(原文)
天地の理、陽は一、陰は二也。水は多く火は少し。水はかはきがたく、火は消えやすし。人は陽類にて少く、禽獣虫魚は陰類にて多し。此故に陽はすくなく陰は多き事、自然の理なり。すくなきは貴とく多きはいやし。君子は陽類にて少く、小人は陰類にて多し。易道は陽を善として貴とび、陰を悪としていやしみ、君子を貴とび、小人をいやしむ。
水は陰類なり。暑月はへるべくしてますます多く生ず。寒月はますべくしてかへつてかれてすくなし。春夏は陽気盛なる故に水多く生ず。秋冬は陽気変る故水すくなし。血は多くへれども死なず。気多くへれば忽ち死す。吐血、金瘡、産後など、陰血大に失する者は、血を補へば、陽気いよいよつきて死す。気を補へば、生命をたもちて血も自ら生ず。
古人も、血脱して気を補ふは、古聖人の法なり、といへり。人身は陽常にすくなくして貴とく、陰つねに多くしていやし。故に陽を貴とんでさかんにすべし。陰をいやしんで抑ふべし。元気生生すれば真陰も亦生ず。陽盛なれば陰自ら長ず。陽気を補へば陰血自生ず。
もし陰不足を補はんとて、地黄、知母、黄栢等、苦寒の薬を久しく服すれば、元陽をそこなひ、胃の気衰て、血を滋生せずして、陰血も亦消ぬ。
又、陽不足を補はんとて、烏附等の毒薬を用ゆれば、邪火を助けて陽気も亦亡ぶ。是は陽を補ふにはあらず。丹渓の陽有余陰不足論は何の経に本づけるや、其本拠を見ず。もし丹渓一人の私言ならば、無稽の言信じがたし。易道の陽を貴とび、陰を賎しむの理にそむけり。もし陰陽の分数を以其多少をいはゞ、陰有余陽不足とは云べし。陽有余陰不足とは云がたし。後人其偏見にしたがひてくみするは何ぞや。凡、識見なければ其才弁ある説に迷ひて、偏執に泥む。
丹渓はまことに古よりの名医なり。医道に功あり。彼補陰に専なるも、定めて其時の気運に宜しかりしならん。然れども医の聖にあらず。偏僻の論、此外にも猶多し。打まかせて悉くには信じがたし。功過相半せり。其才学は貴ぶべし。其偏論は信ずべからず。
王道は偏なく党なくして平々なり。丹渓は補陰に偏して平々ならず。医の王道とすべからず。近世は人の元気漸く衰ろふ。丹渓が法にしたがひ、補陰に専ならば、脾胃をやぶり、元気をそこなはん。只東垣が脾胃を調理する温補の法、医中の王道なるべし。明の医の作れる軒岐救生論、類経等の書に、丹渓を甚だ誹れり。其説頗る理あり。然れども是亦一偏に僻して、丹渓が長ずる所をあはせて、蔑にす。枉れるをためて直に過と云べし。
凡古来術者の言、往々偏僻多し。近世明季の医、殊に此病あり。択んで取捨すべし。只、李中梓が説は、頗る平正にちかし。
(解説)
長かった「貝原益軒の養生訓―総論上・下―解説」もこれで最後です。もう皆さんお気づきのように、この総論は「孝」に始まり「中庸」に終わるといった儒学の思想をもとに構成されています。それはまったく不思議なことではありません。そもそも当時の医学(後世方医学とも呼ばれるもの)自体が朱子学の自然哲学に立脚したものだからです。有名な言葉、「医は仁術なり」というのは単なる方針や理念などではなく、「医」と「仁」は哲学的に密接に関係しているものなのです。
ここに登場するは朱丹渓(1281-1358)(朱震亨)という元代の名医。丹渓は「陽有余陰不足論」を作り上げ、江戸期の日本の医療に多大な影響を与えました。また彼の理論は李東垣(1180-1251)(李杲)のそれと共に現代中医学理論の基礎ともなっています。多くの医師が無批判的にその理論に追随していた頃、益軒はそれに異議を唱えたのです。なぜでしょう。もちろん中庸の教えに背くからです。
丹渓に反論していた人は他にもいます。『軒岐救正論』は「朱丹溪の苦寒補陰を以てする若きは生命を戕伐せん」と、『類経附翼』は「陽常有余陰常不足之論・・・其の害孰か甚だし」などと丹渓を攻撃しました。『類経』を著した張景岳(1563-1640)(張介賓)は逆に「陽は有余に非ず、真陰が不足す」と主張し、陽不足を補うために右帰丸など附子(烏附とは烏頭と附子)を含んだ薬を用いました。益軒はこれにも異議を唱えます。理由は同じです。
益軒は『養生訓』択医においても、「凡諸医の方書偏説多し。専一人を宗とし、一書を用ひては治を為しがたし。学者、多く方書をあつめ、ひろく異同を考へ、其長ずるを取て其短なるをすて、医療をなすべし」、と言っています。それ故、理論に偏りがあるといえども「朱丹渓が書」を李中梓や李東垣の諸書と並べて「医生のよむべき書也」と勧めているのです。しかし『軒岐救正論』や『類経』、張景岳が書を読むべき書とは言いませんでした。なぜでしょう。それは彼らの言説が君子のものではなかったからです。
『養生訓』択医にはこうも書かれてあります。「我よりまへに、其病人に薬を与へし医の治法、たとひあやまるとも、前医をそしるべからず。他医をそしり、わが術にほこるは、小人のくせなり。医の本意にあらず。其心ざまいやし。きく人に思ひ下さるゝも、あさまし」と。
また益軒が当時、自分や家族に対して最も多用していた薬の一つが補中益気湯であり、これは『脾胃論』にある李東垣の代表的な処方です。その方意を簡単に言うと胃の気を補うこと。これは「貝原益軒の養生訓―総論下―解説 037」にも出てきましたね。益軒は「医の王道」を自ら実践していたのでした。
これで「「貝原益軒の養生訓―総論下―解説」も終わりです。次回からは「本居宣長と江戸時代の医学」が始まります。
(ムガク)
(これは2011.3.16から2013.5.18までのブログの修正版です。文字化けなどまだおかしな箇所がありましたらお教えください)
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