これで繋がった、
謎だった、
熊本日日新聞、井上さんの講義
二百十日の不思議 コースについての謎?
夏目漱石の小説「二百十日」は、「草枕」に比べると短く、読めばわかるという感じがあり、これまで研究者はあまり詳しく調べていませんでした。
しかし、実は不思議でわからないことがたくさんあります。
まず、戸下温泉に漱石は五高の同僚山川信次郎と泊まっていますが、その宿はどこか。長野一誠という人物がいます。
長野は阿蘇南郷地方の産業・地域開発に努め、代議士にもなります。
五高ができる時には多額の寄付をしています。
二人はたぶん、長野を頼って戸下の別邸に泊まったものと思われます。
長野は国権党です。
「草枕」の舞台となっている前田家別邸の当主、前田案山子も国権党です。
山川あっての「草枕」の前田ですし、また「二百十日」の旅行の段取りもすべて山川が考えたと見て間違いありません。
熊本時代、漱石は多くの俳句を残しています。
後年作ることになる小説は、構成しなおすなど後から「つくるもの」ですが、俳句はその場その場でその時のことを素直に詠んでいます。
ですから、俳句を見ていけば大体歩いた道筋や日にちがわかります。
それでは、なぜ漱石と山川はあのコースを通ったのでしょう? 戸下か栃木、地獄を通って阿蘇山上に登るのが距離的にも近いし、普通です。
国木田独歩も五足の靴のメンバーもそうでした。
ところが、漱石たちはわざわざ内牧に回っています。
一高教授に転出する山川信次郎にとってゆっくりする時間的なゆとりはなかったはずです。
それにもかかわらず、なぜ回り道をしたのか?答えは簡単です。
実はそのちょっと前に集中豪雨があり、登山道が壊れていて戸下からは登れなかったからです。
(そうだったのか!)
武蔵と漱石の接点
「顕彰本・宮本武蔵」という本があります。
これが吉川英治をはじめとする「宮本武蔵」のネタ本になっているのですが、その刊行を企画したのが先の長野です。
また武蔵の「五輪書」写本は、実はあの草枕の前田家にありました。
その後事情があって細川家(永青文庫)に移っていきます。
そして、漱石も武蔵に関心を持っていました。
それは今日のような吉川英治の描く武蔵像とは違うもので、草枕の世界と宮本武蔵の世界は近いものがあると思います。
阿蘇山に登った日はいつ?
「二百十日」の阿蘇神社は山上神社のイメージが強いようです。
当時、阿蘇神社前は門前町のようで、娼婦もいて、客引きをしていました。
漱石はそんなことは書いていないし、もし夜にそこを歩いていれば袖を引っ張られたでしょう。
漱石は内牧から宮地まで馬車で通ったと思います。
そして阿蘇神社境内でぽつりと雨…。漱石はそこで三句詠んでいます。
阿蘇山に登った日はいつかという問題になります。
阿蘇神社の当時の社務所日誌を読んで見ますと、明治32(1899)年8月30・31日は「美晴」と書いてあります。
9月1日は天候の記述がありません。
月初祭で忙しかったのでしょう。
2日は「強風、午後美晴」となっています。つまり9月1日から2日にかけて前線が通ったのでしょう。
それと俳句とを照らし合わせると漱石が阿蘇山に登ったのは9月1日と断定して間違いないと思います。
なぜ書いたのか?
「二百十日」は何かわびしく、寒い感じがします。
漱石はなにか心細さを感じていたのではないでしょうか。
冒頭で寺の鉦、鍛冶屋の音を聴きますが、明治はじめの江戸人の感覚を素直に表しているのだと思います。
一方で、ビール=恵比寿、
さらに半熟卵というのは西洋文明的です。
これはパンに半熟卵という、ロンドン滞在のときの漱石の習慣でしょう。
「坊ちゃん」は小説の舞台が松山であることから、
松山の物語とされていますが、内容は五高の人間関係だと思います。
山嵐が黒本稼堂、
うらなりが浅井栄煕、
そして坊ちゃんは漱石かというと、これはそうではなくて漱石は赤シャツです。
漱石は自分の中にある西洋文明のいやなところもちゃんと認識し受け止めている、そういう偉さが漱石にはありました。
そして、客観的に自分を見つめるというのが近代的な文学の手法です。
そういう意味で言えば、「草枕」と「二百十日」は別々の物語ではなく、実は熊本を舞台にしたひとつの物語であるということもいえると思います。
「草枕」、「二百十日」の100周年を迎えるこの機会に二つの作品世界を読み、あなたが100年後の漱石になってゆっくりその舞台を訪ねてみるのも一興でしょう。
草枕の舞台 『小天温泉』
漱石が熊本で年越しに過ごした宿、
入口を入ると綺麗に整えられた庭、
小天温泉、今は移築、改装して小綺麗な宿、昼の料理安くて美味しい、
食べて温泉、垢を落とそ、
坂を上りながら、考えた。
智 を唱えれば角が立ち、情に竿さしゃ、流される。
意地を通せば窮屈だ、兎角この世は住みづらい。
だったかな?
さて、毒舌家の漱石にしてはこの小天温泉を余程気に入ったみたいで、
その後、小説『草枕』の舞台として小天温泉を使ってる、
また、イギリスからの手紙で、『今度は日本的な旅をしてみたい、そう、あの子天温泉みたいな』
なんて書き送っている。
漱石が大晦日から正月に滞在した
部屋、
旧前田家、
こんな人達が草枕の登場人物、
この場所でどんな話をしたのだろう、
正月のお節を一緒にたべたのだろうか?
ムツゴロウの甘露煮も、
当時は海の近く、
屋敷がまるで城だ、
昔の共同浴場は上に脱衣所、
下に石造りの風呂が多い、
特に西の方の造りは
入り口の右側に共同浴場、
それを石段で登って家屋(母屋)
共同浴場の奥に今は朽ちてしまったが、大きな家屋、
これは何人もの使用人が住んでいたのだろう、
那古井旅館、いいなあ~~
二百十日の舞台
阿蘇内牧温泉、山王閣、
漱石が熊本の第五高等学校(現熊大)の同僚と共に訪れ、二百十日を書いた舞台。
今も現存しているとの事で黒川温泉への途中で立ち寄って観た。
ビックリした事に宿泊客でなくても簡単に無料で見学出来る、
旅館のフロントでお願いすると気安く承諾してくれた。
宿泊した部屋は旅館の庭の離れに有り、2階建ての至って実に簡素な作り、手入れも行き届いていない、本当に簡素との言葉がぴったり、
今。ここに泊まれと言われたら、絶対嫌だぁ~、夜とか怖いだろうなぁ~。
『ビールは無かですが、恵比寿なら有ります、』
『え!、恵比寿はビールではないの?』
こんな感じの会話だったかなぁ~
阿蘇の山の中の人はビールの中の銘柄が恵比寿と云う事すら知らなかった時代』
ここで女中さんが運んで来たビールではない恵比寿を飲み、阿蘇五山を眺めたのだろうなぁ~、
この場所に何泊しかたは不明だが15の俳句を残した。
ついでに温泉だけ入らせて頂いた、無色透明、結構熱めの純粋な温泉。
漱石が『純透明な湯』と称した湯!
内牧温泉、山王閣の人達、穏やかでとてもいい感じでした。
有難うございました。
その後、内牧散策、質素だがいい感じ、薬膳料理のお店で昼食、とても野菜の味が濃厚で、美味しい、
町並み穏やか、時間がゆっくり過ぎて行く、
黒川への道のりも車の窓を開け、新鮮な空気が美味しい、体の中を風が吹き抜けてゆく感覚、
考えてみたら、漱石はこの阿蘇で多くの俳句を残しているし、漱石は熊本の事を『杜の都』と初めてよんだ人物でも有る。
熊本に5年弱漱石はいた、
『三四郎』の出身高も第五高等学校だし、
『我輩は猫』の書生も五校の生徒で有った。
『草枕』も熊本が舞台だし、熊本と漱石を語ればきりがなく、
漱石と熊本はゆかりが深い筈なのに、熊本には漱石に関するお土産が無い。
(一部、小天温泉の玉名市が漱石が通った温泉として『草枕』云々でやってはいるが、)
何故だぁ~、何故もっと全体でやらないのかなぁ~
何故もっと漱石を出して観光誘致につなげるとか、文化向上につなげないのか?
阿蘇の街々にしても温泉地にしても、例えば、三四郎ラーメンとか?三四郎オコシ、草枕団子、温泉水二百十日とか、我輩は猫のストラップ、熊本漱石文学賞とか、いくらでも考えられる、
何故やらないのか?不思議としか言いようがない。
経済効果は計り知れない埋蔵量なにになぁ~
参考までにネットで出ている漱石と熊本
http://www.kumamotokokufu-h.ed.jp/kumamoto/bungaku/kumabun.html
逆に、
四国の松山行けば、どこもかしこも『坊ちゃん』、『坊ちゃん』、坊ちゃん団子は小説坊ちゃんの中で道後温泉に入浴の後、近くの評判の団子屋に立ち寄った話が有る。
確かに、だが美味しいとは一言も言っていない、
温泉だけは素晴らしいと言っているが、それはまあいいとして、
坊ちゃん饅頭、坊ちゃん煎餅から坊ちゃんを冠したお土産ばかり、まあ何でもかんでも夏目漱石にあやかり、地名さえも、伊予鉄道も坊ちゃん列車、劇場も坊ちゃん劇場、最近でも球場の名称も『坊ちゃん球場』、漱石自身松山にいた時期は短い、但し正岡子規と漱石が仲良くその縁で松山を訪ねているが、漱石は理由はよくわからないが、松山の人々を小馬鹿にしている
小説『坊ちゃん』の中で松山の事、散々悪く書かれているのに、漱石から小馬鹿にされても松山の人々は漱石に強烈な片想いでもしているかのような観が松山の商店街を覆っているように感じられた。
松山の商魂なのか?、
伊予人の寛容なのか?
わからんです。
小説の中でアレだけ小馬鹿に散々な事を言われても怒らない。何故?!?
小馬鹿とは少し失礼な言葉。漱石の言葉を借りるともっと失礼になる。
適当な言葉を今度、捜そう。
松山尋常中学からすぐに熊本の第五高等学校に赴任して、
いきなり熊本、肥後人の気質が気に入ってしまったのか、熊本題材の小説でも熊本の人達の事を良いように書いているのは確かな事実。
もう一つ漱石が散々に言っている都市がロンドン、
ロンドンみたいな都市になってはならない、
文明がもたらす不幸を警告してるのですが、
続は今度、
謎だった、
熊本日日新聞、井上さんの講義
二百十日の不思議 コースについての謎?
夏目漱石の小説「二百十日」は、「草枕」に比べると短く、読めばわかるという感じがあり、これまで研究者はあまり詳しく調べていませんでした。
しかし、実は不思議でわからないことがたくさんあります。
まず、戸下温泉に漱石は五高の同僚山川信次郎と泊まっていますが、その宿はどこか。長野一誠という人物がいます。
長野は阿蘇南郷地方の産業・地域開発に努め、代議士にもなります。
五高ができる時には多額の寄付をしています。
二人はたぶん、長野を頼って戸下の別邸に泊まったものと思われます。
長野は国権党です。
「草枕」の舞台となっている前田家別邸の当主、前田案山子も国権党です。
山川あっての「草枕」の前田ですし、また「二百十日」の旅行の段取りもすべて山川が考えたと見て間違いありません。
熊本時代、漱石は多くの俳句を残しています。
後年作ることになる小説は、構成しなおすなど後から「つくるもの」ですが、俳句はその場その場でその時のことを素直に詠んでいます。
ですから、俳句を見ていけば大体歩いた道筋や日にちがわかります。
それでは、なぜ漱石と山川はあのコースを通ったのでしょう? 戸下か栃木、地獄を通って阿蘇山上に登るのが距離的にも近いし、普通です。
国木田独歩も五足の靴のメンバーもそうでした。
ところが、漱石たちはわざわざ内牧に回っています。
一高教授に転出する山川信次郎にとってゆっくりする時間的なゆとりはなかったはずです。
それにもかかわらず、なぜ回り道をしたのか?答えは簡単です。
実はそのちょっと前に集中豪雨があり、登山道が壊れていて戸下からは登れなかったからです。
(そうだったのか!)
武蔵と漱石の接点
「顕彰本・宮本武蔵」という本があります。
これが吉川英治をはじめとする「宮本武蔵」のネタ本になっているのですが、その刊行を企画したのが先の長野です。
また武蔵の「五輪書」写本は、実はあの草枕の前田家にありました。
その後事情があって細川家(永青文庫)に移っていきます。
そして、漱石も武蔵に関心を持っていました。
それは今日のような吉川英治の描く武蔵像とは違うもので、草枕の世界と宮本武蔵の世界は近いものがあると思います。
阿蘇山に登った日はいつ?
「二百十日」の阿蘇神社は山上神社のイメージが強いようです。
当時、阿蘇神社前は門前町のようで、娼婦もいて、客引きをしていました。
漱石はそんなことは書いていないし、もし夜にそこを歩いていれば袖を引っ張られたでしょう。
漱石は内牧から宮地まで馬車で通ったと思います。
そして阿蘇神社境内でぽつりと雨…。漱石はそこで三句詠んでいます。
阿蘇山に登った日はいつかという問題になります。
阿蘇神社の当時の社務所日誌を読んで見ますと、明治32(1899)年8月30・31日は「美晴」と書いてあります。
9月1日は天候の記述がありません。
月初祭で忙しかったのでしょう。
2日は「強風、午後美晴」となっています。つまり9月1日から2日にかけて前線が通ったのでしょう。
それと俳句とを照らし合わせると漱石が阿蘇山に登ったのは9月1日と断定して間違いないと思います。
なぜ書いたのか?
「二百十日」は何かわびしく、寒い感じがします。
漱石はなにか心細さを感じていたのではないでしょうか。
冒頭で寺の鉦、鍛冶屋の音を聴きますが、明治はじめの江戸人の感覚を素直に表しているのだと思います。
一方で、ビール=恵比寿、
さらに半熟卵というのは西洋文明的です。
これはパンに半熟卵という、ロンドン滞在のときの漱石の習慣でしょう。
「坊ちゃん」は小説の舞台が松山であることから、
松山の物語とされていますが、内容は五高の人間関係だと思います。
山嵐が黒本稼堂、
うらなりが浅井栄煕、
そして坊ちゃんは漱石かというと、これはそうではなくて漱石は赤シャツです。
漱石は自分の中にある西洋文明のいやなところもちゃんと認識し受け止めている、そういう偉さが漱石にはありました。
そして、客観的に自分を見つめるというのが近代的な文学の手法です。
そういう意味で言えば、「草枕」と「二百十日」は別々の物語ではなく、実は熊本を舞台にしたひとつの物語であるということもいえると思います。
「草枕」、「二百十日」の100周年を迎えるこの機会に二つの作品世界を読み、あなたが100年後の漱石になってゆっくりその舞台を訪ねてみるのも一興でしょう。
草枕の舞台 『小天温泉』
漱石が熊本で年越しに過ごした宿、
入口を入ると綺麗に整えられた庭、
小天温泉、今は移築、改装して小綺麗な宿、昼の料理安くて美味しい、
食べて温泉、垢を落とそ、
坂を上りながら、考えた。
智 を唱えれば角が立ち、情に竿さしゃ、流される。
意地を通せば窮屈だ、兎角この世は住みづらい。
だったかな?
さて、毒舌家の漱石にしてはこの小天温泉を余程気に入ったみたいで、
その後、小説『草枕』の舞台として小天温泉を使ってる、
また、イギリスからの手紙で、『今度は日本的な旅をしてみたい、そう、あの子天温泉みたいな』
なんて書き送っている。
漱石が大晦日から正月に滞在した
部屋、
旧前田家、
こんな人達が草枕の登場人物、
この場所でどんな話をしたのだろう、
正月のお節を一緒にたべたのだろうか?
ムツゴロウの甘露煮も、
当時は海の近く、
屋敷がまるで城だ、
昔の共同浴場は上に脱衣所、
下に石造りの風呂が多い、
特に西の方の造りは
入り口の右側に共同浴場、
それを石段で登って家屋(母屋)
共同浴場の奥に今は朽ちてしまったが、大きな家屋、
これは何人もの使用人が住んでいたのだろう、
那古井旅館、いいなあ~~
二百十日の舞台
阿蘇内牧温泉、山王閣、
漱石が熊本の第五高等学校(現熊大)の同僚と共に訪れ、二百十日を書いた舞台。
今も現存しているとの事で黒川温泉への途中で立ち寄って観た。
ビックリした事に宿泊客でなくても簡単に無料で見学出来る、
旅館のフロントでお願いすると気安く承諾してくれた。
宿泊した部屋は旅館の庭の離れに有り、2階建ての至って実に簡素な作り、手入れも行き届いていない、本当に簡素との言葉がぴったり、
今。ここに泊まれと言われたら、絶対嫌だぁ~、夜とか怖いだろうなぁ~。
『ビールは無かですが、恵比寿なら有ります、』
『え!、恵比寿はビールではないの?』
こんな感じの会話だったかなぁ~
阿蘇の山の中の人はビールの中の銘柄が恵比寿と云う事すら知らなかった時代』
ここで女中さんが運んで来たビールではない恵比寿を飲み、阿蘇五山を眺めたのだろうなぁ~、
この場所に何泊しかたは不明だが15の俳句を残した。
ついでに温泉だけ入らせて頂いた、無色透明、結構熱めの純粋な温泉。
漱石が『純透明な湯』と称した湯!
内牧温泉、山王閣の人達、穏やかでとてもいい感じでした。
有難うございました。
その後、内牧散策、質素だがいい感じ、薬膳料理のお店で昼食、とても野菜の味が濃厚で、美味しい、
町並み穏やか、時間がゆっくり過ぎて行く、
黒川への道のりも車の窓を開け、新鮮な空気が美味しい、体の中を風が吹き抜けてゆく感覚、
考えてみたら、漱石はこの阿蘇で多くの俳句を残しているし、漱石は熊本の事を『杜の都』と初めてよんだ人物でも有る。
熊本に5年弱漱石はいた、
『三四郎』の出身高も第五高等学校だし、
『我輩は猫』の書生も五校の生徒で有った。
『草枕』も熊本が舞台だし、熊本と漱石を語ればきりがなく、
漱石と熊本はゆかりが深い筈なのに、熊本には漱石に関するお土産が無い。
(一部、小天温泉の玉名市が漱石が通った温泉として『草枕』云々でやってはいるが、)
何故だぁ~、何故もっと全体でやらないのかなぁ~
何故もっと漱石を出して観光誘致につなげるとか、文化向上につなげないのか?
阿蘇の街々にしても温泉地にしても、例えば、三四郎ラーメンとか?三四郎オコシ、草枕団子、温泉水二百十日とか、我輩は猫のストラップ、熊本漱石文学賞とか、いくらでも考えられる、
何故やらないのか?不思議としか言いようがない。
経済効果は計り知れない埋蔵量なにになぁ~
参考までにネットで出ている漱石と熊本
http://www.kumamotokokufu-h.ed.jp/kumamoto/bungaku/kumabun.html
逆に、
四国の松山行けば、どこもかしこも『坊ちゃん』、『坊ちゃん』、坊ちゃん団子は小説坊ちゃんの中で道後温泉に入浴の後、近くの評判の団子屋に立ち寄った話が有る。
確かに、だが美味しいとは一言も言っていない、
温泉だけは素晴らしいと言っているが、それはまあいいとして、
坊ちゃん饅頭、坊ちゃん煎餅から坊ちゃんを冠したお土産ばかり、まあ何でもかんでも夏目漱石にあやかり、地名さえも、伊予鉄道も坊ちゃん列車、劇場も坊ちゃん劇場、最近でも球場の名称も『坊ちゃん球場』、漱石自身松山にいた時期は短い、但し正岡子規と漱石が仲良くその縁で松山を訪ねているが、漱石は理由はよくわからないが、松山の人々を小馬鹿にしている
小説『坊ちゃん』の中で松山の事、散々悪く書かれているのに、漱石から小馬鹿にされても松山の人々は漱石に強烈な片想いでもしているかのような観が松山の商店街を覆っているように感じられた。
松山の商魂なのか?、
伊予人の寛容なのか?
わからんです。
小説の中でアレだけ小馬鹿に散々な事を言われても怒らない。何故?!?
小馬鹿とは少し失礼な言葉。漱石の言葉を借りるともっと失礼になる。
適当な言葉を今度、捜そう。
松山尋常中学からすぐに熊本の第五高等学校に赴任して、
いきなり熊本、肥後人の気質が気に入ってしまったのか、熊本題材の小説でも熊本の人達の事を良いように書いているのは確かな事実。
もう一つ漱石が散々に言っている都市がロンドン、
ロンドンみたいな都市になってはならない、
文明がもたらす不幸を警告してるのですが、
続は今度、
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