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エルミタージュ図書館

ただ単なる個人の読書備忘録
た、ま~に更新

『死んだら、あかん!』 北野 誠 著

2009-04-16 23:51:59 | 人生
 今回は例外的にブックレビュー外とさせていただく。

 私は北野誠のファンでもなんでもない。芸人とかテレビタレントというのは、良くも悪くもテレビの向こうの顔で、実際の人物とは同一でないと、ちょっと冷めたスタンスで見ている。

 ただ、今回の北野事件は一芸能ニュースとしてだけでなく、多少なりとも文章表現の世界に身を置いている私にとって看過できない問題に思えたので、この場を借りてペンを執らせてもらう。

 現時点(4月16日23時)でわかっていることは、北野誠は担当する深夜番組やイベントで失言をし、その結果、失言をしたと言われている深夜ラジオは打ち切られ、そのほかの番組からも降ろされ、無期謹慎処分となった。芸能界では薬物使用や傷害致死など、これまでさまざまな事件があったが、失言でここまでの処遇というのは聞いたことがない。というより、これだけネットなどが発達している今日においても昨日(15日)の時点で、何がそれほどまでの致命的な失言だったのかも明らかになっていない。

 そして、今回の問題の深刻性は、北野誠が担当しているすべての番組を降板させられるなどのことは新聞等で伝えられているのに、テレビの芸能ニュースなどでは(番組欄を見る限り)まったく扱っていないということだ。いつもなら芸能レポーターが先を争って報道する場面のずなのに。(それだけでなく、私の使っているブログのキーワードランキングに「ざこば」がランクインしているのに「北野誠」がランクインしていないのは明らかに不自然だし、ヤフーブログのキーワードの推移で見てみても「北野誠」は14日を境に急激に下降している。これは明らかに不自然である)

 今回の事件を見ていると、芸能界のスキャンダル暴露だとか写真週刊誌のスクープというのは「三位一体の法則」で成り立っていることがよくよくわかる。つまり、「スクープされる側」も「プライバシーの侵害」などと言いながら「スクープする側」「読者(視聴者)」と一体化し、それを宣伝(商売)に利用して成立しているのである。

 しかし、今回、北野誠は暴露してはいけない真実を暴露してしまったようだ。闇の世界を目の当たりにして、放送局も、タレント仲間も、芸能レポーターも、局アナも、北野誠を置き去りにしてしまっている。これでは「学校でイジメを見たら、見てみぬふりをするな」なんていうキャンペーンはマスコミにはできない。

 北野誠のしゃべりすぎ(名誉毀損)を指摘する声もあるが、芸人の言っていることなど良くも悪くも5割引で聞いていればいいはずだ。どんなにしゃべりすぎたとしても今回の彼に対するペナルティーは余りに不当で、まさに流行の単語の「パワーハラスメント」そのものだ。

 放送局の人間も、アナウンサー、レポーター、タレント仲間も、緘口令が出たら、それに従うだけなのか?

 小泉郵政改革などの時に公表されるべき事実がまったくニュースにならなかったが、今回の北野誠騒動は、大手マスコミというのは所詮、権力側の太鼓持ちであることを誰にでもわかるような形で浮き彫りにした。

『世界屠畜紀行』 内澤旬子 著 (解放出版社)

2007-09-18 23:18:32 | 人生
 私は年に1度くらいだが熊料理を食する。食堂のオヤジが自らライフル(散弾ではない)で射止めた熊を。熊の掌などという高級部位にはありつけるわけがなく、私の口に入るのは単なる熊ステーキ。私は野生動物の肉が結構好きで、鹿、ウサギ、トナカイなど、美味しいと思うが、臭くて食べれないという人も少なくない。それはともかく、野生動物を射止めた、食ったと言うと、「残酷」と眉をひそめる人もいる。それもスキヤキやトンカツを食う人たちがだ。

 私の価値観では、野生の熊は人里に近づかなければ(人に見つからなければ)人間に食べられることなく過ごすことができる。しかし、牛や豚は、人間に食べられるために繁殖させられ、99.99%殺される。種牛になれば天寿を全うできるかと思っていたら、種牛なんて生殖能力がなくなれば即つぶされて終わり。臭くて食えないからだ。私は、和牛産地として有名な地域に多くの友人を持っているが、それでもに立ち会ったことのある友人は1人しかいない。畜産関係の商品を年中納入している友人ですらの現場を見たことはないという。その友人から牛をする方法を聞いた。農業用拳銃というもので牛の頭を撃ち、次の作業に手際よく移るため、痙攣する巨体を鎮めるために、頭部に電動ドリルを突っ込み脳を攪拌し絶命させるという。また、それまで「する」という言葉しかしらなかった私にとって、その友人の「つぶす」という言葉は衝撃的だった。また、食肉処理場は非公開だと思い込んでいたことや、ワードで「屠(ほふ)る」は変換されても「」や「屠畜」は変換されないことにも強い違和感を覚えていた。

 多くの日本人が、多くの食肉を消費するのに、その生産工程を知らないというのは、あまりに不自然ではないだろうかと前々から感じていたが、この個人的な思いをさらなるものにしたのは、友人がモンゴルを訪ね草原の人たちに歓迎された時に、ヤギを1頭料理してもらったそうだが、その儀式的なを見て、残酷ではなかったという話や、ヤギの臓器を手に取り嬉しそうにしている若いモンゴル人の女の子の写真を見せてもらった時だ。大量に繁殖させられ、工場で大量に殺される動物のことを思うと、動物愛護主義者でもベジタリアンでもないが、食肉の生産工程を知らずに肉を食べているということが「不自然」という以上に「卑怯」にすら感じてきた。

 そんな思いを延々と引きずっていた時に出会ったのが、この『世界屠畜紀行』である。著者が日本と8か国の屠畜現場を自費で取材して回った記録である。巧みなイラストで屠畜・解体・調理などの場面も描かれている。(臭いが実感できないところが残念)。最初に驚いたのは、私のように「肉を食べているから屠畜の現場も知るべきだ」と考えている人は極めて少数派(5%程度)でないだろうかという話。そういえば屠畜現場を知りたいと言ったとき「見ない方がいい」「見たら食べられなくなる」と言われたなぁ。

 この本を読んで確信できたことは、食肉は罪悪でもなんでもないということ。沖縄の方が言った「食べるために生きている」という一文。考えてみれば、プランクトンからクジラまで食べるために生きているのだ。そして、それは自然な連鎖を意味している。動物にとってはヨボヨボになって息絶えるよりも、ほかの生命体に食べられた方が、結果は幸せなのかもしれない。死んで、火葬され、骨壷に入れられ、自然界の連鎖から外れてしまうより。

しばしば、民家の近くに出没し捕獲されたツキノワグマを薬殺処理するニュースを耳にするが、薬殺処理は絶対に間違っている。山に戻さないのであれば、胃袋に入れて成仏させるべきなのだ。ただ、動物を食べることは罪悪ではないと思うが、家畜を生命と考えずにモノと考え扱うことは、天にツバしているようである意味コワイ。

 私にとっては食肉を考えるだけにとどまらず、自らの「生」をも考える1冊になった大作。手元にあるのは初版。テレビで紹介されてたようで良く売れているらしいが、良く売れているといっても3万部(2007年10月末)。これだけの大作を、調べ、書き上げ、ヒットして印税660万円かと思うと、ライターの仕事は楽じゃないな。  

(個人的評価:★★★★★)
(おすすめ度:これこそが「本」!)

『ベラボーな生活』 玄侑宗久 著 (朝日新聞社)

2006-08-18 23:16:50 | 人生
 最近、周囲に鬱を患っている人が多い。告白を受けた人だけでもそれなりにいるわけだから、実際はもっと多いのだろう。

 知り合って20年になる後輩Aは誰もが知っている優良企業に勤め年収も私の3倍以上はある羨ましい身分。先日、そんなAから電話で泣きながら鬱とアルコール依存症であることの告白を受けた。何年か前は飲んで上司や私の友人にまで悪態をついても、私にそれをすることはなかった。しかし、近年、飲むと私にも悪態をつくようになっていた。告白を受ける一週間ほど前にはトンデモナイ失礼なメールを夜中にいただいたりもした。

 彼から精神状態を告白された時「会社で挨拶しても一人の女子社員に徹底的に無視されることが大きなストレスになっていて、どうしたら良いのでしょうか?」と相談された。その時、玄侑宗久氏が書いた「挨拶の力」というエッセイを思い出した。

 著者の玄侑宗久氏は東北の禅寺の現役副住職。数年前に芥川賞を受賞。この作品は京都天龍寺僧堂で修行していた若き日の話をユーモラスに描いた結構軽めのエッセイである。どのくらい軽いかといえば内藤良くらいの軽さである。(わかるかな~? わかんね~だろ~な~)。しかし、ところどころに目からウロコのような、人生観変わっちゃうよというくらいの話が載っている。「挨拶の力」もそのひとつ。

 修行道場の管長さんが毎朝散歩する時、挨拶するも3年間無視し続けた老人がいた。管長さんは、その老人に立腹するわけでもなく、説教するわけでもなく、自然体で挨拶し続けたようだ。そして3年経ったある日‥‥。

 私はAにも、挨拶を無視し続ける女子社員に対して、立腹するのでもなく、説教するのでもなく、嫌味でもなく、自然体で挨拶し続けることを勧めた。そして、結果が出るとか出ないとかも気にしないようにと。また、規則正しい生活を送った方が精神的には良いので、会社は辞めないようにと進言した。電話を切った後、書店に急ぎ宅急便でも2日かかるところに住んでいるAに同書を送った。

 Aは学生時代、近所の禅寺に下宿していた。私は当時悩み多き青年で、たまに早朝座りに行っていたことがきっかけで知り合ったのだ。Aがどの程度の期間で鬱から脱することができるか私にはわからないが、本書が彼にとって福音の書になればと心から願っている。


(おすすめ度:ネタバレ書評? とんでもない。奥は深いのであとは書店でど~ぞ)
(個人的評価:★★★★)