閑寂肆独白

ひまでさびしい本屋のひとりごと

年末・年始

2018-01-28 07:31:54 | 日記
 以前にも書いたことがあるけれど、20年くらい前までは春休み、お盆、そして年末・年始には いわゆる帰省した人が 訪れてくださるのは当たり前であった。 学生というよりも 少し年上の院生、あるいは研究機関・博物館などの所属 といった人たちで、「ほう!大牟田からもこんなところに行っている人がいるのか」ということがよくあったのだけれど このところ全くそのような人たちの訪れはない。 以前来ていた人たちもそれぞれ年を重ね、両親がなくなって大牟田と縁が切れたという人は実に多い。以前 隣に百貨店があった頃は、家族と買い物に来て それは家族に任せ、自分はわが店を覘いてみるという人もあったけれども このようなことは望むべくもない。 単に本が売れなくなっただけでなく わが店にとってはよその情報が入ってこなくなったことを意味する。これが一番困ることです。 今年も3日から店を開けたけれど 来店客はほとんどなし。それでも3・4・5日とそれぞれに一人ずつあったのだけれど、いずれも入ってくるなり店の棚をズット見て回りと時々手に取ってみている。「ははあ、これは大牟田の人ではないなあ」と、「どちらからですか」と聞けば あたり!いずれもよその人、妻や親族が大牟田で彼らの里帰りについてきた。そこで本人はヒマ、「古本屋があると聞いたので来てみました」というわけである。 「古本屋らしい店ですね」というのはお世辞であってもうれしい。人口が10万人あってもだれもこの店に来てくれない というと そのことのほうがびっくりされる。「古本や、って時々覘いてみるものではないですか」というのである。
 別のこと。 このところ 「終活」を考えて これまで手を付けて来なかった函や書棚をゴソゴソ探っている。いろいおろなものが出てきて眺めたり、これは何だったかな、とやっていると全然進まない。そして「本」は売れないものばかり出てくる。先でものになるだろうと思ったものの・・・。書付やはがき、パンフといった「紙もの」には結構面白いものが出てきて、大牟田市をはじめ柳川などの史料室や図書館へ せっせと持ち込む事態となっている。それにしても 歴史は消え去るもの という思いは強くなる一方である。今小生の持っているいくつかの「コレクション」も この先活かせる場所がない。物好きの単なる収集物ではなく、歴史の中の一コマという位置づけが必要と思うのだが さて 如何なるでしょうか。
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