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日々是ほぼ好日

小さな幸せを探して、好奇心満載の毎日。

そのときどきで。(高校編)

2016年08月08日 | コラム
高校時代はバレーボール。それだけ。

よく、自分の人生をやり直せるなら中学生に戻って、高校ではバレー部に入らないと言っていたのですが、あらためて書いてみると楽しくない中学生活だったので、戻るなら高校の入学式にします (笑)

みんなで白球を追いかけるような、輝く青春ドラマ的な安易な想像でバレー部に入ってしまいました。新入部員は20~30人くらいいたような気がしますが、最初の1ヶ月で半分に、その次の1ヶ月でさらに半分に減りました。

そう、全国出場を目指す、とてもとても厳しい監督とコーチ陣がいるチームだったのです。相変わらずひょろっと細くて小さい私は期待されていないがゆえに厳しい要求をされることもなく、憧れの先輩を眺めながらボール拾いをする毎日でした。中学のときと同じです。ふたつ上の3年生がとても大人にみえていました。その年の3年生は5人。背が高くて美人のツートップには、バレー部に限らずファンが大勢いました。

気が付くと、入部して半年。休みなく続く週7日の練習でくたくた。担任教師が自宅まで来てくれて「部活をやめさせたほうがいい」と両親に進言してくれるほど、成績が一気に下がりました。そのころは楽しかったので、成績を元に戻す、どんなに辛くても卒業まで辞めないという約束でバレーを続けました。といっても、最後まで補欠です。チビだし、もともと運動神経が良い方ではないので。

1年後に新入部員を迎えて私たちは2年生に。この時から、担任が来てくれた時に辞めるべきだったと後悔する日々が続きます。新3年生は10人くらいいたでしょうか。その中でも小柄な3人組が3年生になって本領発揮したのです。いじわる、空威張りという本領を。そこからの1年半は苦痛と涙の毎日。思い出したくありません。

3年になって引退してからの半年ほどが私の楽しい高校生活の全てです。友達の家に遊びに入ったり、バイトしたり。学祭も楽しかった。高校卒業後は、バレー部の仲間はもちろん、クラスメートととの交流も断ってしまいましたバレー部での苦痛を思い出さないために。

バレー部の仲間やクラスメートと再会したときには、20年以上の時が過ぎていました。

初めてのバイト代で買ったのは、くるくるドライヤーです。現役時代は、「前髪は眉毛にかからない、耳は完全に出す」という鉄の掟のために必要の無かったものです。肩まで伸びた髪が嬉しかったものです。

そのときどきで。(中学生編)

2016年08月01日 | コラム
中学生時代は難解でした。きっとみんなそうですよね。

真っ黒に日焼けしたチビで痩せっぽちで強がりな女の子。鉛筆のような体で、飛んだり跳ねたり。同じ小学校から進学した男子に、校舎の2階から「洗濯板~!」と呼ばれて、隠れて泣いたりもしてました。

小学校の時に大人気だった「サインはV」に憧れて、バレー部に入部。ふたつしか離れていない3年生がとても大人に思えました。楽しくて、練習後も友人たちと公園でバレーをして遊んでいたら帰宅時間が遅くなる日が続いて、部活をやめなければならなくなりました。それからは帰宅部。1〜2年生の時は、何をしてたのかな。保健室の先生ところに頻繁に通ってたってことは、楽しくないことが多かったのでしょうね。3年生になって軟式テニスを始めました。試合にも出て楽しかった。

このころ、一番楽しかったのは英語塾でした。自宅で教えている方のところで、10人くらいのクラス。叔父が米軍で通訳をしていたらしくて、小さなころから英語の勉強と、タイプライターの習得は何度も言われていました。習い始めた英語は本当に楽しくて、英会話の教材(カセットテープ!)も買ってもらいました。Hello, Ben! から始まっていたと思います、

そして3年生の10月に転校。もう受験が目の前という時期でしたが、この時の父の転勤のおかげで少し楽しい日々が始まったのです。300km以上も離れた街に引っ越したのに、小学校の時に転校したクラスメートとまた同じクラスになりました。この彼女とは高校でも同じクラスになるのです。

引っ越す前の街は小さくて、メインの高校はひとつ。なので、どこを受験しようかと迷うことはありませんでした。でも、引っ越した先ではどの高校を受験するかを決めなくてはなりませんでした。自分の人生に高校を選択するという出来事が起こるなんて、考えてもいなかったので本人はいたってのんびりとしていましたが。

それでも冬期講習に入ったりしてのんびりとしながらもテストをいくつも受けましたね。冬期講習で知り合ったひとも、高校で同じクラスくらすになるという偶然がありました。あまり嬉しい偶然ではないことがあとあとわかるのですが、それはまだ先の話し。

そのときどきで。(小学校編)

2016年07月28日 | コラム

小学校に入学しました。

妹がまだ小さな赤ちゃんだったので(というのがその理由だと思います。もしかすると父が望んで、かもしれません)、入学式には父と一緒に行きました。

式が終わり教室に入ると、机のうえに名札が置いてあります。みんな母親のところに駆け寄って名札をつけてもらっているので、私も父のところに行きました。予想通り「自分でつけなさい」の一言。心のなかで「だよね〜」と思いながら(当時はちょっと言葉が違っていたと思いますが)、名札をつけて記念撮影。後から写真を見た母が、私だけ名札を右につけていることに気づきます。私は、私だけカラーのタイツを履いていることに気づきました。ほかの女の子はみんな白いタイツだったのです。

このころ住んでいた家の近所に新聞記者の方がいて、スキー場オープンなどのときは、私が写っている写真を記事に使ってくれていたそうです。その記事が残っていないのが残念。

父はとてもたくさん本を読む人でした。幼稚園の頃から、私にも毎月絵本が届けられていました。父が本を広げると、いつも横に並んで絵本を広げていたそうです。

小学校に入ってまもなく、大きな書店に連れて行ってもらいました。正面がガラス張りのその書店の中から外をみるとキラキラととても綺麗で目眩がするようでした。高い棚の上から一冊の本をとった父に「これ、欲しいか?」と聞かれたのですが、子供の本は家に届くものと思っていた私は意味がわからないままうなずきました。それが、アンデルセンの「おやゆび姫」だったのです。挿絵はいわさきちひろ。これがいわさきちひろとの出会いなのですが、それに気づくのはずっとあと、高校生になってからです。

大人のお店(書店)で自分の本を買ってもらったこと、書店には子供の本も売っていると知った驚きは今でも忘れません。
その時に買ってもらった「おやゆび姫」は今でも大切にしています。ボロボロになってますけど。

小学2年生になりたての頃は、何故か10代で結婚して成人式を二人でお祝いしようと思っていました。
結婚の意味も成人式の意味もわかりませんでしたが、二人でケーキの蝋燭を吹き消して「おめでとう」と言い合う映像を思い浮かべていました。どうしてだったのでしょう?

2年生で転校しました。そして3年生でもう一度。この頃、弟が産まれました。父のバイクでちいさな弟を見て帰ると、遊びに(私たちの面倒をみるために)祖母に、「赤ちゃんの5本の指全部に、ちゃんと爪がついてか見てきた?」と聞かれたときは、「確認するのを忘れた!」と焦ったのを覚えています。

私が3年生になる頃まででしょうか、父は毎日、お土産を買ってきてくれました。小さな箱の飴だったり、ガムだったり。サイコロキャラメルの登場回数も多かった。それもあって、父が帰宅する音が聞こえたときは、玄関に飛んでいったのもです。

5年生くらいになると、予定通り(というか)生意気な子供になっていました。後に母は、あの頃のあなたは好きじゃなかったと言っていました。自分にもこんな部分があるのだと言われてる気がしてと。そうでしょうね、私もあの頃の私は好きじゃなかった。あの当時でさえも。エネルギーを持て余していたのかもしれません。そしてそのまま、ちょっと嫌な自分を抱えたまま、中学生になるのです。先が思いやられます。












そのときどきで。(幼稚園編)

2016年07月28日 | コラム

はっきりと記憶があるのは4歳くらいから。

それから大人になるまで、そして大人になってから、そのときどきでいろいろな出来事があり、たくさんの人に出会いました。
あらためて思い返してみると、面白いコトや楽しい人が多かった。

4歳のころ、保育園に通い始めました。川の側の可愛らしい保育園だった記憶があります。入園翌日に、お母さんがいないと泣き叫んでいた男の子は、半年後にはお山の大将になって威張り散らしていました。彼が泣いてたことを誰も覚えていないのが不思議でした。

私はお昼寝ができないとても困った子供でした。周りの子供たちを起こしてしまうと保育所から両親に苦情が入り、お弁当が終わったら私だけ帰ることになりました。なので帰りはいつもひとり。ある冬の日、転がしながら歩いていた小さな雪だまが、自分と同じくらにまで大きくなりました。重くてそれ以上は動かせず、でもそのまま置いて帰る気にもなれず。どうしようかと立ち止まっていたところに、遊びに来ていた祖父が迎えに来てくれました。きっと、いつもより遅い時間になっていたのでしょう。「持って帰りたい」という私のわがままをきいてくれた祖父は、おおきな雪だまを抱えて帰り、庭で雪だるまをつくってくれました。

そのころは雪が多い街に住んでいたので、抱えて帰らなくても、庭で新しい雪だるまを作ることができたのです。でも、4歳の私が初めて自分で作った大きな雪だまを手放すことができないという気持ちを、祖父はわかってくれたのでした。
あの時の私は、ちゃんと「おじいちゃん、ありがとう」と言ったかしら。

誕生日には、父と母がそれぞれプレゼントを用意してくれました。が、なんとふたりとも同じ、クロンボダッコちゃん! クロンボダッコちゃんは、黒人蔑視との批判で製造中止になったんですよね、たしか。翌年からは、両親からひとつのプレゼントになりました。

トッポジージョも大人気でした。近くの公民館にトッポジージョの指人形芝居が来た時は、みんな大喜び。会場入り口には、子供たちの靴が山のように重なりあっていました。外で靴を持って待っているからと、父が抱き上げて入り口まで連れていってくれたことがとても誇らしかった。

翌年から幼稚園へ通いました。お寺が経営している幼稚園だったので、法事などがあると、おやつにスイカがでたのをを覚えています。この頃、初めてお友達のお誕生会におよばれしました。母が、綺麗な刺繍のハンカチセットをプレゼントにと用意してくれました。丸い透明のケースに入ったハンカチは、それはそれは素敵でした。

そしてこの年、妹が生まれました。色白のとても小さな赤ちゃん。いくつかの名前を並べた紙を前に相談する両親を、私の名前もこんな風に考えたのかなとくすぐったい気持ちで眺めていましたが、実は教師の伯父が考えてくれたということを後で知りました。妹の名前は、「し」で始まる名前が好きという母の言葉で決まりました。

私はとにかく元気な子供でした。洋服の汚れを気にしなくてもいいようにと、父が当時ではとてもめずらしいジーンズのサロペットを買ってくれました。私が子供の頃は、大人でもジーンズを持ってる人は殆どいません(父は新しもの好きの一面がありました)。胸にはポパイの刺繍があって可愛いとは思っていましたが、お友達はみんな可愛いスカートでブランコに乗っているのです。なのに、私は作業着のような(まさしく)ジーンズの、サロペット!ちょっと恥ずかしかったのを覚えています。

そして、翌年はぴっかぴかの一年生です。





女性が輝く時代?

2016年07月26日 | コラム
輝く女性になるために、自分らしく働くために、美しく生きるために。

最近、これらを実現するためのワークショップや、実現した人たちの記事を多く見かけます。
もちろん、素晴らしいことなんだけど、それってどうやって回答を見つけるのが「らしい」のかな。

☆ 輝く女性になるために。
女性が輝いて仕事ができるような世の中にしよう、と思うなら「女性」を意識することのない状況になるのがいいと思う。「女性なのに頑張ってる」「仕事も主婦業も両立させてる」「男性に負けてない」そんな言葉がいらない世の中になるといい。(普通って何よ、と言われそうだけど)「普通」に扱ってくれたらいいのです。性別も含めた「個人」の得手不得手、向き不向きにあった仕事にそれぞれが全力で向かえばいいこと。男性も女性も関係なく、(その分野で)優秀な人は、周りを納得させる、または感心させる結果を出すだろうし、そうじゃない人はそれなりに。「女性が輝く時代」を無理に創りだすと、そのうち「男性だって輝きたい!」ってことになりますよね。無理に輝かせようとしてくれなくてもいいのです。ただ普通に、女性だからという特別扱い(良くも悪く)をせずに普通にいさせてください。そうすれば、私は私らしく輝けますから。

☆ 自分らしく働くために。
時代の流れに逆らえなかったこともあるし、よりよい状況(役職や報酬、通勤時間、労働時間)を求めたこともあるけど、ほとんどが自分で選択してきた人生なので、私にとっては今の働き方が「自分らしい」のでしょうね。人それぞれ、たとえば親にならないという選択や、仕事と子育てを両立させる、子育てに専念するという選択が「自分らしさ」の一部なのじゃないかしら。「自分らしく働く」って、どういうことなんだろう? 今の状況を変えたい=自分らしくないってことでしょうか。自分にとってのプライオリティって、自分でわかってるよね? 今の自分を「らしくない」と否定するのではなくて、どんどん変化していく「らしさ」を自分の方法で手にしていけるような働き方をしたいと思っています。

☆ 美しく生きるために。
美しい年配の方を見かけると目が話せなくなります。所作にでる丁寧さや品の良さや笑顔の優しさは、外見の美しさをはるかに超えた魅力です。そして、そういう方たちは外見も美しい。単純に造作が美形だとか、お洒落をしているというのではなくて、自然な美しさをまとっています。もちろん、年齢より少しでも若くみられたいとか、いくつになっても綺麗と言われたいというのは、だれもが持っている気持ちでしょう。私だって、そのために(すこしの)努力はしているつもり。でも、盛りすぎ、やりすぎには美しさは感じません。私にとっての「美しく生きる」は、丁寧に生きる、小さなことを大切にするっていうこと。そんな風にして、自然な美しさを醸し出させる日がくることを祈りながら、日々丁寧に、丁寧に。


で、何が言いたいかっていうと、「無理はしないで」ってこと。輝きたい(輝いてるねって言われたい)、自分らしく働きたい(頑張ってるねって言われたい)、美しくなりたい(綺麗ねって言われたい)と思うあまりに、無理をしてる人が増えてるなあって思うのです。40代、50代に。輝いてるね、頑張ってるね、綺麗ねって言葉は、言葉どおりのときもあるし、無理が見えてるよって意味のこともあるのです(たぶん)。