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閑寂肆独白

ひまでさびしい本屋のひとりごと

或る注文 新刊店との違い

2025-06-16 07:29:30 | 日記

先だって 日本の古本屋でまだ新刊と言える本に注文があって「新刊屋でサービスでつけてくれるブックカバーを付けてくれますか」という但し書きがあった。 即刻「我店は大手出版社の宣伝の手伝いはしない、云々・・。」と知らせたところ、「古本屋とわかっていて頼んだのだ、附けないと一言いえばよいのに余計な御託を付けて気分が悪いので注文は取り消す」と言ってきた。わが方にいわせれば「古本屋とわかって」というならブックカバーをつけて云々の文言こそ余計なご託と言わざるを得ない。

 この頃、特に地方で新刊屋がなくなり、一方でこじんまりした「個性ある店」が増えてきたとの新聞記事をよく目にするようになっている。

 以前から言っているようにこうなるのは「当たり前」。 新刊屋は基本的に出版社と取次の出先販売窓口に過ぎない。販売効率だけを言うなら(数字は想像だが)月々最低でも4百万円以上売り上げがないと成り立たない(取次が締め付けて引揚かかる)。ズット以前は参考書・全集・百科事典などの「実入り」の良い売る物があったけれど、週刊誌と文庫ではとても無理、一体どれくらいの購買人口が必要か、嘆くばかりの新聞記者はわかっていない。

さらに文庫などにつけてくれるブックカバーだって「タダ・無償」ではない、高くはなくとも有償で買わされる、そして宣伝を担わされている、先の注文者はおそらくタダ(無料)のサービス品だと思っているに違いない。 

この頃、あるコンビニが雑誌・本を置かなくするという記事を見た。売り場効率に見合うとは思えないと以前から言っている通りこうなるのは当然。

 こじんまりした「個性ある店」と言っても小生の知る範囲の店はいずれも「ブック・カフェ」という形態で本を売るのが主体という店は殆どない。仕入れも自分で選んだ出版社からの「直」というのが多く、その点は「個性的」と言えるだろうが如何にせんその売り上げは知れているし、売れ残ったのは「古本コーナー」とか「一箱古本店」等で何とか捌いている。

 この現象はいわゆる「流行」であって長続きはしないのではないか。

 今若い世代で「民芸」ブームだそうである、「温かみのある個性的な作品」が魅力とあるが、五・六十年前の民芸運動・ブームを知る小生にとってはなんともいじましく比較にならないとしか思えない。今のブックカフェブームと同質・同時進行。その理由は明確だが今ここで論ずることでは無かろう。

 ブックオフの出現以来、古本屋という職業分類の名前は知られるようになったけれども、そして警察の管轄としては「古本屋」に違い・差はないけれど、我が家のような店にとっては実に迷惑。 世の中、ことに大牟田近辺では、ブックオフが「古本屋」であり我店は「変な店」という事になっている。 大牟田の人たちがいかに古本屋を知らないかについては以前にも書いた。 状況は変わらず、店の中に入って棚の本を眺め・手に取るのは依然として「他所からの人」。

 


或る問い合わせ。

2025-05-12 23:25:19 | 日記

電話があった。「ちょっとお尋ねしますが(この「ちょっと」が曲者)上内の方で百姓が何か騒動したという事の本がありますか」という。

 「そのような本は有りません、「本」になるほどの資料はなく調べた人もいないわけではない、という程度です」 「本がありますか?」「今言った通り本ではなく考証・論文がある程度です、知る限りかつてSa氏が何かに書いていた覚えはありますが、上内の百姓の云々とは逃散の事ですか」 (返事がない、逃散という言葉を知らないらしい)「それはありますか?」「ありません、というより何に書かれていたかを覚えていないのです」「その資料が手にいることがありますか?」多分ないでしょう、入手できたとしたらそれは柳河の古文書館へ持っていくことになるでしょう」「大牟田ではないのですか?」「上内は柳河藩領です。今の行政区画とは違います、多分ないというのはもとより百姓の事件で自分で記録はしない、藩でも不名誉なことで表ざたにしたくない、というのでしっかりした記録はあまり残らないものです」「Si氏は書いていないのですか」「彼の関心の方向ではなかったし、先に言ったSa氏が調べていたので手を付けなかったのではないでしょうか」「はあ!?」と納得いかない様子。

 この人は以前からの顔見知りで、何かの催しの案内や切符を買ってくれと店頭に来たことは数回あったけれど、店の本・棚を見ることは一度もない。 どこかで聞きこんだ不確かなことを古雅書店に聞けば何とかなる、してくれるだろうという「期待」、その手には乗りません。「〇〇はないか?」とか「探している」という電話は本当に碌な話ではない。

 そもそも、古本屋・ことに我店は「待ち売り」が基本、多量の本の中から我店の店頭に、と思った品々を並べ「どうぞこの中から選んでください」という立場。 誰かさんの為に「探してあげる」あるいはこちらからお勧めする という事は基本的にしない。 上記のような人は自分の思ったものはすぐに手に入ると信じて疑わない、「どうしてないのですか」などという。「あるわけないでしょう!論文のたった数ページの一項目で済むものが「本」になるわけはないと言っても判ろうとしない、自分で調べようともしないで(上記の人も図書館にも歴史資料館にも行っていない)「ちょっと」教えてくれるだろう、そして「無かった」と言ってそれで安心して止まってしまうのだ。 以前には「どこの本屋にもなかった」という人がいて、どこへ行ったのですか?と聞けば大手の書店の支店を回っている、同じ店をまわってもある訳はないではないか。当方から見ると「無かった、手に入らない」ということにして自己満足しているとしか思えない。  繰り返すが 古本屋は「あなたが探し出す」場所、いわば釣り堀であってさばいて切り身を作ってあげる店ではない。まして学校・図書館・資料館ではないのであって 教えてあげなければならない理由はないと思う。


「雪中群烏図」をチラ見した

2025-03-27 20:58:13 | 日記

  日頃雑多な本を扱うのはまあ当然の事で、「本というもの」にあるいは不感症になっているかもしれない。

 或る文芸書で 帯付き函入りの綺麗な本が何となく目について、拾い読みをした。  円地文子「雪中群烏図」。  カラスを観察者に見立てて自分の生活、身の回りの出来事、彩りを短い文章にえがいた商品・随筆集。

 カラスの眼線で語るというのも面白い着想だけれども、素人目には何でもない生活の中の襞ともいうべき小事件をうまく表現しまとめているところが さすがに「作家」の仕事と言わざるを得ない。

 よく、「短篇の名手」「随筆家」と言われる人たちの作品はどれもそこいらの普通人にとってのありふれた事の様なものをうまく「読ませる文章」にしているのはさすがなものと思わざるを得ないし、その底力、筆力があってこそ二思い至らなければならない。

 かの様にここに取り上げなくとも色々・雑多な本に目は通していてそれぞれに「感想」はあるけれど、まさに筆力不足で紹介することができないのを歯がゆく思うばかり・・。


直近の宅買い

2025-02-16 23:11:59 | 日記

 

昨年暮れから、市内の住宅地の家から本の買い取り依頼があった。亡くなった方の蔵書で家は近々売却するという話。 不動産屋から本は処分しておいてくださいと言われたそうだ。

 伺ってまず奥の部屋、相当な量の文庫類、少し古くて池波正太郎や司馬遼太郎

あたりのものがズラリとある、そしてその多くが新刊屋でつけてくれるブックカバー、その上に手製のセット函にきっちりと入れてある。殆どがもらえないと伝え、では次の部屋へ、8畳位の部屋に鉄製の事務用の大きな書類棚、普通の書棚、天袋、等にぎっしり。全部紙カバー、それもご丁寧にテープで止めてある、さらにセットや関連ごとにこれも手製の函、それもポスターなどの硬い紙で全部覆ってある。 そのために本自体はヤケるはずもなく綺麗。 しかし、いかに題名が記されていても我らにとっては表紙を見ないことには、奥付を見ないことには判断できない。 というので全部のカバーを剥し、せっかくの函だが不要なものがほとんどで、捨てる紙が山の様になる。聞けば、持ち主は何か進行性の病気であったそうで進行を止めるいわばリハビリのための作業として好きな本の包造りをしていたそうである。貴重面にきっちりと作ってあるうえに書棚の中も指が入らないくらいきっちりと詰め込んで(当然奥まで2段詰)あって取り出すのも大変。 時代小説や歴史物の一般書だけしかもほとんどがISBN付で、我が方としては触手の伸びる物ではないのでかなり逡巡させられるのだが、何しろ本は綺麗、帯付きの真っ新も多数とあっては捨てられないではないか。

 引きはがしながらの作業で時間がかかり、一度ではとても済まない、次にまた片付けに来られるときに回すことにしてバナナ箱6個+αで退散した。

そして今月再度伺ったのだが、今度は全集物が揃うかどうかも問題、ある作家の個人全集は揃っていて綺麗であったので良かったが、単行本が大問題、またしちょうどある市場にかかったので綺麗な四六版の小説類を50冊ばかり出品したが、全く誰も入札しない、持って帰りたくないのでフリに回してもダメ で結局百円で売ってしまった。一冊たったの2円!「文庫ならなんとかねえ」という事。我店でも多分百円均一でも売れないだろうし、数冊の続きものは売り様もないのだ。 要するにこんなものは引き取ってはダメ、という事。 まだかなり残っていてもう一度うかがう事になっているが さてどうしたものか 困った。


正月恒例(?)の・・・・

2025-01-04 20:28:36 | 日記

穏やかな新年の始まりでした。いつものことながら 特別にすることはなく、庭木の手入れと 書庫の普段やらない整理程度で時間は過ぎていく。

 2日はこゝ5・6年続いている「乗り物遠足」 まだいったことのない「線」が主眼だが地理的に限られていて、今やとにかくやったことのない、というのを潰す小旅行になっている。

 今回は水害でつぶれた宝珠山あたりの英彦山線に代替手段として動き出したBRTなる物に乗ってみようという事になった。

 夜明駅で列車を降り、待つこと10分ばかりで添田行のBTRがきた。日田から出てくるので先客あり、座席十数席の小型のバス。以前はタクシー会社のマイクロバスだったが、こんどは背が高く窓が広い可愛らしい姿。宝珠山までは旧線路時期ではなく一般道、ただし停留所はかなり増えていて住民の便を思ってのおことだろう。宝珠山からは鉄道敷きを舗装した一方通行の専用道路で電動バスという事もあって静かで快適な走行。ただし肝心の石造りのアーチ橋は自分自身がその上に乗っているので、ただ高さを実感するだけで当然ながら見ることはできない。大行司と筑前山屋の駅舎は山崩れで全壊したので建て替えられていた。筑前山屋、ここで二人の乗客あり。その先はすぐにトンネル、長い!かつて九州で一番長いトンネルであったのを実感。 すぐに英彦山駅につくが ここは以前の代替バスでも立ち寄ったところ、ここからはまた一般道を走る。添田に着いた。途中下車する人なしで乗客全員がこのBTRに乗るだけの目的であった。

 ところでBTRとは何ぞや?であるが、BusRapidTransitというものだそうだ。

何でわざわざ英語!? 言葉の本来の意味とは違うのではないか。何処がRapid?何がTransit?  何も英語でなく「代替交通(手段)」あるいは「新交通」などの方がわかりやすいと思う、なんでも英語のしかも略号で言うのが流行っているようだが、英語の方は綴りが長くなるので便法として使っているのであって何も日本でまねる必要はないと思う。NHKでもMCというから何かと思えばメインキャスター、要するにアナウンサーのこと、リスナーというのも聴取者で何がまずいのか。ほかにもたくさんあるけれどもまた別の機会に。

 ところで、このBRT以外の九大線、添田線、筑豊鉄道、ゆたか線そして鹿児島線、全部にアジア系の外国人が乗っている。たった1両で全部で十数人の乗客の中でも、また篠栗からはお参りから戻る人がかなり乗ってきたがわれらの周りに日本語は聞こえない。しかも見わたせば若者ばかり。正月とあって仕事や研修の連中が休みで出てきているのだろうが、そして白人を見かけないのも驚きであった。  JRとBRTにカンパする小旅行でした。

 今回は「本」とは関係ないのですがたまには趣向を変えて。