家に帰り、冷蔵庫を開けたら、四角い皿に魚の身が、二つ、乗っていた。皮を剥がれ、内臓もない、そしてラップもかけられていない、きっと、朝からこの状態で、冷蔵庫の中で上表面の水分が乾いてしまっていることは、疑問もなく理解する、ジジイのすることだ。
こういうのに、うんざりするのだが、ラップをかけろとかビニール袋に入れろとか、冷蔵庫の中で干からびることを、どれだけ言えば、いつか、私の言うことが頭に入っていってくれるのか、死ぬまで無理だとも思っていながらも、分かって欲しい、聞いてほしい気持ちがあって、ずっと攻撃していたのかもしれない、そういうことは、魚の身だけのことではない、ほぼ、全てにおいてに渡ることなので、ずっとずっと前から、度々に、怒っては心を閉ざすことを繰り返し、未だに、どう心を持っていけばよいのか分からないが、少し前、また、衝突し、また、心の消化に苦しみ、まだ、まだ、残念ながらまだ、消化の仕方が分からないが、苦しさからの逃避か、それとも脱皮か、分かってもらいたい気持ちをもつことが、迷っているのではないかと、望むなと、何十年も無理だったことが、希望が伝わるわけないだろう、と、関心を諦める気持ちを手に入れかけた。
皮を剥がれた身がむき出しになっている魚を、見えなかったように、夕食を作ったが、片付けの時に思い出した、ああ、これ。
ジジイが食べればよいかと、放置していようとしていたが、なぜこんなことになっているのかも分からない、どうせ、食べぬだろうと、ハヤコに焼いてオヤツにしてやろうと、包丁で身を切った。
身の切れ具合から、「これ、ふぐか?」と感じた。
小さく切った身をフライパンで焼きながら、どうにも気になって、断絶状態のジジイに聞きに行く、「冷蔵庫の身の魚、ふぐか?」
返事か帰ってくる、「ああ、ふぐよ、食べよう思うとった。」、それから、「昨日肉買って食べて、腹が痛い、もうちょっとして食べる」とも。
私は返す、「肉に、ろくに熱加えんかったんじゃろ、あたったんよ。」、言い放ちながらキッチンへ戻る。
私は、焼いていた身の魚を、ハヤコのオヤツにするのは、やめた。
身の魚は、ジジイが漁で獲って帰って、ジジイが捌いたふぐの身で、まさかに、ハヤコが悶絶したら、大きな後悔をするから、やめた。
フライパンで焼いた身は、柄の違う四角い皿に移しラップをかけ、「もうちょっとして食べる」といったジジイの食卓の席に置いた。
とうさんが、問う。「おじいさんに置くの?」
私は、返す。「じいさんが自分で捌いて苦しむのはじいさんだけど、じんさんが捌いてハヤコが苦しんだら怨まんといけん。」
しかしながら、このブログに書いている今、すっかり夕食を終えたジジイは、いつもと変わらない、ジジイは、簡単に、苦しまないのだよ。
犬と人間を比べた扱いの重みの構図ではない、ハヤコとじいさんの大事さを比べる構図でもない、私にとっての救いが、ハヤコだという構図。