過程においては、様々な紆余曲折があって然るべきで、苦悩し、一つ一つ乗り越えていく。それが私という一人の人間の精神的成長を促すのだ。そういったピクチャーで私は生きてきました。
でも、実際は、頑固が好きなだけだったようです。何故なら、下記を見ると「変わる」ことを求めていないのが一目瞭然ではないですか!
・柔軟性がない。
・試行錯誤をしない。
・生産性、効率、より大きく貢献できる可能性を考えていない。
・ただ、障害(岩のイメージ)に向かい、力任せに打ち砕いて進んできただけ。
・基本的に「私は正しい」と思っている。
特に、最後の「私は正しい」・・自分が変わるという意識にフォーカスしなかったのは、この部分が非常に大きい気がします。これが決定的な違いなのだと思います。自分にこだわり過ぎていたのです。
今、私は、変わるということの認識を違う角度から見つつあります。
単に、言語化する際の単語の違いだけかもしれませんが・・とりあえず、続けます。
今思うのは、「自在に」「毎秒」変わるこそが、「変わる」ことでないかということです。
それは、こだわらない、決めつけない、頑なにならない、ことかもしれません。
自在性や想像力が少なく、我が強い場合の「変わる」は、窮屈で不便でキツイと思えます。もっと言うなら、自分に対して迷惑とも思います。
(なかなか愚かしい・・でも、自分のことなので裁いても仕方ない!!)。
そして、自分の「我」に関して。
何に対して「満足」「快適」と思うか。「幸せ」「安心」と思うか。「楽しい」と思うか。。
これら気持ちは、何らかの状況や環境、関係性に対して生成されます。そういった対するもの(状況、環境、関係性)がなければ、発生し得えるものではないのです。
私自身が、どんなに精神的に成長したと思ったとして、それで自分の望みが叶うかと言うと、すべては相手(対象が)あってのこと。
例えば、個人の幸せしか要らない!!と無人島に渡ったとしても、恐らく、自然との関係性なくして幸せとは感じられないでしょう。
太陽が照らなけれ・・時化ばかりでは・・食べ物が獲れなければ・・私なら、決して幸せとは感じられない。
そのためにも、対するものとの健全で幸福なブリッジ(橋)が架けられるように(注※自分が得たいものが得られるように・・も含みます)、
まず、自分で自分を満たし、自分が責任を取れる範囲のことを坦々と行っていくことが大切だと思います。
そうすることで、心の中に芯が育ち、安心感も大きくなり、外部からの影響(相手の感情や態度など)を受けにくくなります。
「・・そこまではケアできないわよ」と相手が思ってしまうようなことを、他者に求めてします人も多いです。
気付いていない場合が殆どかもしれません。私自身もそういうところは絶対にあるので、ますます自分自身との対話を図っていきたいです。
それには、起こることを恐れないこと。
私も起こることを恐れ、起こったことに喧嘩を売り、起こったことから自分を護るという、何と不効率なことをしてたのか(本来の目的に労力使ってない!)驚くばかりですが、実際のところは、起きることを眺め、経験していくだけで良いのだと思います。
私達は、何者でもないし、何者にもなれないし、何者になる必要もない。その一方で、もう、すでに何者かです。今がどういう状態でも、自分の我(が)を認め、許して、自分自身に統合するよう努めましょう。そこは、努力という言葉を使った方がいいかもしれません。
私たちは常に、無かつ最善の存在ですが、その実感のためには「努力」という言葉の意味する作業を続ける必要があるのだと思います。喩えるなら鎧を脱いでいく作業ですので、恐怖を感じることもあるでしょう。でも、その一つ一つの経験のために、命を宿しているとも言えます。
そして、自分が無であり最善であることを思い出す過程で感じることや、経験すること・・それも私たちが変化と呼んでいるものだと思います。
時に難しいときはあります。でも私は、何を感じようが、何を経験しようが、本来は私達の核を脅かすものでは決してない!と、そう思っています。No worries! 大丈夫!!。
注※自分が得たいもの・・それは本当に得たいものかと見直すことはとても大切です。
望んでないのに、今までの思考のパターンで「そう」思っていることもあります。
それとは別に、自分が得たいものを得る(オーダーを出す)行為は、現実世界に生きている以上、していかなきゃいけない行為とも思ってます。
現実的に生み出せるものがないと、他者に奉仕できないですから。
長くなりました。申し訳ありません。
今日も最後まで読んで下さってありがとうございました。
今日も皆さまの素晴らしい一日でありますように。
当ブログにも、似たようなことを繰り返し書いてきたにもかかわらずです。私は「前に進む」、ある一点へ「辿り着く」といった考えは常に持っていました。そのことと、今から書くことは、同じと言えば同じかもしれませんが、やはり決定的に違う点があります。
まず今までの考えからですが・・進み、辿り着く過程においては、様々な紆余曲折があって然るべきで、苦悩し、一つ一つ乗り越えていく。それが私という一人の人間の精神的成長を促すのだ。そういったピクチャーで私は生きてきました。
でも、実際は、頑固が好きなだけだったようです。何故なら、下記を見ると「変わる」ことを求めていないのが一目瞭然ではないですか!
・柔軟性がない。
・試行錯誤をしない。
・生産性、効率、より大きく貢献できる可能性を考えていない。
・ただ、障害(岩のイメージ)に向かい、力任せに打ち砕いて進んできただけ。
・基本的に「私は正しい」と思っている。
特に、最後の「私は正しい」・・自分が変わるという意識にフォーカスしなかったのは、この部分が非常に大きい気がします。これが決定的な違いなのだと思います。自分にこだわり過ぎていたのです。
今、私は、変わるということの認識を違う角度から見つつあります。
単に、言語化する際の単語の違いだけかもしれませんが・・とりあえず、続けます。
今思うのは、「自在に」「毎秒」変わるこそが、「変わる」ことでないかということです。
それは、こだわらない、決めつけない、頑なにならない、ことかもしれません。
自在性や想像力が少なく、我が強い場合の「変わる」は、窮屈で不便でキツイと思えます。もっと言うなら、自分に対して迷惑とも思います。
(なかなか愚かしい・・でも、自分のことなので裁いても仕方ない!!)。
そして、自分の「我」に関して。
何に対して「満足」「快適」と思うか。「幸せ」「安心」と思うか。「楽しい」と思うか。。
これら気持ちは、何らかの状況や環境、関係性に対して生成されます。そういった対するもの(状況、環境、関係性)がなければ、発生し得えるものではないのです。
私自身が、どんなに精神的に成長したと思ったとして、それで自分の望みが叶うかと言うと、すべては相手(対象が)あってのこと。
例えば、個人の幸せしか要らない!!と無人島に渡ったとしても、恐らく、自然との関係性なくして幸せとは感じられないでしょう。
太陽が照らなけれ・・時化ばかりでは・・食べ物が獲れなければ・・私なら、決して幸せとは感じられない。
そのためにも、対するものとの健全で幸福なブリッジ(橋)が架けられるように(注※自分が得たいものが得られるように・・も含みます)、
まず、自分で自分を満たし、自分が責任を取れる範囲のことを坦々と行っていくことが大切だと思います。
そうすることで、心の中に芯が育ち、安心感も大きくなり、外部からの影響(相手の感情や態度など)を受けにくくなります。
「・・そこまではケアできないわよ」と相手が思ってしまうようなことを、他者に求めてします人も多いです。
気付いていない場合が殆どかもしれません。私自身もそういうところは絶対にあるので、ますます自分自身との対話を図っていきたいです。
それには、起こることを恐れないこと。
私も起こることを恐れ、起こったことに喧嘩を売り、起こったことから自分を護るという、何と不効率なことをしてたのか(本来の目的に労力使ってない!)驚くばかりですが、実際のところは、起きることを眺め、経験していくだけで良いのだと思います。
私達は、何者でもないし、何者にもなれないし、何者になる必要もない。その一方で、もう、すでに何者かです。今がどういう状態でも、自分の我(が)を認め、許して、自分自身に統合するよう努めましょう。そこは、努力という言葉を使った方がいいかもしれません。
私たちは常に、無かつ最善の存在ですが、その実感のためには「努力」という言葉の意味する作業を続ける必要があるのだと思います。喩えるなら鎧を脱いでいく作業ですので、恐怖を感じることもあるでしょう。でも、その一つ一つの経験のために、命を宿しているとも言えます。
そして、自分が無であり最善であることを思い出す過程で感じることや、経験すること・・それも私たちが変化と呼んでいるものだと思います。
時に難しいときはあります。でも私は、何を感じようが、何を経験しようが、本来は私達の核を脅かすものでは決してない!と、そう思っています。No worries! 大丈夫!!。
注※自分が得たいもの・・それは本当に得たいものかと見直すことはとても大切です。
望んでないのに、今までの思考のパターンで「そう」思っていることもあります。
それとは別に、自分が得たいものを得る(オーダーを出す)行為は、現実世界に生きている以上、していかなきゃいけない行為とも思ってます。
現実的に生み出せるものがないと、他者に奉仕できないですから。
長くなりました。申し訳ありません。
今日も最後まで読んで下さってありがとうございました。
今日も皆さまの素晴らしい一日でありますように。