セレヤの山の下で

静岡県内の小さな旅、植物などを紹介しています。

袋井宿から見付宿へ/旧東海道の旅

2011年05月13日 | 旅、ウォーキング
徳川家康が江戸に幕府を開く2年も前のことです。
慶長6年(1601)江戸から京都への街道を整備し、宿駅制度がとりいれられ、街道の随所に宿場が置かれました。
いわゆる東海道五十三次ですね。(このときはまだ宿場は53ではありませんでした)

袋井に宿場が開かれたのは元和2年(1616)のことでした。
掛川宿と見付宿の間の距離が長すぎたため、その間に袋井宿ができたのです。
江戸から数えて27番目、京都から数えても27番目で、五十三次のちょうどまんなかでした。
袋井宿が「どまん中」と呼ばれる所以です。

袋井が宿場としての設備を整えたのは、もっと早く、鎌倉時代には宿場として機能をはたしていたようです。

袋井宿には本陣3軒、脇本陣はなく、旅籠は50軒ありました。
名物はうなぎとすっぽんだったようです。

袋井では、市内各所に様々な東海道袋井を描いた江戸時代の絵が展示されています。
たくさんあるのにビックリしました。その一部を紹介します。

 

 

 

 


袋井宿の西見付があったところです。
今は公園になっています。




袋井宿を出て見付宿に向かってしばらく歩くと、左手に白亜の洋館が見えてきます。
澤野医院記念館です。
江戸時代末期に開業し、地域医療を担ってきました。
洋館は昭和初期に建設されました。病棟、住居など、江戸末期から建てられた4棟が残され、
市指定の文化財となっています。




道はやがて大通りと合流し、しばらく大通りを進みます。
合流地点に立つ、川井の道標。




消防署の交差点で道路を反対側に渡ります。
その先、右側の細い道に入ります。ここにも道標がありました。木原松橋と書かれています。

 


その先にあったのが、復元された木原一里塚です。片側だけ復元されました。
本来の場所はここから約60メートルほど袋井寄りにありました。今は文字の消えた標識が立っているだけです。




許祢神社(こねじんじゃ)です。
かつてこの辺りは木原畷(きはらなわて)と呼ばれる古戦場でした。
徳川家康の浜松城を攻めるため、武田信玄がここに陣をはり、家康の偵察隊と衝突しました。




道は再び大通りと合流します。
その合流地点に、道標と大きな駕籠を模した防災倉庫がありました。
木原大念仏と書かれています。
木原大念仏は家康と信玄の戦の故事に由来する念仏で、市指定の無形文化財になっています。




小さな川を渡って、袋井市から磐田市に入ります。
その先の左側の小路を入ったところにある須賀神社の大楠。
樹高15メートル、根回りが25メートルあり、樹齢は500年だそうです。
さきほどの許祢神社もそうですが、この地域には巨木がある神社がたくさんあります。
それだけ、歴史のある神社が多いということですね。




その先の道が少しややこしくなっていますが、松並木が目印となります。

 


この松並木を抜けると、道が二又に分かれます。
この道は松並木ではない方(この写真では左側)を進みます。




この先、いくつもの道が入り組んでいます。
三ヶ野(みかの)の七つ道と呼ばれています。
鎌倉の道、江戸の道(旧東海道)、明治の道、大正の道、昭和の道、平成の道、最後に質屋通いの隠れ道。
また、ここは徳川家康と武田信玄の古戦場、大日堂があるところです。

  
明治の道            正面は大日堂です。

 
旧東海道              鎌倉の道


茶畑では茶摘が行われていました。
ほとんどが機械で刈ってしまいますが、ここでは手摘みをしています。
一番手前にいる白い服のお母さんの左側、摘んだところがわかりますね。




松並木を抜け、歩道橋を渡る(渡らなければなりません)と、鈴ヶ森という処刑場があります。
盗賊で歌舞伎白波五人男の日本駄右門のモデルとなった、日本左衛門の処刑場と伝えられています。

 


そして、いよいよ見付宿東木戸に到着します。
木戸のところに、ちょうど阿多古山一里塚がありました。
坂道の途中、建物と建物の間、高い位置に片方が。もう片方は愛宕神社の裏に石碑が立っています。






東木戸の近くには見付天神、矢奈比売(やなひめ)神社があります。
国指定重要無形文化財の見付天神裸祭りが行われる神社です。




見付宿は、江戸時代の宿場の面影はあまり残されていませんが、歴史的な建物が多く残されています。

旧見付学校
明治8年に落成した学校で、当時では非常に珍しい5階建て(3階2層)の木造擬洋風建物になっています。
現在は当時の学校の資料などが展示されています。(後日詳しく紹介する予定です)



栗田家土蔵群
旧栗田煙草合資会社の倉庫だった建物です。
古い土蔵が何棟か残っています。




見付宿道標。
今回の旅はここまでです。





この旅は5月4日に行いました。
一部、昨年11月に撮影した画像を使用しています。(袋井市の看板部分)





旧東海道用語集

宿場(しゅくば)
江戸から京都まで、53の町が宿場として定められました。
宿場は参勤交代の大名や、主君の命を受けて旅する武士、用事があって旅する貴族、飛脚など仕事で旅する人、お伊勢参りなどの庶民が宿泊するための設備が整った宿がありました。
宿は泊まる人の身分によって本陣、脇本陣、旅籠の3種類がありました。
ほかには公用で旅する人たちのために馬を用意したりする駅制度があり(この制度は宿場の人たちを苦しめた)問屋場(といやば)が1~2箇所置かれていました。

木戸(東、西)
宿場の出入り口です。京都方向の西(上)、東京方向の東(下)がありました。
江戸時代は京都が上方、江戸が下方でした。
道には賊などの侵入を防ぐため、木の扉が作られ、夜間は閉じられました。
敵がいっきに攻めてこないように、道はわざわざL字に曲げて造られました。
見付(みつけ)、曲手(かなんて)などとも呼ばれています。

間の宿(あいのしゅく)
宿泊できる宿を備えた宿場と宿場の間に、
大名や身分の高い人たちの休憩のため作られた場所です。

立場(たてば)
間の宿が大名用、立場は庶民用の休憩施設です。
その地の名物を売る茶店が並んでいました。

本陣(ほんじん)、脇本陣(わきほんじん)
大名が宿泊するための宿です。
格式が高く、その地方の名主などの家が勤めました。
宿泊する人数が多く、本陣に入りきらない場合、脇本陣に宿泊することとなります。
本陣より少し格が下がりますが、旅籠(はたご)よりは上でした。

旅籠(はたご)
庶民のための宿泊施設です。素泊まりだけの木賃宿と食事が出る宿がありました。
相部屋、雑魚寝がふつうでした。

一里塚(いちりづか)
江戸の日本橋からはじまって、4里ごとに造られていた、道しるべのためのものです。最後の京都御陵の一里塚が124番目でした。
街道の両側に、少し高めに土を持って塚を作り、そこに榎や松を植えました。
一里は約4キロですが、かならずしも一里ごとに厳格に造られていたわくではなく、大雑把だったようです。
また、欠番があったり現在ではその位置もわからなくなってしまっているものもあります。


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4 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
こんばんは (喜サンタ)
2011-05-13 22:41:35
海道袋井を描いた絵の展示が素敵ですね
昔お茶漬けを買うと中に東海道の絵巻が入っていましたね
私が絵を好きになったのはその頃ですよ
返信する
おはようございます! (カツ)
2011-05-14 04:27:04
JRウォークを離れ、自分で歩くのも楽しそうですね!

しかし、下調べが大変そうですね。

読ませていただいてありがたいです。m(__)m

すごく興味深いです。

今度行ってみよう。

今日は沼津駅のウォーキングに行ってきます。

潮風ウォーキングです。

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喜サンタさんへ (haru)
2011-05-14 22:35:44
こんにちは、コメントありがとうございます。

東海道を描いた浮世絵は、広重のだけ、と思っていました。
本当にたくさんの五十三次がありました。
広重の弟子も描いているんですね。
これらの絵には、訴えてくる力強い何かを感じますよね!
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カツさんへ (haru)
2011-05-14 22:39:20
こんにちは、コメントありがとうございます。

元気に歩いておられるようですね。
潮風に吹かれ、満喫していらっしゃいましたか?

旧東海道のことは、本とか、サイト、ブログなど、たくさんあるんですよ。
あとは帰りに駅前の観光案内所に立ち寄り、(出発前は早すぎて閉まってます)パンフレットいただいて、お話聞いてきます。
また、地元の方々も、とても親切で、いろいろ教えてくださいます。(この先に××があるよ!などと)

たくさんの方が歩いたり、自転車、バイクで回ったりしていますよ。
みんな、考えることは同じようです。
カツさんもぜひ、歩いてみてくださいね!

私は今日は磐田から浜松まで歩きました。
思ったよりキツかったです(-_-;)
朝7時45分から歩き始め、15時までかかってしまいました。

明日はバラの丘で写真撮りまくります!
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