信じても信じなくても明日はあるが、
明日の幸せを信ずる人は幸せでない筈の条件の中ででも、
活き活き眼を輝かせている。
明日の幸せを信じない人は、
他の人なら幸せに感じられる条件の中で、
不平をつぶやき暗い眼をしている。
しかし明日の幸せは、
誰も信ずることはできる。
ゴールに着いたら、そこにい続けたくなるけど、多分そのうち文句が出てくる。不平不満言うくらいなら動いていこう。
私たちは他者からの光で照らし出される。しかし自らの内からなる自律、理性の光と融和しなければ苦しいばかり。それは、それ無しでは、照らしてくれる光は徐々に自分を喰い尽くす魔となるから。いや、自律と理性が無いが為に、自らを魔に差し出すからだ。しかし、魔でさえも神が作り出したもの。
そして、自らの中に生き続けた魔も受け止めて。魔は、誰のせいでも、何のせいでも、勿論あなたのせいではない。しかし、一方で、どんなにか理解したくて、でもどうしても受け入れ難い現実。
西洋の方(特に男性)って着物似合うんだな。なんだろな、これ。
頑張らなくては成果が出ない。そしてそれは、体力気力をギリギリまで使って、というのが私のパターン。頭を使い、感情から逃げずにやれば、そのパターンに入らなくても、私は結果を出せる。出なければ、その現実と評価を受け止めよう。ただ、不要な箇所に力を込めるのは止めてみようと思う。
自分一人で全てを背負うとしないで。。誰かが動くから。そう思えるようなケアや実際のヘルプの手が届けばいいな。。
使命や課題というものは、時に人をそこに依存させてしまわないだろうか。ただ、生きる。知らず幻想に酔わされないで、縛られないで(分かってて酔うのも又楽し)、ただ生きる。
何をどう思うか。それは記憶の蓄積から弾き出された判断や、自分以外のものとの相対性を読んだもの。よって自分の実体とは、自ら形作ったものと言うより、むしろその逆なのだ。自分を大切にすることとは、これら全てを大切にすることに繋がり、またそれが本来の意義なのだろう。自分大事、ではなく。
自己の確立、自我を飼いならす、自分を捨てる、他者を受け入れる、愛する。全てイコール。
自分のことを良く分っていないのに、その分かってない自分が大事なんだ。そう考えてみると変ナノ。分っていないから、どうしていいかも分からなくて、とりあえず自分を防御したいのかな。これは結構なエネルギーの量だと思う。それでわざわざ疲れてる。このエネルギーをもっと生産的に使っていきたい。
ナチュラル・バランスとは、自ら光ることと、自分以外から照らしてもらうこと(他者の輝きを、如何なるものも祝福し受け取ること)との調和。と言うより、後者があってこそ、自らの内に光を抱けるのかもしれない。
同じものなんだよね。隔ててるのは、自分の意識。でも違う解釈をするからこそいいのよ。