日々是ほぼ好日

小さな幸せを探して、好奇心満載の毎日。

Moonlight Mile

2016年08月30日 | コラム
Moonlight Mile (ムーンライト・マイル) 2002年

結婚式の直前に事故で花嫁を亡くしてしまう青年と、花嫁の両親。
事故後も花嫁の実家で一緒に暮らしながら、それぞれが大きな喪失感と痛みと向き合い、日常の暮らしに戻ろうとする葛藤。

青年が離れて行ってしまうかもしれない恐怖と戦う両親。隠し事を抱えて苦悩する青年。
言葉にならない思いに息苦しくなる場面も。

葬儀のあとに、「さあ、悪口大会よ」というスーザン・サランドンが可愛い。
ブロークバックマウンテンの3年前、22際のジェイク・ギレンホールのいたわりが痛々しい。
娘に言えなかった言葉を伝えるダスティン・ホフマンが優しい。

娘を、婚約者を、発砲事件に巻きこまれるというあまりに非日常な出来事で失ったあとにも日常生活は続きます。泣き叫んだりするのではなく、粛々と自分なりの受け入れ方を探す3人の表情が素晴らしい映画でした。

この映画は、監督の体験をベースにしているそうです。
できれば、こんな経験はしたくないものです。

やっぱりコメントしてしまう。

2016年08月22日 | コラム

その昔、アイドルがコントをするのは「8時だよ、全員集合!」や「カックラキン大放送」へのゲスト出演くらいだったよう思います。
SMAPは、それまでのアイドルという既成概念を変えたと誰もが口にします。

SMAPの解散は、残念の一言です。
ファンとして5人での活動が見られないことはもちろんですが、ビジネスモデルとしての「アイドル」の転換を見られないという意味でも。

40代になってもなお「国民的アイドル」として君臨しつづけるグループのこれからの展開が楽しみでした。すべて欧米が良いとは思いませんが、いわゆる「アイドル」や「タレント」というアジア特有の(だと思う)カテゴリーを変えるのは、SMAPだと思っていました。上手に大人になって、活動の枠やファン層を広げ、もしくは変えて、アイドルとは別のカテゴリーを作ってくれるのではないかと。最年少メンバーが40歳を目前にして、その転換が計られるのは、今だろうと期待していたのです。

これほど老若男女に愛される「アイドル」はもう生まれないのではないでしょうか。本人たちの個性なのか、事務所(マネージャー)のおかげだったのかわかりませんが、年齢を重ねるにつれてファン層を若い女の子から男の子へ、大人たちへと広げていった戦略は素晴らしいの一言。偶然なのか計画的なのか、そのタイミングも的確だったと、事務所(マネージャー)のマーケティング脳に感服していました。女の子のファンが多くなると、男の子は反発するだろうし、若い子に熱狂的に愛されるアイドルは、大人たちから遠目でみられがちです。メンバーと一緒にファンが年齢を重ねたということもあるでしょうが、親の世代からも愛されているアイドルは他にいないのではないでしょうか。

若いアイドルは、方向性を見失ったり、賞味期限が切れたと言われたりして芸能界を去らなければならないという恐怖をいつも心のどこかに持っているように思います。SMAPがこれからも「大人のアイドル」としていろいろな活躍をすることで、若いアイドルに希望を与えるものになったでしょう。既成概念にとらわれずに、成功のために何をすればよいかを考え、企画し、新たな道を切り開く。元マネージャーが50代、60代のSAMPにどのようなプランを持っていたのかを知ることができなかったのは、本当に残念です。






そのときどきで。(大学編)

2016年08月19日 | コラム
自分自身も周りもスポ根少女として過ごした高校時代とは、全く別の世界。
大学での出会いは新鮮でした。
誰もかれもが優秀で個性的な人たちに思えて(実際にそうでした)、初めて話す人が増えることにわくわくしたのを覚えています。

高校のクラスに双子のひとりがいたのですが、なんと、もう一人が同じ学科にいました。友人の高校のクラスメートがいましたし、私の英文タイプの先生もいました。字地元の人より、道内外のいろいろなところから来ていた人の方が多かったように思います。寮や下宿生活、一人暮らしなど、すべてが興味津々です。一番の驚きは美人が多いことでした。彼女たちは、若く見えるように頑張ったりすることなく自然体で暮らしている人ですが、母親になったいまでも綺麗なままです。

入学時に一番目立っていたのは、ピンクの丸い大きなサングラスをかけ、桜田淳子(古いなあ)のような帽子を愛用している人でした。聞けば、早くみんなにお覚えてもらうための作戦だったとか。そんなことしなくてもとても個性的な人だったので、みんなすぐに覚えましたけど。

こうして、新しくて楽しい日々が始まりました。
高校から英文科だったり、英語の専門学校を卒業していたりと、スタート時から英会話のレベルが違うことの驚きもよく覚えています。喫茶店での賑やかな会話や友人宅での夜通しのお喋り。高校時代には経験できなかったことを満喫していました。そして、最初の夏休みがやってきました(夏休みに合宿が無いなんて!)。私は、夏休み特別カリキュラムに参加しながら、バイトに精を出す日々を過ごしていました。

その最初の夏休みに、大切な友人を失うという試練に立ち向かうのは本当に辛く悲しく残念な出来事でした。彼女は、高校時代のバレー部の中心メンバーのクラスメートでした。同じ高校の出身者が少なかったことと共通の友人がいたことですぐに仲良くなり、ほぼ毎日を一緒に過ごしていました。私たちにとっては、それが夏休み中で、教室に彼女がいないことを認める時間がもてたことは、もしかすると幸いだったのかもしれません。それぞれが自分の時間の中で現実と向き合うことができたことで、新学期には少し落ち着いて思い出話をすることができたのだと思います。

その高校のバレー部の中心メンバーの友人も3年前に癌で亡くなりました。そして、彼女の事故を知らせてくれた友人、私には泣かずにやり通す自信がないと辞退した弔辞を読んでくれた友人も数年前に癌でこの世を去りました。小学生の子供を残して逝くことはさぞ気がかりだったでしょう。
彼女たちの話しはいずれまた。

教師陣も個性豊かでした。ニュージーランド人のプロテスタントの牧師という先生には、4人くらいの子供がいました。そのうちのひとりは、日本に来てから養子にした子供でした。もう一人は前任地で養子した子供だと聞いています。「縁あって日本で暮らして、日本が好きになったので、親の居ない子供を養子にするのはとても自然なこと」とおっしゃっていました。善悪の判断が日本人と私たちとでは異なるという言葉を印象的に覚えています。いわく、「日本人は他人がどう思うかと考え、私たちは神がどう思うかと考える」。バレなきゃいいとか、みんながやっているから、という言い訳はできないというわけです。

アメリカ人のカソリックの元神父という先生もいました。何故、「元神父」かというと、愛する人に出会ってしまったから。結婚のために神父を辞めたかというロマンチックな話を表情も変えずに淡々と自己紹介のときに話してくれました。教習所に通っている新任の女性講師もいました。「ハンドルから手を離してギアを変えて」と言われて、両手でバンザイをしたという逸話の持ち主です。癌を患っている教授もいました。奥様に面倒をみさせるわけにはいかないと離婚をされたと聞きました。のちに、大韓航空機爆破事件で奥様と長男を亡くすことになる教授もいらっしゃいました。海外に行ったことがないのに英語が話せる( 英語演習の教授です)というのが自慢という教授もいました。こうして振り返ってみると、文字通りユニークな面々だということを再認識します。

学生生活は続きます。体育祭があり、学祭があり。試験があり、冬休みがあり。私たちは少しづつ元気になり、彼女の分も、と学生生活を楽しみました。恋話、ミスコン、映画研究会、留学生、教育実習。楽しい時間はあっという間に過ぎて、もう卒業です。私たちのほとんどは社会人になるのです。

一度目のさよなら

2016年08月18日 | コラム
永六輔さんの追悼番組で、著作の一部が紹介されていました。
言葉は正確ではありませんが、「人は二度死ぬ。一度目は肉体的に。二度目はその人を覚えている人がいなくなった時に」というものです。同じような言葉は以前にも聞いたことがあります。故人について話すことが供養だといいます。ときどき、若くして先に逝ってしまった友人たちのこと考え、あの頃の時間を懐かしく思い出しています。二度目のさよならはまだまだ先です。

高校の部活引退後のバイトは、地元で有名な洋菓子店。
バイト仲間にバレー部の後輩のお姉さんがいて、一緒につまみ食いをしながら楽しくバイトをしていました。その彼女は、高校卒業記念の京都ひとり旅から帰ってすぐに亡くなりました。肺炎だったそうです。受験に向けて、バイト中も英単語を口ずさんでいる人でした。賢く明るい彼女は、目の前に広がるミライをどんなに楽しみにしていたでしょう。

大学に入って最初の夏休み。みんながそれぞれバイトに明け暮れる毎日でした。
携帯など無い時代。仲の良い友人たちへの久しぶりの連絡に、私は暑中見舞いの葉書を出しました。ある朝、父が同じ学校の人が事故で亡くなったと見せてくれた新聞の名前は、仲の良かった友人のものに似ていました。そしてあの電話が。新聞は、彼女と父親の名前を混同し、さらに姓と名を一文字づつ入替えてしまうという間違いをしていたのです。電話は、いつも一緒にいた4人のうちのひとりからでした。五十音順で一番最初に名前があったので、警察から電話があったと。家族に、私への連絡は朝まで待つようにと言われていたと。そこから、友人たちと葬儀に参列するまでの記憶は曖昧です。高校時代は学年トップで、お洒落で楽しい人でした。彼女もたった18年の短い人生を閉じてしまいました。暑中見舞いの葉書は、事故の翌日に届いたそうです。

いつも4人でいた私たちのバランスは崩れてしまい、いつのまにか3人はそれぞれ別の人達と過ごすようになりました。3人でいると、4人ではないことを否応なく意識してしまうのです。

中学の転校で再会した、小学校の友人は高校の3年間も同じクラスでした。
中学3年の10月という時期の転校で、全教科で教科書が違うということもあり、家に来てくれて差分を教えてくれた優しい人でした。高校時代には何度か貧血で授業中に倒れて、ドアを担架にして運んだこともありました。すでにその頃から白血病が発症していたのかもしれません。20歳を過ぎたころに亡くなりました。覚悟はできているはずだったという彼女のお父様は、それでもショックで、数日の間、声が出なくなったそうです。

若くして、親よりも先に逝ってしまうことの悲しさ。やりきれなさ。私たちには言葉もありませんでした。

夢や希望にあふれた友人を喪う経験をする人は少なくないのかもしれません。彼女たちが経験できなかったことに、精一杯のちからで向き合おうと思いました。楽しいことばかりではありません。辛いことだって、彼女たちは経験したかったでしょう。私たちにできるのは、全力で生きていくことなのだと思います。


STILL ALICE アリスのままで

2016年08月16日 | コラム
私の妹はとても優秀な子供でした。
小学校の時に父の転勤が決まった時、担任教師にクラスの平均点が下がるから転向させないで欲しいと言われたほどです。色白で物静かな子供でしたがスポーツも万能で、中学を卒業して10年以上も、高飛びと幅跳びの記録を持っていました。バスケ部なのに、かり出されて出た競技会での記録です。

大学時代には1年間の留学をし、卒業後は4年ほどドイツで働いていました。「日本に留まるような娘ではない」と父が言っていたとおりに成長したのです。

ですが、帰国後に地元の人と知り合い結婚し、日本を出るどころか北海道に住み続けるという選択をしました。その妹のご主人、私にとっては義弟は運動に関係した脊髄や小脳の神経が変性する難病で、結婚後10年もたたないころから、徐々に動けなくなりました。それかずっと、妹は彼の世話をしています。あれほど優秀だった人ですから、もし、良い機会に恵まれていたら、それこそ世界を飛び回って活躍していたでしょう。でも、これが私に与えられた人生だと、愚痴をこぼすこともありません。

「STILL ALICE アリスのままで」は、2014年の映画。

         


ジュリアン・ムーア演じる、高名な言語学者であるアリスは、若年性アルツハイマーと告げられ少しづつ記憶を失くしていく中で瞬間の幸せをみつけようとする。医学博士の夫は深い愛情で妻を見守りながらも、自分のキャリアのために転地に赴く。家族性遺伝が原因と言われ、検査で陽性とわかっても人工授精で子供を産む長女、検査を拒否する次女。

苦しみは誰のせいでもありません。それぞれがそれぞれなりに向き合わなければならないことです。アリスの記憶が消えても、アリスがいた事、アリスがしてきたこと、アリスが注いだ愛情は消えません。人生には何が起こるかわかりません。私の妹の人生が今のようになるなんて、想像もできませんでした。

人生は瞬間、瞬間を一生懸命に過ごすこと、丁寧に大切に過ごすことが大切だと改めて思いました。それでも、本人のがんばりや心がけ以外のところで変わってしまう人生には、やはり不公平を感じます。