🍀般若心経の解説🍀26
🌸🌸「以無所得故(いむしょとくこ)」🌸🌸
「得(う)る所(ところ)無(な)きを以(も)っての故(ゆえ)に」
この箇所に相当しますサンスクリット文では、
「それ故に、得るということがないから」
「諸(もろもろ)の求道者(ぐどうしゃ)の智慧の完成に安んじて…」
と後の文にかかります。🎵
しかし、
われわれの玄奘訳「般若心経」では、
「是故空中」から「無智亦無得」までの前の文にかかっています。☀️
私たちはここでは、玄奘訳にしたがって読むことにしましょう。
しからば、
「無所得」とは「空☁️」と内容的には同じものといえそうです。
実践的には「執(とら)われの無い境地」ほどの意味に理解してよいでしょう。☀️
のっけから、むずしい解説になってしまい恐縮ですが、😵
まず、このことをおさえておいてください。
さて、禅宗のお師家(しけ)さんは若い雲水(修行僧)さんたちを指導するときに、
よく「無所得(むしょとく)、無所悟(むしょご)」といいます。
「むしょとく、むしょご」。
いい言葉🍀です。
皆さまも声を出してい言てみてください。
リズミカルでしょう。🎵🎵😄
長い間ひたすら座禅をしてますと、
ときとして、
「何かを得た!」
「さとった!」
と思うことがあります。☀️
しかし、
それは一時的な「魔心(ましん)(執われの心)」とみなされるべきです。🌸
それゆえ、師は弟子のさらなる精進⚡️を期待して、
「何も得てはいない。さとってもいない。まだまだ、まだまだ、」
という意味を込めて、
「無所得🌟、無所悟🌟」と叱咤激励(しったげきれい)するのです。💕
読者の皆さまの中には、
お茶🍵やお花🌸をたしなまれる方も多いでしょう。
長らく茶道🍵や華道🌸にいそしまれた結果、
「私は茶や花の極意を得た」と実感💓された方もおありでしょう。
しかし、そのようなときには、
さらなる向上をめざし初心💓にかえることが肝要🍀です。
「花伝書」をあらわした世阿弥は、
「初心を忘るべからず」といましめています。
「初心」とは、お茶🍵にしろ、お花🌸にしろ、座禅修行⚡️にしろ、
その道にはじめて入ったときの初々しい、清々しい心☀️です。
邪念のない、「空☁️」の心にほかなりません。
「無所得」の心とは、まさにそこのところをいったものといえましょう。
(「あなただけの般若心経」より)
🌸🌸「以無所得故(いむしょとくこ)」🌸🌸
「得(う)る所(ところ)無(な)きを以(も)っての故(ゆえ)に」
この箇所に相当しますサンスクリット文では、
「それ故に、得るということがないから」
「諸(もろもろ)の求道者(ぐどうしゃ)の智慧の完成に安んじて…」
と後の文にかかります。🎵
しかし、
われわれの玄奘訳「般若心経」では、
「是故空中」から「無智亦無得」までの前の文にかかっています。☀️
私たちはここでは、玄奘訳にしたがって読むことにしましょう。
しからば、
「無所得」とは「空☁️」と内容的には同じものといえそうです。
実践的には「執(とら)われの無い境地」ほどの意味に理解してよいでしょう。☀️
のっけから、むずしい解説になってしまい恐縮ですが、😵
まず、このことをおさえておいてください。
さて、禅宗のお師家(しけ)さんは若い雲水(修行僧)さんたちを指導するときに、
よく「無所得(むしょとく)、無所悟(むしょご)」といいます。
「むしょとく、むしょご」。
いい言葉🍀です。
皆さまも声を出してい言てみてください。
リズミカルでしょう。🎵🎵😄
長い間ひたすら座禅をしてますと、
ときとして、
「何かを得た!」
「さとった!」
と思うことがあります。☀️
しかし、
それは一時的な「魔心(ましん)(執われの心)」とみなされるべきです。🌸
それゆえ、師は弟子のさらなる精進⚡️を期待して、
「何も得てはいない。さとってもいない。まだまだ、まだまだ、」
という意味を込めて、
「無所得🌟、無所悟🌟」と叱咤激励(しったげきれい)するのです。💕
読者の皆さまの中には、
お茶🍵やお花🌸をたしなまれる方も多いでしょう。
長らく茶道🍵や華道🌸にいそしまれた結果、
「私は茶や花の極意を得た」と実感💓された方もおありでしょう。
しかし、そのようなときには、
さらなる向上をめざし初心💓にかえることが肝要🍀です。
「花伝書」をあらわした世阿弥は、
「初心を忘るべからず」といましめています。
「初心」とは、お茶🍵にしろ、お花🌸にしろ、座禅修行⚡️にしろ、
その道にはじめて入ったときの初々しい、清々しい心☀️です。
邪念のない、「空☁️」の心にほかなりません。
「無所得」の心とは、まさにそこのところをいったものといえましょう。
(「あなただけの般若心経」より)
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