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閑寂肆独白

ひまでさびしい本屋のひとりごと

「変わりゆく筑豊」のはしがき より

2023-08-28 08:02:24 | 日記

これまで接しなかった表現で ちょっと長いけれども書き留めておきたい。

「(前略)日本に来る前、日本における原水爆禁止運動の活発さ、その世界的反響等から考えて、日本ではすでに原爆罹災者は国費によって治療、生活、職業の点で申し分のない手当を受けているものと信じきっていた。われわれの常識、社会的感覚からいって、そうなっているとしか考えられなかったのである。そういう我々はヒロシマで、罹災社の「団地」生活の実情をみたとき、どんなショックをうけたことか、それはとても言葉では申し上げられない。一体、この国には政府というものがあるのだろうかと疑わずにはいられなかった。

 しかし、政府も政府だが、国民も国民だ。1回の世界大会にどれだけのカネを使っているか、それを知ることは、私の取材能力では不可能だったが、なまやさしいカネではなさそうだ。それで、参加人員を百分の一にしぼって、百分の九十九を浮かしてもいいし、(中略)十分の一を浮かすだけでもいいかもしれない、そうやって浮かしたカネで、原水協の人々が罹災者のためのセンターを作ってもかなりのことができるはずだ。原水爆禁止運動は慈善事業ではないだろう。しかし 社会医保障という言葉はあってもその実のない社会では、原水爆禁止運動はそういう事もやるべきだと思う。ああいう団地のそばで原水爆禁止世界大会を開く日本人、開かせる日本人――心理が私にはわからない」  ――1960年の世界大会の取材に来たオランダ人記者の感想。 

  この事態はいまだ変わっていない。     

 国家的災害、変動への対処に関して この本では 原爆と同じこととして筑豊の炭坑の衰退をとらえている、筑豊は閉山に至るまで、この国家を支えてきた、にもかかわらず

小手先だけの対策だけで、国支えた、国に尽くした、国によって犠牲を強いられた、

 という大元に至っていない、木を見て森が見えない(譬が下手ですが)。これはオキナワもだし、フクシマ でも全く変わらぬことを今我々は見ている。

 いまだ変わらぬ「日本国家・政府」を国民はナゼ変えようとしないのだろうか?

 ブタの様な議員はもとより、霞が関のみならず下々至るまでの悪しき官僚主義・前例主義。

  今、戦争をしようと躍起になっている保守層の連中は「民主主義」というものの根幹を判っておらず、「命令一下の天皇支配」(なぜなら「責任」は彼に負わせることができるから)が好都合なのだ。 しかも其「責任」も結局いまだに曖昧なまま。


浅田彰「ノイズの海を回遊する」より

2023-08-22 19:14:41 | 日記

           面白い文を見つけたので少し長いですが引用・紹介します。

「すみません、この本が欲しいんですけど」大学生らしいのが、先生にもらったと思しき参考書リストを店員に見せて、頼んでいる。 特別な教科書ならそれも仕方ないし、知る人ぞ知るといった珍しい本なら探しがいもあるだろう。けれどもきわめて一般的な本で、店内をザっと見渡せばすぐに見つかるはずのものなんかだと、頼まれた方もいいかげんウンザリするんじゃないだろうか。 少なくとも大学生であれば、必要な本は自分で探して見つけるのでないと困る。ついでに周辺の本を色々と拾い読みし、結局別な本のほうが面白くてそっちを買ってしまう、というふうなのがいい。でなければ書店へ足を運ぶ意味はないので、原理上は通信販売で十分という事になるだろう。 言うまでもなく、書店の面白さは、そこに多種多様な本が混在していて、全く未知の本との出会いが可能だという点にある。それは一種のジャングルなのであり、その中をうろつきながらてんでんばらばらな色や香りのシグナルに反応して自分の好みの果物だの危険な毒キノコだのをパッと見分ける、そのこと自体が、魅力的な冒険と言えるのである。 そんなことは図書館だってできる…中略・・・。冒険というからには街のざわめきが聞こえてくる店内の方がふさわしい。雑然と並べられた本を眺めるのがいい。 以下引用略。

 

 我店にはいわゆる学生さんが訪れることは少ない(大学はなく、皆市外へ出ている)のだけれど時々、だいの大人でこのような行為をする人がいる。店に一歩どころか半歩足を入れて「〇●はないでしょうね」という話は前にも書いた。また新聞で見たある本屋を先だって開いた人の話で「分類はしない」という利点の話も書いた。我店はもとより実行中。しかし 我店に入ってきて3分でも棚を見渡す人はまず「他所の人」。この大牟田の住人で店に入ってある程度棚を見渡す人は本当に片手指でも余るしかいない。 

昔から新刊店の商売で大牟田では「新書」が売れないのはよく言われていた、それは経験上でありていに言えば「教員」レベルの教養?人たちの不勉強の現れといえる。「本を売りたい」という話で伺うとそれがはっきりとわかる。小生に言わせれば「新書」はいろいろな分野への入門・導入になるもので、いくらかでも知識欲のある人、生徒に関心を持たせるために話題を広げたいという思いを持つ人にとっては格好の便利物のハズなのだが、そして全国の傾向はまさにそうなのだが、それが売れない、読まれない。総数は数トンにもなろうかというあちこちの部屋の書棚いっぱいの本。しかし、読まれた形跡のないもの多い。ではなぜ買ったか。お茶・書・花などの「道」の分野でよくわかるのが、師匠・先生のお勧め、あるいは立派な印刷物でのセールスマンの勧誘・分割払いである、さらに連れの誰かが買うのを見て釣られて買う。要するに「自分の意志・要求」で買うわけではないのだ。結果は棚飾りであり棚ふさぎ、さらには古書價の出るようなものはなし、なぜなら「どこにでもある(希少価値なし)・首尾一貫していない」要するにどうでもいいような紙の束の集積という事になる。

本を読むという行為はそんなに「大変」なことなのだろうか。

 

 冒頭の浅田氏の文の載った本の表題は「本屋さんとの出会い」なのだけれど、八十人くらいの人の短文を集めてあるが 見事に「古本屋」には触れていない。 新聞などに良く「小さな本屋、珍しい、個性ある品ぞろえの本や」という惹句の記事が出るけれどもこれまた古本屋を取り上げることはまずない。古本屋こそ個性ある品ぞろえそのもの(同じものをそろえているなんてありようもない)なのに 記事を書く連中はもとより自身が本読みとはいいがたい(小生に言わせれば)単なる「新しもの好きの尻軽」そして無責任な連中だから小生なんぞがあれこれ言っても詮方ないことだろう。

浅田氏の{言うまでもなく、書店の面白さは、そこに多種多様な本が混在していて、全く未知の本との出会いが可能だという点にある。それは一種のジャングルなのであり、その中をうろつきながらてんでんばらばらな入りや香りのシグナルに反応して自分の好みの果物だの危険な毒キノコだのをパッと見分ける、そのこと自体が、魅力的な冒険と言えるのである。} これこそ古本屋の店頭・書棚なのですがねえ。

 八月に入って 我店の来店客は平均一人、全くない日もある。いかに我店が大牟田の町に相応しからざる存在かわかるではないか。 


栁川 江戸時代の生活  新たな疑問

2023-08-18 21:01:07 | 日記

「柳河藩の政治と社会:白石直樹:柳河の歴史5」を読んだ。3年前に出ていたのだが 他に関心があってすぐには読まなかった。大変おもしろく読んだのだが白石氏の資料漁渉の範囲の広さと徹底ぶりに敬意を表する。職務で、あるいはこの本を書くについて当たり前の仕事といえばそれまでだけれども、資料や根拠のはっきりしない、あるいは不十分な「話題作」が横行しているので「さすが」の仕事と思った次第。 本人も幾重にも断っているが、士分、あるいはそれに連なることについては資料が一応あるが、町衆・村方の生活の記録は少なく、どんな日常だったのかが今一つはっきりしない。著者がその点を「言い訳」をしているのはかなり前から小生が「庶民の生活を詳らかにしなければ本当の市史にはならない」と白石氏を含む市史編纂室に云い続けてきたのが少しは影響しているかなあと・・。

 士分中心ではあっても人別調べや家人の雇用などから士分ではない人のことがうかがえる。中で「浪人」が思ったより多く、またその連中がそれなりに生活しているのが面白い。特に「小口金融」で稼いでいるのがいるとは驚いた。「銀九・郵貯」のない時代だから庶民には「貯蓄」の観念は薄くせいぜい小粒やビタ銭を巾着にためるくらい、のちの「タンス預金」だが 江戸時代の庶民で箪笥を持っているのはごく少数の商人くらいのもの。小説では浪人といえば傘貼り、寺子屋、用心棒などは出てくるけれど「金貸し」というのは知らなかった。

 度々の飢饉はよく知られているが藩の財政のひどいことにあきれてしまう。今の日本の国債も似たものだが、いずれマネをして侍風を吹かせてごまかすつもりが見えていやらしい、日本もそのうち法律を変えるか庶民の負担を増やすかでごまかすのだろう。

中に「柳河明証会絵」を使って町の様子を説明してある。その挿絵を見ていて気付いたことがあった。それは「橋」。以前から江戸時代には橋はきつく制限されていて城下・寺社などの線引き内でしかなかったことを言い続けているが、ここのもいわゆる城内であることは確認できた。新たに起こった疑問は「反り橋、あるいは太鼓橋」 なぜ反橋なのか?なぜ平橋ではないのか?

 江戸・大阪等の大橋の類は下を船が通るので中ほどを高くする理由としてわかる。また神社の境内の太鼓橋は神域に入るという「門」を思わせる結界であることは説明に良く見られる。

 閑話休題:「太鼓橋考:松村博。」土木史研究講演集 2016 Vol.36 というものをネットで見つけた。その「はじめに」の部分で「太鼓橋は日本独特の形式の橋と考えられ、海外で日本文化を発信するときのツールとして用いられることもある」  とあるが これは全く間違いではないか。日本よりずっと建築物の歴史の古い西洋でも石造りの反り橋はいくつもあって、コソボ紛争の時世界遺産の反り橋が破壊されて問題になった、また中国の皇帝が作った池を含む庭園に石造の太鼓橋がある。これらを知らないのだろうか。

 木造橋の構造上の問題で何かあればぜひ知りたく、これから探すことにする。

 西洋では水道橋は沢山あってこれらは当然ながらほぼ水平、また馬の利用が昔からあって騎馬・荷馬車のためには太鼓・反り橋は当然困る。神社の入り口に反り橋・太鼓橋はそれなりに存在意義を認めるけれども、普通の人間の生活の場の木橋、しかも船の利便を考える必要のないところでもなぜ反りが必要なのか? さらに言えば石の一枚物をわたした橋は当然ながら平らなわけで、平橋を知らないわけではなかったのに である。

 この問題は 長引きそう この度は第一回目という事にしよう。


「芻蕘」

2023-08-05 07:03:22 | 日記

「芻蕘」 

書こうと思う事はいっぱいある、しかしそれは政治や防衛や災害や、といった分野であまり書物にかかわって書けるものではなくここでは取り上げていない。 

近頃、久留米・有馬藩と筑後立花藩に関する本に目を通した。自分の知識の整理、積み上げのためである。これまた小説のようにするすると読めるものではない、というのが事あるごとに「確認」作業をする、要するに書いてあることに「ほんまかいな?」という事が多いからなかなか先へ進まないことになるのだ。

新しい書物・研究を読めばそこそこに知識の見直し・修正や追加があって楽しくはあります。

 漢文・漢籍にはほとんど知識はないと言える程度で時々もどかしい思いをするのだけれど、柳河の儒者に関するところを読んでいて今のご時世・政治に示したい一文があったので書きとどめることとした。

「子云く、上、民言を酌めば則ち下、上の施を天とし、上、民言を酌まざれば則ち犯す。下、上の施を天とせざれば則ち乱る、故に君子、信譲以て百姓に涖めば、則ち民の報禮重し。詩に云う、先民言へる有り、芻蕘に計ると」 今風に言えば「孔子が言った、上に立つ者が民意を酌み取れば、民は上からの恵与を天与と仰ぐが、上の者が民意を酌まなければ逆らうようになる。民が上からの恵与を天与と仰ぐようでなければその国は乱れるであろう。君子が誠信と謙譲を旨として民に臨めば、民からの返礼は思いものになる。名君は草刈りや柴刈りにも事を計る。」 要するに上に立つ者は多くの(下々の)人の意見を聞くべきであり、其の度量が必要、という云い。

これは「礼記」の一節だそうで、安藤間菴が柳河藩の家老になった立花寿賰に提出した意見書の一節にある。  今の日本の(だけとは限らないか)政治家・官僚にこの言葉が判るだろうか? 以前安岡某という代々の保守系政治家が「師」と仰いだという人物がいたけれど、そのころにも思ったが彼らは一体何を教えられてきたのだろうか?今の政治家・官僚には「教養」が全くない、それは彼らの「字」を見るとまさに一目瞭然。そして彼らの文章に「引用」が全くないのも「教養」のなさの表れであろう。

このところ漢詩・漢文は静かなブームだという。支えている人たちはまず殆どか保守・自民党支持者と言える。彼らは学んだことを党や議員先生方にどう反映させているのだろうか。幼稚園の子どもの集団のような霞が関・永田町の連中を一掃したいものだ。政治家・官僚の無知は犯罪である。 「知らざるを知らない」ことは恥ずかしい、ハズなのだけれど。

 


音楽の始まり。

2023-06-18 07:09:14 | 日記

先日FMで西洋音楽の始まりは「鳥の声」という番組があった。ながら聴取だったので完全に聞き取ったわけではないがちょっと考えることがあった。

 音の発見は一般的には身の周りにあるものを叩くと出る音を回数や強弱を替えて一種の言語とも共通の通信手段から始まったというのではないか。ジャングルなどでの実際はよく知られている。動物の皮を利用して太鼓ができ、スジを使って撥弦楽器の原型ができたのも知られている。これらはいずれも音を持続させることはできない。一方草笛・葦笛なども相当早くからあったことは遺跡・壁画などで知れる。これに金属の利用が広がって「ラッパ」が現れた。信号ラッパだ。これ等は「持続音」が出せて、いくつかそろえて鳴らすと「和音」ができる。人の声も幾人かが一斉に持続音を出すと和音ができ「和声」の発見になった。

 この和音の発見が西洋音楽の起点だと小生は思っている。東洋・中近東では殆ど関心を持たれなかった分野だ。

 その後、動物の皮の利用で手風琴のようなもの、バグパイプ等が発達し、オルガンになったことも知られている。打楽器はその先「ピアノ」たどり着いた。

 西洋音楽は「鳥」からというのは、例えばギリシャ時代の遺跡・壁画などに描かれた楽器を持った姿の周りに鳥が飛んでいるのをよく見かけるし、キリスト教の色々な逸話のなかにも「鳥」との会話等あって、少なくともこのような「記録」のある時代から西洋では音楽と鳥は相当意識され近親感を持たれていたと察しられる。近代になって、無調や十二音階等の考えが広がると、かえって「音楽の原点」に思いをはせる人が出てきたのはある意味当然のことで幾人もの作曲・音楽理論家が出てきてそこに「鳥の声」が再度注目されることになった。

 しかし、これはあくまでも西洋音楽でのことでしかないと思う。東洋ではついに「和音」が生まれなかったし持続音の楽器も「草笛」が少し上等になった程度の物しかない。中国でラッパ系の物が出来はしたが信号ラッパの程度を超えなかった。雅楽・ガムラン・京劇を見ればすぐに分かる。

 哲学的・思惟的には考えられるとしても、和音・和声のことを思うと如何な物か。モーツァルト・ハイドン・ベートーヴェン・ラベル・等「鳥」を表現・題材にした作曲家がいるけれど、そしてカザルスの「鳥の声」も「名作」と言えるのかなあ?

 というわけで小生にとっては「鳥の声」が原点という説には乗れないなあというお話です。