【御座石】
中央高速 双葉スマートを降りてすぐにある分譲住宅地(双葉登美団地)の一画にあります。
住宅街を抜けていくとちょっとした公園(希望ヶ丘児童公園)になっています。
公園の中に巨石が横たわっています。
御座石案内 飯田河原の合戦と言えば甲斐に侵攻した駿河今川氏の部将福島正成率いる今川軍を、武田信虎率いる武田軍が撃ち破った戦いです。この時信玄が生まれ甲斐の国の建国へと至った戦いでもあります。
今川軍と対峙した荒川は、ここから直線距離で1.5㌔東にあります。
武田軍が布陣していた場所が不明ですが、荒川河川沿いだとすると、この場所から指揮を執るのは遠すぎるようにも思えます。
ミルフィーユ状に火山灰が堆積しているのが良く判ります。矛ヶ岳の噴火によるものと言われています。
周辺にも巨石が点々とあるのですが、どうみても不自然なので分譲地を開拓中に出土した堆積岩をここへ集め公園の庭石として置いたのではないかと推測しています。
【マップ】
【笠石】
御座石から5キロほど西へ行った甲斐市宇津谷の住宅地にあります。
高さ2.5m、縦3m、横5m 三角形の巨石です。
上部に小祠と名称が書かれた立看も出ているので、たぶん謂れがあると思い甲斐市教育委員会へ問い合わせて見ました。
諸説あるようですが、ヤマトタケルと武田勝頼に関する伝承がありました。
お送りいただいた資料を以下全文転載します。
宇津谷の枝村、同部落にある巨石の名から起こった。茅ヶ岳火山から噴出した安山岩で、表面に馬蹄形のくぼみがああって、次のような言い伝えがある。 往古、日本武尊が峡北地方のまつろわぬ者を討伐された時、この地で兵を休め、召していた笠を脱いでかたわらの巨石の上に置かれた。やがて進発の時、尊の乗馬が勇んで巨石をけったという。以来、この石を笠石と呼び、馬蹄形のくぼみはその馬のひずめの跡という。石上に尊を祭る小祠がある。(双葉町誌(1977))
天正十年三月武田勝頼は新府城に火をかけ天目山に落ちのび武田氏は滅亡した。新府落城のみぎり逸見道をたどる勝頼は夫人とともに、いく度か燃える新府城をふり返り感慨にむせんだという。立石原を過ぎ宇津谷を越したところに笠形をした大きな石を見付けた勝頼は馬をかけのぼして新府方面を読め、また古府中(山梨県甲府市街地北部にあった古地名 )さして落ちのびていった。その時馬 の蹄の跡がいくつか石にのこった。村人は勝頼の末路を哀み年々祭りを行い武田氏をしのんでいる。そして笠形の石はいつしか村名となって村人から離れがたいものとなった。(双葉町誌(1977))
両方の伝承に共通する内容に「馬の蹄跡」が残るとあります。
たまたま撮影していた写真にそれらしきものが写っておりました。
ヤマトタケルを祀ると伝わる小祠 祠の向きは東向き
笠石の名はこの地域の字名にもなっており、またこの近くには笠石道祖神などもあって昔から人々に大切にされてきたことは想像に難しくはありません。
注連縄も貼ってあることから何らかの祭祀がここで現在も執り行われているようです。
山梨県内でヤマトタケルを祀る神社として有名なのが甲府市酒折にある酒折宮です。全国各地に伝わるヤマトタケル伝承は、後付けの様な信憑性が低い伝承が多いのですが日本書紀に“酒折”の名が見られ蝦夷を平定した後に甲斐に立ち寄った事はあきらかで、県内の各神社にはヤマトタケルに関わる伝承が残っています。
《県内のヤマトタケルに関わる伝承がある神社》
酒折宮(甲府市)、玉諸神社(甲府市) 、弓削神社(西八代郡)、山梨岡神社(山梨市)、金櫻神社(甲府市)、美和神社(笛吹市)
また、興味深いのは、酒折宮の旧宮には磐座があり、玉諸神社の御神体は水晶玉、山梨岡神社の境内には多くの巨石、金櫻神社の御神体岩は金峰山の五丈岩、美和神社にも巨石が祀られています。
直接の関連性は定かではありませんがこの『笠石』にも小祠ですがヤマトタケルが祀られており巨石信仰との関りも興味深いです。
【マップ】
次回も楽しみにしています。
伝承を追いながら各地を散策するのは面白いですね。記事にもちょっと書きましたが特に巨石に纏わる謂れは面白いものがあります。もちろんどこかで聞いた事があるようなものも多いんですが、地域性や県を跨いで伝わるものもあったり、調べていくとなかなか興味深いです。