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閑寂肆独白

ひまでさびしい本屋のひとりごと

松本清張 他

2024-05-06 07:38:57 | 日記

例によって輩の目にする(読む)本は「新刊」はまずない、

 1974年刊の松本清張「文豪」を読んだ。特に理由があってのことではなく、「たまには小説でも」と思った目の前にあったというだけのこと。 しかしながら読んでよかった。大方の本は大なり小なり何なりと「得るもの」がある。

 この度は松本清張という「小説家」の力量・才能・筆力などに改めて「すごい人」だなと思った次第。もとより輩は単なる「野次馬」に過ぎないので確信的なことは言えないが、坪内逍遥に関して何らかの情報を得たことに始まって彼一流の「詮索・探索」が始まり、周辺の人々を加えて「小説」に仕立てたものと思われるが、主人公の個人の一人称ではなく狂言回し的な人物を仕立てて組み立てた「小説手法」は見事だ。 これが「評論」専門の書いたものではおそらく味も素っ気もない「考証」になるだろう(実際にあるようだ)。 情報収集と咀嚼力は言うまでもないけれど、似たような司馬遼太郎との違いも面白いと言えるだろう。司馬の文章は一種独特の言い回しがあって彼のファンには素敵に思えるだろうけれども、輩にとってはそうでもない。一方松本清張の方は特に言い回しに癖があるとは言えないのではないか。同じような作家の吉村昭も(なんとも言えないが)独特の雰囲気(語り口とは言えないかもしれない)を持っている。

 山田美妙との関係も知らなかった。 明治半ばから活躍した人たちは文人に限らず「曲者」と言えそうな人たちばかり。 今や遊郭は無し、貧富の差もこのころほどではなし、肺病も少ないという状況の違いはあるけれども、今の「作家」で将来其個性を云々される、あるいは醜聞がかえって肥やしになったなどという(ある種の)力量を持ったのがいるだろうか。

 話変わって、この頃は「ライトノベル」なる名称があって(ひょっとすると日本の造語?)ごく軽い内容の「簡単に読める」、ことにネット配信で読める「小説」というのが流行っている(ようだ)。 「本屋大賞」という「店員がお勧めする」という「基準」も世の中ではうけているようでことに新聞がよく「宣伝」してくれているようだ。しかしその大賞もすでに21回を数えるそうだがではその受賞者で今に知られているのが何人いるか?もとより芥川賞だって受賞はしたもののその後消えてしまった人は少なくない。そのライトノベルは大方がすぐに「文庫版」になり我店にも流れてくるのだけれども、どれもこれもネットで見れば1円とか良くて90円 100円という状況。帯付きのピカピカであっても100円均一に入れるしかない物ばかり。はかばかしくとは言えないまでも売れてくれるので売りあげの足しとして一応助かるのだが まるで面白くない。  明日になったら忘れてしまうような「本」ばかりではいわゆる「本離れ」を助長すると思うのだがどうだろうか。


音楽再発見の日々

2024-04-11 07:59:49 | 日記

  このところ「眼を通す」本・活字は相変わらず多いけれども大して本を読んでいない。

 一つには「眼」の具合である。老眼の進行具合とレンズがうまく合っていないのか、近場の物を見るのが 何とはなしに具合が悪い。  もう一つ原因(?)がある。 楽器を弾くのをやめてからは 夕食の後「ヒマ」になる、そして飲酒を制限された、となると読書の機会が増える、ハズであった。しかしそうはならなかったのがFM放送である。夜7時半頃からほぼ毎日あるクラシック音楽の番組を聞くようになった。そもそもBGM程度でさえその曲が気になる質なのだが、この時間の演奏はまず「聞き流し」ができない。譜面を用意してかじりつくわけではないけれど、「気になる・耳が離れない」 当然ながら「本を読む」ことはできない。場合によっては放送が終わっても余韻といえば聞こえがよいが、気になってそのことを調べたり、と色々。 おかげでこれまであまり聞かなかったピアノ・声楽、それに現代曲等も聞くようになって新発見多数。要するにこれまでいかに音楽を知らずに過ごしてきたかを思い知らされる時間になってしまったのだ。 音楽の知識が増えてもこの歳の小生になんの足しにもならないのになあ、と思いながらも止められない。 それぞれの演奏への感想は当然色々だけれど、時々「解説・司会者の感想」に本の場合と同じく「ちょっと変?」というのにも出くわすけれど録音して云々というまでの事もなし。  好みというのはかわるのものだが現在言えるのは「マーラー・ショスタコーヴィッチ」が嫌い、ことにシンフォニーはまず聞く気にならない。ショスタコーヴィッチがピアノ演奏がかなりの腕前だったことはこのFMで知ったことだがそれにしても交響曲の「ダサい」のはどうしたことかと。指揮者・井上道義が得意としていたのは知っていて幾度かは(放送で)聞いたことがある、にもかかわらず小生にとってはホボ雑音でしかない。これは理屈ではなくあの「音数・和音・響き」が小生の耳には耐えがたい。

 ところで吾輩は世間付き合いというものが上手とは言えなく、この街に友人と言えるは少なく、それも親しいというのは殆どいない。いても「本・歴史」に関して語り合える、まして音楽については皆無で、全く話相手がいない。もっぱら読書やこのような「日記風・メモ」を書いたり、たまには「投稿」したり。この街の音楽事情については絶望的、現在進行中でまだ生々しいので腹の中に収めているが、あきらめが先に立っている。美術館も同じ、「箱」があっても文化とは違うのだ。


目の具合が面白くない でも掘り出したぞ

2024-03-19 21:08:09 | 日記

 このところ読書数が少ない。当然感想を書く、報告するようなものに行き当たらない。「目を通す」程度はそこそこにあるけれども大方はこれまでに感想を書いてきたような社会科学系、歴史がらみのものばかり。 たまに小説を、あるいは類似の文章を読もうかと思わないでもないのだけれども、もう一つの「読まない理由」は「眼の不具合」も否定できない。はっきりと視力の低下などがあるわけではないけれども何とはなしに読むことに集中できない。眼鏡の検査をしても「ピタッと」合う感触が得られず「何となく字を追いずらい」 こんなことでは本屋としては困るのだが題名と目次と奥付の確認ができないわけではないのでまだ様子見という所だ。

 目次と言えば 先だって倉庫のt中の古い雑誌類をあせくっていて(大牟田弁か?)ある雑誌の目次に野田宇太郎の名が見え、一応小郡に知らせたところ「持っていません」との事。感謝されて早速買い上げてもらえた(大した金額ではない)。 その後またしても目次に野田の名前のある雑誌を2冊見つけた。「柳の下のどじょう」の2匹目3匹目になるかどうか、まだ調べていないが、ことほど左様に終戦後(とは限らないか)の、ことに地方の小雑誌類は 油断のならないものが結構ある。様々な理由で文章が 載っても少し時間がたつと忘れられるのは実に多い。これらを掘り出す・見つけ出すのも古本屋の仕事の一つの柱と思っている。そうだ、文芸関連だけではない。市史編纂やある分野の研究の下支えをこの小さな田舎古本屋と言えかなりの仕事をしてきたと思っている。ただし、せっかく「これは何とかしなくては」と思って意気込んでも「予算がない・このレベルでは?」と言って取り上げてくれない事例もあって、当然ながらお金にはならず「倉庫の肥やし」というものも馬鹿にならない件数ある。「歴史は消し算」とはいえ残念なことではあります。


NZへ行ってきた。

2024-03-07 19:43:17 | 日記

 かねてからそのうちに 次男の生活の様子を見に行こうと思っていたがなかなか踏ん切りがつかなかった。しかし 夫婦ともの 年齢とこの頃よく起こる故障を考えるとそろそろ実行しておかないと時期を逸する、と思った次第。

 長男が海外旅行慣れしていて手配・手続きの一切を引き受けてくれたので大助かり。

着いてからは次男が車で迎えに来てくれていてその後の行動も一切車。当然ながら会話は全部お任せ、とあって小生はちょっとしたやり取りは少しあったけれども 妻は全く英語を話す機会なく済んでしまった。「揚げ膳・据え膳で何もしなくてラクチンだった」との感想。

 往復の飛行時間が9+3時間の椅子に座ったままというのが難点、腰が痛くなって帰ったら即刻マッサージに直行した。

 6日間店を閉めるというのは我店の歴史上初めてのことで、幸い生き物といえば緋鮒しかいないので多分死にはしないだろうという事にし、郵便と新聞を保留にして電話は留守録に、日本の古本屋は一時停止、と一応の備えはしていったが全く支障はなかったのは幸いだった。

 NZの印象は いつも言っている通りで、電線・電柱がない、看板がない、ガードレールがない、静か。 駐車が全部頭突っ込みなのはびっくり、小生のやっていることが当たり前というのはうれしかった。

ロトルアの町は公園の中に生活がある、木々は豊で大木が覆い茂っている。NZの面積は日本の9割くらい、人口は一割に満たない。日本では人口減少を大事件として騒いでいるが、多少減った方が生活は楽になるという小生の従来の言い分を目の当たりにしたということだ。工業生産や貿易が世界の何番目というのを競う必要はない。国民の生活を満たすだけのことでよいではないか。

他にもいろいろあって、忘れないうちにと、箇条書きに別途思いついたことを書き留めつつある。感想文・紀行文にするほどの文才はない。

帰路の飛行機からニューギニア南岸の大ラグーンを見ることができたのは望外の事だった。


「国を守る」とは

2024-02-20 07:57:01 | 日記

桜井某という元テレビ関係の老女が「国の為に死ぬ覚悟のある若者」がいるか?という発言をしたらしい(小生は直接には知らない)もと

より右派の発言をしてきていることは知っていたが、もはや老残、妄言としか言いようがない。 国民に死を覚悟した滅私奉公を呼びかけるより先に 権力の側に「若者が死地の赴かなくて済むような政治」を求めるのが「スジ」。これが最優先ではないか!

 今の政府に仮想敵国と明言している中国・北朝鮮・ロシアについてどれだけの「外交努力」をしているのか?拉致のことを言うまでもなく「無策」でしかないではないか。

 何度も言うが、「戦争は政治の失敗の尻ぬぐい」 権力者・政府は税金という国の資金を収めてくれる国民を守ってこそ「正当性」を謳えるのであって、その逆ではない。

 自衛隊の募集ポスターに「国を守る」とあるが、国の「何」を守るのか?全く示していない。日本語の曖昧さに付け込んだある種の詐欺行為である。国民・住民?国土(主権)?永田町・霞が関? あるいは天皇? 漠然としたいわゆるプロパガンダ、精神論を呼びかけているに過ぎない。これが日本を敗戦にした元凶であることを思わなければならない。

 國は国民・住民は守ってくれない。このことは明治以来日本の歴史にはっきりと示されている。「国家のため」という殺し文句に異議を唱えても圧殺されてきただけの歴史であって、国家が国民・住民を守ったという「結果」は全くと言っても過言ではなく「存在していない」

 右翼という連中の思想構造は小生には全く理解できないでいる。

軍隊・武器にあこがれる種類の人がいることは「趣味」の問題で小生が否定するわけにはいかないが、「平和のための」という冠がなければただの「やんちゃ坊主の趣味」の延長ではた迷惑でしかないだろう。

幼児性の現れといってもよいと思う。子供は誰でも「良いいおもちゃ・高価・高性能のおもちゃ」を欲しがるものだ、その性能が自分自身に本当に役立つかどうかは考えもしない。身近なところでは使いきれない機能満載の高級・高価時計、どこで走るのかという高性能車、

機能無視し見てくれだけの高価な服、使いきれない広さの住宅・あるいはホテル、いずれも自己満足だけならまだしも人に見てもらいたい自己顕示欲の結果に過ぎなく「幼児性」そのものである。

 自衛隊の装備に関しても同じようなことが相当みられる。安保協定という「縛り」があったとしても日本独自の発想・要求があってしかるべしと思う。トマホーク・LCAC・AAV・オスプレイ・戦闘ヘリ等(小生に言わせれば)US陸海・海兵の追随でしかなく日本では要らない。いずれも本場で生産が終わりつつあったり、見直しで打ち切られる装備の在庫整理でしかない。トマホークは幾人かの反対意見が見られた様に日本にとって有用なとはとても思えず、かえって危険なことになる。 トマホークが実用化され、横須賀に寄港する軍艦に搭載されるとき反対した人々がいたがマスコミはまともに応じなかった。トマホークのどこが危険でなぜ日本に不要かは別記しよう。言いたいのは「日本を守る」についてもっと真剣に考えなければならないという事だ。不勉強極まりない「利権」屋の議員に任せては「国を誤る」。