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ただ単なる個人の読書備忘録
た、ま~に更新

『世界屠畜紀行』 内澤旬子 著 (解放出版社)

2007-09-18 23:18:32 | 人生
 私は年に1度くらいだが熊料理を食する。食堂のオヤジが自らライフル(散弾ではない)で射止めた熊を。熊の掌などという高級部位にはありつけるわけがなく、私の口に入るのは単なる熊ステーキ。私は野生動物の肉が結構好きで、鹿、ウサギ、トナカイなど、美味しいと思うが、臭くて食べれないという人も少なくない。それはともかく、野生動物を射止めた、食ったと言うと、「残酷」と眉をひそめる人もいる。それもスキヤキやトンカツを食う人たちがだ。

 私の価値観では、野生の熊は人里に近づかなければ(人に見つからなければ)人間に食べられることなく過ごすことができる。しかし、牛や豚は、人間に食べられるために繁殖させられ、99.99%殺される。種牛になれば天寿を全うできるかと思っていたら、種牛なんて生殖能力がなくなれば即つぶされて終わり。臭くて食えないからだ。私は、和牛産地として有名な地域に多くの友人を持っているが、それでもに立ち会ったことのある友人は1人しかいない。畜産関係の商品を年中納入している友人ですらの現場を見たことはないという。その友人から牛をする方法を聞いた。農業用拳銃というもので牛の頭を撃ち、次の作業に手際よく移るため、痙攣する巨体を鎮めるために、頭部に電動ドリルを突っ込み脳を攪拌し絶命させるという。また、それまで「する」という言葉しかしらなかった私にとって、その友人の「つぶす」という言葉は衝撃的だった。また、食肉処理場は非公開だと思い込んでいたことや、ワードで「屠(ほふ)る」は変換されても「」や「屠畜」は変換されないことにも強い違和感を覚えていた。

 多くの日本人が、多くの食肉を消費するのに、その生産工程を知らないというのは、あまりに不自然ではないだろうかと前々から感じていたが、この個人的な思いをさらなるものにしたのは、友人がモンゴルを訪ね草原の人たちに歓迎された時に、ヤギを1頭料理してもらったそうだが、その儀式的なを見て、残酷ではなかったという話や、ヤギの臓器を手に取り嬉しそうにしている若いモンゴル人の女の子の写真を見せてもらった時だ。大量に繁殖させられ、工場で大量に殺される動物のことを思うと、動物愛護主義者でもベジタリアンでもないが、食肉の生産工程を知らずに肉を食べているということが「不自然」という以上に「卑怯」にすら感じてきた。

 そんな思いを延々と引きずっていた時に出会ったのが、この『世界屠畜紀行』である。著者が日本と8か国の屠畜現場を自費で取材して回った記録である。巧みなイラストで屠畜・解体・調理などの場面も描かれている。(臭いが実感できないところが残念)。最初に驚いたのは、私のように「肉を食べているから屠畜の現場も知るべきだ」と考えている人は極めて少数派(5%程度)でないだろうかという話。そういえば屠畜現場を知りたいと言ったとき「見ない方がいい」「見たら食べられなくなる」と言われたなぁ。

 この本を読んで確信できたことは、食肉は罪悪でもなんでもないということ。沖縄の方が言った「食べるために生きている」という一文。考えてみれば、プランクトンからクジラまで食べるために生きているのだ。そして、それは自然な連鎖を意味している。動物にとってはヨボヨボになって息絶えるよりも、ほかの生命体に食べられた方が、結果は幸せなのかもしれない。死んで、火葬され、骨壷に入れられ、自然界の連鎖から外れてしまうより。

しばしば、民家の近くに出没し捕獲されたツキノワグマを薬殺処理するニュースを耳にするが、薬殺処理は絶対に間違っている。山に戻さないのであれば、胃袋に入れて成仏させるべきなのだ。ただ、動物を食べることは罪悪ではないと思うが、家畜を生命と考えずにモノと考え扱うことは、天にツバしているようである意味コワイ。

 私にとっては食肉を考えるだけにとどまらず、自らの「生」をも考える1冊になった大作。手元にあるのは初版。テレビで紹介されてたようで良く売れているらしいが、良く売れているといっても3万部(2007年10月末)。これだけの大作を、調べ、書き上げ、ヒットして印税660万円かと思うと、ライターの仕事は楽じゃないな。  

(個人的評価:★★★★★)
(おすすめ度:これこそが「本」!)


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1 コメント

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同感です (イチ恵)
2008-03-25 00:51:50
ほんとに大作です。

熊を食べたり
モンゴルでご馳走になった友人がいはったり
「食」について考えるのに相応しい経験の持ち主でいらっしゃるんですねー

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