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閑寂肆独白

ひまでさびしい本屋のひとりごと

 庁舎問題について。 追記 

2024-01-30 20:52:04 | 日記

 大牟田は 明治半ば過ぎになって急激に工業都市として大きくなったので、いわゆる「歴史的遺産」と言われるものがほとんどない。しかも点在する「遺産」の大方は「企業関連」であって、純粋に大牟田住民・市民の財産と言えるものは存在しない。

市庁舎は明治以来の市の発展の戦前の頂点というべき昭和初期に、市の資金、市民の浄財、また当地の建築業者によって作られた、まさしく本市の発展の象徴というべき建物であることは論を待たない。  先の熊本大地震によって俄かに耐震基準が問題になって市庁舎も俎上に上がっているが、もっとも「危険度」の高いのは本館ではなく東新館である。まず建て替えるべきはまさに東別館であって本庁舎ではない。 このことはすでに指摘されているが、本庁舎東側に現在の中庭も使って多少高層化すれば今の本庁舎を含む事務床の面積は作れる。そこへ事務床を移転させ、その後に本庁舎の本体と内部空間の検討しても何も障らないのではないか。

さらに、人口減少と事務の電子化のをひかえ、事務床の必要面積がどの程度になるかの検討はどうなっているのだろうか、まさか今と同じ面積という事はあり得ないだろう。

庁舎の後の利用の検討は急がずに。事務床を移転し、補強工事が済んでから出来上がった空間を実見してから利用を考えればよいではないか、着手もしない先に空想でしかない議論で実りある計画が立てられるであろうか。

今や 昭和初期に建てられた庁舎は全国でも希少であり、しかもよそでは「県庁舎」。空襲にもあわなかった「市庁舎」の現役のままの存在はまさにまれである

 建築当時、この建物はまさか百年もたたずに壊されるとは思っていなかったはずである。コンクリートを主にした今風の建物はどこにでもあり、60年たてばまた建て替えることになろう、新築はお金さえあればいつでもできる、古きよきものを次世代に残す知恵と努力こそが大牟田の「知的財産」になろう。 今建て替えようという人たちはなぜ保存に反対するのか、「歴史的遺産」「文化の継承」という事をどう思うのか、聞いてみたいと思う。

大牟田にとっては全くかけがえのない「文化遺産」であることは間違いなく、これからも末永く市民にとっての駅前・国道沿いの「大牟田の象徴」として見守らなければならないと考える。

これからは追記です 

上記の部分は市に提出したもので字数の制限があって大幅に削ったもので、後になってやはり書き足りないと思うのはいつもの事ではある。

いわゆる名所旧跡などに なぜ人は行きたがる、見たがるのかといえば、先ず自然であり歴史だろう。これは幾ら金をかけても智慧を絞っても同じものはもとより、これらを超えるものは作ることはできない、故に「見てみよう」という気のなるのだ。

大牟田に「観光資源」がないという人たちの方が建て替えに熱心なのは何を考えているのかと言わざるを得ない。

市庁舎は観光資源ではないという人もいるようだが、我々がいうように残しさえすれば「資源」になりうる。壊してしまえば「機能的庁舎」はできるが、そんなものはどこにでもある。まさか有名デザイナーに依頼して日本中から見学に来るようなものを作るつもりではあるまい、またそうしたところで一過性の人気に過ぎなく次に別の建物ができればもう忘れられるだろう。 いま庁舎を残せば(何度も言うように)80年の歴史という大牟田ではほかにありようのない歴史の遺産をこれからの市民にも感じることができるのだ。それを失う事に責任を負うことができるのか? 自分たちで大牟田の歴史を継承していこうとは考えられないのだろうか。

「観光」というのがこの頃何にでも優先する風潮は賛成できない。

観光は所詮他人の懐をあてにした「水商売」に過ぎないことを知るべきだ。一方で魚屋・肉屋・八百屋をはじめとする生活物品販売の

店がどんどんつぶれていくのには対策をせず、観光にかかわる商売を優先・熱心に応援するのはどういう料簡なのか理解できないのだ。

 


困った、世の中も我店もおかしな雰囲気です。

2024-01-08 06:57:20 | 日記

昨年来 日本だけでなく世界中でおかしくなり、ただでさえ困ったことだと思っていたら 年明け早々にさらに人災・天才と追い打ちがかかった。「おめでとう」とはとても言えないこの正月ですなあ。

 斯くいう我店も「火の車」状態。昨年末に一人だけ里帰りの大学関係者の来店があって、久しぶりに「学問の世界」の話を聞けたのだが、それきり。専門が違うので我店で買い上げてもらえたのはわずかであったがこれは仕方がない。

それどころか、4日から開店したのだが7日までに店内に入って棚の本を見てくれた客は一組だけ。30日と正月の2日間は来店客全くなし。 売り上げは5日間で店の外の均一と特価のみの1800円也。という惨状、加えて年末の注文で年明け早々に送った品が取り消しの申し出があった。5桁に乗る金額の品で我店としては大変困る話なのだが、我が方の状態の説明が足りなかったのが原因とあっては「それくらいの傷でどうして?」とは思っても受け入れて返金せざるを得ない。

 さらに3日には店の主PCが壊れた。作業中に画面が消え電源が落ちたので「あれれ!?」と電源を入れたら数秒後にまた切れた。変だなと思って再度電源を入れたところ「ボン」だか「ドン」だかという小さな爆発音がして切れてしまいウンともスンともいわなくなった。幸い補機のPCがあって急場はしのいでいるが不便。早速PCの管理をお願いしている人に連絡し代替の機種を推薦してもらったけれどこれが6桁の金額。 まだある、暮れには眼鏡を落として片方のレンズが割れた、幸い以前に買い替えた時のレンズを持っていたので付け替えて、新しいのがつくまでしのぐことができたのだが、それが到着すれば5桁の出費、さらに、数日後には車の点検だが、タイヤを替えなければならないはず、となると点検代金と共にこれもまた5桁の出費。来月・再来月のカードの支払いは一体いくらになるのだろうか、こんなに思いがけぬ出費が重なるのは経験がないとおもう。

出ていくのは仕方がないとして、店の売り上げが全くないのは根本的問題だ。 これまでも決して良い売り上げではなく、市場とネットの売り上げを加えて何とかしのいできた。 いくら「大牟田のお客を相手にせず」を標ぼうしているにしてもこのところの状態は尋常ではないだろう。大牟田の中心商店街と呼ばれ留通りの真ん中にありながらのこの体たらくである。しかし今更中心商店街の衰退を嘆いても始まらない。 日本の古本屋の登録点数を増やすことを考えなければならないが、問題は「保管場所」なのだ。

 百均・特価台については別の機会に記そう。

 


高校の同期会をやるそうな。

2023-12-25 20:24:30 | 日記

 1966年に三池高校を卒業したわれらは来年77歳、いわゆる喜寿である。

 そこで途絶えていた同期会を復活、というよりもおそらく最後になる集まりをやろうとどなたかが発案した。 この地元大牟田ではこゝ7・8年やっていない。 東京周辺在住の連中は時々あっていたらしくそれも都内ではなく伊豆・箱根などへの小旅行であったそうだ。  

 斯くいう小生は同期会というものにこれまで3・4度くらいしか顔出ししていない、それもその当時の世話役の度重なる誘いに「顔」を立ててのことでわが方から希望してのことではなかった。まして三池高校同窓会へはある例外の一度を除いて全く出席したことはない。 もとより小生は帰属意識が低いことは言うまでもないが、われらの同期は600人超!アルバムを見ても3年間に言葉を交わしたことのあるのは圧倒的に少なく全く覚えのない人も多い。 卒業後薄いながらも付き合いの続いているのは一体何人いるかしら。 

 同じ高校に集ったのは、入試という選択を経てきたとはいえ基本的に偶然に過ぎない。それなのに同窓・同期だというだけで均し並に見られるのは嫌だし、前述のように顔さえ覚えていない輩に「ヤアヤア」と懐かしげ、親しげに声をかけられるのは納得がいかないのだ。

 我店は「中心商店街」の中にあって場所がわからないという事はあり得ず、帰省して立ち寄ってくれた者もそれなりにいて、卒業後十数年は帰省のたび家に帰るより先に我店に立ち寄ってくれたのもいた。しかし 両親が亡くなったり引っ越しなどで大牟田に寄る辺のなくなったものも多く、この頃では定年を過ぎ、実家の処分や墓仕舞いで来た、というのばかり。 又、これは小生の方の問題だが、趣味である音楽・文学 あるいは歴史等に話題を共有できる輩がいなくて、同期会に出席したとしても小生としては話の接ぎ穂がないことが目に見えている。 誰それの消息や健康、孫の事等の話題に付き合う気になれない。


いろいろ読んで(目を通して)いると・・

2023-12-14 08:29:22 | 日記

日々あれこれと雑多な本を手にしていて、時々手が止まって拾い読みをする。大方はどんな本かわかればよい、ですむ。中には興味を引く部分があるのは当然だが数日前 あれ!と思った写真と解説があった。

 「ボデイウォッチング」の中の「腹」に関するところの下部に「ベリーダンス」の写真があって其説明に「起源は、ハレムの女性たちが主人の肥満した体にまたがり、相手の性的満足を助けるために腰を活発に動かした時代にさかのぼる。今日ダンサーが示す腹部のうねり、回転、突き出す動作は、伝統的民族舞踊の動作と言われるが、実は昔のハレムでの性交の動作を様式化したものである」と。 いわゆる「騎乗位」のことで、さらに言えば、腹の突き出た相撲取りの性交はどうするのかなあと、漠然と思ったことがあったがこんなにあからさまに「説明」されるとは思っていなかった。そういえば「リンボーダンス」も女性の局部の筋肉を鍛えるためだという話を聞いたことがあったなあと思い出した。

 以前、久留米に「ベリーダンス教室」があって、何かのきっかけでその指導者と参加している幾人かと顔見知りになっていたことがあった。いずれも若くて(ガキではない)それなりに魅力のある人たちであったけれども、彼女たちがこの由来を知っていたのかどうか、事を知った今になって大変興味が湧いてきた次第。 

 


後始末にむかって

2023-12-06 08:56:06 | 日記

 先日あるところで同業者に出合った。普段の付き合いはなかったのだけれど彼がガンで体調悪く営業を止めなければならなくなったことを人づてに聞いていたので声をかけてみた。見た目はさほど変わったとは思えなかったが、抗がん剤のせいで一昨日迄枕から離れられなかった、との事。容態については口だす立場でないので店の後始末の話になった。以前に店舗の移転をしたときは「先がある」というので倉庫を借りて保管したが、この度は店のビルそのものを売却するので「すべて片付けなくてはならないのが実に大変」とのこと、さもあらんと思った次第。

我店も小生はすでに76歳、どう頑張っても活動できるのは後数年でしかないだろう。しからばこの店・住まいはもとよりまず在庫の本、家具や蒐集物の行き先、あるいは処分をもっと真剣に考えなくてはならない。 これこそ「わかっちゃいるけど・・・」でなかなか進まない。

在庫の本もこのところ市場での入手はもとより、宅買いも控えているのだけれども、それでも一向に減ってくれない。ネットで売ろうと思ってもその本に十数人多いものはもっと出品されている品を今更わざわざ掲載する気にならない。「ちょっと面白そう」と思っても世の中には腐るほど出回っていることを知らされてゲンナリさせられる。

 上記の書店はまず半額セールをやり、残ったものの一部は市場に出品したが、括りの一般的な本の山には買い手がつかず、という状態だったそうで、どこの本屋も似たような「中途半端」な本は多すぎて持て余しているし、今は「これは売れる」という分野がなくなって平準化してどれも「急がなくてもそのうち手に入る」というものばかりで無理に買わなくなっている。ほかの市場でも似たようなもので、中途半端な本は「ゴミ扱い」である。

我店の柱の一つであった炭鉱関連の資料も「資源枯渇」、出てくる、または所持しているであろう、と見込める機関・事務所・人が全くなくなってしまって、入手の見込みがないのだ。一方の郷土史も似たようなものだが、これはまた売り先も先細り。ある市では市史編纂の事業が済んで、資料購入の予算がなくなってしまって「もう買いません」と。資料になる物はいつ出てくるかわからないのに期限が来たので買わない、とは何という事かと思うけれど、これは複数の市での現実である。

「一般書は安くすればいいではないか」ともいえるが、通り値が数百円の物を百均にする気になれず、また百均にしたとしても売れないことは実感している。

せめて今の在庫を半分にしたいと思っているけれどかなり厳しいですなあ。