先だって 日本の古本屋でまだ新刊と言える本に注文があって「新刊屋でサービスでつけてくれるブックカバーを付けてくれますか」という但し書きがあった。 即刻「我店は大手出版社の宣伝の手伝いはしない、云々・・。」と知らせたところ、「古本屋とわかっていて頼んだのだ、附けないと一言いえばよいのに余計な御託を付けて気分が悪いので注文は取り消す」と言ってきた。わが方にいわせれば「古本屋とわかって」というならブックカバーをつけて云々の文言こそ余計なご託と言わざるを得ない。
この頃、特に地方で新刊屋がなくなり、一方でこじんまりした「個性ある店」が増えてきたとの新聞記事をよく目にするようになっている。
以前から言っているようにこうなるのは「当たり前」。 新刊屋は基本的に出版社と取次の出先販売窓口に過ぎない。販売効率だけを言うなら(数字は想像だが)月々最低でも4百万円以上売り上げがないと成り立たない(取次が締め付けて引揚かかる)。ズット以前は参考書・全集・百科事典などの「実入り」の良い売る物があったけれど、週刊誌と文庫ではとても無理、一体どれくらいの購買人口が必要か、嘆くばかりの新聞記者はわかっていない。
さらに文庫などにつけてくれるブックカバーだって「タダ・無償」ではない、高くはなくとも有償で買わされる、そして宣伝を担わされている、先の注文者はおそらくタダ(無料)のサービス品だと思っているに違いない。
この頃、あるコンビニが雑誌・本を置かなくするという記事を見た。売り場効率に見合うとは思えないと以前から言っている通りこうなるのは当然。
こじんまりした「個性ある店」と言っても小生の知る範囲の店はいずれも「ブック・カフェ」という形態で本を売るのが主体という店は殆どない。仕入れも自分で選んだ出版社からの「直」というのが多く、その点は「個性的」と言えるだろうが如何にせんその売り上げは知れているし、売れ残ったのは「古本コーナー」とか「一箱古本店」等で何とか捌いている。
この現象はいわゆる「流行」であって長続きはしないのではないか。
今若い世代で「民芸」ブームだそうである、「温かみのある個性的な作品」が魅力とあるが、五・六十年前の民芸運動・ブームを知る小生にとってはなんともいじましく比較にならないとしか思えない。今のブックカフェブームと同質・同時進行。その理由は明確だが今ここで論ずることでは無かろう。
ブックオフの出現以来、古本屋という職業分類の名前は知られるようになったけれども、そして警察の管轄としては「古本屋」に違い・差はないけれど、我が家のような店にとっては実に迷惑。 世の中、ことに大牟田近辺では、ブックオフが「古本屋」であり我店は「変な店」という事になっている。 大牟田の人たちがいかに古本屋を知らないかについては以前にも書いた。 状況は変わらず、店の中に入って棚の本を眺め・手に取るのは依然として「他所からの人」。