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閑寂肆独白

ひまでさびしい本屋のひとりごと

教養の変遷。

2023-11-28 08:31:32 | 日記

   父の後を継いで古本屋になってザっと50年たちました。仕事柄、本の処分をしたいというお宅へ伺うのは昔からよくあることですが、お引き受けする「本」の変化というのは外の世界の方々には計り知れないことでしょうから感じたことを書き留めてみました。特にこのたびは企業戦士の方々に関してです。

1965年頃までは転勤してくる人のほとんどが「家族ぐるみ」でした、そして数年ごとの入れ替えがあり、転属の際、本を処分していかれるのですが、このころまでの方々は何らかの、例えば俳句・お謡い、あるいは植物、数学等の趣味や専門を持っている方が多く、処分される本も戦前戦後の風潮の名残も含めてかなり程度の高い「硬い」本が多かったと覚えます。そののちは処分の話が減ってきたうえに、その内容もだんだんと軽い内容の物になってきました。ことにいわゆるバブリーな頃になると全くダメでベストセラーや外交販売などの「数もの・軽いもの」ばかりという様子になりました。 読まれる雑誌も「世界」「中央公論」から「文藝春秋」そして週刊誌に、といった変化を少し違った観点から思う事があります。

 江戸幕府の時代以前から少し上流階層(制度・建前としての身分とは別で、商人でも農民でも)の人たちの「社交」といえば、先ず「茶道」「観能・演能」でしたこれはズット後、戦前、あるいは終戦後しばらくまで官・民間企業ともに変わらなかったと思います。 また、秀吉以来、茶会は重要で茶席に呼ばれれば、狭い茶室での会話は生々しい政治や商売、そして下世話な世間話では困る。茶碗・掛け軸はじめ諸道具の知識・故事来歴が話題になります。一方「能」も同じ様に、単に鑑賞するにせよお謡いをわきまえなければ話にならない、当然古典文学・意匠や所作の事も話題になりその知識も必要です。 という具合で、どちらも何らかの「教養」が必要でした。 ところが、戦後しばらくしてからは社交の舞台が大きく変化し「ゴルフ」「麻雀」になってしまったのですが、ここでは前記の様な「知識・教養」は「全く」必要ありません。本を読む代わりにせっせと「ゴルフ練習場」へ通う、あるいは長時間麻雀に浸る事になりました。このような世相の変化が「会社員、転勤族」の本の処分の姿にまさしく現れてきたと観察しています。また、このころから家族は東京に置いたままの「単身赴任」が増え、大牟田に「本」を置いていないという事も考えられますが、何しろ買い取りを依頼され目にする本の内容が全く「軽い」ものになってしましました。

 話変わって、団琢磨のことで、団は福岡藩の藩士の出自ですがとくに高位の家生まれではなかった、才能あって留学して高等技術者となり官営炭鑛に勤務しのち三井の傭員になったけれども趣味と言えるのは武士のたしなみの一つである乗馬で、また当時の上司に牧田環等のテニス好きがいて、そのお付き合いはしていたようだけれど、全体に教養豊かな人だったとは言難かったのではないでしょうか。それが出世し本社に勤務する立場になると「交際」の相手が田舎とは違うし、というので何か趣味を持つ、ことに上層階級との交際に必要な「謡」を習うよう周りから進言されて始めたという事で、もちろん謡が上手でも好きだったのでもなかったようです。彼の紹介記事の中には趣味人で謡に秀でていたと書いているのがあるけれどそれは「贔屓目」というものでしょう。英米に行ったことのある彼の事ですから「ゴルフ」は知っていたに違いないのですが、当時の日本ではまだ一般的ではなかった。

 ついでに付記すると、戦後のノンプロ野球では大牟田の東洋高圧が有名で数人のプロ選手がでましたが、前述のテニスも戦後しばらくは大牟田でも盛んで、コートもいくつもあり、企業出身の世界的なプレイヤーが生まれ、大牟田駅前には専門店として其名が知られていた運動具店がありました。

 上記の文は、「社宅研究会」に参加して資料集に色々な人の感想を載せるのに会員の感想は義務、だそうでいくつかの題材を考えてみたものの一つ。提出はしなかったものの折角だから残しておこう、というものです。「三井」という固有名詞はわざと書いていません。団琢磨に関した部分は余分な「附けたり」です。   


「日本軍と軍用車両」林譲治:並木書房 

2023-10-26 09:47:50 | 日記

 またしても「失敗の本質」の実際版である。

2019年発行なので 我店で手にするものとしては比較的新しい。

もとより戦前の機械・工作機・動く道具に関心があるので、入手してあまり間を置かずに目を通した(「読んだ」とは言い切れない) 15年戦争から、ことに太平洋戦争に至るいろいろな事象について輩は以前から度考えてついでいる。

よくもまあこんないい加減な偏狭な情報、身勝手な解釈・思い入れで戦争を始めたものだとこの手の本・研究などに接するごとに心底から怒りを感じ心の芯から冷たくなっていく。

 中支の戦線で「日本製のトラックに当たると助からない、フォード・GMのトラックに当たると「助かった」と感じた」という記事を以前に読んでいた。

一方で日本の飛行機で液冷エンジンがものにならなかった理由の一つにシャフトがヤワというのがあって、トラックも未舗装の悪路で重荷重で使うとシャフトが折れる、という事も書かれていた。日本は性能の良い「鍛造機」がアメリカ製で1台しかなかった(以前ある書物で知ったけれど記録しておかなかったので詳細は書けない)。輸入しようにもすでに禁止されていて入手不可、軍が同様の物を作れといっても全くできなかった。この液冷エンジンが日本で作れないのをドイツの技術者は理解できず不思議がっていたそうであるが、ドイツにはこのクラスの鍛造機はいたるところにあったのだ。ほかにもドイツ、あるいは欧米に比べて「近代戦」に対応できない化学工業・機械工作のレベルだった。

 これらのことは技術者が書いた戦時中の話にはいくらでも出てくる。

「零戦」「疾風」超大型潜水艦、あるいは大和・武蔵、等、個々には当時としては傑出した「単品」は作れたけれど、戦争とはそんなことでやれるものではない。

 この書によれば、日本のトラックも戦後米軍がテストしてみたところそんなに性能は悪くないという評価だったそうである。同じようなことが航空機でもあって二式大艇・疾風等当時の水準をしのぐ「製品」であったが、燃料・油・部品・整備体制、さらに運転・操縦者などが全く追いついておらず本来の性能を発揮できなかったことは知られている。いかに良い道具でも与えさえすればすぐに全能力を発揮できるというものではない。そこを全く理解できず精神論で乗り切ろうというのだからあきれたことであるが、では今日その反省は如何!?

 日本軍は日清日露の戦争・戦闘の仕方から全く進歩しないままだった。輜重・兵站を馬に頼っていたことでもわかる。

 過去のことを考えるのは未来を見るためだ、という事だが こと「戦争・戦闘」に関しては 今の日本は80年前と全く同じに感じられる。いまだに「巨砲・大艦」主義だと言って差し支えないと思う。戦前のように「打って出る」ことは考えなくとも「防衛」のためになすべきことは沢山ある。

北と中共のミサイルが脅威ならまず作るべきは「防空壕」 海上自衛隊の整備基地は丘の上から丸見え、何を積み込んだか、どこを改修したかなんでもわかってしまう。航空基地も数が少ない、陸・海・空の縄張り根性はかわっておらず、分散させておかないと危なく一気に潰されるというのに相互互換がなされていない、またその時周辺の住民をどう守るというのだろうか。等々。

UA・Marineの下請けの空母まがいを作るよりも、トマホーク・オスプレイを買うよりも、AAV7を配備する(たった数台で何ができるのか)よりも 「防衛」のためになすべきことは沢山ある。ナゼ1945年8月15日・9月2日を迎えなければならなかったのか 真剣な反省と「楽観的・希望的」ではない政治展望があるべきではないかと。


データベースのこと お付き合いと情報

2023-10-08 19:28:56 | 日記

 我店(小生というべきか)は 世間一般から見ると多分「世間付き合い」は広くなく、上手な方ではない。 これは同業者間についてもいえることで、市場で会えばそれなりの会話を交わす人はいるけれど、数からすれば少数。まして個人的なあるいは営業に関しても、市場を離れてもあれこれ連絡しあうような相手はいない。よそにはメール・HP等で日常的にやり取りしている人たちもいることが分かっている。 よって、当然ながら古書業界の情報の入手機会も少なく、かつ遅いのだけれど仕方がない。

 このところ聞えてきた話に骨董・古道具の業界で、旺盛だった中国系の買い手が全く元気がない、あるいは市場に姿を見せなくなった という事だ。これは古本屋にとっても面白い話ではない。これまで中国筋に売れるのをあてにして買い込んでいた人たちも困る。「風が吹けば・・・」ではないが、骨董・古道具の市が振るわないと買い出し屋さんたちの持ち込みが減って「紙物」も出てこなくなる、 骨董・古道具の「物」が売れないこのご時世に拍車をかけるようなことでは我らも困るのだ。 

 又別に聞こえてきた話。 地図類は割と早くからいわゆるデジタル化されて旧参謀部の地形図は全部コピーできるようになって価格は下落した。それより古典文学関係ではでは論文のデータベース化が早くからあって、「〇●論文集・〇●研究」がほぼ全滅してからかなり時間がたつ。そしてこの頃は過去に刊行された「地方史・誌」がそうなっているそうで、いわゆる「郷土史もの」の販売は全滅の危機だそうである。

 江戸時代などの古典籍と言える書物がインターネットで見ることができるのはもちろん便利で われらも「はてな」というものの確認ができるという利点はある。しかし、刊行物が次々とネットで見ることができるとなると古本屋の出番はどうなるの? 以前反町氏が「日本の古本屋(の店舗数)は半分以下になります。定価に左右される本を扱っていては生き残れません」との言葉がまさに現実になってきたと言える。 我店はもとより先行き長くはない。よそ様に比べれば多いとは言えないとはいえ在庫の(有効な)処分をもっと真剣に考えなければならない。  もとより面倒がり屋で業界の関係の機関誌等全く見ないで来ているけれど、ネットだITだという世の中はそう言ってはおれぬかもしれない、と

 いよいよ面白くない世の中だなあ と。


またしても「間違い」見つけた。

2023-09-29 09:41:10 | 日記

「Y歌を聞きに行く」五木寛之:「ふるさと文学館」第47巻 福岡Ⅱ 所載。

筑豊の想い出を語る文で表題のように昔聞き覚えの猥歌のもとを探った話。   

「ぼんぼよ」を繰り返す 数え歌だが 「名前」がない。そこで新聞記者を通じてあれこれ探る中で446pに「四十年の炭坑生活をふり返ってかかれたという伊藤晴雨の『うたがき炭鉱記』によれば・・」とある。(456pにも同様) 少し幅のある本好きならすぐに分かると思うけれどこれは「時雨」の間違いである。これは平成七年(1995)の刊行で、五木の昭和44(1969)の文章を載せたもので、いま初出の文藝春秋を確かめるまではできないけれども、五木は晴雨のことを知らないとは思えず、これを採用し、新たに組みなおす時間違ったのだろうけれども、「校正・校訂」がなされていないことが 知れてしまった。伊藤晴雨は全くの畑違い、古典的SMもの「責め絵」の大家であって晴雨が知ったら「アホくさ・何やってんだ」というだろうし、伊藤時雨氏からは怒られても仕方がない間違いだ。

 いつものことで小生が目を通す本は「新刊」という事はごくまれで、古本なので間違いに気づいても訂正の申し出のしようがないものばかり。 出版社の態度・力量を推し量るばかりで、「本」になっているからと言って信用してはいけない、という事の再確認ばかりでやむをえないとはいえ面白いことではない。

 ところでこの「ぼんぼよ」を繰り返す 数え歌だが 僅かに聞き覚えがある。ズット以前(昔と言ってもよい)上野英信と森崎和江の二人が大牟田へきて、その夕方、今はもうなくなった飲み屋で「歓迎会?」があって、武松氏の誘いで加わった。今にして思えば恥ずかしくなる「無知」な本屋だったがそのことはおいて、その際、森崎氏が歌ったのがこれだったと思う。参加していたほかの連中も「ぼんぼ」の意味が分からずポカンとしていて上野・森崎の両氏が苦笑?していたのを覚えている(ちなみに小生はわかった) そして小生は(歌はもとより)お返しの「芸」を全く弁えておらず「順番に」と言われて大変困った覚えはある。

 この時 上野氏は数日後に南米へ出発するという事だった。このことは後で本になり、「筑豊万葉集」で見ることができるが、当時の小生はなんのことだか分らなかったのも恥ずかしいい想い出である。

 


「町の小さな本屋さん」本村有希子

2023-08-29 14:45:05 | 日記

 「町の小さな本屋さん」本村有希子 2023・7・5 毎日新聞「水説」について

「町の本屋が減っている」おっしゃる通りです。それは「ナゼ?」か。

一言です。「本を読む人が減っている」からでしょう。この根本的なそのことはこの度は触れません。

なぜ「新刊屋」が(だけが)新聞雑誌の記事に、話題になるのでしょうか。

 「本屋は誰にでも開かれた生活インフラの一つだった、わざわざ出かける場所」

「毎日食事をするように、頭にも栄養を補給しないと」

 そんなことあるか?本当かいな?ウソでしょ! そんな人どこに?と言わざるを得ません。そういう人はいないからこそ店が立ち行かないのではないかしら。

新聞はじめマスコミに良く紹介される「本屋さん」はそのほとんどが「新刊屋」。その紹介文に曰く「個性的な品ぞろえ」「大書店では目につきにくい小規模出版の品も」等。で それがどうしたというのだろうか。

 小生に言わせればいずれどこの店頭も同じ品だし、一点売れても注文すればすぐ補充され同じものが並ぶ。出版・取次に頼らざるを得ない新刊屋の「個性」なんてたかが知れていると思いませんか。 一方で「古本・古書店」は如何。全国に千数百軒の店頭にはどこひとつとして同じ品ぞろえということはあり得ない。古書には問屋・取次はなく、仕入れは個人からの買い取りか市場で入札で買うかしかない。入手した物の中から自分の店に置きたいと思ったものを店頭に出しているのでまさにその店の「個性」そのもの。今一点売れたら次にまた同じものをと言ってもできない品物ばかりなのだ。 今お客さんに「受ける」ものではなく、「この品を見て・買って」という店主の主張なのだ。私事ながら我店の品ぞろえは地元には全く受け入れられていない。来店客の9割は「他所の人」地元大牟田の人が買ってくれるであろうことは考えにくい。長年何とか地元に受け入れられるよう努力してきたけれどまったく「無駄」と分かって「大牟田のお客のため」ではなく「この品を見て!世の中にはこんなものが、そしてここにあるぞ」という我店の「主張」の本しか並べないことになってしまった。

 古書店にはそれこそ江戸時代の物から並んでいてどうかすると博物館で触ることのできないような品も転がっている。ひと昔評判だった本が均一にあったり、逆に出た時定価350円の本が数千数万円などというのは全く当たり前の世界。要するに「定価」と関係なく時空を超えて今の価値観を表しているのが古本屋の店頭なのだ。それが自分にとってどんな価値を持つかは客自身で判断しなければならない。「新刊」を買うのはその価値・価格は定価任せで本当に「自分にとって」の価値ではない。

 「古本屋」の店頭こそ「多様な価値」の現実・可視化であろうと思います。

  「新刊屋」ってそんなに魅力的なの?という素朴な疑問です。そしてその取り上げられた店が果たして何年続くか? 3・4年後まだ活きているかどうかの「後追い」検証記事もあってしかるべきではないかと。(現に八女市2・3年で止めた店が2軒あって、開業時はマスコミの取材があってもそれが撤収するときは何にも報道・検証しないですね、もっとも本屋にかぎらないけれど・・)