空(hanul 하늘)風(palam 바람)湖水(hosu 호수)2……青空を吹きぬける風が、湖水にさざ波をたてる。

私たちの暮らしは、美しい自然と共生をとりたい物です。そんな日々の暮らしで、感じたことを綴ります。

織田信長は、相撲好き

2024-07-29 05:55:48 | 日記

暑い暑い名古屋で行われていた大相撲が終わりました。

照ノ富士のぶっちぎりの優勝かと思いましたが、最後でつまづき決定戦まで行きましたね。

織田信長が相撲好きの話をご存知ですか???

<スポーツ探偵>相撲×戦国武将 織田信長が愛した「幻の安土場所」

現在開催中の大相撲名古屋場所(28日千秋楽)。多くのファンが熱戦に拍手を送っているが、はるか昔、同じように相撲に夢中になった名古屋ゆかりの戦国武将がいたことをご存じだろうか。今回の調査は今から約450年前が舞台。かの有名な織田信長が愛した「幻の安土場所」を探った。
 

安土での相撲大会の様子を描いた陶板画「織田信長の上覧相撲」=墨田区の国技館で

◆姉川の戦いの年にも相撲大会を催した

 墨田区にある両国国技館の1階エントランスホールには、ある陶板画が飾られている。一人の戦国武将が配下とともに相撲を観戦している構図だ。作品の名は「織田信長の上覧相撲」。相撲博物館の学芸員・土屋喜敬さん(53)は「これは後世に描かれたものですが、信長が相撲を愛し、数々の大会を開いていたのは間違いないと思います」と説明してくれた。
 
 信長は歴代の武将の中でも一、二を争うほどの相撲好きだった。彼の行動を記した「信長公記」には少なくとも10回以上、相撲大会を催した記述が出てくる。
 
 初出は1570(元亀元)年。安土(今の滋賀県近江八幡市)の常楽寺に力士を集めて相撲を取らせ、優秀な成績を収めた者に刀を与えたり、召し抱えたとある。元亀元年といえば、歴史に名高い姉川の戦いで浅井・朝倉連合軍と死闘を繰り広げた年である。どれだけ相撲が好きだったかが、うかがえよう。
 
JR安土駅の相撲モニュメントにある石碑。モニュメントは2019年に地元有志が設けた=滋賀県近江八幡市で

JR安土駅の相撲モニュメントにある石碑。モニュメントは2019年に地元有志が設けた=滋賀県近江八幡市で

◆今の本場所の3倍くらいの力士を安土城に集めた

 派手好きの信長らしいエピソードがある。1578(天正6)年8月15日。信長は何と1500人もの力士を安土城に集め、午前8時から午後6時まで相撲を取らせたという。「1500人といえば、今の本場所の3倍くらいの規模。ちょっと信じ難いのですが、自分の力を誇示するデモンストレーションの意味があったのでは」と土屋さんは分析する。
 
 悲しい話もある。伴正林(とも・しょうりん)という力士がいた。1579(天正7)年に行われた信長主催の相撲大会で活躍し、家臣に召し抱えられた。大層気に入られた伴は近侍として信長に仕えたが、その3年後、本能寺の変で運命をともにした。生涯最後の瞬間も信長は相撲とかかわりがあったことになる。

◆現在に通じる儀式や仕様を始めたのは信長説も

 絶大な人気を誇る武将ゆえ、真偽が定かではない伝説や巷説(こうせつ)も多い。例えば、「弓取り」「東西」「行司」。現在の相撲に通じる儀式や仕様のいくつかは、信長が最初に始めたという説がある。だが、土屋さんは、「この頃の相撲の資料は非常に少なく、信長が最初かどうかわからないというのが実情です。どれも、この前後の時期に成立していくのは確かなのですが…」。今は歴史のロマンとして夢想するしかなさそうだ。
 
 ちなみに、このころの相撲は、今とは少し違うスタイルだった。まだ土俵がないため、押し出しや寄り切りなどの技はなく、投げ技や掛け技が主体。立ち会いも、今のように手をついて仕切る形ではなく、互いが両手を挙げて歩み寄る形で勝負が始まる。今でいう柔道やレスリング、古武術に近いものだった。相撲は江戸時代中期に土俵ができることで、現在の形に至るのである。

◆勝った力士に刀や領地を与え、身分を保証

 残念ながら、安土城は本能寺の変の後に焼失。今はもう、「安土場所」の痕跡をうかがい知ることはできない。それでも、JR安土駅の南口には力士のモニュメントが建てられ、土台の石碑に信長の功績を称(たた)える文章を見つけることができる。信長と相撲の記憶は土地に刻み込まれている。
 
信長の相撲好きを伝えるJR安土駅にあるモニュメント=滋賀県近江八幡市で

信長の相撲好きを伝えるJR安土駅にあるモニュメント=滋賀県近江八幡市で

 時の権力者が武芸を競わせるために催した相撲を「上覧相撲」という。源頼朝や足利将軍らも幾度か行っているが、土屋さんは信長の上覧相撲を高く評価する。
 
 「信長が他と違うのは、勝った力士に刀や領地を与え、召し抱えたこと。これは”抱え相撲”と呼ばれ、力士の身分を保証したことになります。また、彼ほど、相撲を催して世間に広めた人はいません。後世に与えた影響は大きかったのではないでしょうか」
 
 相撲というスポーツの成り立ちに、あの信長が関与していたというのは新鮮だった。白熱した取組が続く名古屋場所。信長になった気分で相撲を愛(め)でてみるのも、悪くない。
 
でした。

 

 

【子規365日】■7月29

絶えず人いこふ夏野(なつの)の石一つ     1894(M27)年

夏井いつき【子規365日】朝日文庫

《夏野》の俳句

夏草の生い茂るのはら、高原などではその感が深い。

・馬ほくほく我を絵に見る夏野哉     芭 蕉

・おろし置く笈(おひ)に地震(なゐふ)ルなつ野哉     蕪 村

・青野ゆき馬は片眼に人を見る   誓 子

横田正知編「写真 俳句歳時記 夏」現代教養文庫 より

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